<10>
あの晩は、普段通りの夜だった。
ハイドロとチャコールはお互いの仕事を終えて、夜遊びすることもなく、キリエール家で顔を合わせた。他に招かれている客もなく、夕食はチャコールの両親にチャコール、そしてハイドロ、といういつもの顔ぶれだった。健全すぎるほど、なんの変哲もない晩だ。
食事の時に、王女の結納の話になった。アデリル王女側の結納品は、すべて王室に縁のある旧家からの贈り物で揃えるのがアトラントの習わしだ。キリエール家は当然、送り主に名を連ねている。すでに他の家々と相談し、品物の注文も済んでいるが、王女の結納はキリエール家の大きな関心事のひとつだった。
クロシェルト家からの贈り物である耳飾りは、シェイレイ・クロシェルトの滞在するハイラントで作られ、クロシェルト家からの親書と、ハイラントの王室からの推薦状とを添えて、アトレイに届けられることになっていた。
だがハイラントでは各地で例年にはない長雨が続き、アトレイまで続く幹線道路が冠水し、陸路に不便が出ていた。船便もあるが、冬の海も時化が続き貴重品の輸送には心もとなかった。それに、王女への贈り物は到着の速さだけを重視して、気易く誰かに配送を託せるような品ではない。
ただ、それも大きな気懸かりだったわけではない。到着が遅れているとは言え、結納の儀は二ヶ月先だ。時間をかければ無事に届けられるだろう。アデリルは気を揉むかもしれないが、大がかりな式典の準備が、ひとつやふたつ予定どおりに行かないこともある。
夕食の話題はそれで終わった。部屋に引き上げるとチャコールは、明日の準備だと言って、机に書類を広げていた。ハイドロはしばらくそれを眺めていたが、やがて飽きて風呂に入った。出てくるとすでに机の上は片づいていて、チャコールは入れ替わりで浴室に入った。
彼が出てくるタイミングに合わせて、ハイドロは酒を作る。自分のは濃く、チャコールのは薄く。浴室から出たチャコールがグラスを持って、ハイドロの長椅子の正面に座った。酒を舐めながら、しばらくチャコールの仕事のことや、アデリルのこと、そしてハイラントのことを、とりとめもなく話した。他愛のない世間話だが、それさえも、いつも通りだった。
ハイドロのグラスが空になり、チャコールのグラスが半分ほど減った頃、ふと思いだしたように、チャコールが言ったのだ。
「そういえば、今の仕事で」
二杯目の酒を作って長椅子に座り直したハイドロは、チャコールを振り向いた。くつろいだ夜着のチャコールも、前の晩と変わりなかった。
「ウェントワイトに行く話が出てる」
「へえ、いつから」
「四月から」
「惜しいな。市場が活気づくのは、アオサバの水揚げが始まる六月過ぎだろ。まあ、仕事だから仕方ないか」
ほろ酔い気分でそう言うと、チャコールは浮かない顔でハイドロの顔を見る。
「出張じゃないよ、赴任だ。向こうにいる期間が長くなる」
「どのくらい?」
「最低でも二年間」
「二年?」
聞き返した途端に、ハイドロの表情は険しくなる。彼は不機嫌そうな口調で続けた。
「そんなにウェントワイトにいて、どうするんだ」
「どうするって、仕事だよ。あそこは貿易港でしょう。海外からの労働者も増えてるし、外務官の一番下の仕事をするんだよ」
「チャコール、自分の立場を考えろよ。そんなの行く意味あるか? アトレイにいた方が、さっさと昇進できる。結婚式が終われば、おまえは次期女王が外遊に行く時の随行員になるはずだろ。ウェントワイトで下積みする必要なんかない。生活だって、キリエール家みたいに快適じゃなくなる。おまえが狭い部屋や人の足りない不便や掃除の行き届かない不衛生に耐えられるか?」
「キリエール家とか、王室の権力から離れたところで、自分がどこまでできるか、やってみたいんだ」
「そういうのは学生のうちにやっておけよ。今は役割を持って、責任ある立場だろ」
ハイドロは冗談めかして笑い飛ばしたつもりだったが、チャコールは驚いたように目を見開き、息を飲んだ。
「それって…」
と、だけ呟くと、言葉が続かなくなったように、口を噤んで俯いた。その様子を見てハイドロは、テーブルの上に身を乗り出し、
