<13>
以前よりも陽が暮れるのが遅くなったが、それでもマルカが診療所を出る時には、もうすっかり辺りは暗くなっている。裏口の扉の鍵を閉め、通りに出たところで彼女の前に、音もなく人が立ちはだかった。
マルカは思わず息を飲む。人影は体格の良い男だ。一瞬、なにも考えられなくなったが、目の前の男がかぶっていたフードを下げた。
「…ハイドロ」
誰かが判然としても、それで不安が収まるわけではなかった。以前会った時に彼がしたことを、マルカはまだはっきりと覚えている。だが、今日はこないだとは、目の前の青年の様子が明らかに違った。
「マルカ先生」と、彼は少し疲れたように言った。
「力を貸して欲しい」
「どういうことです?」
マルカは一歩だけ後ずさって、怪訝な表情でたずねた。ハイドロはその場から動かず、頭を振る。
「前に俺がしたことは謝る。悪かった。償いが必要だと言うなら、なんでもするよ。だからチャコールが先生に何を言ったか、教えてくれないか」
「それを言いにここへ? 私を待ってたの? チャコールに直接聞かずに?」
暗がりの中で、ハイドロは頷き、
「チャコールは俺と会うのを嫌がってる。手は尽くしたが、完全にお手上げだ」
と、どこか投げやりな調子で言った。
マルカはつかのま彼を見上げた。こないだとは別人のように、覇気がない。それを見て彼女は心を決めた。
「それはできません」
その言葉に、ハイドロの目が鋭く光る。彼女は怯まずに続けた。
「チャコールが何を言ったか教えることはできません。私の信用に関わることだから。だけど、あなたの話を聞くことはできる」
「俺の? 俺が知りたいのは、チャコールのことだ」
「あなたが自分の話をする気になったら、明日の午後六時にまた訪ねてきて。今日の診療時間は、もう終わりだから」
ハイドロは黙ったまま、どこか胡乱な目でマルカを見つめる。沈黙が少し気詰まりで、マルカは言った。
「…今日は脅さないのね」
「先生を脅しても、意味なかった」
彼はそう言って、自嘲気味に笑う。その表情でマルカは、ハイドロがなにかを隠しているのがわかった。
「明日、あなたに会えたらいいと思うわ。それじゃあハイドロ、私は失礼するわね。あなたも気をつけて帰って」
マルカはそう言って、靴音を響かせてハイドロの横を通りすぎた。背中で緊張していたが、彼が追いかけてくる気配はなかった。
翌日、ハイドロは時間通りに現れた。ああは言ったものの、来ないだろうと予想していたマルカは内心、驚いていた。診察室に入った彼は、なんの関心もなさそうにちらりと部屋を見ただけで、示された椅子に座る。向かいにマルカが座っても、視線はどこか遠くを見つめているだけだ。
「来てもらえて嬉しいわ。ハイドロ」
「俺の話なんてなにもない。なあ、マルカ先生、チャコールは先生に俺の話をしたか? せめてそれくらい、教えてくれてもいいだろ」
肘置きに頬杖をついて、ハイドロが言った。昨日は別人のようだと思ったが、勝手な言い草は変わっていないようだ。マルカは苦笑して言った。
「チャコールとの間に、問題が起こったようですね」
ハイドロは彼女を見つめて、しばらく黙っていた。やがて、ふと目を反らす。
「……俺が怒らせた」
「その理由は?」
「先生に話すようなことじゃない」
「なら、心当たりはあるということですね」
ハイドロは頬杖を止めると、薄く笑った。マルカが初めて会った夕暮れに見せた表情だ。
「その口調、嫌いだな。子どもに言い聞かせるみたいで」
「あなたは話を反らすのが上手ね」
ハイドロはわざと大きな溜め息をつく。
「確かに、心当たりはある。だけど、なんであんなに怒るのかがわからない。チャコールが言い出したことなのに」
「なら、チャコールの態度が理不尽だということになりますね」
「チャコールの味方じゃないのか」
ハイドロが意外そうに目を上げる。マルカは小さく首を振った。
