<12>

リスケスからアトレイまでは、そのほとんどの時間を馬車の中で過ごすだけだが、それでもフロラの気分は行きとはまったく違った。幸いなことに、馬車の中はハイドロとふたりきりだ。すでに見飽きた豪奢な箱車の中で、フロラは傍らのハイドロにたずねた。

「守護になったら、なにが変わるの?」

「フロラはなにも変わらない。俺はエンシェンの里に報告して、ここに守護を持った刺青を入れる」

そう言って彼は左の二の腕を軽く叩いた。

「刺青?」と、フロラはわずかにハイドロの方へ身を乗り出す。

彼は小さく笑うと上着を脱ぎ、服の袖をまくり上げた。肘から上、彼が軽く叩いたその場所に、褐色の肌の上に踊る唐草模様のような刺青があった。

「これがエンシェンの証だ。男も女も分け隔てなく、エンシェン族はそれと分かるように、こういう刺青を入れる。たとえどこかで野垂れ死んでも、この刺青さえ残れば、それが誰なのか、守護を持っていたのかどうかがわかる」

「ということは、守護の印を入れたら、もう消せないのね」

「そうだ」

それを聞いて初めて、フロラの胸がわずかにざわめいた。

「なぜ、わたしなの? ほんとにわたしでいいの? ハイドロの周りは、他にも素敵な人がたくさんいるのに」

「他の知り合いを選ぶつもりだったら、もうとっくに選んでるはずだろ。それに守護を選ぶのに、理由なんて必要ない。選びたいと思うから選ぶ。強いていうなら、フロラが俺と同じバルメリアの生まれだからかな。それに」

ハイドロはそう言って、少し意地悪く笑った。

「初めて会った時、エンシェンの守護が欲しいか、と聞いたらフロラはかなり強く『要らない』と言ったよな。あれには傷ついた。フロラに俺の価値を認めさせたいのかもな」

「あの時は…、畏れ多いと思ったからよ。ハイドロを軽く見てたわけじゃない。むしろ、その逆よ」

フロラは顔を赤らめる。

「今は?」

「ほんと言うと、とても良い気分。自分が一回りも二回りも大きくなった気がする。私がエンシェンの守護を持つなんて、考えたこともなかった。私を選んでくれてありがとう、ハイドロ。ただ…」

と、フロラはハイドロの方へ、窺うような視線を向けた。

「チャコールはなんて言うかしら。ハイドロは誰も選ばないって思ってるのに」

「後悔するかもな」

そう言ったハイドロは一瞬、冷たい笑みを浮かべた。ただ、それは本当にほんの一瞬で、フロラがその表情の意味を考える前に消えてしまった。

「なんてな、冗談だ。最初は驚くかもしれないけど、喜んでくれるさ。あいつには俺から伝える。フロラからはなにも言わなくていい」

「どのみち、ハイドロのほうが早くチャコールに会うでしょう」

「そうだな。フロラは今までどおりだ、寮で目覚めて、学院に顔を出して、実習中は省庁で働く。その合間に試験勉強だ。ただフロラは変わらなくても、周りの見る目が変わる」

「まだ想像できない。どんな風に変わるのかしら」

「それは俺にもなんとも言えない。俺はあまり素行の良いエンシェンじゃないからな、眉を顰める奴もいるだろうさ。でも、そういう奴らも、内心でフロラを羨ましがる。エンシェンに選ばれた女だってな。怖いか?」

「いいえ、だって」と、フロラは首を振る。

「その時は、ハイドロが護ってくれるんでしょう?」

ハイドロは目を細めて頷く。フロラは膝の上で両手を拳に握った。

「ハイドロは言ってたでしょう。自分の望みを叶えたかったら、機会を逃すなって。あの言葉で、一歩踏み出す勇気をもらった気がしたの。今まではわたしには分不相応だ、手が届くはずない、そんなふうに考えることさえ畏れ多いって思ってたけど、手を伸ばす前に諦めることは、止めにしたの」

「フロラにもやっと、野心が芽生えたか」

「宮廷では、必要なんでしょう。アデリル様の近くで働くことも、諦めない」

「それでいい。アトレイには俺がフロラを守護に選んだことが伝わってるはずだ。戻ってからは、持ってることに慣れる第一歩が始まる」

ハイドロはそう言って、どこか挑戦的に笑って見せた。フロラも笑顔で頷く。

「望むところよ」



ハイドロが守護を選んだという知らせは、王女の結納品を無事に受け取ったという知らせとともに、本人たちの帰還より一足先に、アデリルのところへ届けられた。

それはどこからともなく宮廷に広がり、少し遅れてさらに尾鰭のついた噂となって市井に広まった。ハイドロを知る人は、程度の差はあれこぞって驚き、それよりももっと遠く、エンシェン族の習わしをぼんやりと知っている程度の人々でさえも、多少の好奇心や野次馬精神を持って、その話題を口にした。

キリエール家にも当然伝わり、最初は驚いた人々も、戻ってきたハイドロにかける祝福の言葉を口にした。

その中にあってただひとりチャコールだけは、どんな感情も表さず、気に掛けたそぶりもなかった。彼の品性がもっと悪ければ、鼻で笑ったかも知れない。

わずかにでも噂を耳にした人々のうち、ただひとりチャコールだけは、その話をまったく信じていなかった。

だからハイドロと彼がいつ顔を合わせ、どんな話をしたのか、誰も知らない。

ただ、ある日を境に、チャコールは別人のように変わってしまった。



アトレイに戻ってからのフロラは、自分に向けられる妙な視線に、気づかなかったわけではなかった。だが、実習生の立場で王女から役目を言いつかったこと、エンシェン族の守護を持ったことなど、心あたりはあった。それで彼女は、嫉妬かあるいは好奇の目を向けられているのだろう、くらいに考えていた。

