<9>
「新年会はどうでした?」
「楽しかったですよ。口うるさい年寄り連中も来るけど、友だちや甥っ子にも会えたし」
暖炉に赤々と火が燃える午後の診察室で、マルカは年が明けて初めて、チャコールと向き合っていた。今年はミレステラとチャコールから新年会への誘いがあったが、マルカは自分の家族と過ごすために、招待状を断っていた。
「今年は来ないはずのアデリルも急に顔を出したから、ちょっとだけ騒ぎになりました」
マルカはわずかに目を上げる。
「アデリル様は婚約なさったでしょう、軽率とは思われないかしら」
チャコールは一瞬、彼女を見て不思議そうな顔をし、それからすぐに思い当たったように、小さく笑った。
「マルカ先生までそんなことを? 別に俺に会いにきたわけじゃない。キリエール家の集まりに、王女が顔を出すのは自然なことでしょう。遠い親戚でもあるんだし」
「あなたとアデリル王女のことは、私でも知っているくらい有名な話よ」
「その噂は事実じゃないし、それでも消えることはありませんよ。流してる連中がいるからです。おれとアデリルが結婚した方が、旨味にありつける連中がいるんです。クレセントとの婚約式が終わったから、噂の内容を変えてくるかも知れないけど」
チャコールとこうして顔を合わせるのも、今日で三度目だ。チャコールも診察室の雰囲気に慣れ、打ち解けた態度でいる。マルカとの気楽な世間話も増えた。
「そうそう、今、おれが担当してる学院の実習生の娘がいるんです。その娘も招待したら、アデリルと挨拶して浮かれてました。アデリルに憧れてると知ってたので、家で会わせるつもりはなかったけど」
と、チャコールは一瞬だけ、遠くを見る。
「結果として、良かったかも知れない」
「そう、じゃあ、いい時間を過ごせたのね。素敵だわ」
今度はチャコールがマルカのことをたずねたので、彼女は自分の休暇のことを少し話し、それから折りを見て言った。
「気懸かりだった友人は? 年が明けてからはどう?」
「ああ、年の瀬に戻って来ました。新年会には毎年出るんです。そこだけはおれとは関係なく、我が家への礼儀だって考えてるみたいで。でも、そうですね…」
チャコールは少し考えこむようなそぶりをする。
「二ヶ月くらいいなかったから、前のこと、忘れてました。言い合いになって別れたのに、戻ってきたら今までどおりでした。家族に土産を持ってきて…、そうだ。もう新年会の準備が始まってて、あまり深く考えてる余裕がなかったんです」
「夜中にまた、うなされて起きたりしていた?」
「ああ、それも先生に話しましたね。今のところ大丈夫です。雪が降らなければ、部屋を温かくして、誰かいてやれば平気なんです。誰かって、おれですけど」
「それじゃあ、二ヶ月前に言い争いになった理由を、今度はお互い冷静に、もう一度その友人と話してみたら?」
そう言うとチャコールは、真剣な顔つきになる。
「それは…、しなければならないでしょうか」
「チャコールがその人との関係を変えたいというのなら、少なくとも原因を探ることは、必要だと思うけれど」
「そうですね」
チャコールは目を伏せて、頷く。
「いつものことなんです。何度も繰り返してるやりとりで、答えは出ない。でも、蒸し返したくない。新年会でも別の人に似たようなことを言われて、たぶんあいつは嫌な思いをしたから」
「その答えが出ないやりとりが解決するのに、必要なものはなにかしら」
「それはきっと」と、チャコールはそう言うと、苦しそうに顔を歪めた。
「…誰かを、選ぶこと」
「あなたの友人が誰かを選べば、あなたたちの言い争いは終わるのね?」
「そうなると思います。でもマルカ先生、そんな日は来ません。だから解決しないんです。別の方法を」
固い声でチャコールは、自分の言葉を否定した。
「どうして、そんな日は来ないと言えるの? 友人が誰かを選べば、あなたたちの間にある問題は解決して、今までより良い関係になれる、とは考えられないの?」
「マルカ先生、この話はもう続けたくない」
彼女の言葉を遮るように、チャコールは首を振った。