「私は誰の味方でもありませんよ。あなたが他に、よっぽど悪いことをしたと言うなら、別ですが」
「俺はあんたを脅したつもりだったんだが」
「今は少し反省してるように見えるので、あなたの話を聞くのを優先します」
それを聞くとハイドロは姿勢を直し、背もたれに背をつけ、膝の上で手を組んだ。そしてぽつぽつと、エンシェン族の守護のことや、自分が守護を選んだこと、それにチャコールがどう反応したかなどを、言葉を選んで必要最低限のことだけ話した。
「それじゃあ、怒るとは想定していたんですよね。その時、ハイドロはどうするつもりだったの?」
「喜ばせる条件を出せば良いと思ってた。それですべて丸く収まると。なのにチャコールはどうでもいいと言って、怒ったままだ。あいつのご機嫌取りは得意だったのに…」
そう言うと彼は目を閉じ、痛みに耐えるかのような顔つきになる。
「…今はどうしていいか、わからない」
「ハイドロは、これから先もずっと、チャコールのご機嫌取りをしたいと思っているの?」
彼は煩わしそうに目を開ける。
「したいとか、したくないとかじゃない。それでやってきたってだけの話だ」
「チャコールの方は、その関係を変えたいと思っているのかも知れないですね」
そう言った途端に、ハイドロの目つきが再び鋭くなった。
「チャコールがそう言ったのか?」
「そう考えたことはありませんか? チャコールが今、あなたに怒っているのは、今までの関係を繰り返さないためだと」
「なんで変える必要がある?」
「問題を抱えているからではありませんか? そうでなければ、あなたは今ここにいないでしょう?」
「言ったろ。俺たちの間にもし問題があったとしても、自分たちで解決する。他人が口出しすることじゃない」
「その通りよ。あなたたちの問題は、あなたたちにしか解決できない」
「なら先生からもそう言ってくれよ。怒ったままじゃ、いつまでも解決しないと」
「だけどチャコールがもし変化を望んでいるなら、ハイドロ、あなたはどうするつもり? チャコールに合わせる? それとも、元通りにしようとする?」
「それは…」
口ごもったハイドロは、わずかに目を伏せる。
「…今までどおりじゃ、ダメなのか」
「今までどおりって、具体的には?」
ハイドロが一瞬だけ、不機嫌そうな視線を向けた。
「別に、どうってことない。俺がアトレイにいる間は、一緒に出掛けたり、チャコールの友人も誘って飲みに行ったりとか。たまに堅苦しい集まりに出ろと言われたりな。俺が暇な時は、アトレイを離れることもある。別の国の小さな町とか、普段の生活とまったく違うところにあいつを連れて行くと、けっこう楽しんでる」
「ずっとこのまま? あなたに恋人ができたり、チャコールが結婚して家庭を持っても、その関係は続けられるかしら」
ハイドロは小馬鹿にしたように鼻で笑った。
「俺に恋人がいようがいまいが、チャコールには関係ない。それにチャコールが結婚? チャコールに相応しい相手なら、もちろん歓迎する」
「あなたの審査はかなり厳しいようだけど」
「チャコールがなにか言ったか? 今より若い時のことだし、他人のものが良く見えることってあるだろ。どっちみち今までの女たちは、チャコールに相応しくない」
「だけど、チャコールはそれを自分で決めたかったかもしれませんね。あなたが決めるのではなく」
「チャコールのことはチャコールに決めさせろ、って言いたいのか? 俺は今までだって口出ししたことなんかない」
「そうね」とマルカは頷く。
「ただ、私の立場としては、あなたの言い分も聞くけれど、チャコールの気持ちも尊重したいの。チャコールが誰かを助けたいと強く思っているなら、どうしたらそれが実現するか、彼と一緒に考えるつもりよ」
「誰かを助ける?」
ハイドロが軽く首を傾げて苦笑した。