以前ならひとりで思い悩むところだが、今のフロラは違った。持つことに慣れる。そう自分に言い聞かせ、前よりも堂々とした態度でいることを心がけていた。

ただ、今から思えば、帰ってきたその日から、なんだか妙だった。

運んだ品は無事にアデリルへ届けられたが、フロラが王女と顔を合わせることはなかった。言葉をかけてもらえるものと期待していたフロラは少しだけがっかりしたが、そのことで落ち込んでいる暇もなかった。次に、指導係のチャコールにも、この件が無事に終わったこと報告する必要があった。

執務室へ行くとチャコールはおらず、補佐係が出てきて、しばらく待つように告げられた。

なんの疑問も抱かずに、フロラはそこで二時間近く待った。さすがになにかあったのか、と感じ始めた時、補佐係が戻ってきて、チャコールはいないから、その日は学院に戻り、翌日出直すように、と言われた。

煮え切らない気持ちが残ったが、言われたとおり、その日は学院に戻ってあとの半日を過ごした。翌日になり、改めてチャコールのところへ行こうとすると、それより先に使いが来て連絡を寄越した。今日もチャコールのところへ来る必要はない、と。

理由もない走り書きのような一言に、フロラは途方に暮れた。仕方がないので、外務省とは別の実習先に赴いた。そこでも、妙な視線が向けられる。

中には知り合いでもないのにフロラに近づき、

「フロラ・フロレンティーナ?」と、不躾に名前をたずね、

「上手くやったな」と、通り過ぎざまに皮肉気な薄笑いを浮かべる輩さえいた。

フロラは次第に、不安な気持ちをかき立てられる。そのまま半日を過ごした頃、もう一通、彼女のもとに手紙が寄越された。それを見てフロラは驚いた。

アデリル王女が直々に、この件についての報告を聞きたいので、至急、宮廷に来るように、と。

とるものもとりあえず、その場から逃げるように宮廷に向かったフロラは、今こうして、アデリルと向き合っていた。呼ばれたのは謁見の間ではなく、私的な応接室だ。

正直フロラは、やっとアデリル王女からお褒めの言葉が、それが大袈裟だとしても、なにかしらフロラを気遣うか、労う言葉がもらえるものと思っていた。

けれど部屋で彼女を待ち構えていた王女の顔は、どこなく固かった。これまでの柔らかな物腰とは打って変わって、どこか緊張した面持ちだ。

椅子に腰を下ろしたアデリルは、他にも椅子があるのに、フロラに座れとも言わなかった。フロラは彼女の前に進み出て、挨拶する。

「ご苦労だったわね。クロシェルト家からの贈り物、確かに受け取ったわ。立派に務めを果たしてくれたこと、感謝します」

アデリルはそう言ったが、表情は動かず、口調はどこか事務的に聞こえた。

「いえ、当然のことをしたまでです…」

フロラは背筋を伸ばした姿勢で立ってそう答えたが、その言葉が王女を喜ばせるものなのかどうか、自信がなかった。

「それで、ひとつ聞きたいのだけど」

アデリルはフロラは戸惑った様子には構わず、

「あなたがハイドロに選ばれたと言うのは、本当のことなの?」

と、厳しい調子でたずねた。

もしかして、とフロラに嫌な想像が浮かぶ。アデリルは、本当はハイドロが、エンシェン族の守護が欲しかったのではないだろうか。ハイドロと同席している時、少しもそんなそぶりはなかったけれど、本当は自分のものになると考えていたのではないだろうか。

けれど、ハイドロと王女の付き合いは長い。選ぶなら、とっくの昔に選んでいるはずだ。ハイドロの言葉を思い出し、フロラは、

「はい」と、頷いた。

アデリルは眉を顰め、さらに冷たい声でたずねた。

「ハイドロに言われたのね?」

フロラにはその声が胸に突き刺さるように感じたが、王女に嘘をつくことはできない。

「はい」

「フロラ、あなたはそれを受けたのね」

「…はい」

王女が目を伏せ、わずかに青ざめる。その様子に、フロラは胸の奥が冷えていくのを感じた。額に嫌な汗が浮かぶ。自分の想像が、確信に変わった。

アデリルは怒っている。フロラに腹を立てている。王女が望んでいたエンシェン族の守護を、フロラが横取りしてしまったから。

だが、身を強張らせたフロラの前で、アデリルはすぐに目を上げた。そして真剣な表情で彼女を見て、一度頷く。

「よくわかったわ。話は終わりです。下がりなさい」

王女と実習生の間柄では自然な会話だが、アデリルの優しさに触れていたフロラは、命令というよりも事務的なその口調に、心臓が止まりそうになる。

「あの…」

フロラは口を開き掛けた。だが、王女は一瞥しただけで、扉のそばに控えていた部屋係に目を向ける。彼女が扉を開けてフロラを促したので、もうそこに留まることはできなかった。部屋を出たフロラの早鐘を打った鼓動は、いつまでも収まらなかった。

けれどフロラが本当に自分の失敗に気づいたのは、そのさらに後だった。

翌日、唐突にチャコールが指導係から外れる、と知らせが来たのだ。代わりの指導係の名前と所属が書いてある紙を渡されて、今日からそこへ行けと命じてあった。

フロラは混乱し、いてもたってもいられず、外務省のチャコールの執務室へ走った。控えの間で補佐係に止められたが、彼女は必死で言った。

「お願いです。チャコールに会わせてください。なにかの間違いです」

アトレイに戻ってきてから向けられる視線、顔を見せないチャコール、そして昨日のアデリルの様子を思い出し、フロラは動揺していた。

しばらく押し問答が続いたあと、それでも食い下がるフロラに、補佐係は一度執務室へ消えた。そして戻ってくると、苦い顔で、

「失礼のないように」と、奥の部屋へ通してくれた。

その時もまだフロラは、王女の機嫌を損ねたものと思っていた。だからチャコールに会い、彼にとりなしを頼むことができれば、この状況が良くなるのではないかと思っていた。

だが、執務室の中に入り、彼の姿を見た途端、その希望は打ち砕かれた。

陽射しのたっぷりと入り込む部屋、机の前に立って、チャコールはいつものように彼女に挨拶した。少しだけ窶れたように見える青ざめた顔色を除けば、まったくいつものチャコールだった。けれどその目つきも口調も、フロラを歓迎していないことは明かだった。

