<11>

馬車がゆっくりと速度を落とし、停車した。

ハイドロは目を開ける。微睡んでいたようだ。白昼夢を見たような気がしたが、夢の内容は思い出せない。チャコールのことだったかも知れない、と思ったのと同時に、彼に対する怒りがよみがえってきた。湧いた苛立ちは、数日経っても収まる気配もなかった。だが今は、それを態度に出したりしない。隣を見ると、フロラは眠っていた。

アトレイを出てから三日目の昼過ぎに、彼らは予定どおり目的地へたどりついた。

外へ出ると、雨が降っていた。空気は刺すように冷たい。たどりついた国境の町リスケスは、小高い山の上にある。小さな町を囲む低い外壁の向こうに、盛りの時期より色褪めた針葉樹の森が果てしなく続き、雨に煙っているのが見えた。

アトレイを出てからずっと、天気はぐずついていた。つかのま雨が降り止んでも、すっきりとした晴れ間が広がることはなかった。そのせいで登山道に入ってからは、馬がぬかるみに足を取られたり、大きな水溜まりができて馬車が通れず迂回を余儀なくされ、物騒な噂のある道を徒歩で進まなくてはならないこともあった。だがそのどれも、ハイドロにとってはとりたてて大きな障害ではなかった。

順調にいけば、今日の午前中にはリスケスにたどりつくはずだった。ハイラントからの使者と会うのは、時間に余裕を持たせて昼過ぎに指定してある。だが到着は遅れ、今はその時間よりさらに一時間ほど過ぎている。それでもじゅうぶん予定の範疇だ、とハイドロは考える。

彼は馬車の中のフロラに声を掛けて起こすと、傘を広げて外で待った。上着を着こんだフロラは慌てた様子で下りてくると、首を縮めて外の寒さに身を震わせた。

ハイラントからの使いと落ち合う場所まで歩きながら、ハイドロを建物の向こうに見える針葉樹を指さす。

「あのあたりが、ハイラントとの国境だ。雨で見晴らしが悪いけど」

フロラは目を凝らしたが、彼の言うとおり、森林の先は霧の彼方に霞んでいた。

「天気がいい日は、ハイラントの山並みが見える」

ハイラントはアトラントより国土の標高が高く、この町からはその景色をほんの少しだが、臨むことができた。

「雨が降って残念。明日には上がるといいけど」

ハイドロの差し掛けてくれた傘の中を歩きながら、フロラは通りを渡った。

リスケスは町の規模こそ小さいが、古い建物が多く前時代の町並みをそのまま残している。

「ここだ」

白い装飾彫りの柱がある宿の前に立ち止まったハイドロは、木戸の横にぶらさがる看板を見ていった。彼に促されて、フロラは店の中に入る。途端に温められた空気がまとわりついた。建物は奥に長く、店構えよりずっと広々としている。

一階では食事を出すようで、通り過ぎた部屋からは、何組かが座るテーブルと、美味しそうな匂いがした。そう言えば早朝に食べたきり、ここへつくまで飲まず食わずだ。

空腹を思いだしながら、フロラはハイドロの後を追った。彼はすでに、店の者とおぼしき中年の女性と、なにか話している。

「お待ちしておりました。こちらです」

彼女はふたりに向かってそう言い、二階の奥の部屋に案内した。突き当たりの部屋は表通りから遠く、静かだった。

ハイドロがドアを叩くと、内側から細く扉が開いた。

「アトラントの王女の使いできました。ハイドロと言います」

扉を開けたのは、従僕姿の華奢な男だった。ハイドロに続いて部屋に入りながら、フロラは彼を眺めて、顔立ちの美しさに一瞬見とれた。睫毛の揃った切れ長の瞳と、肌のきめ細やかさは、女性のようだ。

「ようこそ。我々の到着が遅れたばかりに、わざわざ出向いていただき、感謝します。高価な贈り物ですが、あまり目立って大事にしたくなかったので、シェイレイ様からの使いは我々だけです。どうぞ、ご容赦ください」

