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数日前に降った雪が通りに残るような寒さの夜、温かい光を灯す窓と、賑やかな話し声が溢れる屋敷があった。

キリエール家の新年の集まりは毎年、年が明けて一週間ほど過ぎた頃に行われる。身内だけのささやかな祝いの席、というのがキリエール家の言い分だが、招待客やその従者たちを含めると、百人近くにのぼる。一年の中でもっともキリエール家に客が集まる日だ。

現在の主人夫婦の客人たちだけでなく、長男チャコールの友人や、幼なじみの王女アデリルも毎年のように顔を出す。アトレイで開かれる上流階級の集まりの中でも、招待されたい者の数に対して、あまりにも招待状の数が少ないことでも有名だった。

さらにこの新年会には、目立った貴族の招待や、宮廷での催し、さらに去る年の瀬の王女の誕生祝いにすら姿を見せないエンシェン族のハイドロが、毎年必ず出席する。その事実もこの集まりに華を添えていた。

もっとも、彼がアトレイのエンシェンとなり、キリエール家に滞在するようになってから、すでに十年が経つ。招待客のほとんどがキリエール家に縁のある顔なじみばかりのため、今では強くハイドロの手を求める者もいなくなっていた。

今夜もそのハイドロは、噂に違わず珍しい正装姿で主人側に立ち、訪れる客に愛想を振りまいていた。

ピアノの演奏を披露する女性を囲む人々の部屋の、壁際にひっそりと立っているフロラを見つけて、ハイドロは近づいた。チャコールの執務室で会った時とは違い、見栄えのする白のドレスを着ている。普段よりずっと華やかでこの場には相応しいが、居並ぶ客たちの洗練された様子に比べると、どこか垢抜けなかった。

けれど、それはハイドロが気に掛けることではなかった。チャコールから彼女を招待したと聞いていたし、連れの友人がいるはずだ。

「フロラ、どうしんだ。そんな隅で」

彼女はハイドロを見ると、驚いたように目を瞠り、唇の前で人差し指を立てた。

「声をかけないでください。注目されちゃう」

慌てふためいた様子に、ハイドロは笑った。

「今夜の客に、今さら俺に注目するような奴はいない。ほとんど顔見知りだ」

「だけど、すごく目立ってます」

髪は編み上げて結ったエンシェンの正装、礼服は肌の色に映えるオリーブブラウンだ。密かな着道楽のチャコールが、自分のものと一緒に注文する。毎年続く、キリエール家からの新年の贈り物だった。

フロラの両手が空いていることに気づき、ハイドロは給仕を見つけると指先を振って合図を送った。すぐに彼らのところに果実酒のグラスが運ばれてくる。ハイドロはひとつを取ってフロラに渡し、ひとつは自分で口をつけた。

「友だちは? 一緒のはずだろ」

「知り合いを見つけて踊りに行っちゃった」

彼女はそう言って、隣の部屋を指さす。

「それでフロラは、目立たないようにこそこそ隠れてるのか? 今夜の招待状を、大金を積んででも手に入れたい奴らがたくさんいるのに」

「こういう集まりに慣れてないし…、お客の数も多いし、すごい人ばっかりで。身内の集まりだって聞いていたのに」

「紛れもなくこれがキリエール家の身内だ。古い家柄だかなんだか知らないが、豪勢なことで」

「ハイドロがそれを言うの? あれ? これお酒?」

果実酒を一口含んだフロラは、グラスを離して見つめる。

「少し飲んでおけ。緊張がほぐれる。こんなところに立ってないで、座ればいいのに。誰も見やしない」

「どの椅子に座るのが礼儀に適ったことなのか、わからないのよ」

恨めしげな目でハイドロを見上げて、フロラは言った。彼女の緊張と混乱を見て取って、ハイドロはついまた笑ってしまった。キリエール家ではなかなか見かけない種類の客だ。

「どの席に座ったって良い。客人のための席なんだから。ここに集まる客を身分で分けるなら、身分のない俺が一番下だ。フロラにかしづく立場だな。席まで案内しましょうか、お嬢様」