「あいつはキリエール家の人間だぞ。チャコールの母親は難病の子どもがいる家の支援事業をやってるし、あいつの何代か前の祖父さんが作った基金で、毎年一クラス分くらいの人数がタダで王立学院に入れるんだ。一族郎党に広げたら、きりがない。キリエール家が名前だけで、毎年どれだけ寄付金を集めるかマルカ先生は知ってるよな。慈善事業は、今だけでもうじゅうぶんだ」
「いいえ、それよりも、もっと身近な…」
と、言いかけて、マルカは口を噤んだ。頭に思い浮かんだことは、本来は話すべきではないとわかっていた。けれど、目の前のハイドロを見ると、迷いが生まれる。口ごもった彼女に、彼は怪訝な視線を向けていた。マルカはしばらくためらった後、意を決して言った。これは正式な診察ではないから、と心の中で言い訳しながら。
「チャコールは私に正直に打ち明けてくれたから、私もあなたに対して正直に話すわ、ハイドロ。チャコールは私に、大切な友人のことを話してくれました。詳しいことは省いて、友人の名前も言わなかったけれど」
ハイドロが窺うように目を細める。
「その友人は」と、マルカは彼の目を見て言った。
「幼い頃、まだチャコールと出会う前に辛い経験をしていて、毎年同じ時期にその記憶がよみがえって苦しんでいると」
ハイドロの目がゆっくりと見開かれる。
「助けてやりたいのに、見ていることしかできなくて、なにもしてやれないのが辛い、と」
「なにもしてないなんて、あいつが決めることじゃない」
苛立った様子で、ハイドロが遮った。
「チャコールはそう感じている、という話よ」
「それで俺から離れろ、と言ったのか?」
ハイドロは食って掛かるように身を乗り出した。だがマルカは毅然と首を振る。
「どういう行動が友人のためになるか、考えて決めたのはチャコールよ。それを実行しただけ。今までと行動を変えよう、それが友人のためになるなら…」
そう言ってマルカは一呼吸置いた。努めて冷静でいたが、その一言を告げる時は、ほんのわずかにハイドロを責めるような口調になることを、抑えられなかった。
「自分が苦しむことになっても、それに耐えよう、と」
「バカなことを」
ハイドロは吐き捨てるように言った。
「バカげてる。チャコールはそうなんだ。いつも利口ぶってるくせに、たまにこうやって、バカなことをする」
「彼が友人について語った話よ。あなたがバカにするいわれはないわ」
「白々しいな。先生もその友人が誰なのか、見当がついてるんじゃないのか」
そう言ってハイドロは、嘲るような冷ややかな視線を向ける。マルカはまた少し迷いながら、口を開いた。
「実は、チャコールから面談の断りがあったの。次の約束はまだ先なんだけど、二日前に手紙が届いて、もう終わりにすると。問題は全部解決したから、これ以上私に会う必要はない、と。短いし丁寧な文面だったけど、急すぎると思ったわ。あなたとなにか」
マルカはそう言って、ハイドロの顔を覗き込む。
「関係があるのかしら」
「…自惚れでなければ、俺が守護を選んだからだ」
「なぜ? 理由を聞くのはおかしいけど、誰かを選ぶなら、チャコールでも良かったんじゃないの?」
「チャコールを選ぶつもりはない」
ハイドロは首を振る。
「チャコールは、選ばれたがっていたのに」
「知ってるよ。だけど、俺が選ぶつもりもないことを知ってる。あいつにエンシェンの守護は必要ない」
「あなたが選んだ人は? その人には、エンシェンの守護が必要なの?」
「チャコール以外はどうでもいい。あいつ以外はエンシェン族の守護が欲しいだけだ。それがたまたま、俺だっただけだ」
投げやりな口調に、マルカは思わず顔をしかめた。
「それはチャコールにも、あなたが選んだ人にも失礼よ。チャコールが苦しんでいるなら、余計に」
「どうして苦しむんだ、そんな必要ないのに。チャコール次第で、元に戻ると言ってやったのに」
ハイドロがそう言って顔を歪める。その表情を見て、マルカは小さく息を吐いた。
「ハイドロ、もう一度聞くけど、どうしてチャコールを選ばなかったの? チャコールもそれを望んでた。他の人を選んでチャコールを怒らせて、あなたまで苦しむくらいなら、チャコールを選ぶという選択肢はなかったの?」