形式的な挨拶のあと、チャコールは静かに言った。

「用件があるなら、手短に」

「あの、チャコールが、私の教官から外れたと聞いて」

「うん。代わりにレクシアが付く。伝わってるでしょう」

アデリルと同じように事務的な返事からは、会話を打ち切りたい気持ちがありありと見えた。フロラが言葉を続けるには、あるだけの勇気をかき集める必要があった。

「あの…、わたし昨日、アデリル様に呼ばれて…」

「うん、聞いてるよ」

「わたし…ハイドロのことは断ります。アデリル様に、伝えてください。他にお願いできる人がいなくて…」

そう言うとチャコールの視線がみるみる冷えた。これほど冷徹なチャコールを、フロラ初めて見た。彼の射抜くような視線に、フロラの心臓は凍り付く。

それでやっと、フロラは気づいた。

怒らせたのはアデリルではなく、チャコールなのだと。理由ははっきりしないが、ハイドロのことで怒っているのは、王女ではなく、目の前のチャコールなのだ。

「チャコール、聞いてください。そんなつもりじゃなかったんです。わたしはエンシェンの守護なんて、欲しくない」

「エンシェンの守護は、エンシェンが選ぶ。選ばれた相手は、拒否する態度は取れるけど、断ることはできない」

「だとしても、断ります。ハイドロだって無下にはしないはずです。わたしはなにも知らなかっただけなんです」

「フロラ」

チャコールは静かだが冷たい声で言った。

「そういう問題じゃない。ハイドロは守護を選ぶと言って、フロラはそれを受けた。それはもう、白紙にはならない」

「でも…」

「心配しなくていい。このことで、フロラが不利に扱われることはないから」

「そんなこと心配してません。罰なら受けます、だから…」

身を乗り出してそう言うと、言葉を遮るように、チャコールは首を振った。

「罰を受けるようなことはなにもない。選んだのは、ハイドロだ。だけど」

と、彼はやはり冷たい視線をフロラに向けて、静かに言った。

「今はフロラに、優しくできない」

フロラはその場に凍り付いた。そして、この瞬間にやっと気が付いた。アデリルの態度、周囲の妙な視線、そして、チャコールのこの言葉。

わたしはエンシェン族の守護を手に入れたんじゃない。

チャコールから、ハイドロを奪ったのだ。

事実がどうであれ、周囲はそういう目でわたしを見ているのだ。

チャコールは立ち竦んだフロラの脇を通り過ぎると、自ら部屋の扉を開けた。

「さあ、出て行って。仕事に戻るんだ」

チャコールはとても穏やかにそう言った。その言葉に従う以外、フロラにできることはなにもなかった。頭の中は真っ白なまま、フロラは執務室を出て、扉が背後で閉まる音を聞きながら、控えの間からも出た。そこからどうやって建物の外へ出たのか、もう覚えていない。建物の影、人の目につかない場所まで来ると、フロラは力無く倒れ込むように、その場にしゃがみ込んだ。

「うっ…うっ」

堪えていた嗚咽が込み上げてくる。目頭が熱くなり、目の前が霞んだかと思うと、涙がこぼれた。

エンシェン族の守護は、ただひとり選んだ相手を生涯護り続ける。

そう聞かされていたのに、まるで逆ではないか。ハイドロのしたことで、アデリルに憂いた視線を向けられ、チャコールには見たこともないほど冷たい態度を取られた。

ハイドロに泣きつきたかった。王女とチャコールを今まで通り、リスケスに行く前に戻してくれ、と訴えたかった。けれど彼はすでにキリエール家に帰った後だ。

ハイドロの守護に選ばれたとは言え、フロラは自分から彼に会う手段を持っていないことに気がついた。

新年会には招かれたが、自分のような者が突然キリエール家をたずねて、取り次いでもらえるとは思えなかった。それに彼の家はチャコールの家でもあるのだ。彼の態度が変わったことで、ハイドロに泣きついたと知られたら、今でさえあれほど冷徹な彼は、フロラをどう思うだろう。

ハイドロはなにも変わらないと言っていたのに、この状況だけ見れば、それはまったくの嘘にも等しい。だが、目の前にぶらさがるようにして現れた彼の手を、掴むと決めたのは他ならぬフロラ自身だった。

(罰が当たったんだ…)

フロラは嗚咽を堪えながら、熱くなった頭で考える。口元を両手で押さえていないと、声が漏れてしまいそうだった。

(欲張ったのがいけなかったんだ。わたしが分不相応なことを考えたから。こんなことになって、どうしよう。アデリル様の役に立つのが夢だったのに、こんな風にチャコールを怒らせたら、もう絶対に許してもらえない)

そう考えると、涙がどっと溢れて止まらなかった。笑顔で自分を送り出してくれた両親の顔が浮かぶ。

チャコールは、このことでフロラが不利な扱いを受けることはない、と言った。けれど、昨日のアデリルの態度を思い出すと、その言葉が真実だとは思えなかった。フロラはスカートの裾が汚れるのも構わずに、膝に顔を埋めて泣いた。

先行きを台無しにした自分の浅はかさを責める以外、なにも思い浮かばなかった。



クレセントは満足げに、街灯の下に停まった馬車に乗り込む客人たちを見送っていた。

今夜の集まりでは年齢も立場も、クレセントが一番下だった。店を選んだのも彼だ。城下町の一角にある、あまり堅苦しくない、居心地の良い店だった。集まったのは宮廷の役人たちだ。年若く能力と野心に溢れた彼らとの会食は、非公式なものとは言え、なかなかの収穫があった。

王女との結婚が決まってからラントカルドに有利な話に進むことが多いが、それは交渉の善し悪しではなく、祖国が注目されているということだろう。クレセントは生まれ故郷にそれほどの思い入れはなかったが、掴めるところにある手柄を逃すほど、無欲でもなかった。