「なに言ってるの、ハイドロはエンシェン族でしょう。」

冗談めかして差し出した手を、赤くなったフロラが振り払う。

「エンシェンなんて名前だけだ。実際にはなにもない」

フロラは意味が掴めなかったのか、曖昧な表情でハイドロを見上げる。

「フロラこそ、こないだ秘書官を目指すって言ったのは、俺の聞き違いか? 宮廷の集まりなら、この三倍の広さに、五倍の客が集まる」

ハイドロはこの部屋と、間仕切りを取り払って祝宴の会場になっている、廊下を挟んだ二部屋を示して見せた。果実酒をまた一口飲み、フロラが溜め息をつく。

「想像もつかないわ…」

「なに呑気なこと言ってる。王女と一緒の集まりに出席するのは、大事な仕事だぞ」

はっとしたように、フロラがハイドロを見る。その怯えたような目に、ハイドロは堪えきれずに笑った。フロラは困ったように片頬を押さえた。

「…今までは勉強と、行儀の良さだけ頑張れば良かったから」

「そうだな。宮廷を目指さなければ、それでも良い。だけど、宮廷に入りたいなら、場違いだの引っ込み思案だのなんて、言ってられない。少ない機会をものにしなけりゃ、誰の目にも留まらず、出世は絶望的だ」

「チャコールのご両親には、挨拶したわ」

「チャコールが紹介してくれたからだろ」

ハイドロがグラスの中身を飲み干し、通りがかった給仕に空のグラスを戻した。

その時、フロラよりもこの場に不似合いな幼い男の子がふたり、ハイドロの名前を呼びながら駆け寄ってくる。それに気づいたハイドロは、子どもたちのほうへ向き直り、身を屈めた。

「どうした」

「子どもたちが寝る時間だから、ハイドロおじさんにおやすみを言いに来たの」

ふたりの後から、チャコールによく似た女性が近づいてきて言った。

「そうか、もうそんな時間か」

はしゃいで彼の足に抱きつく子どもの頭を撫でながら、ハイドロは目を細める。

「トライサ、俺が寝かしつけに行くよ。この娘はフロラ。チャコールのところの実習生で、慣れない場所に緊張してる。代わりにちょっと相手してやってくれ」

「あら、本当?」

トライサと呼ばれた女性が目を瞬かせ、フロラを見た。理解の追いつかないフロラがハイドロを引き留める前に、彼は両手にひとりずつ子どもたちと手を繋いだ。

「フロラ、自分の望みを叶えたかったら、機会を逃すな」

そう言って繋いだままの手を軽く振った。

「ここはそういう世界だ。さあ、お母様におやすみを」

言葉の最後は子どもたちにそう言って、子どもたちの声を聞くと、ハイドロは連れ立って部屋を出て行った。後に残った女性は、名前を聞いてすぐにわかった。チャコールの年の離れた姉だ。近くで見ると本当に顔立ちがよく似ている。

彼女は親しげに笑ってフロラに話しかけ、踊りは嫌いかとたずねた。

彼女が上手く答えられずにいる間に、トライサは舞踏用の音楽が鳴り響く広間へフロラを案内してくれた。嫌でなければ誰か踊りの相手を紹介する、という彼女の言葉をどうやって失礼にならないように断ろうか必死で考えていると、チャコールが近づいてきた。彼は指先で背後を示す。