「チャコールがそう言うのなら、無理に聞きだそうとは思わないけれど、キリエール家の新年会のように、当たり障りのない楽しい会話だけで問題を解決することはできないのよ。あなたにとっては辛いことにも、目を向ける必要がある」
「…わかってます」
「チャコールは勇気を持って、診療所へ来てくれたでしょう」
マルカが言うと、チャコールは頷いた。そして俯くと、しばらく黙っていた。会話が途切れた、というにはずいぶん長い時間だったけれど、マルカは彼が話し出すまで待った。彼女にとっては珍しいことではなかった。
膝の上で両手の拳をぎゅっと握り、とうとうチャコールが口を開いた。
「そんな日が来ないのは…、来て欲しくないからです」
掠れた小さな声で、絞り出すようにチャコールが言った。
「その友人が誰かを選べば、あなたたちの間にある問題は解決するのに、チャコールはその友人が誰も選ばないことを願っているのね?」
「そうです」
「なぜ? 問題を解決するのは、苦しいことなの?」
「だって…」と、チャコールは、精一杯マルカから顔を背け、か弱く頼りない声で言った。
「誰かを選ぶ日が来るなら、それはおれじゃないから。そんなの、耐えられない…」
「あなたはその友人に、選ばれたいの?」
再び長い長い沈黙があった。マルカは待った。やがてチャコールが頷く。
「…そうです。今、マルカ先生と話してて気がつきました。わかってたけど認めたくなくて、ずっと気づかないふりをしてたんです。でも、選ばれたくないって気持ちもあるんです。それも嘘じゃないんです」
「そのふたつは、同時には成り立たないものよね。どうして両方あるのかしら」
そう問うと、やっとチャコールは顔を上げた。目線は合わせなかったけれど、拳に込めた力を緩めている。
「誰にも言わないって、もう一度約束してください」
「ええ、もちろんよ。約束します」
「先生は気づいてると思うけど、おれがずっと話してたのは、ハイドロのことです。アトレイ王室に出入りしている、エンシェン族です」
マルカは黙って深く頷いて見せた。チャコールは小さく息を吐く。
「知ってるかも知れませんが、エンシェン族には守護っていうのを選ぶ慣習があるんです。男とか女とか関係なく生涯ただひとり、この人だけを護る、という相手を選ぶんです。その相手を決めて初めて、エンシェンは一人前とみなされます」
「なんとなくだけど聞いたことがあるわ。じゃあチャコールが言った、友人が誰かを選ぶ、というのは、エンシェン族のハイドロが、守護の相手を決める、ということなのね」
「そうです。だけど…」
と、チャコールは言いかけてまた口ごもり、左手を額に当てた。
「エンシェン族の守護を手に入れたいと思われるくらいなら、選ばれたくない。エンシェンとか守護がどうとか、そんなのどうでもいい。そんなの関係なく、おれはハイドロに選ばれたいんです。だけど、ハイドロは紛れもなくエンシェン族です。ハイドロが誰かを選ぶとしたら、それは守護を決める時で…」
そこまで言うとチャコールは、長い長い溜め息をついた。
「それは絶対に、おれじゃない」
「それを決めるのはハイドロでしょう? どうしてチャコールにわかるの?」
「だって、マルカ先生」
チャコールは腕を下ろして、ようやくマルカの顔を見た。彼は泣いていなかったけれど、表情は泣き笑いのように歪んでいた。
「ハイドロは、おれが選ばれたいと思ってることを知ってます。だけどあいつは誰も選ばないって言い続けてる。それで十年経ちました。これから先も本当に誰も選ばないかどうかは別として、少なくとも、おれを選ぶ気はない。それだけははっきりしてます」
そう言って彼は、肩を落とした。
「自分を選んでくれない相手と、ひとつ屋根の下で過ごすのは、苦しいでしょうね」
「十年前、ハイドロがキリエール家で過ごしたいと言ってくれた時、本当に嬉しかった。おれは自分がハイドロの特別なんじゃないかって、期待してた。だけど十年、なにもなかったです。ハイドロは誰も選ばない、おれを選ぶつもりもないって頭ではわかってるけど、本当はまだ、期待が捨てられません」
「だけどなぜ、彼はずっとキリエール家の客のままなのかしら。宮廷で過ごすのが嫌なら、自分の家を持つことだって、たやすいはずなのに」