客人の乗った最後の馬車が動き出すのを見届けて、クレセントは自分も帰ろうと、店に上着を取りに戻った時だった。

「クレセント様ですね」と、脇から声がかかった。

振り向くと自分の部屋に付いていた、給仕の男が傍らに立っている。

「アデリル様の…」

彼はどこか困った表情で、そう続けた。彼は一応、頷く。

クレセントはすでに何度かこの店を訪れているし、一度はアデリルと来たこともある。だが、声を掛けられる心当たりはなかった。

「実は、お耳に入れたいことが」

口ごもりがちに言った彼に、クレセントは怪訝な顔をしたが、案内されるままについていく。二階へ上がり、少し前まで過ごしていた部屋の前を通り過ぎ、突き当たりの角部屋に通された。

扉を叩き、

「失礼します」の声と共に、給仕は部屋の中へ身体をすべりこませ、クレセントにも目配せした。状況はわからないが、クレセントはとりあえずそれに続く。

「チャコール」

部屋の中にいる人物を見て、クレセントは目を見開き、思わず声を上げた。

薄暗い照明の部屋の中央、クッションを敷き詰めた布張りのソファに、チャコールがひとりで座っている。靴を脱ぎ、肘掛けに足を乗せただらしない姿で、酒瓶を手にしていた。

クレセントが今まで知るチャコールは、自宅でだってこんな格好をしなかった。ましてここは、キリエール家の御用達ですらなく、様々な客が集まる店に過ぎない

給仕が困り果てたような表情で、背後に立っている。

一方のチャコールは、突然姿を見せたクレセントに驚くこともなく、一瞥したあと、だいぶ陽気な調子で言った。

「これはこれはクレセント様。どうしてここに」

「飲み過ぎだと思うんですが、止められる方がいなくて」

給仕がそっと、クレセントに耳打ちした。

「アトレイの役人たちと会食だった。この店がチャコールのお気に入りとは知らなかった。ひとりなのか?」

「ええ」

チャコールは頷いて、空になったグラスに酒を注いだ。ボトルの中身は残り少なく、数滴で空になる。チャコールはそれをテーブルへ置いた。よく見ると既に、三本ほど空のボトルがテーブルに乗っていた。クレセントは眉を顰める。

「全部ひとりで?」

「ええ、そうです。それがなにか、あなたに関係が?」

チャコールは挑発的にそう言った。

クレセントはチャコールと何度か食事を共にしたことはあるけれど、決して親しい仲ではない。それでも彼は酒が飲めるほうだと知ってるし、アデリルからも酒に強いが普段は飲まない、ということも聞いていた。

「もう一本、同じものを」

うっすらと目元を赤くしたチャコールはボトルを振りながら、クレセントの背後に立った給仕に言った。彼は心配そうにクレセントを見た。

「水も一緒に」と、囁くと、給仕は頷いて部屋から出て行った。

飲むものがなくなり、手持ちぶさたになったチャコールは、背もたれにこめかみを押しつけている。クレセントは彼に近づいた。

「飲み過ぎじゃないのか。気分が悪いなら、屋敷まで送るけど」

「あなたに親切にされるほうが気分が悪い」

チャコールは乱暴にそう言ったが、クレセントは笑ってしまった。アトレイに来たばかりの頃、チャコールからはよく慇懃無礼な言葉を聞かされた。それを思い出したのだ。

「酔いつぶれてここで一晩過ごす気か? チャコール・キリエールともあろうものが」

「酔いつぶれたりしないし、みんな好き勝手にやってる。おれだって同じようにする」

「本当に俺の知ってるチャコールか?」

クレセントは苦笑して彼を見た。

チャコールが普段酒を飲まなくても、飲みたい気分になって飲むのは勝手だ。だが、それは普段のチャコールであればこそだ。こんな風に人目も憚らずだらしなく座り、空になったボトルを数えるようにテーブルに並べて、溺れるように酒を飲むなんて、それがチャコールであろうと誰であろうと、いいわけなかった。

その時、給仕が盆に新しいボトルと水を乗せて戻ってきた。チャコールがわずかに身体を起こして腕を伸ばす。クレセントは給仕より先に盆から水差しを取り上げ、一緒に運ばれてきたグラスに注ぐと、それをチャコールに差し出した。

「こっちにしとけ」

「おれは注文してない」

チャコールは露骨に顔を顰めて、振り払う仕草をしてみせる。けれど、酒のボトルもクレセントが先に取り上げていた。

「欲しけりゃ取りに来い」

彼はそう言って、ボトルを持ったままチャコールの向かいのソファに腰を下ろす。それから給仕に目配せして、部屋から下がらせた。

チャコールはクレセントを一睨みし、それから小さく溜め息をつくと、ソファから身を起こした。

「返してください」

「もう、飲むの止めろ」

「あなたに指図される言われはない」

「まだ飲むなら家に招待するよ。アデリルもいるし、帰る心配もしなくていい」

クレセントは大使館の近くに住まいを構えているが、正式に婚約した後なので、王女もそこで過ごすことを許されている。チャコールは顔を歪めて首を振った。

「誰にも会いたくない」

「俺に会ってるだろ」

「あなたなんて、ものの数に入らない」

失礼な物言いにも腹は立たない。だが、今度は笑えなかった。普段とはあまりにも違うチャコールに、クレセントは自分でも柄ではないと思いつつ、心配になる。

「やけ酒か? 失恋した小娘よりひどい」

「失恋? 失恋がなんです? そんなの大したことじゃない。おれが好きになった女の子に、ハイドロがどれだけ手を出したか」

顔を歪めてそう言うと、酒の入ったグラスを探すように手を伸ばしたので、クレセントは代わりに水が入っているものを押しつけた。なにもないよりましなのか、チャコールはぐっと水を飲む。