「トライサ、呼ばれてる」

「もう、忙しいわね。ごめんなさいフロラさん、失礼するわね」

わずかに顔を曇らせたトライサが離れていくのを見送って、フロラは肩で大きく息を吐いた。

「あの方、お姉様? お姫様みたいにきれいな方ね。すごく親切にしていただいて」

「そりゃどうも。本人にも伝えるよ。それより、ひとりにしてごめん。踊りたければ、相手になるよ」

広間の中央へ視線を向けて、チャコールが右手を差し出した。

「いいの、やめて。チャコールと踊りたい人は、ほかにもたくさんいるはずよ」

フロラは慌てて首を振る。チャコールは苦笑した。

「楽しんでもらおうと思って招待したんだけどなあ」

「感謝してるし、これでも私なりに楽しんでるから」

彼の言葉が忍びなく、フロラは目を伏せた。

チャコールが口を開きかけた時、彼の従僕が近づいてきて主人に顔を寄せ、なにごとかを耳打ちする。チャコールは少しだけ片眉を上げた。

「わかった、すぐ行く」

立ち去る従僕の背中を眺めていると、チャコールがフロラに向かって言った。

「アデリルが来た。迎えに出てくる」

フロラは息を飲んで身体を硬直させた。

王女がキリエール家の新年会に出席するのは、毎年の習わしだった。だが今年、婚約して初めての年始は他の招待が忙しく、欠席しても失礼と思われないキリエール家への訪問は、取り止めになっていた。

招待を受けた後にチャコールからその話を聞き、フロラはがっかりしたけれど、ほっとしたのも事実だ。秘書官を目指しているとはいえ、フロラはまだ王女に直接会う心の準備ができていなかった。それで安心して招待を受けたのだ。

広間の入り口が静かにざわめき、両開きのドアが開くとチャコールの腕を取ったアデリルが入ってきた。

本物だ。広間の片隅で、人だかり越しに眺めていたフロラは、そう思う。

ミレステラが近づき、アデリルと握手を交わす。

「新年おめでとう、アデリル。来てくれて嬉しいけど、大丈夫なの?」

「新年おめでとうございます、おばさま。実はクランハルト卿のお宅に伺う途中なんです。通り道だから三十分だけってお願いして、クレセントに先に行ってもらいました」

「まあ、義理堅い娘ね。我が家ならいつでも良いのに」

「私が来たかったんです。新年最初の集まりは、キリエール家と決めていたのに」

微笑んだミレステラに、アデリルは苦笑した。

離れていたフロラには当然その会話は聞こえず、間もなく王女はキリエール家の客人たちに囲まれて、見えなくなった。フロラは人だかりの向こうにいる王女の姿を想像するだけだ。ぼんやりとしている彼女の傍らで、

「ほんとにアデリル王女よ」

「やっぱりキリエール家への挨拶は欠かさないのね」

「チャコールさんが惜しいんじゃない。その昔は男好きの噂もあったでしょう。ひとりじゃ物足りないのよ」

と、声をひそめた囁き声と、くすくすと笑う声が聞こえてきた。

フロラは思わず顔を向ける。豪華な衣装で着飾った、チャコールと同年代の美しい婦人たちが顔を寄せている。そのうちのひとりがフロラの視線に気づくと、一瞬真顔に戻り、それから彼女の頭からつま先までを素早く眺め、鼻で笑った。

フロラは思わず、先に顔を反らしてしまう。なにも恥じることはないはずなのに、羞恥で頬が火照るのがわかった。傍らから再び、くすくすと笑い声が聞こえて来る。

自分のことを笑われている気がして、フロラはいたたまれなくなった。

勝負したわけでもないのに負けたような気分で、フロラはその場を離れる。せめてもう一度、王女の姿を見よう、と彼女を取り囲む人垣に近づいた。

アデリルの前には次々と挨拶を待つ客たちが進み出る。笑顔で話しが弾む旧知の知り合いもいれば、あまり面識のない相手もいるようだ。傍らのチャコールが耳元で囁くので、それとわかる。

人垣を作る客たちに動きがあるので、フロラも次第に前の方へ押しやられ、王女がはっきり見える位置に近づいた。立ち尽くしてアデリルを見つめる彼女に、チャコールが気づく。視線を感じて顔を向けると、彼と目が合った。

彼は少しだけ意地悪そうに微笑んで、自分の腕を取り、別の客と話しているアデリルを顎で示す。そしてすぐに、フロラから視線を外した。

フロラははっとした。

チャコールは自分をアデリルに紹介する気はない。執務室でも言われたし、チャコールの元で実習生となってから今まで、その態度は一貫していた。

だから今、王女の腕を取り、間近にフロラを見ていても、彼からフロラに声をかけ、王女に紹介することは、決してないということだ。

もしこの機会を逃さず、王女と挨拶だけでも交わしたければ、今、彼女の前に並ぶ客たちのように、順番を待つふりをしながら他の客をかき分けて、王女の前に立たなくてはならない。