中にいた痩せて背の高い初老の男が、ハイドロに向かって頭を下げた。

「遅くなり申し訳ない。俺はハイドロ、容赦もなにも、俺はエンシェン族ででアトラントの民ですらないので、礼は不要です。それはこっちの彼女に。正式な王女の使いです」

言うのと同時に胸の前で左手を拳に握り、右の手のひらで包んで見せたハイドロは、手を解くとフロラを前に押しやった。

「シェイレイ様の使いで参りました、シュツワルト・シェストラッツォと申します」

彼はそう言って、右手を差し出した。シュツワルトは唇の上に白髪混じり髭を生やし、痩せた頬は厳めしさを感じさせるが、微笑むととても柔らかい表情に変わる。

「フロラ・フロレンティーナです。アデリル王女のお使いできました」

フロラはそう言ってから、彼と握手を交わした。

そして彼は続き部屋になった隣の部屋に、彼女とハイドロを招き入れる。広くはないが趣味の良い調度でまとまった部屋の中央に、丸テーブルとそれを囲む四脚の椅子が置いてある。彼が座るように言ったので、入り口に近い方に、ふたりは並んで腰を下ろした。

「それではさっそくですが、品物をお渡しします。どうか、ご一緒にご確認ください」

シュツワルトがそう言って従僕に目配せすると、従僕が光沢のある白い化粧箱を運んできて、テーブルの上に乗せた。蓋を取ると、底に綿を敷いた別珍の敷布の上に、一組の耳飾りが乗っている。凝った細工の白金の縁取りが、複雑に刻まれて輝きを放つ赤紫色の宝石を囲んでいた。

「きれい…」

赤紫の髪を結い上げたアデリルの耳を、この耳飾りが彩ることを想像して、フロラは溜め息交じりに呟いた。従僕を含めた三人の視線が、フロラに集まる。

「素直なお言葉、ありがとう存じます。ハイラントの技術の粋を集めました。結婚式ではハイラント王室より、これよりももっと上質なものを贈る予定です」

シュツワルトは、喜びの表情を浮かべてフロラに会釈した。

場違いなことを言ったかと、フロラは頬を赤らめる。従僕が手袋を嵌めた手で耳飾りのひとつを手に取り、フロラに見えるよう掲げた。光の加減で、赤紫の輝きが、虹色に見える角度がある。

「宝石は紫水晶の変色種で、お分かりでしょうが、アトラント王女の髪の色に映えるものを選びました。縁取りの細工は、もともとハイラントの石工たちが生み出した技術が今に伝わるものです。上の絡み合う蔓草が新郎新婦の和合を、右の鳥が繁栄を、左の木の実が豊穣を、下に連なる花が平和を表しています」

「アトラントへの祈りが込められているんですね」

「その通りです」

声までも女性的な従僕は、そう言ってフロラに微笑んだ。ハイドロはフロラの隣で俯き、肩を震わせている。なんだか妙な態度だ。それに気づいたフロラは、シュツワルトに気づかれぬように、一瞬だけ怪訝な視線をハイドロに向ける。

「見せてくださって、ありがとうございます。これは必ず、アデリル王女に届けます」

シュツワルトにそう言って、フロラは頭を下げた。彼が再び従僕に目配せすると、耳飾りが化粧箱の中に戻される。

「それで」と、顔を上げたハイドロが言った。

「シェイレイ様はいつ名乗り出るんだ」

彼はシュツワルトを見て言った。彼が一瞬目を瞠り、それから困ったような視線を従僕へ向ける。

「…だ、そうですよ」

「エンシェン族が王室の使い走りさせられるなんて、聞いたことないわ」

傍らの従僕は、呆れたようにハイドロに言って、肩で息を吐いた。

「シェイレイ様は悪戯心が過ぎる。相手が俺で良かった」

そう言うと、ハイドロは立ち上がって従僕の傍らに立った。そしてフロラを振り向く。

「フロラ、挨拶を。ハイラントの首都ハイレオールに滞在中の、アトラント外務次官シェイレイ様だ。チャコールのずっと上の上司にあたる」

シェイレイの名前と評判は彼女の耳にも届いているが、フロラはアデリル以上に、彼女が自分の前に姿を表すところなど、思い描けなかった。すぐには理解が追いつかず、フロラは座ったまま、従僕を凝視する。

「フロラはまだ学生だぞ。高官の気まぐれをこんなかたちで知るなんて」

苦笑しながら、ハイドロが従僕に言った。シュツワルトがその場で立ち上がり、フロラに向かって丁重に頭を下げる。

「フロラ様、申し訳ない。大切な届け物なので、シェイレイ様が直接渡したいとおっしゃったのですが、シェイレイ様自身が出向くと話が大きくなるので、このように私が従僕を連れてきたということにしたのです」

