<14>
時間通りに部屋に現れた人物を見て、中庭に面した窓辺に座っていたチャコールは、視線を動かした。
「珍しいね、時間通りなんて」
口調は静かだが、笑顔はない。彼を見下ろして、ハイドロは言った。
「チャコールが呼んだんだろ」
「座れば? 気に入るような長椅子はないけど」
頷きながらハイドロは、素早く彼に視線を走らせる。
数日ぶりに会うチャコールは、少なくとも見た目はいつもの彼に戻っていた。きちんとした服装に、顔も髪も整っている。顔色は冴えず、少し疲れているようにも見えたが、病的というほどではなかった。
クレセントの家に厄介になったあの日以来、チャコールはこの部屋で過ごしていた。アトレイの市街地から少し離れた高台に建つ宿の離れで、南向きの壁一面の窓は大きく、冬の陽射しが部屋の中に入りこんでいる。庭の木立の間からアトレイの城下町が見渡せ、それほど遠くないところに、宮廷が見える。
普段なら、家を出たくせにこの贅沢はなんだと嫌味や軽口のひとつも言えるが、今のハイドロはそんな気分ではなかった。むしろ今はチャコールの方が、落ち着いた口調で穏やかだ。ハイドロは彼の正面に座った。
チャコールは彼の視線が気になったのか、わずかに目を伏せた後、ためらいがちに口を開いた。
「里に戻るって、聞いて」
「そうだ」
ハイドロは頷いた。未だキリエール家の客であるハイドロの動向は、チャコールがその気になれば筒抜けだった。もっとも、それはハイドロも期待していたことだ。現にそれが功を奏して、チャコールは今日、自分をここへ呼び出した。
彼は少し怒ったような表情で、ハイドロを窺う。
「…新しい刺青を?」
「そうなるな」
ハイドロは頷いて、一瞬だけ自分の左の二の腕に、視線を向けてから、
「マルカ先生と会った」と、話を変えた。
「ああ、そうだってね。先生が連絡をくれた。会ってないけど」
「面談は止めたのか?」
「もう必要ないよ…」
チャコールは首を振った。
「今は正直、苦しいよ。ハイドロを怒鳴りつけたい気持ちは今もあるし、フロラにも、嫉妬して仕方ない。なんでフロラとハイドロを会わせたんだろうって、毎日そればっかり考えてる。フロラが秘書官なんて目指してなかったら、こんなことにならずに済んだのに」
フロラ自身は知らないことだが、チャコールが彼女の指導係になったのは、運や偶然ではない。成績優秀で不品行も見当たらないフロラは、このまま行けば高い確率で、いちばん下の秘書官に採用されると思われていた。チャコールが担当につくことで密かに、フロラの人柄が王女に相応しいかどうか審査していたのだ。
「だけど、春からウェントワイトに行って、物理的に距離ができれば、きっといつかまた元通りになるよ」
「…気は変わらないか」
「うん、おれはウェントワイトに行くよ」
「元通りは嫌なんじゃないのか」
「先生に聞いたの?」
チャコールがわずかに表情を硬くして言った。
「いや、あの人は教えてくれなかった」
ハイドロはだらしなく足を伸ばし、椅子の背に後頭部を乗せ、天井に視線を向けた。
チャコールは小さく溜め息をついてから、そんなハイドロを見据えて、
「フロラにさ…」と、わずかに不満そうな表情で続けた。
「ちゃんと言ったらいいよ。エンシェンのことも、バルメリアのことも。ハイドロが本気で守護を務めるってわかったら、あの娘は受け入れてくれるよ」
「それでいいのか」
顔を戻したハイドロの問いに、チャコールの表情がわずかに暗くなる。
「アトレイに戻ってきてから、フロラはずっと泣いてる。おれがあの娘に、ひどい態度を取ったからだ。何度も謝りにきたのに、おれは許せなくて追い返してた。フロラが謝る必要なんてないのに」
「それを言うために呼んだのか」
「そうだよ。だけど、ハイドロが里に戻るって聞いたから、ああ、いよいよ来る時が来たな、と思って、フロラに会ったんだ。しばらく会わずにいたから、少し冷静になれたしね。すっかり窶れてかわいそうだった。退学するとまで言ってきたから、さすがに止めておいた。ハイドロからもなにか言ってやって。フロラはなにも悪くないって」