「チャコールは…」
ハイドロは目を細め、遠くを見つめる目つきで言った。
「本物だけを持つべきだ。エンシェンなんて、中身がからっぽの張りぼては、あいつに相応しくない。チャコールにはそんなもの必要ない」
「…あなたは自分を、偽物だと感じているの?」
「そうだよ、先生。掟だなんだと言って一族を縛り付けて、必死でみんなが欲しがる貴重品のように見せかけてるだけだ。欲しい奴らに行き渡らないように、極端に数を少なくしてる。少ないせいで、たまに持ってる奴がいると、みんなが羨ましがる。でも、そんな幻想だ。本当はなにもない」
「じゃあ、どうして」
マルカはハイドロの顔を覗き込んで言った。
「本物しか持つべきじゃないチャコールのそばに、偽物のあなたは十年もいたの?」
「そんなことまで、先生に言う必要が?」
ハイドロは不愉快そうに顔を顰めた。マルカを脅した時と同じ表情で、彼女は少したじろぐ。
「無理に言う必要はないけど、話してくれれば、解決する道が見えてくるかも」
「試すつもりだったんだ」
ハイドロは頭を振って、乱暴に言った。
「チャコールみたいに、最初からなにもかも持って生まれて、なに不自由なく育ったお坊ちゃんなら、必ずエンシェンの守護を欲しがる。品の良い顔をして笑ってるが、一皮剥けば欲の皮の突っ張った奴らと同じだ。キリエール家に上がり込み、早く俺が欲しいと言わせたかった。そうすれば、チャコールも他の奴と同じだ。俺をエンシェンとしか見ないって思える。そうすれば、さっさと捨てられたのに…」
ハイドロはそう言って、視線をはずした。
「あいつはいつまでも、俺の心配ばかりしている」
「…チャコールを捨てたかった?」
ハイドロは首を振ると、自分の身体を抱くように腕を組む。そして椅子の背もたれにこめかみをつけ、遠くを見る目つきで言った。
「チャコールといると、素性の知れない、中身のないエンシェン族の俺も、少しはまともな人間だって気がする。あいつの家族も、エンシェンだからと言って、俺を特別扱いしたりしない。この十年で思い知ったよ。最初から持ってるってことは、本当はこういうことなんだ、と。じゅうぶん持ってることに満足してるから、それ以上欲しがる必要なんてないんだと。だから居心地が良くて」
ハイドロは独り言のように言って、首を振る。
「だけど、あの中にいると俺は、自分が本当に偽物だと感じる。チャコールには相応しくない、有害でしかない存在だと。だからチャコールに思い知らせてやりたかった。チャコールに辛く当たって、早くそれに気づかせたかった。俺は偽物だ。チャコールには必要ない。それだけでよかったのに。あいつはいつも、俺を許す」
ハイドロは目を閉じて、一度静かに息を吐く。
「いつも許す。不機嫌な顔をしたり、喧嘩になったりするけど、最終的にいつもチャコールは俺を許す。俺がなにをしても、どんなに傷つけても、最後は許す。その繰り返しで、もう十年だ」
「チャコールを傷つけたかった?」
ハイドロは目を開き、マルカを見た。
「ずっとそうしてきた」
「違うわ、してきたことじゃなく、あなたの気持ちよ」
「…いや」
「じゃあ、あなたがもし、自分を偽物じゃないと感じられたら、チャコールを選びたかった?」
「そんな日は来ない」
「想像してみて。今だけでいいから」
「いや」
ハイドロはきっぱりと首を振ってから、再び目を閉じる。
「ただ…」
と、彼は何か言いかけ、しかしそれきり黙った。沈黙は長く、沈黙に慣れているマルカにさえも、長く感じられたほどだった。彼はもう口を閉ざしたまま、席を立つかもしれない。そう思った頃にやっと、ハイドロは、溜め息のように言った。
「大切にしてやりたかった」
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