「確かに、ウェントワイトは海沿いの町だし、チャコールには魅力的に見えるよな。旅行で行けばいい。春が過ぎれば海も穏やかになるから、船旅も悪くないし、空からって手段もある。こないだからマリエバに乗りたがってただろ? あの地方のなだらなか山並みを空から眺めるのも良い」
と、優しく言った。チャコールは顔を上げ、怪訝な表情でハイドロを見る。
「そういうことを言えば、おれの機嫌が良くなると思ってるの?」
「提案してるだけだろ。なにか気に入らないことでもあるのか。八つ当たりは止せ」
「あるよ。ハイドロがおれの決めたことに、いちいち口出ししてくるから、腹が立つ」
「まだ決めてないだろ? バカなことしようとするのを、止めてるんじゃないか。それに、アデリルはどうする? おまえはアデリルの心の支えだ。王女はアトレイを離れない」
「なんのためにクレセントがいるのさ。これからはクレセントが支えるよ」
「今までのことを全部知ってる幼なじみは、おまえだけだろ」
「でも、アデリルはクレセントを選んだ。アデリルを支えるのに、アデリルの人生すべてを知ってる必要はないよ。今のアデリルには、俺よりクレセントの方が相応しいよ。それに、ウェントワイトに赴任することは、王女に背くことにはならない。あの場所に行ってもおれは外務官で、王女に仕えてる。そういう気持ちでウェントワイトに行くのが、どうしてバカなことなんだ。父さんや母さんだったら、喜んで送り出してくれるはずなのに」
「チャコールの知らない場所で、しなくていい苦労をさせたくない。おまえはキリエール家の人間で、他の奴らとは生まれた時から持ってるものが違う。おまえが持って生まれてきたものは、全部自分のために使っていいんだ」
「それじゃあ家柄の七光りに頼ってばかりで、俺はいつまで経っても世間知らずのままだ」
「誰かにそう言われたのか? チャコールは世間知らずじゃない。ただ、お前が持ってるものが、いちばん役に立つ場所にいろ、と言ってるんだ。外務官としての籍だけあれば、今だってあくせく働く必要はないんだから」
チャコールは不満げに、顔を顰める。
「…自分だって、一年の半分もアトレイにいないくせに」
「俺はエンシェン族だ。同じところにずっとはいない」
「エンシェンなんて嫌ってるくせに。ハイドロは一族のいいとこどりしてしてるだけだ。中途半端なくせに、エンシェン面してる」
吐き捨てるようにチャコールは言った。乱暴な口調がわざとだとわかったので、ハイドロは静かに答えた。
「それのなにが悪い。そうだ、俺はエンシェンを利用してる。これからもそうする」
「ハイドロは、ずるい…」
そう言うと、チャコールは視線を反らした。ハイドロはグラスの中身を口に含んでから、座り直す。
「チャコールこそ、急にどうした。今までアトレイを離れるなんて、言ったことなかっただろ?」
「言わなかっただけだよ。ハイドロが怒るから」
「俺のせいなのか? いや、違うな。あの変な医者のせいだな。相談料だって言って金を取る」
「知ってたの?」
再びチャコールが、不機嫌そうな目を向けた。ハイドロは鼻で笑った。
「気づかないわけないだろ」
「マルカ先生は母さんの知り合いだよ。それに、先生は関係ない。悪く言うな」
背もたれに額をつけて、半ばひとりごとのようにチャコールは言った。
「だから、おれのことはおれが決める。明日、返事してくるよ」
「断るんだろ」
「ハイドロには言わない」
「チャコール、頭を冷やせ」
チャコールはもう返事をしなかった。険悪になった雰囲気はその晩、再び元には戻らなかった。
そして翌日、ハイドロはチャコールがウェントワイト赴任を受諾した、と知ったのだ。
これで二ヶ月後には、チャコールはアトレイを離れることになる。
ハイドロは頭にきて仕方なかった。そしてそれは、今でも続いている。
宮廷の中、王女が私的に使う応接室で、ハイドロはアデリルと向かい合っていた。目の前に座るアデリルは上機嫌だ。
「私の結婚が決まってから、ずいぶん親切ね。チャコールになにか言われたの?」