「言ってやりたいが、あの話は断ると言ったきり、頑なに会わない」
「そうか…」
チャコールは溜め息をつくように言ってから、立ち上がった。そして、続き部屋の方へ歩いていく。
「フロラ、だってさ」
ハイドロは驚いて振り向いた。開いたままの続き部屋の扉の影から、チャコールの背後に隠れるように、フロラが姿を現した。
チャコールが言ったとおり、顔色は冴えず、頬は痩せ、目の下にうっすらと隈ができている。彼女が意気揚々とリスケスから戻ってまだ数日しか経っていないのに、ずいぶんな変わりようだった。彼女の傍らで、チャコールが言った。
「フロラを呼んだよ、里に行く前に、ちゃんと話した方がいいと思ったから」
立ち上がったハイドロは、彼女の方へ近づいた。一方、フロラはハイドロが近づくのを見ると、ぴたりとその場で足を止めた。ハイドロは彼女の前に立ってその姿を見下ろしたが、かける言葉が浮かばなかった。助けを求めるようにチャコールを見る。だが、彼は軽く頭を振っただけだった。言葉を探していると、目の前でフロラが自分の両手を合わせてぎゅっと握った。
「ちゃんと、言ってくれればよかったのに…」
そう言って彼女は、震える目でハイドロを見上げた。
「知らなかっただけなのに、チャコールのこと、もっとちゃんと教えてくれればよかったのに、そうしたら、ちゃんと断ったのに…」
そう言ったフロラの片方の目から、涙がこぼれた。彼女はそれを隠すように、慌てて俯く。チャコールはそっと彼女の肩に触れ、ハンカチを差し出し、それからハイドロ見た。
「さあ、ハイドロ、フロラにもう一度、ちゃんと言うんだ」
ハイドロが軽く目を瞠る。フロラも涙を拭った目を上げた。ふたりを順に見て、チャコールは頷く。
「心配しなくていいよ、フロラ。今まで冷たくしてごめん。でも、これからは元通りだ。おかしな噂もそのうち消えて、フロラはエンシェンの守護を持つことになる」
そこで言葉を切って、チャコールはハイドロを見た。
「ハイドロも、これでエンシェンとして一人前だって認められる。消えない不名誉な刺青を入れずに済む」
「…本気か?」
ハイドロがわずかに眉を顰めてたずねると、チャコールは泣き笑いのような表情を浮かべて頷いた。
「人づてに聞くのはまだ辛いから、目の前でやってもらおうと思って。そしたら諦めもつくだろ? 勝手なわがままだけど、ハイドロはおれのわがままには慣れてるよね。おれも今すぐにはできないけど、そのうちきっと…」
チャコールはそう言って目を閉じる。続けた声は、今にも消え入りそうだった。
「ちゃんと、祝福するから…」
フロラは怯えたような目でチャコールを見上げる。その表情と彼を交互に見て、ハイドロは心を決めた。
「わかった」
頷くと、チャコールが目を開ける。ハイドロは身を屈め、左足を立ててフロラの前にひざまずいた。彼女はびくりと肩を震わせ、驚きに目を見開く。その右手を取って、ハイドロは彼女を見上げて言った。
「フロラ、俺は、フロラを守護に選ぶ」
チャコールがわずかに顔を顰める。だが、目を背けまいと、ふたりを見つめていた。フロラはチャコールを窺い、なにも言わず青ざめた。彼女を見上げたまま、ハイドロは言葉を続けた。
「そう言って、おまえを利用したんだ」
フロラの目が見開かれる。ハイドロが彼女の手を離すと、その手は力無く落ちた。
「あの時、フロラが浮かれてるとわかってた。あのタイミングで言えば、断らないこともわかってた。チャコールが怒るだろうことも。ただ、チャコールが俺を許さず、こうなることまでは想像できなかった。だから」
ハイドロは立ち上がり、呆然と自分を見つめるフロラに向かって言った。
「撤回する。フロラを守護に選んだことは、今この場で、撤回するよ」
「ほんとに…?」
目を見開いたまま、フロラが掠れた声で呟く。同じく、傍らのチャコールも目を瞠っている。フロラに向かって、ハイドロは深く力強く、頷いた。
「本当だ。撤回する。フロラを守護に選ぶのは止める。チャコールが証人だ」