「じゃあ、本当に、あなたはシェイレイ様なんですか…?」

驚きに目を瞠り、シュツワルトから従僕へ視線を動かしながら、フロラは言った。

「そうです。アトレイ王室の使いと聞いていたから、私を知っている者が来るだろうと思ったけど、まさかハイドロとは。アトラントに関係ないじゃない」

「王女の頼みを個人的に引き受けただけだ」

「またチャコールの差し金? あの子、アデリルの婚約者に嫌われないかしら」

「チャコールの方が最初から嫌ってるから、問題ない」

シェイレイはくすりと笑うと、

「さあ、それじゃあ堅苦しい話は終りね。ね、食事にしましょう。階下に用意させてるから。待ってたらお腹空いちゃった」

と、一同を見回して、軽く手を広げた。

「私は着替えてから行くから、先に案内して」

彼女が言うと、シュワルツトは心得たとばかりに頷いた。

「シェイレイ様がいると、俺の出る幕がない」

一階から二階へ移動する間、独り言のようにハイドロがぼやいた。

「どうぞ、我々にお任せください」

一階の奥の部屋へ通され、彼らは円卓を囲んで座った。間もなく、従僕姿を止めたシェイレイが入って来たが、フロラが思い描いていたのとは違い、ドレスシャツにトラウザーズの出で立ちで現れる。その装いはフロラが密かに感心したほど、よく似合っていた。

食前酒の後に料理が運ばれ、食べ進めながら、シェイレイがフロラに視線を向ける。

「このお嬢さんは、まだ学生なんでしょう。いったいどういうわけで、こんな辺境の地にやってきたわけ?」

「卒業前の実習の担当がチャコールだったんだ。いろいろあって運良くアデリルと面識ができて、アデリルに憧れていたから、俺が声をかけて連れてきた」

「あんまりやすやすハイドロの口車に乗っちゃダメよ。ハイドロはいいところだけの人じゃないんだから。チャコールに止められなかったの?」

シェイレイが冗談めかしてフロラに言った。

「チャコールは、仕方ないって言ってました。わたしもアデリル様のお役に立ちたかったし…」

「あーあ、今時の若い娘はみんなアデリル、アデリルね。見栄えの良い婿を見つけた美しい次期女王って、ハイラントでも若い娘たちの憧れだもの。アトラントばっかり注目されてる。ハイラントにも陛下の隠し子、くらいの劇的な話はないの?」

「シェイレイ様、せめて陛下の生き別れのきょうだいの子ども、くらいにしていただかないと、醜聞は困ります」

わざとらしく咳払いして、シュツワルトが言った。

「シェイレイ様はアトラントの民だけど、半分はハイラントの血が流れてる」

ハイドロがフロラに言った。彼女と目が合うと、シェイレイが微笑む。

「そうよ、どっちも私の故郷」

「フロラも少し、ハイラントには縁があるんだ」

「縁、とは?」

シュツワルトが興味深げな視線を向けた。フロラは話したものかどうか戸惑って、ハイドロに視線を送った。シュツワルトは目敏くそれに気づき、

「いえ、差し支えなければで、よろしいんですぞ」

「大丈夫だ。変な目で見る方々じゃない」

ハイドロが頷いたので、フロラは話した。

「実は、ハイラントの養児院で育って、六歳の時にアトラントの里親に引き取られたんです。バルメリアの内戦で、両親を亡くして…」

「まあ」

シェイレイが真剣な顔で、胸を押さえた。

「気の毒に、とは言えないわね。あなたが今日まで生きていて、幸運だわ」

シュツワルトも胸を押さえ、しばらく目を閉じる。

「ハイラントでも大勢、貴女のような子どもたちが育っていますよ。彼らは今ではハイラントの宝です」

「でも、私は一歳にもならない時のことで、両親のこともバルメリアのことも覚えてないんです。ハイラントの養児院にいた時、アデリル様が慰問でいらして、その時に親切にしていただいたのが忘れられなくて」