そんな大それた、図々しいことはできない。自分の身分には相応しくないし、アデリル王女に厚かましい人間だと思われたくない。

フロラはひとりでそう思い巡らし、小さく首を振った。

その時、頭の中でもうひとつ別の声が響いた。

『自分の望みを叶えたかったら、機会は逃すな』

ハイドロの声だ。頭の中でその声が消えないうちに、先ほど自分に向けられた、若い女性たちの冷たい嘲笑を思い出す。

『ここはそういう世界だ』

そうだ、とハイドロの声に、フロラは頷いた。

今夜の自分はまさにその世界に、もう立っているのだ。

フロラは持ったまま、すでに温くなってしまったグラスの中身を一息に飲み干した。近くの給仕に空のグラスを返すと、一歩踏み出す。三つ揃いを着た男の肩や、露わにした女の肩が、まだ彼女とアデリルを隔てている。フロラは身を縮こまらせ、人と人の間をすり抜け、時には押し戻されながら、やっとアデリルの視界に入る場所に立った。

チャコールがそれに気づき、かすかに目を上げる。やはりアデリルになにか言う気配はなかったが、次の動きに注目するように視線を向けていた。

だが、当のフロラはここからどうしていいのかわからなくなっていた。

その場でまごつき、動けずにいると、再びアデリルの前には別の客が並んでしまう。

その時、フロラにとっては神のような一声が聞こえた。

「あら、フロラ。あなたはお会いするの初めてじゃないかしら。せっかくだからご挨拶をしておいたら」

彼女の存在に気づいたミレステラが、優しくそう言いながら近づき、そっとアデリルの方へ肩を押してくれたのだ。それに勢いづき、フロラはアデリルの前に進み出た。

そう、フロラは王女の前に立っていた。

特徴的な赤紫の髪がわずかに上気した頬にかかり、同じ色の穏やかな目を今、フロラに向けている。遠くから見るとまばゆいばかりの王女は、目の前にすると自分より少し背の高い美しい女性で、そして彼方から見た時と同じように、フロラには眩しかった。

「アデリル殿下」

震えそうになる声を押し殺して、フロラは神妙に言った。

「フロラ・フロレンティーナと申します。お会いできて光栄です」

「フロラ? チャコールが担当してる実習生って、あなたのこと? 少しだけど、話は聞いているわ」

アデリルがそう言って微笑んだ時、今度こそフロラは歓喜に身を震わせた。

王女は私のことを知っていた。チャコールが私のことを話し、それを覚えていてくれた。

喜びの衝撃が余りにも大きく、王女が差し出した右手の意味が、すぐに理解できないほどだった。ひざまずいてその手にすがりつき、アデリルに感謝の気持ちを伝えたい衝動に駆られた。それが自分の気持ちを表すのに一番相応しい行動だったけれど、王女が求めているは儀礼的な握手だと気が付いて、フロラは自分も慌てて右手を出すと、そっと力を入れて王女の握手を交わした。

「どうして彼女が来てることを教えてくれなかったの?」

手を引っ込めたアデリルが、不服そうにチャコールを見る。

「来ないはずだったのはどっちだよ。それに、時間がないんでしょう」

素っ気なく答えたチャコールに、なんて無礼な物言いを、とフロラは血の気が引いた。

思わずフロラはアデリルに詰め寄り、口を開いた。

「アデリル様、わたし小さい頃に、殿下にお会いしたことがあるんです。ハイラントの養児院で。もちろん殿下は覚えてらっしゃらないだろうけど、わたしそこにいたんです。殿下が慰問にいらした時、わたしたちと一緒に食事をして、庭で遊んでくれたこと、忘れられません。本当に感謝しています」