「ハイドロ、そんな」
信じられない、というようにチャコールは首を振った。
「フロラだって、撤回されたと知られたら、みんなの笑いものになる」
「いいんです。今だってじゅうぶん笑いものです。だったら、チャコールとアデリル様に許されたほうがずっと良い。もともとわたしには、エンシェンの守護なんて相応しくなかった。浮かれていたとを笑われるほうが、これから先もずっと分不相応なものを背負わされるより、ずっと良い」
「でも」と、咎めるような目つきで、チャコールは言った。
「エンシェンの里に、もうこの話が届いてる。撤回すれば、ハイドロは不名誉な印を刻むことになる」
「チャコール」
ハイドロは言って、彼とフロラの間に割って入った。
「おまえがいちばんよく知ってるだろ。俺はフロラを利用した。フロラはこんなに苦しんでる。このまま、守護に選ぶのが、フロラにとって本当にいいことか?」
「エンシェンの守護を持つのは、誰にとっても名誉だ」
ハイドロに負けない気迫で、チャコールが言い返した。ハイドロは苦笑する。
「そんな心にもない言葉で、おまえみたいに苦しむ奴を、またひとり生み出したいのか?チャコール・キリエール」
「でも、刺青が…」
「どうでもいい」
「よくないよ。おれがあの時、最初からちゃんと祝福してれば…」
「チャコールを選べば、ハイドロがこの場でチャコールを選べばいいんじゃないの? わたしが証人になります!」
悲鳴のようにフロラは言った。ハイドロとチャコールは同時に彼女を見て、それからハイドロが先に首を振った。
「里にはフロラを選んだと伝えてある。守護を選べるのは生涯に一度だけだ。撤回はできるが、新たに誰かを選ぶことはできない」
「そんな、どうして…」
泣きそうな顔でフロラが呟く。ハイドロは彼女に笑って見せた。
「エンシェンの掟が、どれだけバカげていてくだらないか、フロラにもわかるだろ?」
そう言って彼は、フロラからチャコールに視線を移した。彼は不安げな表情で、ハイドロを見ている。
「だから俺は、チャコールを守護には選ばない。エンシェンのバカげた慣習に、巻き込みたくないから」
「…バカげてても、欲しかったよ」
「諦めてくれ、チャコール」
ハイドロは俯いたチャコールから、再びフロラに視線を移し、彼女に向き直る。
「フロラ、悪かった」
「いいえ、私が軽はずみだったんです…」
フロラがまたも、泣きそうな顔で首を振る。
「フロラはちっとも悪くないよ。誰だってそうなる」
「そうだ、自分が悪くないことで謝るほうが軽はずみだ。特に、フロラが目指してる宮廷ではな」
「おまえが言うな」
チャコールが咎めるような視線を向ける。ハイドロは笑った。
「フロラ、ここで会えて良かった。撤回の話は俺からアデリルにも伝えるし、他の奴らにも伝える。キリエール家にもな。しばらくフロラは、俺に守護を撤回された女だと言われて、噂になるだろうけど…」
「いいんです。今の状況に比べたら、その方がずっと気が楽です」
「守護を選んだと言ってしまったから、撤回するために、俺は一度、里に戻らなくちゃならない。高地竜のこともあるし。だからチャコール」
彼はそう言って、チャコールを振り向く。
「しばらくは、フロラの力になってやってくれ」
「ハイドロに頼まれなくたって、そうするよ」
そう言って彼はフロラを見た。
「おれも指導係を外れたこと、撤回する。少し体調が悪くなってたとか、なんとか言って。それでいくらか、噂に尾鰭がつくのが防げると思う」
「チャコール…」
フロラは声を震わせて言った。
「ごめんなさい、チャコール。本当にごめんなさい。たくさん迷惑をかけて」
そう言って俯くと、フロラは持ったままのハンカチを目に押しつけた。
「ハイドロに言われただろ、自分が悪くないことで、謝る必要はないって」
フロラの声はもう言葉にならなかったので、彼女は俯いたまま、頭を振っただけだった。それからチャコールはわずかに不安そうな視線を、ハイドロに向ける。
「本当に、里に戻るの?」