「言われてないが、チャコールがぜんぶ上手くいくように願ってるのは、わかる」
「私を使って、またチャコールのご機嫌取り?」
「そんなところだ」
どこか挑発的に言った王女に、ハイドロは肩を竦める。その時、部屋のドアを叩く音が聞こえた。アデリルが目を向けると、部屋付きの使用人が入ってきて言った。
「おいでになりました」
「通して」
アデリルが言うと、使用人は出て行く。そして入れ替わるように、フロラが部屋に入ってきた。顔は緊張で強張り、自分がなぜここにいるのかわからず、戸惑っていた。
「来たか、フロラ」
「ハイドロ?」
立って彼女を迎えた意外な人の姿に、フロラは目を丸くする。
昨晩、学院あてに知らせが届き、フロラは今日の朝一番に宮廷へ赴くように指示された。実習中なので実習先の状況によって、突然予定が変わることはこれまでもあった。だが、あくまでも彼女の実習は省庁を回ることで、宮廷に呼び出される心当たりはない。さらに彼女の気持ちをざわつかせたのは、差出人の名前だった。複数の差出人のうち、学院の担任や校長の名前の他に、見過ごせない名前を見つけていた。
「突然呼び出して、悪かったな」
「いえ…、それはいいんですけど…」
ハイドロが立ち上がったことで、その更に奥に座るアデリルがフロラの目に入った。その姿を見て彼女は身を固くする。彼女こそ、フロラが目を留めた差出人のひとりだった。目が合うと、相手は柔らかく微笑む。
「おはよう、フロラ。驚かせてごめんなさい。でも来てくれて嬉しいわ。どうぞ座って」
アデリルは座ったままそう言って、自分の脇の椅子を勧めた。赤紫の巻き毛が肩に落ち、彼女の華やかさを引き立てている。フロラから見たその姿は、キリエール家の新年会で会った時と同じように、眩しかった。王女の言葉に従って、彼女はおそるおそる彼女のそばに腰をおろす。ハイドロが彼女の斜向かい、王女の正面に座り直した。
「あの、わたし…」
未だ状況が掴めずにいるフロラは、ハイドロと王女を交互に見た。もっとも、王女に直接視線を向けることはできず、目を伏せる。アデリルが口を開いた。
「私が説明するわ。率直に言うけど、実はあなたに頼みたいことがあって、ここへ呼んだの」
「わたしにですか?」
自分を指で差し、フロラはぽかんと口を開ける。王女に頼みごとをされるような心当たりは、まったくなかった。ハイドロが重ねて言った。
「ハイラントとの国境まで、王女宛の親書を取りに行く」
「それと、結納に使う贈り物をね」
「えっと…」
話についていけず、フロラは困惑した。
「王女の結納に使う品は、すべて王室と関係のある家からの贈り物だ。外務次官のシェイレイ様を知っているか? 彼女からも、彼女と家の名前で贈り物と親書、それにハイラント王室からの推薦状をもらうことになってる」
「今月中に届く予定だったんだけど、シェイレイ様のいるハイラントは今、天気がずっと悪いらしくて、郵便馬車が遅れてるの。受け取って届けてくれるはずの従者が、別の仕事があって間に合わないらしくて。だからハイドロと一緒に代わりに国境沿いまで行って、それを受け取ってきてほしいのよ」
「事情はわかりましたが、どうしてわたしが…」
不満だと誤解されないように抑揚を押さえて、フロラは言った。王女の結納は二ヶ月後だ。差し迫ってもいないが、のんびり待っていられるほど余裕があるわけでもない。特に、予定より遅れていては当人であるアデリルは落ち着かないだろう。それはフロラにもわかった。ただ、そんな重要なことに、なぜ自分が選ばれたのか、わからない。
アデリルが言葉を選ぶように考えてから、口を開いた。
「あなたには聞き苦しいことかもしれないけど、実は、私とクレセントの結婚を望んでない人も、アトラントにはけっこういるのよ。特に、このあたりにね」
そう言って彼女は右の人差し指で、くるりと円を描いて見せた。宮廷の中に、という意味だと、フロラにもすぐにわかった。
「だから、私たちの結婚に関わることで準備が順調にいかないことを、あまり知られたくないの。私の従者を使うとなると、到着が遅れてることが知られるでしょ。結納品の送り主にはキリエール家も入ってるから、そこからハイドロに伝わって、ハイドロが取りに行ってくれることになったの。珍しいことに」