後で思い返すと、飲み慣れない酒のせいとは言え、あまりにも唐突で脈絡のない言葉だった。

実際、チャコールも意外そうに見開いた目でフロラを見ていたし、アデリルも一瞬だけ目を丸くしたが、さすがに彼女は場慣れしていた。

「そうだったのね。ハイラントで育ったあなたが、アトラントの宮廷を目指してくれて嬉しいわ」

アデリルはそう言って、にっこりと笑う。彼女が次に並ぶ客に目を向けたので、フロラは自分の番が終わったことを知った。そそくさと王女の前から立ち去り、さらに彼女を囲む人垣からも離れ、壁際のカーテンの影に身を隠すようにそっと立つ。

フロラは自分の胸を押さえた。額に汗が滲んでいたし、心臓は早鐘を打っている。頭に血が上り、顔はさっきよりもずっと熱い。気分は高揚しているが、フロラは自分が喜んでいるのか恥ずかしいのかさえ、よくわからなかった。

アデリルと言葉を交わし、優しい笑顔を向けられたのはとても嬉しい。でもたった今、熱に浮かされたように口走った場違いな言葉を思い出すと、恥ずかしさに顔から火が出そうだ。

でも、と、フロラは唇を噛み、胸を押さえた手をもう片方でぎゅっと握る。

あの言葉を言えた。こんなにも早く。もし自分の人生の中で、アデリル王女と直接言葉を交わす機会があったら、なんとしても伝えたいの思っていた、あのことを。

一歩踏み出して、わたしは自分の望みを叶えたんだ。

フロラはそう思い、冷めやらぬ興奮に震えていた。

顔が火照り、呼吸は浅く、なんだかひどく喉が渇いていた。それでフロラは、ハイドロがしたように指先で給仕に合図を送り、盆に乗った小さなグラスをひとつもらうと、中身をぐっと飲み干した。



子どもたちを寝かしつけ、ハイドロは二階から一階へ下りた。広間に戻ろうと、薄暗い廊下を歩いていると、奥の方で人影が動くのが見えた。

「見つけた、ハイドロ。いいところに」

ハイドロは軽く目を瞠った。正面からドレスの裾をからげたエルビアが近づいてくる。

「来てたのか」

「探してたのよ」

彼女はハイドロの行く手に立ち塞がるようにして立った。彼は思わず足を止める。彼女と会うのは昨年の、王女の婚約式以来だった。彼女が自分を捜す理由に心当たりはなかった。礼儀として最低限の挨拶を交わしておきたい、というだけにしては、ハイドロを見る目つきは射抜くようだ。ハイドロはそれに気づいて、先に釘を刺した。

「広間に戻らないと、用件なら手短に」

「キリエール家の新年会には、必ず出るって噂は本当だったのね。宮廷の祝宴にも出ないのに」

「噂なんて大袈裟だな。俺だって出たいと思う集まりもある」

ハイドロは軽く笑って肩を竦めたが、エルビアは笑わなかった。

「この間会った時に」と、彼女は黒い大きな瞳でハイドロを見つめ、真剣な口調で続けた。

「誰も守護に選ぶ気はないと言っていたわよね」

「やっぱりその話か。その話は終わった。これ以上続ける気はない」

顔を顰めて軽く手を振り、ハイドロは立ち去ろうとしたが、エルビアが彼の腕を掴む。

「待って。少しだけ。あなたが誰も選ばないっていう話、チャコールからも聞いたのよ」

「だろうな」

「じゃあ、チャコールなの? あなたは誰も選ぶ気がないけど、あなたの守護はやっぱりチャコールなの?」

「自分の言ってることが、おかしいと思わないか?」

ハイドロは苦笑して、自分に取り縋ったままのエルビアを見た。けれど彼女のまなざしは真剣そのものだ。

「だけど、そういうことでしょう? 選ばない、という言葉だけで、あなたはいつもチャコールの傍にいる。キリエール家で過ごして、この家の集まりだけは欠かさない。王室よりもキリエール家を優先してる。理由はチャコールだって、みんな思ってる。あなたの守護はチャコールだと思ってる人が、どれだけいるか」