「…噂は本当だったのか」

「なんの噂です?」

「言って良いのか」

聞き返すと、チャコールは黙った。

「らしくもなく、ひとりで飲んでるのは、そのせいか?」

「らしくもなくって、あなたがおれの何を知ってるっていうんです。悪態をついてひとりで飲んだくれるのはチャコールらしくないなんて、誰が決めたんだ。もう、うんざりだ」

チャコールは喚くように言って、子どものように足をばたつかせた。

「ハイドロは、今もキリエール家に?」

チャコールがまた黙る。そして顔を背け、せもたれに押しつけた。

「本当に図々しい。顔も見たくない。でも」

吐き捨てるような口調は、途中で力ないものに変わった。

「出て行けなんて言えない」

「変だな、チャコールの家だろ。ハイドロが気に入らないなら、俺にするみたいに振る舞えよ。礼儀正しく失礼なこと言うの、得意じゃないか」

顔を背けたまま、チャコールは首を振る。

「そんなのハイドロには通じません。全部見通されてる。いつだって平気なんだ。今だって平然としてる。顔を合わせても、今までとなにも変わらない。あのむかつく薄ら笑いでおれのことを見てる。そうやって笑いかければ、おれの機嫌が直ると思ってる」

途中から独り言のように、彼は続けた。

「おれは笑えないのに、おれは平気じゃないのに、ハイドロにとっておれは、どうでもいい相手なんだ…」

だんだんと声が小さくなった。クレセントは彼の肩がかすかに震えているのに気づく。

「…誰も選ばないから、許せてたのに」

そう言って彼は黙り込む。クレセントは目を細めた。彼はチャコールと親しくないし、同情するいわれもなかった。けれど、今ありありと苦しんでいる彼を目の当たりにして、放っておく気にもならなかった。

「チャコール、やっぱり俺の家へ。キリエール家に比べたら行き届かないが、ハイドロに会わずに済む。このまま店にいるわけにも行かないだろ」

「なんで俺に、親切に」

「親切じゃない。ただ、見て見ぬふりをしたら、アデリルに怒られる」

「アデリル、アデリル、アデリル。良かったですね、出世の道が開けて」

「これもぜんぶチャコールのおかげだな。さあ、立ってくれ」

クレセントは給仕を呼び、支払いを済ませ、まだ意味の分からないことを言い続けるチャコールを立たせた。顔には出ないがしたたかに酔っているようで、チャコールは足元が覚束なくなっていた。

クレセントはまず自分の従者に事情を話し、先に帰るよう言い渡した。それから店の裏に停まっていたキリエール家の馬車を見つけてチャコールを押し込み、一緒に乗り込む。カーテンを閉めた窓ガラスに顔を押しつけ、チャコールは目を閉じた。

「おれは一度も…」

聞こえるか聞こえないかの声で、チャコールが呟く。

「ハイドロを動かす動機になれなかった…」

クレセントが声を掛ける前に、馬車が一度大きく揺れ、動き出した。



「胸が潰れそう…。痛々しくて、見てられない。半分は私のせいよ。ハイドロに頼むなんて間違ってた。贈り物が届かないことに焦ってたし、ハイドロが珍しく自分から行くといってくれたから、安心していい気になってたわ」

寝室でふたりきりになるとアデリルは寝台の夜着の胸を押さえ、クレセントに言った。

チャコールは誰にも会いたくない、と言ったが、アデリルと顔を合わせる心配はしなくて良かった。帰りの馬車の中で酔いつぶれ、眠ってしまったからだ。

屋敷についた時はなんとか起こし、クレセントが家の中まで抱きかかえるようにして運んだが、客間に寝かせるとすぐにまた正体もなく眠り込んでしまった。

一部始終を見ていたアデリルは呆然とし、クレセントからチャコールをここまで連れてきた経緯を聞くと、暗い表情を浮かべた。

「それは違うだろ。結納品のことがなかったとしても、その気になればアトレイでだって、彼は選んでるはずだ」

「ハイドロが私に親切にしてくれる時はいつも、チャコールがハイドロにお願いしてくれた時なの。だから今回もそうだと思って、こんなことになるなんて、少しも想像しなかった…」

泣きそうに歪んだ表情に、クレセントは思わず婚約者を抱き寄せた。皺の寄った眉間に軽く、口づけを落とす。アデリルはしばらく彼の肩に顔を埋めていたが、やがて顔を上げると、いくらか落ち着いた表情を取り戻して言った。

「でも、チャコールを連れてきてくれて、ありがとう。通りがかって本当に良かった」

「まあな、運が悪かった」

アデリルから身体を離し、隣に座り直したクレセントがそう言って笑うと、彼女もつられて少しだけ笑顔を見せる。彼はその顔を覗き込むようにして続けた。

「それにしても、チャコールがこんなに荒れるほどのことなのか? エンシェン族が守護を選ぶのは、まっとうなことだろ。ハイドロが守護を持ったとしても、チャコールとの縁が切れるわけでもない」

「あのね、上手く言えないんだけど…」

アデリルは腕を組み、言葉を探す。

「ハイドロは誰も選ばないってずっと言い続けてたし、チャコールも自分が選ばれるとは思ってなかったはず。だけどハイドロは、誰も選ばないことでチャコールを選んでいるのと同じだと思ってたの」

「そう思ってる奴は多いけど、今度のことで違ったわけだな」

「だけどハイドロにとってチャコールは絶対に別格のはずよ。ハイドロがアトレイにいる時、宮廷じゃなくキリエール家で過ごしてるのは、チャコールがいるからなのよ。それ以外に理由がないもの。ただ、ずっと不健全な関係だとは思ってた。ハイドロとチャコールは、私とチャコールみたいな関係じゃない。それは私が女だからだと思ったこともあるけど、チャコールもハイドロ以外に、あんな風に付き合ってる友だちはいないし」

「不健全って?」

「時々すごく、ハイドロはチャコールに意地悪になるの。だけど、チャコールは大して怒りもせずに、それを許してる。いちばんわかりやすいのは、十代の頃だけど、ハイドロはチャコールが好きになった女の子を奪ったことがあるの。私が知ってるだけで四人いるから、きっともっとたくさんいると思う」