言葉の最後で彼女は、ハイドロに視線を向けた。
「まあな。今は高地竜の世話もほとんど必要ない時期だ。俺もたまには役に立つさ」
ハイドロはアトレイ王室に出入りしているが、アトラントには属さない。少なくとも表向きは、政争とは無縁だ。エンシェン族は国境を自由に越えることができるし、王女のごく私的な使いを引き受ける相手としては、これ以上ないくらい適任だ。
一般的なエンシェン族の知識しかないフロラでも、そのくらいのことはわかった。
「だけど、なぜ、それにわたしも…?」
「俺に加えて、ちゃんとしたアトラントの人間がひとりいた方がかたちが整う。フロラは王立学院の優秀な学生で、今は省庁に実習に出てる。そうだろ?」
「はい、そうですが…」
「っていうのは、建前だ。前に言ってなかったか? いつか、王女の役に立ちたいと」
フロラを見るハイドロの目が、きらりと光る。フロラは表情を変えた。
『自分の望みを叶えたかったら、機会は逃すな』
フロラは息を飲み、表情を変えた。頭の中で、彼の言葉がよみがえる。
ハイドロはいつもでそうだ。機会を逃すな、と自分に告げる。彼の言葉に従って、自分はどうなっただろう。キリエール家での新年会では王女に挨拶し、信じ難いことに、今はこうして、王女の前に座り、彼女の用を言いつかるのを待っている。
「その通りだわ…」
呟いて頷くと、フロラは王女に向き直り、真剣な面持ちで言った。
「アデリル殿下、私で良ければ、引き受けます」
出発は朝早く、夜半から降り始めた細かい雨が、今もまだ降り続いていた。日の出の時刻は過ぎたが、空は未だほの暗い。
フロラは宮廷の、王女の私室のある棟の庭にいた。そこに来るよう、言い渡されていたからだ。王女の庭でもある美しい庭園は、今は朝靄の中に霞んでいる。庇の内側に立っているので濡れないが、寒さと雨粒の冷たさに、フロラは身を震わせた。
しかしすぐに、靄の中で巨大な黒い影が動いたような気がして、フロラは気を反らされる。影は次第に大きくなり、フロラのほうへ近づいてきた。
「…高地竜」
靄の中から姿を現した影の正体に、フロラは思わず息を飲んで呟いた。その前をハイドロが歩いてきて、高地竜は付き従うように地面に足をつけている。
「おはようございます」
「早くからご苦労だったな」
フロラが頭を下げると、ハイドロが軽く会釈して笑った。フロラはすぐに傍らの高地竜に意識を引き戻され、呆けたように見上げてしまう。
「…竜に乗って行くの?」
「残念だったな。乗せてやれない。預けていく」
ハイドロは頭を振りながら笑って言った。その時、彼らのはるか頭上から、ひときわ高い笛の音が短く聞こえた。
「時間通りだな」
ハイドロが目を細めて、頭上を仰ぐ。フロラも視線を追ったが、細かい雨粒に煙る暗い空が見えるだけだった。だが間もなくそこに、巨大な影が現れる。そして影は地上へ近づき、姿を見せた。目の前に休む高地竜とは別の一頭が空から舞い降りで、少し離れたところに着地した。
その背中から、細い人影が下りてくる。ハイドロは傘を広げると人影へ近づいた。フロラも興味を惹かれて、邪魔かもしれないと思いつつも、傘を広げてそっと後を追った。
「ソア、朝早くから悪いな」
「おはよう、ハイドロ。生憎の天気だね」
かぶっていたフードを下ろしながらそう言ったのは、ハイドロより年若いエンシェン族の女性だった。ハイドロよりもさらに濃い、血のような赤い髪が、肩に流れ落ちる。はっきりとした目鼻立ちと、ハイドロに劣らない背の高さで、身に纏う雰囲気が華やかだ。
彼女は傍らのフロラに気づくと、意外そうに目を上げた。
「あれ、あの子じゃないんだ。てっきりそうだとばかり」
そう言ってハイドロを見上げる。
「珍しい」
「こういうこともある。マリエバを頼む」
ハイドロは少しだけきまり悪そうに、視線を反らして、彼女に革袋を渡した。
「預かるわ」
彼女はハイドロから手渡されたものを大事に抱えると、微笑んで頷いて見せた。