「俺にも好き嫌いはあるし、アトレイにいる時は、できるだけ快適な場所で過ごしたい。王室よりこの屋敷の方が、俺には居心地が良いし、キリエール家も歓迎してくれてる。それだけのことだ。チャコールとか、守護だとかは関係ない」

「なら、守護を選んでいないというのは、本当なのね。チャコールは本当に、あなたの守護じゃないね」

「そうだ」

ハイドロは静かに頷いた。エルビアが離れ、口を噤む。これで話は終わりかと思った時、彼女が顔を上げてハイドロを見上げた。

「私、あなたと取り引きがしたいのよ」

そう言って、彼女は素早く辺りを窺う。広間の方から音が洩れているが、人影はない。

ハイドロは少しだけ興味を惹かれて、彼女の顔を覗き込む。

「ハイドロに私の守護になってほしいの。ええ、守護を選ばないって話はよくわかってる。だから、ふりでいいの。必要な時だけ、ハイドロが私の守護のようなふりをして欲しいの」

「そんなことをして、俺になんの得が?」

「お金は払うわ。…今すぐは、難しいけど」

「エンシェン族は金には困ってない。王室に出入りを許され浮かれて豪遊して、首の回らなくなるバカもいないわけじゃないが、俺は違う」

「だったら、他になにかない? あなたに守護のふりをしてもらうのに、見合うだけのなにか」

「ないだろうな」

ハイドロがきっぱりと言うと、エルビアが、

「たとえば………私、とか」と、遠慮がちに呟いた。

それまで笑いを堪えていたハイドロは、とうとう吹き出した。エルビアが顔を赤らめる。

「バカ言え」

「そんなに笑わなくても」

「生憎、不自由してない。そんなことをしたら面倒が増えるだけだろ。自分に高値をつけるのは良いことだと思うが、良家の子女がそれを取り引き材料にしようとするもんじゃない」

「忠告のつもり?」

苦々しい表情で、エルビアは視線を反らした。

「私、良家の子女なんかじゃないわ。三代前に落ちぶれた貴族の婿の地位を、お祖父様が金で買ったのよ。ここに招かれてる良家のご令嬢とは違う、成り上がりよ」

「そのご令嬢たちと張り合うために、エンシェンの守護が欲しいのか」

「もう、この際だから言うけど」

と、エルビアは再び顔を上げる。

「エクテシアで兄が騙されて賭博で借金を作ったの。すぐに払いきれる額じゃなくて、あそこにいられなくなってここへ来たの」

「父親の資産は?」

「ほとんどが祖父の名義で売れないわ。それに先祖代々の領地を勝手に処分できないでしょう。レオルビカン家の体面があるもの」

「エンシェンの守護を手に入れたところで、借金が払えるわけじゃないだろ?」

「だけど、エンシェンと近づきになりたい上流階級の人間はたくさんいるでしょう。あなたが傍にいてくれれば、貴族との繋がりも増やせるし、私の家を援助してくれる人と知り合えるかも」

「玉の輿を狙うか」

悔しそうに唇を噛むエルビアを、ハイドロは見下ろした。彼女が必死なのは伝わったが、心は動かなかった。耳にするのは久々だが、正直、ハイドロにとってこの手の話は珍しくなかった。ただ、乱暴に断る気にもならなかった。

「話はわかった。それでも協力はできない」

「どうして、こんなに頼んでるのに」

「エルビアが考えているほど、エンシェン族にとって守護の存在は軽くない。守護を選んだことを一族に伝えて、ここに」

と、ハイドロは袖の上から二の腕を示した。

「印を入れる。一族の中での扱いも変わる。エルビアは守護の『ふり』というけど、そんなに簡単にはできない」

「あなたはもともと、守護を選ぶ気はないんでしょう。こんな時だけ、エンシェンの習慣を持ち出すなんて卑怯だわ。断る口実でしょう」

怒りを露わにして、エルビアが言った。ハイドロは軽く首を振る。

「俺が守護のふりをしたところで、借金の肩代わりしてくれる奴が現れるとは限らないだろ。それより、払えないなら現実的に破産の申し立てを考えた方が良い。アトラントでなら、今ある資産は没収されるが、借金もチャラだ。また一からやり直せる。家族の作った借金のために身を売るなんてバカなこと、考えなくて済む」