「ああ」
「アトレイには、いつ帰ってくる?」
「高地竜のこともあるから、しばらくかかる。けど、チャコールがウェントワイトに行く前までには、帰ってくる」
だから、とハイドロは続けた。
「チャコールも、キリエール家に帰って来い」
チャコールの動きが一瞬止まり、そして彼は少し時間をかけてハイドロの言葉を理解すると、困ったように笑ってから、頷いた。
一ヶ月半後、チャコールは宮廷の一角にある王女の庭を、ハイドロと歩いていた。
彼は今朝早く、里からアトレイに戻ったばかりだった。
この日、チャコールはアデリルから昼食に招かれていた。ふたりはここしばらく、一方は住まいを移す準備で、もう一方は結納の準備で、加えて普段通りの公務があるため、いつもより忙しなく顔を合わせる暇がなかった。
やっとのことで日取りを決めると、ハイドロの帰還が間に合うようなら連れてくるように、とアデリルが言った。運良く今朝になってハイドロが帰ってきたので、こうしてふたりでやってきたわけだが、偶然というより、アデリルが帰還の頃合いを見計らったようだった。昼食にはもうひとり、クレセントが同席する。私的でささやかな集まりだ。
冬の寒さは遠ざかりつつあるとは言え、気温はまだ肌寒い。その中にあって今日は、季節はずれに暖かい陽気だった。
それでアデリルが食事は外でしたいと言いだし、王女の望みを叶えるために、目下準備が進められている。陽射しの下に食卓が整うのを待つ間、久しぶりに顔を合わせたチャコールとハイドロは、人気のない、手入れの行き届いた庭園を眺めながら、歩いていた。
「フロラは?」
「心配したほどおおごとにはならなかった。最初は笑われたり、からかわれたりしただろうけど、彼女がほんの一時、エンシェンの守護に選ばれてたこと、今では誰も気にしてない。少なくとも表向きはね」
「おまえが守ってやったんだろ」
「それほどのことはしてないよ。少し一緒にいる時間を増やしただけだ。フロラの指導係に戻ったから、試験勉強にも付き合った。その程度のことだ」
「じゅうぶんじゃないか。チャコールからエンシェンを奪った女が、チャコールに優しくされてれば、他の奴はとやかく言えないだろ」
「そうかな。でも、別の噂が立っちゃって。チャコールはエンシェンの守護を手に入れられなかった代わりに、一度はエンシェンに選ばれた女を手に入れようとしてるって。今、フロラはそっちのほうが困ってる。でもまあ事実じゃないし、耐えてやりすごしてもらうしかない」
苦笑したチャコールに、ハイドロは笑った。
「ウェントワイトに行けば、それも消える」
「うん、そうだね」
チャコールは、背後の宮廷へ視線を向けた。
「アデリルが今日、フロラも誘ったんだけど、次に王女に会うのは試験に合格してからだ、って、フロラは断ってた」
「そうすると決めたなら、それで良い」
植え込みの続く煉瓦の道から、視界が開けて噴水のある小さな広場が見えてきた。噴き上がる水が、水盤を叩く音が聞こえる。黙ってそこまで歩くと、しばらくハイドロに視線を向けていたチャコールが、神妙な声でたずねた。
「刺青は」
「新しく入れた」
ハイドロが答えると、チャコールが暗い顔をした。ハイドロはわざと明るく、
「見るか?」と、たずねた。
チャコールが頷いたので、ハイドロは噴水の縁に腰掛け、背後に水の噴き出す音を聞きながら、左の服の袖をまくった。
「なに、これ」
褐色の肌に刻まれた藍色の模様は、確かにチャコールの知るものより増えていた。けれどそれは、彼が聞いたことのある守護の印と、それを撤回した不名誉の印ではなかった。
「『終わり』って意味だ。古いエンシェンの言葉で、完結を示す言葉」
「守護を撤回した印は?」
首を傾げたチャコールに、ハイドロは答える前に空を仰いだ。青空は高く、陽射しは柔らかい。噴き上がる水柱の先が視界に入り、空中に弾けた水滴が、陽射しを受けてきらきらと輝く。その隅に、小さな虹が見えた。
「もういい、と言われたんだ」
そう言ってハイドロは、顔を戻した。