指を折って数えるアデリルに、クレセントは眉を顰めて見せる。

「そこまで珍しい話でもないだろ」

「チャコールが知り合う女の子に、育ちの悪い町娘なんていないわ…って、アトラントにはもちろん、育ちの悪い女性なんてひとりもいないけど。でも、みんな家柄のしっかりしたお嬢さんたちばかりよ。チャコールがなんとか親しくなろうと、門限までに馬車で送り届けてる間に、ハイドロはもう彼女のベッドで朝まで過ごしてたの」

「…それ、本当の話か?」

チャコールとハイドロを思い浮かべても、にわかには信じられず、クレセントは額を押さえた。アデリルは深く頷く。

「チャコールはともかく、ハイドロの方は大問題だろ」

「でもどの方も内々に片づいて、表立った騒ぎになったことはないの。相手がエンシェンで、キリエール家が後ろ盾だっていうのは確かにあると思うけど、それよりハイドロも相手を見てるのね。そういう女性だって」

「チャコールはなんて」

「しょうがないって。ハイドロだからって。ハイドロもハイドロで、俺になびくような女はチャコールには相応しくないって。よくもまあそんな図々しいこと言えるなって、最初は私も怒ってたんだけど、チャコールはそれを許してるし、ハイドロとも普通にしてる。私の出る幕なんてないまま、その繰り返しよ。女の子のことだけじゃなく、こういう話はいっぱいあるの。ね、不健全でしょ」

「よく絶縁せずにいられるな」

「だけど反対に、ハイドロほどチャコールのことを考えてる人はいない、って思う時もあるの。ハイドロの高地竜に乗ったことがあるのは、チャコールだけ。宮廷の集まりにも、私の誕生会にも出席しないハイドロが、進んで参加するのはキリエール家の集まりだけ。

いちばん驚いたのは五年くらい前、全体の半分くらいしか残ってないのを王立図書館で眺めるだけだった『世界海洋図』の初版本を、チャコールに持ってきたこと。どこで手に入れていくらしたのか、誰も聞き出せなかった」

クレセントも眉を顰めて首を傾げる。アデリルはまた小さく溜め息をついた。

「だから不健全な関係だって、ずっと思ってた。でも、チャコールがそれで良いなら、私が口を出すのは余計なことだと思ってたの。それなのに」

と、アデリルはまた俯く。

「ハイドロがこんな風に、チャコールを傷つけるなんて…。守護を選ぶなとは言わないけど、もっと他に、やり方があったでしょうに。私がハイドロに頼んだりしなければ…」

婚約者の悲しげな表情に、クレセントは腕を伸ばして頬に触れた。

「チャコールを思いやるのも良いが、俺のことも少しは思いやってくれ。頭ではわかってるけど、そうチャコール、チャコールと言われると、やっぱり妬ける」

「…それはもう乗り越えたんでしょ。ちょっとくらい、私を信じてくれないと」

アデリルは頬に触れた手を取って、指を絡めた。

「アデリルも、ハイドロに選ばれたいと思ったことがあるか?」

「もちろんよ。でも、それはハイドロだからじゃなく、ハイドロがエンシェン族だから。私を選んでくれって言ったけど、その場で断られたわ。クレセントにもあるでしょ」

「俺の立場じゃエンシェン族に話しかけられもしなかった」

苦い顔をしてみせると、アデリルが笑った。

「それは残念だったわね。だけど、こればっかりはアトレイに来ても、どうにもならないわ。エンシェンの守護は諦めて」

「そうだな、俺も引き際は心得ている。でも、諦められないものもある」

そう言うと彼は、繋いだ手を引いて、アデリルを自分の腕の中に引き寄せた。そして抱きしめると、その耳元でそっと囁く。

「今夜はもうこれ以上悩んでも、チャコールのことは解決しない。あとは俺のことだけ考えてくれ」

アデリルは胸の中で笑って、返事の代わりに抱きしめ返した。



翌朝早くクレセントは出掛けたが、それと入れ替わるようにして訪問者を知らせるベルが鳴った。誰かが尋ねて来る予定もなかった。だが、主人の代わりに取り次がれ、慌てて身支度をしたアデリルは、部屋に入って来た人物を見て驚いた。

「よくもまあ、顔を出せたわね」

「共犯だろ? そう睨むな」

薄笑いを浮かべて、ハイドロはそう言った。アデリルは、

「ひとのせいにしないで」

と、言い返したが、その声に力はなかった。

「チャコールは?」

アデリルを気にするようすもなく、ハイドロは部屋の中を見回した。

「まだ起きてない。なに、チャコールの様子を見に来たの?」

「帰って来なかったからな。ここにいると聞いて驚いた。クレセントもいたんだろ? なにがあった」

「教えない」

わざと唇を尖らせて、アデリルは答えた。いつもの皮肉気な笑いを浮かべるかと思っていたが、ハイドロはかすかに首を振っただけだった。その表情は、少し疲れているようにも見える。

「会いにきたのなら、出直してきたら。チャコールが会うかどうかは、わからないけど」

「待たせてもらっていいか」

アデリルは渋面を作ったが、

「どうぞ」と、頷いた。

部屋の中のソファに、ハイドロが座る。

「お茶の支度くらいさせる?」

「必要ない」

身支度もまともに済んでいないアデリルは、自分の部屋に戻ろうとしたが、部屋を出る前に足を止めた。ハイドロとふたりきりで話をする機会は、これを逃すとないかも知れない、と思い直したのだ。