「破産なんて…。レオルビカン家はどうなるの」

「断絶するか、名前を買える奴に渡る。それだけだ。エルビアには残酷だと思うが、別に珍しい話でもない」

「ほんとうに、ここまで頼んでも、なにもしてくれないの?」

期待を裏切られた呆然とした表情で、エルビアが溜め息を吐きながら言った。

なにかしてやる義理はない、とハイドロは思ったが、口には出さず、代わりに言った。

「エンシェン族は魔法の杖じゃない。金の問題は、俺がいたところで解決するわけじゃない」

「そうよね。国や後ろ盾を持たないエンシェンだもの。借金まみれの貧乏女と取り引きするより、最初からなにもかも持ってるキリエール家の長男と仲良くしておくほうが、利口よね。あなたの立ち回りの上手さには、頭が下がるわ」

怒りに任せたこの言葉も、ハイドロの心を動かさなかった。同じようなことは、もう何度も聞かされて来た。それを知らないエルビアは、反応がないことに余計気を悪くして、さらに続ける。

「あなたもチャコールも、生まれつきたくさんのものを持ってるでしょう?どうして他人に分け与えようと思わないの? 当然のように持ってる人を間近に見て、羨ましいと思うのが、どれだけ惨めかわからないの? 」

「エルビアは自分が持っていない人間だとでも言うのか?」

ハイドロは壁際に張りついていたフロラを思い出しながら、彼女の頭からつま先まで見下ろした。

きれいに結い上げられた艶やかな黒い髪、怒りで上気した頬は明るく、窶れてもいない。身に纏うドレスは、今の彼女の収入には不相応なのだとしても立派で、今夜の集まりでも見劣りするどころか、彼女の美しさを存分に引き立てている。

「私にはなにもないわ」

エルビアは悔しそうにそう言ったが、ハイドロにはそうは思えなかった。

フロラはエンシェンの守護など要らない、分不相応だ、と言ったのだ。本当に手が届かないと知っている者は、手に入れることを想像できない。

ただハイドロは、貪欲に手を伸ばす者も、嫌いではなかった。

「チャコールみたいな立場にいたら…」

「この話にチャコールは関係ないだろ。それ以上言うな。ここがキリエール家の屋根の下だから話を聞くが、本当ならもう少し、乱暴に諦めさせることもできる」

ハイドロが静かにそう言うと、エルビアは少しだけ表情を緊張させた。彼は笑った。

「それじゃあ交渉決裂だ。さあ、もう行け。それとも俺が先に行くか? 付き添いはなしだ」

片手を広げてそう言うと、不満げな顔のまま、それでもエルビアが踵を返した。

遠ざかる彼女の華奢な背中を、そのまましばらくハイドロは見送った。



目覚めたフロラは横になったまま、視線を左右に走らせた。自分がいるところは薄暗く、装飾的な梁のある天井が目に入ったが、目を凝らさないとよく見えない。

身体を起こすと、頭が揺れるように目眩がした。顔が熱い。額に手を当て目を閉じ、呼吸を整える。もう一度目を開けてよく見ると、自分は着のみ着のままで、寝台に寝ていたようだ。