「居心地が良いんだと思います。使用人の数はじゅうぶんだし、おれの家族はハイドロがエンシェン族だってことを、そんなに重要だと考えてないから特別扱いもしません。もちろん、まったくないとは言えないけど。扱いは他の客と同じです」
「あなたの他のご家族は、ハイドロに選ばれたいと思ってないの?」
マルカがたずねると、チャコールは顔を上げて悲しそうに笑った。
「選ばれるとしたら、おれだって期待はあったと思います。でもそんな話も、もう何年も前になくなりました。ほんとのところ、家族がどう思っているかはわかりませんけど、今はただ、ハイドロが好きだから歓迎してる感じです」
「前にも話したけど、ハイドロがあなたの家で好きに振る舞うことで、チャコールとの気持ちの境界がうやむやになってる。なにか、適切な距離を置く方法はないかしら」
チャコールは口元を手で覆ってしばらく考え、やがて首を振った。
「もしも、おれが出て行けと言ったら、ハイドロは出て行くかもしれません。だけど、そんなこと絶対に言えない。ハイドロが昔を思い出す季節に、宮廷だろうとどこだろうと、真夜中にたったひとりで暗い部屋にいることになるかもしれないって思うと、怖くて…。
ハイドロにそんな思いをさせるくらいなら、今のままで良い」
「チャコールの気持ちを知ってて、今のままでいるハイドロを、残酷だとは思わない?」
「残酷?」
マルカの強い言葉に、チャコールは意外そうに目を瞠り、首を傾げる。
「…残酷って、そんな強い言い方をするほどのことでしょうか。だってこんなの、いつものことです。わかりやすいからよくする話なんですけど。おれがまだ十代の頃、おれが好きになった女の子をハイドロが横取りするなんて、日常茶飯事でした」
マルカは絶句して、言葉が継げなかった。チャコールは本当になんでもないことのように、軽く微笑んで首を振った。
「もう昔のことです。それに、おれとハイドロだったら、ハイドロの方に惹かれて当然です。特に女性なら」
「なぜ、そんな風に思うんです? 人の魅力というのは、ひとりひとり違うものです」
「マルカ先生、それは教科書的な言葉に聞こえます。人が人に惹き付けられる魅力っていうのは、いくつかの性質に決まってる気がします。大胆さとか、積極性とか、愛想の良さとか。ハイドロは全部持ってる。嘘つきだけど、それを気づかせないことも上手だし」
「待って、チャコール。そうじゃないの」
マルカは敢えて、チャコールの話を遮った。そして彼を見つめる。
「あなたはハイドロに傷つけられても平気なの?」
チャコールはすぐにその言葉が理解できなかったかのように、不思議そうな顔でマルカを見返した。それから黙り込み、目を伏せる。
「…平気っていうか、それで安心している部分は、あったかも知れません」
「傷つけられると、安心するの?」
チャコールは迷いながらも頷いた。
「おれが手に入れたいと思ってるものに、ハイドロは関心を持ってくれた。おれはハイドロに選ばれることはないけど、どうでもいい存在なわけでもないって感じられたから…。それを味わいたくて、何人もの女の子を好きになったような気もします」
「それが本当なら」
マルカは溜め息をつく。
「なんて悲しい繋がりだろうと思うわ」
チャコールはわずかに視線を落としただけで、あとは黙っていた。これまでと同じように、長い沈黙の後、小さな溜め息をついて、彼は再び口を開いた。
「今、思い出したことがあるんです。話してもいいですか」
「ええ、もちろん。聞かせて」
「学生の頃、ハイラントに一年留学する話があったんです。ハイドロに話したら『好きにしろ』って言ったけど、嫌な顔をしてました。それにあの時は、アデリルも心細いって言ったから、それを振り切ってまで行く価値はないと思って、止めたんです」
「あなたもそれほど行きたくなかったの? それとも、行きたかったのに、諦めたの?」
「…行きたかったです。でも、そこまで強く思ってたわけじゃないし、諦めたとも感じなかった。ハイドロの嫌そうな顔を見たら、自分が間違ったことを言った気がしたし…。それに、ハイドロがおれに行って欲しくないって思ってるのがわかって、少し嬉しかった」