「あの話、本当に本当なの? フロラを選んだって」

ハイドロの斜向かいに腰掛けながらそう言うと、ハイドロが目を上げ、頷いた。

「報告しただろ?」

「家ではどうなの?」

「目も合わせないし口もきかない。同じ部屋にいても、俺がいないみたいに無視してる」

「まだチャコールの部屋にいるの? 図々しい」

「だから、家族があいつの目の前で俺に祝いの言葉をかけてくれた時、部屋を出てってそのままいなくなった。それが昨日の晩だ」

「…撤回したら?」

彼の顔を窺うように、アデリルはそっと言った。

「今なら間に合うでしょ、心配するくらいなら、チャコールがどうしてああなったのか、理由はわかってるでしょう」

「それはできない」

素っ気なく、だが即答したハイドロを、アデリルはだめだと判っていても、咎めるような視線を向けずにはいれられなかった。

「なぜこのタイミングで守護を選んだの? フロラを選ぶにしたって、今じゃなくてもいいはずでしょう」

「選びたかったんだ。こればかりはしょうがない」

「あれだけチャコールが苦しんでるのに?」

「ふて腐れてるだけだ」

「私には、そうは思えないけど。だいたいチャコールがどんな反応すると思ってたのよ。おめでとうとでも言ってもらえると思ってたの?」

強い調子でそう言うと、ハイドロはばつが悪そうに目をそらした。アデリルには珍しいハイドロの姿だ。

「俺に向かって祝砲を撃つと言ってた」

「その方がましだったかもね」

「エンシェンが守護を選ぶのは自然なことだろ。なんであんなにふて腐れるんだ」

「嘘をついたからでしょ。ハイドロは選ばないと言い続けてたのに、今になってそれをひっくり返すようなことをしたからよ」

「チャコールだって、俺には選ばれたくないとずっと言ってた」

「それが本心じゃないって、気づいてなかったとは言わせないわ」

「じゃあ、お互いに嘘をついてたってことだろ。お互い様だ。俺だけが悪いわけじゃない」

「それ、本人に言いなさいよ。もう絶対に許してもらえないから」

「どいつもこいつも、チャコールの味方だ。まさかクレセントまでチャコールにつくとは」

ハイドロは天井を見上げ、投げやりに言った。

「そりゃあ私はチャコールの味方になるけど、クレセントは単に通りがかりで、困ってる人を放っとけなかっただけよ。それが、たまたまチャコールだったの」

その時、部屋係が近づき、アデリルにそっと耳打ちした。

「チャコール、起きたって。そこで待ってて」

アデリルは立ち上がり、ハイドロを残して部屋を出た。五分も経たないうちに、彼女は戻ってくる。わざと表情を消していて、チャコールがなにを言ったのか、ハイドロにはわからなかった。

「会うって。良かったわね。でも、期待しないで」

「家に戻れと言うだけだ」

ハイドロは立ち上がり、アデリルとすれ違って扉に向かった。その袖を掴んで、アデリルが引き留める。そして真剣なまなざしで、彼を見上げて言った。

「あのね、ハイドロ。いい加減に、ごまかすのは止めて。チャコールはふて腐れてるんじゃない、傷ついてるのよ。あなたがチャコールじゃない人を守護に選んだから、そのことで苦しんでるのよ」

その言葉に苛立ったように、ハイドロは顔を顰める。

「だとしても、アデリルには関係ない」

「私を巻き込んでおいて、よくそんなこと言えるわね。私も浮かれてたことは認めるけど、せっかく結婚前の楽しい時期なのに、余計な心配させないで」

アデリルは手を離した。ハイドロは部屋から外へ出る。その背中に、アデリルは捨てぜりふのように言った。

「ただ、仲直りは難しいでしょうけど」



ハイドロが案内されたのは、天窓のある朝食室だった。広さはないが窓も大きく、朝の光が一杯に差し込んでいる。木製のテーブルと、それを取り囲む椅子のひとつにチャコールは座っていた。部屋にいるのは彼ひとりだけだ。

服は昨晩眠った時のままなのだろう、皺が付いて乱れ、髪も手櫛で撫でつけた程度で、寝癖が跳ねていた。二日酔い特有の土気色の肌と青ざめた頬には、無精髭が見える。

ハイドロは一瞬言葉を失った。

こういう姿のチャコールを目にしたことがないわけではないが、他人の家でこの姿で朝を迎えるなど、普段のチャコールなら絶対に自分に許さなかっただろう。

彼は湯気の立つカップと、お茶のポットを前にして、入ってきたハイドロにちらりと一瞥を向けた。それきり、言葉もない。ハイドロは小さく溜め息をついて、彼に近づく。

「飲み過ぎたって聞いた。気分は?」

チャコールは黙って首を振っただけで、音を立てずにお茶をすすった。

「クレセントに世話になったな。飲んだら帰ろう」

脇に立ってそう言うと、チャコールはまた黙って首を振る。ハイドロはしばらく黙って、傍らに立っていたが、チャコールは口を開く気配も、視線を向けることさえしない。

「チャコール」

名前を呼んでも、彼は前を向いたままだ。ハイドロは苛立つのを感じたが、努めて抑えた声で言った。

「チャコール、俺に会うとアデリルに言ったんだろ? 子どもじみた真似はやめろ」

「話すことなんかない。会いに来たって言われたから、好きにすれば、って言っただけだ」

チャコールはハイドロを見なかったが、それでも言葉が返ってきたことに、ハイドロはほっとする。ただ、連れ帰るのにはまだ時間がかかりそうだ。ハイドロはひとつ椅子を空けて隣に座った。

「機嫌を直せよ。だいたい、そんなに怒るほどのことか? 結果的に嘘を吐いたのは悪かったが、俺だって気が変わることもある」

そう言うと、チャコールが刺すような目でハイドロを睨んだ。

「少しは悪いと思ってるんだ」

「嘘を吐いたことと、おまえに一番に言わなかったことは悪いと思ってる。人づてに伝わるんじゃなく、最初から直接言うべきだった」

「それだけ? フロラを選んだことは?」

「それは…」

「悪いと思うはずないよね。守護を選ぶのは、エンシェンの掟なんだから」

そう言うとチャコールは、ハイドロの方へ向き直った。そして自分の左の二の腕に触れる。

「…里に戻ったら、刺青を入れる?」

「そうなるな」

「あれほど嫌がってたのに」

チャコールはそう言うと、再びテーブルの方へ向き、ぼんやりと頬杖をついた。ハイドロはしばらく待ったが、口を開く気配はない。頭を掻き、

「俺にどうしろって言うんだ」

と、溜め息交じりに言うと、チャコールが振り向く。不機嫌そうな表情で、つかのまじっとハイドロを見つめ、それから小さな声で言った。

「…撤回してほしい」

ハイドロが目を瞠る。チャコールは目を伏せた。

「フロラを選んだこと、撤回してほしい。気の迷いだったって。ほんとは誰も、選ぶつもりはなかったって」

「フロラはどうする? エンシェンの守護を持って、あれだけ有頂天なのに」

そう言うとチャコールは、硬いものでも飲み込んだかのように、苦しげな表情を浮かべた。そのまましばらく黙っていたが、さらに深く俯き、ハイドロから顔を背けると、呟いた。