「…高地竜に名前があるの?」
やりとりを眺めていたフロラが思わず口にすると、ソアと呼ばれた女性の方が振り返って笑った。
「自分のにはね、つけることもある」
「マリエバって、不思議な響きですね」
「エンシェンの古い言葉で、海陸風って意味なの。えーっと、名前、ハイドロの友だち」
「チャコールか?」
「そうそう、そうだったチャコールだ。彼がつけたんだよね」
ハイドロにはその言葉には反応せず、
「天気はどうだ」と、たずねた。
「ハイラントの上にいた雨雲が、これからアトラントへ向かってくるみたい。国境の町まで山を登って行くんでしょ。ずっと雨かもね」
「やっぱりそうか。ここで調べたのと変わらないな」
「山奥だからね。足元が悪くなるのが心配かな。まあ、ハイドロは慣れてるだろうけど」
「呼び出して悪いが、俺もそろそろいく」
「わかった、じゃあね」
「ソアも」
ソアはハイドロとフロラに大きく手を振ると、ハイドロから渡された包みの中から、細長い笛を取りだした。口に銜えて息を吹き込んだが、フロラにはなんの音も聞こえなかった。フードをかぶり直した彼女が自分の高地竜の背に戻り、竜が羽ばたいて空を飛ぶと、ハイドロの竜はその後を追うように飛び立って、間もなく雨雲の向こうに見えなくなった。
「このためだけに呼んだの?」
「高地竜は一族以外に任せられない。さあ、俺たちも行こう」
ハイドロがそう言って、フロラを促す。一瞬でも竜に乗ることを期待したフロラだったが、宮廷の裏門に面した通りに、自分たちのために用意された馬車は箱車も馬も、紋章こそないが、見たことのないくらい上等なものだった。座席には布が張られ、座ると尻が沈みこむ。腰当て用のクッションも並んでいた。
フロラに続いてハイドロが乗り込み、外から扉が閉まった。まもなく馬車が揺れ、馬の蹄の音が聞こえたかと思うと、動き始める。
「なんだか、旅行に行くみたい」
「図太いな。せいぜい楽しんどけ。今日は丸一日馬車の中だ。そのうち見るのも嫌になるだろうから」
フロラは何度か座り直して、位置を決めた。膝の上にクッションを抱える。ハイドロはそろそろフロラも見慣れてきただらしない座り方で、眠いのか早くも目を閉じている。
話しかけてもいいものか、一瞬迷ったが、嫌なら返事をしないだろう。そう思って、フロラは半ば独り言のようなつもりで言った。
「さっきのソアさんて方は、チャコールを知ってるの?」
「何回か会ってる」
ハイドロは目を開けなかったが、すぐにそう答えた。
「チャコールは…」と、言いながら、フロラは数日前の、彼とのやりとりを思いだした。
「ハイドロとハイラントへ行くって? アデリルの結納品を取りに?」
てっきり伝わっていると思った話は、チャコールには初耳だったようで、執務室で彼は目を丸くしてフロラを見た。
「はい、だめだったでしょうか…」
チャコールの様子に驚いて、フロラは不安な面持ちでたずねた。
ハイラントとの国境沿いへは日帰りで行ける距離ではない。実習が欠席扱いにならないように取り計らってもらえることなってはいたが、それでも一週間休むことを実習先に伝えなくてはならなかった。
チャコールは当然この話を知っていて、いちばん話がしやすい相手だと考えていたのに、それは違ったようだ。
「いや」と、チャコールは首を振る。
「もう決まってるんでしょう。シェイレイ様がハイラントで贈り物を作らせて、到着が遅れてるっていうのは、聞いてる。だから、フロラが行くと決めたなら、もうそうするしかないよ。ただ…」
チャコールはどこか物憂げに、フロラを見た。
「その話、アデリルから直接頼まれたの?」
「えっと、どうでしょう。私が呼ばれたお部屋に行ったら、すでにアデリル様とハイドロがいて」
「そうか…」
「チャコールにも、てっきり伝わってると思ったんですけど」
「ここ何日か、ハイドロとはほとんど顔を合わせてなかったから。アトレイにいないかも知れないって思ってたし。結納品のことはハイドロも知ってるから、きっと気を利かせたんだと思うよ」
「えっ」