「やりたいことの邪魔をされたのに、安心したのね」
「邪魔なんて、そんな。留学は止めたけど、ハイドロは自分の高地竜でハイラントに連れていってくれました。その後、二ヶ月の短期留学の話が出た時は、進んで賛成してくれて、それには参加したんです。ハイラントにいる間にハイドロが遊びに来たりして、とても楽しかったんです。だから気づいてなかったけど…」
チャコールはそう言って、顔を歪める。
「おれはいつも、ハイドロの顔色を窺ってる」
「今までずっと?」
「そうです。でもそれは、ハイドロが悪いわけじゃない。それに悪いことばかりだったわけじゃない。でも…」
チャコールは膝の上で手を組み、指先を弄ぶ。そこに視線を落としたまま続けた。
「実は今、仕事でウェントワイトに行く話が出てるんです。まだ、ハイドロにも家族にも言ってませんけど」
「期間は?」
「引き受けたら、最低二年。状況によっては、もっと延びると言われました」
ウェントワイトはアトレイの東に位置する、国内最大の海港都市だ。
「海辺の町で暮らしてみたかったから、正直、心が動きました。だけどきっとまた、ハイドロは嫌な顔をするだろうし、アデリルの傍にもいてやらないとって思って…、自分がどうしたいのかなんて、考えなかった」
「ハイドロはさておき、アデリル王女には専属の従者が大勢いるでしょう。あなたが心配する必要はないと思うけど」
と、言ってマルカは苦笑する。
「ハイドロも王女もいなかったら、あなたはどうしたいの? ウェントワイトへ行きたい? それとももっと他に別の、挑戦したいことがある?」
「すぐには思いつきません。なんだろう、自分の気持ちを優先するっていうのに、慣れてなくて…」
「だったらチャコールは他人の心配をする前にまず、自分の心配をしないとね」
「マルカ先生の言うとおりかも知れません。今までは、まずハイドロやアデリルがどう思うかで、その次はキリエール家の者として、相応しいかどうかって考えてました。自分の気持ちを後回しにしてるとは、思ったことはなかったけど」
「自分の望みがわからないと、他人の気持ちに応えることもできないわ。これからは少し気をつけて、まず自分の気持ちを確かめる練習をしてみましょう」
チャコールはかすかに笑って頷き、椅子の肘置きに頬杖をついた。マルカから視線を外し、遠くをぼんやりと眺める。長い沈黙の後、今度はマルカが先に、
「ひとつ、私が思ってることを言っても良い?」と、口を開いた。
チャコールは視線を戻して、
「ええ、教えてください」と、頷く。
「あなたの話を聞くかぎり、ハイドロがあなたを、どうでもいいと思ってるとは思えない」
「じゃあ、傷つけたいと思ってるのかもしれません」
静かに言ったチャコールに、マルカは目を見開く。彼はわずかに自嘲気味に笑った。
「今まで、ハイドロがおれに関心を持ってくれてるんだと思ってたことは、ぜんぶ」
「チャコール、ここでは答えは出ない。結論を急がないで」
諫めるようにマルカが言うと、チャコールは静かに笑って頷き、言った。
「気づきたくなかったけど」
それから一週間後、西日が往来を行く人々を照らす頃、マルカはひとりで四つ辻を歩いていた。同業者たちとの勉強会を終えて、診療所に戻る途中だった。混み合う大通りの中央を、何台もの馬車が行き過ぎる。よく知った街角の、見慣れた光景だった。
「マルカ先生?」
不意に名前を呼ばれ、彼女は立ち止まった。振り返ると斜め後ろに、フードを目深にかぶった男が立っている。見覚えはなかった。
「そうですけど」
訝しげな表情で頷くと、男は片手でフードを下げた。燃えるような赤い髪が肩に落ちる。同じ色の目が、彼女を見つめていた。
「あなたは、ハイドロ?」
「そうです、チャコールが世話に」
そう言って彼は笑ったが、目つきは鋭いままだった。彼は背が高く、体格も良く、マルカは彼の肩ほどまでの背丈しかなかった。その彼に見下ろされると、だいぶ年下とは言え、かなりの威圧感がある。
「少し、話をしても?」