「それが理由で官吏を目指してここまできたの? だとしたら、貴女ものすごく優秀ね。指導役はチャコールなんでしょう?」

「何人かいるうちの、ひとりですが…」

「謙遜することないわ。宮廷では大袈裟に言うくらいでちょうどいいのよ」

「ハイドロにも、同じようなことを言われました」

「あら、じゃあ、私たちは口やかましい年寄りね。お互いに慎みましょう、ハイドロ」

「ここでシェイレイ様が黙ると、フロラが困る。シェイレイ様は意地が悪いと噂になるぞ、ハイラントの影がますます薄くなっても、まあ俺は困らないが」

「年寄りだとか、意地悪だとか、そんな」

フロラが悲鳴のように遮ると、他の三人が顔を見合わせて笑った。

「ごめんなさいね、久しぶりにハイドロと話ができて、楽しくなっちゃって。あなたをからかうつもりじゃなかったの」

「シェイレイ様は、いつも誰かしらをからかっておいでですが」

「ちょっとシュツワルト、今、アトラントの民の対して私の印象を良くしているところなのよ。これはハイラントのためでもあるの。絶好の機会に口出ししないで」

生真面目な口調でそう言ったシェイレイに、フロラも笑ってしまった。

「シェイレイ様はとても素敵です。印象が悪いなんてこと、少しもありません」

「ちょっと素直すぎるわね。フロラのいいところだけど。チャコール抜きでハイドロが誰かを連れてくるなんて意外だったけど、会えてよかったわ」

「あいつにも仕事があるしな。それにチャコールだって、いつまでも婚約者のいるアデリルの世話を焼いてばかりもいられないさ」

肩を竦めて、ハイドロが言った。

「アデリルの手が離れて、良かったじゃない」

「最近じゃやることがなくなって、途方に暮れてる。血迷ってアトレイを離れるって言い出した」

その時初めてハイドロが、少しだけ不機嫌そうに顔を顰めた。

「それ、本当? ずいぶん思い切った決断ね。休暇でも取るの?」

「いや」と、ハイドロは首を振る。

「ウェントワイトに赴任するんだと」

「チャコールが? 面白そう」

目を輝かせたシェイレイに、ハイドロは苦い顔を向ける。

「面白いかつまらないかで判断されちゃ困る」

「ウェントワイトは活気があって、良いところよ。外国人も多いし、食事も美味しい。文化の共生地として、もう止まらずどんどん変化していくと思うわ。ただ、ずっと居座ってる役人の頭が固いから、チャコールみたいな若い人が行ってかき回してくれたら、もっと良くなると思う」

「あの不器用なお坊ちゃんに、そんなことができるか」

「ハイドロに比べたら、ほとんどの人は不器用でしょうに。チャコールは見所がある。あなたから良い影響を受けてるもの。一度くらいアトレイを出た方がいい。あそこは温室だから。それに、心配ならハイドロが助けてあげればいい」

「俺は高地竜の世話がある。アトレイを離れられない」

「嘘つかないの。付きっきりの世話なんて必要ないでしょう。自由になる時間の方がずっと多いじゃない。国を出るわけじゃないし、アトレイからウェントワイトなんて、ハイドロにしてみたら目と鼻の先でしょう」

「どうだかな、チャコールが嫌がるかもしれないし」

ハイドロがどうでも良さそうな表情で、左右に首を傾げた。

「フロラ様は、ウェントワイトへいらしたことはありますか?」

シュツワルトがフロラへ話を差し向けたので、話題は違うことに移った。

食事が済むとシェイレイの提案で、陽が暮れるまでの短い時間、フロラは彼女と一緒にリスケスの町を散策した。まだ雨が降っていたが、雨足は弱まり、傘は必要ないくらいだった。シェイレイはまるで年の離れた姉のように親しみやすい態度で、フロラは余計な気遣いをする暇もなかった。空気は冷たかったが、シェイレイと知らない町を見物するのはとても楽しく、フロラは自分の足が地についていないかのように、浮ついた気分だった。

宿に戻り、簡単な夕食の後、フロラ以外の三人はまだ飲んでいたが、彼女は早めに休むと言って、用意された温かい部屋に引き下がった。アデリルへの贈り物をしかと受け取ったこと、そしてシェイレイと過ごしたことに心から満足して、ぐっすりと眠った。

翌朝の空気は昨日と同じように冷え冷えとしていたが、雨は止んでいた。フロラはハイドロと共に、宿の前の通りへ出て、先に出発するシェイレイとシュツワルトの馬車を見送った。紋章こそ掲げていないが、この小さな町では立派すぎる作りの箱車が遠ざかるのを眺める。フロラは名残惜しくいつまでもそれを眺めていたが、やがてハイドロが言った。