「…おまえが撤回するなら、恨まれても、憎まれてもいい」

彼が顔を背けているので、ハイドロは遠慮なく薄笑いを浮かべた。

「撤回すれば」と、言いながら、自分の左の二の腕を軽く撫でる。

「ここに臆病者の印が。里にはもう報告してる」

チャコールは息を飲んで顔を上げた。青ざめた表情で、ハイドロを見つめる。

「本気なの? 本気で、フロラを守護に選んだの?」

「そう言っただろ」

チャコールは黙ってテーブルに視線を向けた。ハイドロはその様子をたっぷり眺めてから、わずかに身を乗り出す。

「でも、撤回してやっても良い」

薄笑いを浮かべて、懇願するような猫撫で声で、ハイドロは続けた。

「ウェントワイトに赴任するのを取り止めろ。簡単だろ」

ハイドロが言うと、チャコールは顔を上げて、驚いたように目を瞠った。

「なに、それ」と、上擦った声で、彼がたずねる。

「元はと言えば、チャコールが勝手なことを言い出すからだ」

「おれがウェントワイトに行くって言ったから、ハイドロの言うことを聞かなかったから、腹いせに守護を選んだってことか?」

「そうじゃない」

「なにが違うんだ! 守護を選ぶことは、エンシェンの誇りじゃないのかよ。ハイドロは嫌がってたけど、今になって掟に従うために選んだんだと思ってた。だけど、俺に言うことを聞かせるために、俺が嫌な思いをするのがわかってて、フロラを守護に選んだってことか? そんないい加減な気持ちで、守護を選んだのか?」

身を乗り出して詰め寄るような剣幕で言ったチャコールに、ハイドロは宥めるように手を広げて首を振った。

「そうじゃない、ただ、おまえがそんなに取り乱すと思わなかったから…」

「ハイドロ、最低だよ」

「どう思っても良い。ウェントワイト赴任を白紙に戻せば、俺も撤回する。元通りだろ」

「元通りって…、本気で言ってるのか? 守護を選んで、まっとうできなかったっていうエンシェンの刺青は? もう消せないのに」

「そうなのどうでも良い。今さらひとつふたつくらい増えたところで、変わらない。一族以外にはもともとなんの意味もない模様だ」

チャコールは笑おうとして、顔を歪めた。

「どうしていつもおればかり、ハイドロの言うことを聞かなくちゃいけないんだ。おれはハイドロのなんでもないのに。どうしていつも、おればかり我慢させられるんだ」

「我慢しろなんて言ってない。納得した上で、だ」

「ハイドロが撤回しようがしまいが、もうどうでもいい。ウェントワイト行きを止めたりしない」

「チャコール」

苛立ちも露わに名前を呼ぶと、チャコールも怯まずに顔を上げて首を振った。

「話は終わりだ」

「まだ終わってない。ウェントワイトに行ってどうする。出世が遅れるだけだ、将来は宮廷で働いて、アデリルに仕えるんだろ」

「もうどうでもいい。出世しようがしまいが、外務官だろうが、王女の親友だろうが、キリエール家のチャコールだろうが、全部どうでもいい。全部持ってたって、おまえはくだらない理由で、おれ以外の奴を選ぶんだから」

噛みつきそうな剣幕に、ハイドロも頭に血が上るのがわかった。チャコールを黙らせたい、それだけの気持ちで、彼は強い口調で言った。

「そんなに俺に選ばれたかったのかよ」

「選ばれたかったよ!」

予想外の返答に、ハイドロは絶句する。悔しげに顔を歪めて、チャコールは続けた。

「選ばれたかった。本当はずっと選ばれたかった。だけど、お前はエンシェンの掟を嫌って、誰も選ばないって言い続けてた。覚えてるか? 最初に会った時からだ。だから諦めようと思ってた。それに、お前に言い寄る大勢の中のひとりになりたくなかった」

「チャコール…」

言葉が続かず、ハイドロは掠れた声でそれだけ言った。チャコールは俯き、頭を振る。

「おまえがエンシェンじゃなければ良かったのにって、何度思ったかわからない。でも、エンシェンじゃなかったら出会ってない」

彼はそう言うと、顔を上げた。まだ言葉が見つからないハイドロをじっと見て、きっぱりとした口調で言った。

「家には戻らない。ここの世話にもならない。宿を取るよ。父さんたちには、後でおれから伝える。話は終わりだ」

「チャコール」

強い調子で名前を呼ぶと、彼は睨みつけるようにハイドロを見上げた。

「話は終わりだって言っただろ。出て行ってくれ。顔も見たくない」

それは静かな怒りに満ちた、力強い口調だった。顔を背けたチャコールに、ハイドロはもう、かける言葉が見つからなかった。

それで静かに席を立つと、黙ってそっと部屋を出る。

ひとりきりになった部屋の中で、チャコールはテーブルの上に顔を伏せた。

それを知らないハイドロは、その晩ひとりでチャコールの寝台で眠った。そうすると久しぶりにあの夢を見た。

暗闇の中、背中にバルメリアの女神と母親の呼び声を聞きながら、それを振り切るように必死で走る。いつもなら、夢の最後には頼りない小さな明かりが灯り、チャコールの声が聞こえてくる。ハイドロはそれに向かって走れば良かった。

それなのにその夜はいつまで経ってもチャコールの声が聞こえてこない。ハイドロは倒れるまで闇の中を走り続けた。

目が覚めた時はすっかり夜が明けていて、冷や汗で髪が顔に張りつき、呼吸は荒く、身体は冷えていた。ひどい気分だった。

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