ハイドロが窺うようにそう言った。口調は穏やかだったが、断れそうな雰囲気ではなかった。それを感じて、マルカは頷く。彼女はハイドロに促されるまま、通りの真ん中から脇の方へ移動した。そのわずかな距離でさえ、ハイドロを振り返る人がいる。
再び向かい合うと、ハイドロの顔から笑顔が消えた。
「チャコールに余計なことを吹き込んだのは先生か? 今すぐ止めてくれ」
「余計なこと、とは?」
彼は顔を顰めてマルカを睨んだ。
「ウェントワイトに行け、と言っただろ。どういうつもりだ」
不機嫌を隠そうともしない態度が、正直マルカは怖かった。彼から離れたくなる気持ちを、必死で押しとどめる。
「チャコールにそういう話があるというのは聞きました。だけど、私は行けなんてひとことも言ってない」
「確かに、唆すのと言うのは違うよな」
ハイドロは薄笑いを浮かべてそう言った。
「ハイドロ、あなたは誤解してる。私はチャコールが行くと決めたことさえ聞いてない」
「誰も行くなんて言ってない。ただ、チャコールが隠れてこそこそ、あんたに会いに行ってるのは知ってる」
「私に会うことを望んだのは、チャコールの方ですよ。彼は今、問題を抱えていて、どうしたらいいか私のところへ相談しに来たんです」
「問題? あんた、あいつと何を話してる? 問題があったとしても、赤の他人のあんたに解決できることなんてないだろ」
ハイドロは一度、厳しい目でマルカを睨んでから、蔑むような薄笑いを浮かべた。
「なあ先生、正直に教えてくれよ。俺は詐欺師が嫌いじゃない。問題をでっちあげて、診察だなんだと言って、病人でもない奴をせっせとあんたの診療所に通わせて、かしこい金の稼ぎ方だ。チャコールはいいカモだろうな」
「仕事ですから、確かにお金はいただくわ。でも、いい加減なことを言ったりはしていない。チャコールに聞いてみて」
「チャコールはあんたを悪く言ったりしないさ。バカ正直に信じ込んでるからな。別に金を取るのはあんたの勝手だ。ただ」
そう言ってハイドロは、念を押すように顔を近づける。
「いい加減なことを言うのは、許せない」
「脅すつもり?」
声が震えそうになるのを押さえながら、マルカは尋ねる。ハイドロは身体を離すと、鼻で笑った。
「人聞きが悪いな。お願いしてるだけだろ? チャコールを利用しないでくれ、と。あいつがなにか泣き言を言ってるなら、黙って頷くだけにしてくれ」
「チャコールは真剣です。泣き言なんて言ってない。いつも冷静に、自分の問題に取り組んでますよ。私もいい加減なことなんて言ってない」
「だったらなおさら、病人扱いは止めろ。治療の必要がないなら、あんたの診療所に行く理由もない」
「診療所とか、患者さんとか言ってるけど、私の面談は私が治療するんじゃありません。訪れる人が自分の苦しみに向き合うのを、手助けするだけです」
「あんたが何をしてようと、どうでもいい。チャコールに、ウェントワイトに行くのは間違ってるから止めろと言え。先生の言うことなら聞く」
ハイドロは冷たい目つきでマルカを睨み、低い声で乱暴に言った。その態度に、マルカは恐怖を感じて青ざめたが、それでも首を横に振った。
「言いません。チャコールのことは、チャコールが自分で決めるでしょう。私を脅しても無駄です」
「これだけ頼んでるのに」
「人にものを頼む態度とは思えないわ。それも、初対面の相手に」
必死に言い返すと、ハイドロは軽く笑った。
「嫌味を言える奴も嫌いじゃない。残念だ。じゃあな、マルカ先生」
彼はそう言うと、フードをかぶりなおして背中を向けた。彼の姿が雑踏に紛れて見えなくなるまで、マルカはそこに立ち尽くしていた。恐怖が収まるまでに、時間がかかった。
あれがハイドロ。今までは遠目に見たことしかなかった。宮廷に出入りし、キリエール家の客人になっている、ハイドロなのだ。
チャコールは大丈夫だろうか。彼は勇気を出して行動したのだ。マルカにもそれがわかった。でも今のハイドロの剣幕だと、チャコールにも相当強く反発しているに違いない。
次の面談は来月の予定で、まだ半月以上も先だ。
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