ハイドロと顔を合わせていないなんて、なにかあったのだろうか。フロラは急に不安になる。チャコールは笑顔を浮かべた。
「またとない機会だから、行ってくるといいよ。ただ…」
と、彼は少しだけ顔を曇らせる。
「ハイドロは、フロラが思ってるほど親切な奴じゃない。それだけ知っておいて」
その言葉に、フロラの胸はざわめく。やがてそれが、チャコールに対する反発心だと気づいた。
「そんな、友だちの悪口を言うなんて…」
「悪口じゃないよ、フロラへの助言だ」
チャコールはそう言ってまた品良く微笑んだが、ずるい、とフロラはほんの少しだけ思った。
いつもエンシェン族のハイドロが傍にいて、その恩恵を受けているのはチャコールなのに、今、彼はなにも知らされず、フロラがその位置に取って変わると、心配そうな表情でハイドロを貶す。
まるで私に対する嫉妬気持ちを、心配するふりで隠しているみたいだ。
フロラの胸に漠然と、そんな気持ちが広がる。
「わたし…」とフロラは口を開く。
「ハイラントの養児院で育ったってこと、話しましたよね。実は今の両親に引き取られる少し前に、そこにアデリル殿下がいらしたんです。はっきり覚えてませんけど、たぶん、慰問で」
「ああ、そういうこともあったかも知れない」
十七年にバルメアで内戦が起こってから、南の国境に隣接するハイラントには多くの避難民が逃れた。親を失ったか、あるいは親がいても、彼らが抱えきれなくなった子どもたちが、ハイラントの養児院に溢れた。
五国同盟の成立よりずっと前の話だが、近隣の友好国はこぞってハイラントを援助し、難民の受け入れを負担した。アトラントもそのひとつだ。受け入れ前の視察として、慰問を兼ねて王族や貴族がハイラントの養児院を訪れることも多かった。実際にアデリルがそういう訪問のいくつかに加わったことを知っているチャコールは、頷いた。
「ほかの偉い人たちは、子どもたちの頭をちょっと撫でて、お菓子とおもちゃを配ったらすぐいなくなっちゃったけど、アデリル殿下だけは違ったんです。配ったお菓子を一緒に食べて、庭で一緒に遊んでくれたの。鬼ごっこをした時に、走り回ってきれいなスカートが泥で汚れたの、私、今でも覚えてる。王女様の着物が汚れた、って大騒ぎした子がいて、私たちみんなどうしようって慌てたんだけど、殿下はちょっとお召し物をはたいただけで、なんでもない顔で笑って『遊んでたら服が汚れることもあるわよ』って、言ってくださった。それで殿下たちが帰った後も、本当に誰も怒られなかった」
フロラはそう言って言葉を切った。チャコールに見られているのが急に気恥ずかしくなったが、それでも続けた。
「アトラントの両親に引き取られて、殿下がアトラントの王女で、次期女王になる方だって知った時、私は必ず、この人に仕えるって決めてました。アデリル殿下は覚えてなくても、いつか、あの時の恩返しをしようって」
彼女はぎゅっと両手を握って、チャコールを見上げた。
「私は王女の秘書官を目指してるけれど、それが叶うかはわかりません。この機会を、逃したくないんです」
「うん、俺が止めたりはできない。気をつけて行ってくるといい」
チャコールはそう言って笑ったけれど、フロラにはそれが、上辺だけの、形式的な表情に見えた。
それきりチャコールとは会わないまま、今日の出発を迎えてしまった。胸の奥は晴れないままだ。
「私が行くって決めたこと、あまり良く思ってないみたいで」
「チャコール? 好きに言わせとけ。アデリルの役に立つことを、あいつは絶対止めたりしない」
「だけど、この話を知らなかったのにも驚いた。アデリル様もハイドロも、チャコールには話さなかったのね」
「アデリルからはきっともう、伝わってるだろ」
ハイドロはずっと目を閉じたままなので、フロラはそっと彼の方を見る。
「…喧嘩でもしたんですか?」
「あいつが意地っ張りなだけだ」
そう言った口調は変わらなかったが、彼の周りの空気が変わったのがわかった。馬車の中に緊張が走り、フロラはもう、ハイドロに話しかけられなかった。
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