「里に戻って話をして、守護を撤回した刺青を入れると言ったら、エンシェンの長はもういいと。俺はもともとエンシェンの慣習を嫌っていたし、従う気もないことを、一族はみんな知ってるから、刺青だけ掟に従って彫る意味はない、と」
「エンシェンの長が、そんなこと言うの? 掟を守らせる立場なのに」
チャコールは目を丸くし、心底驚いた口調で言った。
「まあな、変わりつつあるのかも知れない。だけど、すべてがチャラにはならなかった。だからここに刻め、と。俺は守護を撤回したことにもならないけど、守護を持ったことにもならない。これから持つこともない。これから死ぬまで、エンシェンとしては半人前だ。その覚悟を持って証を刻め、と。それがこれだ」
ハイドロはそう言って左腕を伸ばし、腕を見せた。
「ハイドロは納得してるの?」
「ああ。それにこれは、長なりの思いやりなんだ。長老会で相当反対されたが、長が口添えしてくれて、押し切った。こんな刺青を入れるなんて、エンシェン始まって以来のことで、前代未聞だ」
チャコールはすぐ傍まで近づき、唐草模様のようなハイドロの刺青を眺めると、
「今まで一度も言ったことないけど」と言って、小さく笑った。
「この刺青、似合ってるよ。ハイドロらしいと思う」
「慰めるなよ」
「ばれたか」
チャコールはそう言って笑ったけれど、表情はどこか悲しげだった。ハイドロは袖を戻しながら、彼にたずねた。
「チャコールの方は、マルカ先生には会ったか?」
彼は一瞬、はっとしたような表情になり、それから首を振った。
「ううん、返事はしたけど、まだ会えない」
そう言いながら、噴水の脇にある、ハイドロから少し離れたベンチに座った。
「今はまだ、上手く話せる気がしなくて…」
チャコールはそう続けて遠くを見る。ハイドロは彼のほうへ身体を向けた。
「俺が会いに行った話をしただろ?」
「うん」と、チャコールは頭を戻して頷く。
「チャコールのことを聞きにいったんだけどな、それは教えられないから、代わりに俺の話をしろと言われた」
「自分の話するの、嫌いじゃないか」
「まあな。だけど、やってみた。チャコールも話したと言うから」
「うん」
「夢の話を覚えてるか?」
「バルメリアの夢のこと?」
チャコールの口調に、わずかに心配が滲む。ハイドロは頷いた。
「女神の石像の話をしたこと、覚えてるか? 半分壊れてて翼がある、裸足の女神だ。子どもの頃の空想で、話し相手だった」
「忘れるわけないよ。その後、ハイドロがバルメリアに戻ったら粉々になってたっていう、丘の上の神殿跡の像でしょう。夢の中で…」
チャコールがわずかに口ごもり、言いづらそうに続ける。
「髑髏の顔で、血の涙を流して、ハイドロを追いかけてくる」
「そうだ」
ハイドロは頷いた。
「女神の像は、いつも俺を責める。どうしてバルメリアを捨てて、逃げたのかと」
「何度でも言うけど、ハイドロは逃げたわけじゃない。安全なところへ避難しただけだよ」真剣な口調でチャコールが言った。ハイドロは彼を見たまま小さく笑ってから、両手で顔を覆った。背後の噴水の音が、大きく聞こえる気がする。
「女神が血の涙を流していたのは、傷つくバルメリアを見て嘆いてたからだ。俺を責めたわけじゃない」
チャコールは目を見開いたが、ハイドロからは見えなかった。彼はさらに続ける。
「あの晩、女神の台座の下で震えてた俺に、女神の像は逃げろと言ったんだ。ここから逃げ延びて、生きろ、と。空想の話だけど、俺は確かに聞いたんだ。その後、母親が俺を見つけて、エンシェンの里に連れて行った」
「うん、里に行ったことは知ってるよ、でも、女神はいつも、ハイドロを追いかけてきたって…」
「俺はあの国を捨てて逃げたんだ。同じ日に、ずっと年上の一族の男は、目の前で守護だった最愛の女を殺された。守護を護りきれないことは、エンシェンにとって死にも等しい恥扱いだ。そいつは落伍者の刺青を入れて、ほとんど里から出ずに暮らしている。それが今のエンシェンの長だ」
それはチャコールも初めて聞く話だった。