「さあ、俺たちもアトレイに」

中庭に面した裏口にいた彼らが、建物へ戻るために短い距離を歩いていると、さっと雲が晴れて、その隙間から太陽が顔を覗かせた。暗く淀んだ空模様に、そこだけ光の線が地面に向かって降り注ぐ。

「見て、ハイドロ、虹が出てる」

宿の裏から見える東の空、町を囲む塀の向こうに見える針葉樹の森の上に、半円を描いた大きな虹が見えた。彼方の空に暗い雨雲が見える。

彼らは塀に近寄り、しばらく虹を眺めた。

「きれい、なんだかいいことばかり」

「シェイレイ様は気に入ったか?」

「そんな言い方、畏れ多いわ。お綺麗で、堂々としてて自信に満ちてて…、それなのにわたしみたいな、学生にも気をつかってくださる。アデリル様と同じくらい素敵な人。アデリル様とは、全然違う性格なのに」

「変わり者だと言って嫌う奴も多い」

「世の中には、絶望的に見る目がない人たちがいるのね」

「同意しかない。気が合うな」

ハイドロが言って、ふたりは顔を見合わせて笑った。

「あ、見て虹が」

フロラが指さす先で、雨雲の動きか陽射しの加減か、先ほどの虹が足元からゆっくりと消え始める。

ハイドロは目を細めてしばらくそれを眺めてから、

「フロラ」と、呼んだ。

「バルメリアの内戦を、覚えていないと言ったよな」

「うん、一歳にもならない時だから」

「俺は覚えてる」

とっさに意味がわからず、彼を見上げたまま、フロラは言葉を返さなかった。ハイドロが続ける。

「銃の音も、砲弾が破裂する音も、消す間もなく、広がった炎も」

「ハイドロ…?」

「俺はバルメリアで生まれたんだ。フロラと同じように内戦が始まるまで、そこで暮らしてた」

フロラはゆっくりと、目を見開く。

「ほんとうに…?」

「アトラントで、バルメリアで生まれた奴に会ったのは、初めてだ」

ハイドロはそう言って、わずかに身をかがめ、フロラの方へ顔を寄せる。そして、

「なあ、フロラ」と、彼女の目を見て言った。

「フロラが憧れる奴らのように、持っていることに慣れてみないか。俺を、おまえの守護に」

「え?」

今度こそ理解が追いつかなかった。フロラはハイドロが笑い出すだろうと思った。これまでにも何度も見た悪戯っぽい笑顔と、冗談めかした口ぶりで、すぐに今の言葉を否定するだろうと思った。

だが、ハイドロはさらに真剣なまなざしを彼女に向け、左手を拳に握ると、右の手のひらでそれを包んだ。

「俺はおまえを、守護に選ぶ。エンシェン族として」

「本気で言ってるの?」

「本気だ」

ハイドロは頷くと、顎で建物のほうを示した。

「さあ、アデリルのところへ戻ろう。まだ仕事は終わってないからな。アトレイにつくまでに、心の準備を」

フロラは頷くだけで精一杯だった。

ハイドロが踵を返し、その場を離れる。その背中の後を追いながら、フロラは今さらのように頭に血がのぼるのがわかった。今になってやっと、鼓動が早くなる。

わたしが、エンシェン族の守護を持つ。

彼らを求める王侯貴族がどれだけ金を積んでも、決して手に入れることはできない、神秘の一族。それが、自分のものになる。

『自分の望みを叶えたかったら、機会を逃すな』

ハイドロはいつもそう言って、背中を押してくれた。勇気を出して一歩踏み出した結果、なにが起こったか、フロラは思い返す。

アデリルとの面会が叶い、彼女から私的な用事を言いつかり、そして、雲の上の人であったシェイレイ・クロシェルトと同席し、数時間を共に過ごした。

今まで分不相応で、遠くから見つめるだけだと思いこんでいたものが、次々と目の前に現れた。手を伸ばしていいのだ。そうすれば、手に入るのだから。しかもエンシェンの守護は、手を伸ばす必要さえない。ただ、この幸運を受け入れるだけでいい。

いつのまにか東の空にかかる虹は消えていたが、背を向けて歩き出したフロラはもう、それを見ていなかった。

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