「守護だとか、エンシェンの護衛術なんて、その程度のものなんだ。今は剣や槍で戦う前時代じゃない。連隊がいっせいに銃を撃ち込んだら、砲撃隊に打ち込まれた砲弾が炸裂したら、たったひとりのエンシェンが、どうやって守護を守り抜ける?」
「今は戦乱の時代じゃないよ。五国同盟の主導で、平和が続いている」
「平和っていうのは、いつ打ち壊されるかわからない。バルメリアで内戦があったのは、ほんの十七年前のことなんだから。内戦が起こるまでは、俺だってあそこで平和に暮らしてた」
「そうだけど」
「あの時の俺が安全なところに避難しただけだって言うなら、グロンスタだってできる限りのことはしたはずなんだ。少なくとも、自分の身は守った。守護を護りきれなかったのは、グロンスタのせいじゃない。
だからエンシェンの守護なんて、無力だ。見せかけだけでなんの価値もない。無力なのは俺も同じで、バルメリアを捨てて逃げた。誰も護ってない。そんな力もない。なのに守護を見つけた勇敢なエンシェンは、相手を失っただけで、一族の落伍者にされ、俺より劣る扱いだ。そんな一族に、一人前だと認められることに、なんの意味がある?」
「…そんなことまで、マルカ先生に話したの?」
「いや、夢のことも、バルメリアのことも話してない。ただ、先生と話して、おまえと離れてた間に、いろいろ考えた。それでこの話をチャコールにしたほうが良いと思ったんだ」
ハイドロは顔から両手を下ろし、チャコールを見る。彼は心配そうな表情で、ハイドロを見ていた。
「俺は無力だ」
「ずっと」と、チャコールがわずかに身を乗り出す。
「そんなふうに考えてたの?」
「ああ」と、ハイドロは頷いて、チャコールの視線に耐えられず再び天を仰いだ。
「チャコールを引き留めることもできない。おまえのいないアトレイに、なんの意味もないのに」
チャコールが息を飲むのが、気配でわかった。だがハイドロは、顔を向けることができなかった。
「それは…」と、チャコールはなにか言いかけて、言葉にならず口を噤んだ。
それきりしばらく、ふたりは黙っていた。柔らかい風がふたりの間を通り抜け、髪を揺らす。陽気のおかげか、気詰まりな気配はなかった。やがてぽつりと、チャコールが言った。
「無力なのは、おれの方だと思ってた。ハイドロのそばにいても、あの夢からハイドロを救ってやることもできない」
ハイドロは顔を戻したが、今度は彼の方が顔を背けて、植え込みのほうを向いていた。
彼が横顔を向けていることに少し安心して、ハイドロは言った。
「夢の中に出てくる血の涙を流した女神は、きっと、もうひとりの俺なんだ。俺は無力な自分が許せなかった」
「ハイドロがたったひとりでバルメリアを救うなんて、無理だよ。まして、小さな子どもの頃の話だよ? もう十七年も前のことなのに、どうしたら、自分を許せるの?」
「チャコールに、許してもらえたら」
チャコールが目を見開いてハイドロを見た。彼は続ける。
「今までずっと苦しめたこと、謝るよ。今度のことも謝る。俺はチャコールに言うことを聞かせようと思ってた。守護を選ぶことにはなんの意味も価値もないから、それを駆け引きの材料にして、おまえがアトレイに留まってくれるなら、それでいいと思ってた。今までずっと、悪かった」
「おれは許してるよ」と、チャコールは少し悲しげに言った。
「ずっと許してるよ。これからだって、許すつもりだよ。だけど、ハイドロの苦しみは続いてる。それをそばで見てるのが辛い。だからきっと、必要なのはおれが許すことじゃないんだよ。ハイドロは自分で自分を、許さないと」
「どうやって?」
ハイドロは苦笑する。
「そうだね、おれにもわからない。ハイドロ、おれがウェントワイトに行く前に、一緒にマルカ先生のところへ行こう。お礼を言いに。それで、ハイドロはもう少し、先生と話を続けてみたら良いよ。ハイドロが自分の苦しみと向き合うのに、おれよりも先生の方が力になってくれると思う。専門家だからね」
「どうだかな」
ハイドロは言った。その口調がなげやりに聞こえたのか、チャコールがわずかに、悲しげな顔をする。ハイドロは笑って首を振った。
「でも、やってみるよ。俺は新しいエンシェンだから」
チャコールが目を瞬かせ、それから苦笑した。
「よく言うよ。エンシェンに二言はないはずなのに、守護の撤回なんかして、アトレイで一族全体の評判を落としたくせに」
「俺が始めれば後に続く奴も出てくるだろ。臆病者は次の時代まで生き残れない。エンシェン族は時代を切り拓く勇気を持てと教わるんだ。そろそろ一族にも、古い掟に頼らないエンシェンの在り方を考えてもらう」
「みんながみんな、ハイドロみたいに勝手気ままに振る舞ったら、一族なんてすぐにばらばらになるだろうね」
チャコールは冗談めかしてそう言った。ハイドロもつられて笑ったが、やがて笑みを消して、彼からわずかに視線を外す。
「俺は自分を勇気のあるエンシェンだと考えていたけど、ただ乱暴なだけで、本当は臆病者だった。おまえに行ってほしくない、の一言が、言えなかった」
「ハイドロ…」
チャコールの視線を遮るように、ハイドロは額に片手を当てる。
「正直、おまえのいないアトレイで、冬を迎えるのが今は怖い」
チャコールは驚いたように息を飲み、しばらくそのままハイドロを見つめていたが、やがて笑顔になって言った。
「その時はウェントワイトに来ればいいだろ。マリエバなら二時間で飛んでいける。勇気を出すなんて大袈裟なことを言う前に、もう着いてるよ」
「…そうだな」
「マリエバのために、広い敷地と飼い葉を用意しとくよ」
「そんな贅沢な部屋に住む気か」
「うん。俺は作りたての安っぽい家具も、シーツが新しくない寝台も嫌だし、アイロンのかかってないシャツもトラウザーズも嫌いだ。磨きが甘くて曇った食器も、置き皿に丸くしみが残ってるカップも、薄汚れたキャビネットの硝子戸も、埃の立つ絨毯も、ぜんぶおぞましくてぞっとする。それでも」
チャコールは笑った。
「おれはウェントワイトに行くよ。おれも、新しいことをやってみる。二年経ったら戻ってくるよ。おれが帰る場所はアトレイだ。それまでは、ハイドロがウェントワイトに遊びに来れば良い。マリエバがいるんだから」
「そうだな。それに、里に新しい子どもが来たんだ。俺も面倒を見てる。その子もマリエバに乗せて、ウェントワイトの海を見せてやりたい」
「ウェントワイトには海陸風が吹くよ。昼間吹く陸風と、夜の間の海風と、入れ替わる時間が凪になる
ふたりはそう言って、顔を見合わせて笑った。ふたりとも自分の笑顔が、寂しさをごまかすためのものだと気づいていた。
会話が途切れた時、自分たちを呼ぶ声を聞いた気がして、ハイドロとチャコールは振り向いた。遠くの方に小さく、アデリルとクレセントが連れ立って近づいてくるのが見えた。アデリルは左手を挙げて彼らに見えるように大きく振り、右手はクレセントと繋いでいる。
それを眺めて、ハイドロは言った。
「近い将来、エンシェンの守護も高地竜も必要なくなる時代が来る。アデリルとクレセントが作るさ。その時も」
そう言ってハイドロは立ち上がると、チャコールの座るベンチに近づき、自分を見上げる彼に言った。
「俺はおまえのそばにいたい」
チャコールは一瞬呆気にとられたような顔をして、それからすぐに笑顔を浮かべた。
「うん、いいよ」
頷くとチャコールも立ち上がり、ハイドロではなくアデリルの方を向いて、彼女と同じくらい大きく手を振った。
優しい風が吹き、緑の匂いを運ぶ。季節はずれの柔らかい陽射しは、未来の夫婦を温かく照らしていた。ハイドロとチャコールは連れだって、彼らの元へ歩き出した。
まもなくこの気候が毎日続く季節が訪れる。その頃にはチャコールはアトレイにはいない。ハイドロとの関係はもう、元には戻らない。
だがそれは、ふたりにとってはもう、お互いを苦しめることではなかった。
<了>
◆虹色の海陸風 挿絵 @fairgroundbee
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