「起きたか?」

少し離れたところで声がした。ゆっくりと顔を向けると、壁際の椅子に座っているハイドロが、読んでいたらしい本から顔を上げるところだった。

「ハイドロ? あれ、わたし…?」

「キリエール家にいることは覚えてるか? ここは客間のひとつだ。強い酒を一気に飲んだだろ。カーテンの影で酔いつぶれてたぞ」

ハイドロは近づきながらそう言った。フロラの頭の中はまだ揺れが続いていたが、その言葉で彼女は自分の状況をはっきりと思いだした。

「あれ、お酒だったの? お水が欲しかっただけなのに…」

アデリルと言葉を交わした興奮で、フロラは給仕の盆に乗った飲み物の種類まで気が回らなかった。それを思い出してフロラは赤い顔をさらに赤くする。

「気づかずに飲んだのか」

ハイドロが苦笑して、枕元に置いた水差しとグラスを示した。フロラはありがたく水を注ぎ、一息で飲み干した。

「もっと飲むか?」

フロラは一瞬迷ったが、まだ喉が渇いていた。酔いが覚めていない勢いもあって、素直に頷く。ハイドロは一度その場を離れると、部屋の外にいるらしい誰かになにか言った。そのまますぐに戻ってくる。その間に、フロラはかすかだが音楽が鳴っているのを聞いた。

「わたし、どのくらい寝てた?」

「三十分くらいかな。酔いが覚めるまでここで休んでろ」

「ハイドロは? 広間に戻らなくいいの?」

広間では集まりがまだ続いているはずだ。

「チャコールの実習生を放置しておけないだろ。ここにいると言ってあるから、必要なら呼ばれる」

言葉の途中で彼は広間の方へ視線を向け、それからすぐにフロラの方へ戻すと、意地悪く笑った。

「しかし、いい飲みっぷりだな、フロラ様。チャコールのところで俺と会った時は、二日酔いの俺を軽蔑した目で見たくせに」

「軽蔑なんて、そんなわたし」

フロラは慌てて首を振ったが、確かに最初に会った時、得体の知れないハイドロに嫌な顔をしたかも知れない、と内心で青ざめた。

「…アデリル様に初めてお会いして、ご挨拶までできて、興奮してしまって」

「ああ、来てたみたいだな」

「ハイドロは会わなかったの?」

「子ども部屋にいたからな。でも、上手くやったじゃないか。チャコールが今日、おまえを招待したのは、アデリルは来ない予定だったからなのに」

なんと返事をしたらいいかわからず、フロラは俯いて空のグラスを弄んだ。その時、部屋の扉が軽く叩かれる。

「入れ」と、ハイドロが言うと、扉が開いてチャコールが入って来た。

ハイドロも意外だったようで、かすかに目を上げている。チャコールは手に盆を持ち、そこには水の入ったひとまわり大きな水差しを乗せていた。彼は寝台に近づきながら、

「フロラ、大丈夫? 気分はどう?」と、たずねる。

「まだちょっとふらふらするけど、もう大丈夫です。迷惑をかけて、ごめんなさい」

水を注いでもらう間、恥じ入ったフロラが寝台の上で小さくなっていると、チャコールが申し訳なさそうに言った。

「迷惑だなんて。具合が悪くなったのに、そんなこと気にしないで。まだ顔が赤いから、ここで寝てた方がいい。おれのほうこそ、フロラはこういう招待に慣れてないって知ってたのに、目配りが足りなかったよ」

「いいえ、チャコールのせいじゃありません。わたしが軽率だったんです。わざわざお水をありがとう。広間に戻ってください」

「おまえは?」

フロラの言葉に、チャコールはハイドロの方を向いてたずねた。ハイドロはわざと顰め面をしてみせる。

「廊下でエルビアに捕まって、同じことを繰り返されたから丁重にお断りした。だから俺はいない方がいいだろ。顔を合わせると気まずい」

「ああ、そういうこと」

フロラにはなんのことかわからなかったが、何かを察したらしいチャコールは、苦い顔で頷いた。フロラは注がれた水を、今度はひとくちずつ、ゆっくりと飲む。

ハイドロは立って壁際の椅子に戻り、再び本を広げて視線を落とした。チャコールが空になった水差しを盆に乗せる。

「そういえばフロラ…」

と、思い出したようにチャコールが言った。

「ハイラントの出身だったんだね。訛りもないし、アトラントだとばかり思ってた」

アデリルと顔を合わせた時の話だと気づいて、フロラは水のグラスを置き、顔を赤らめた。ハイラントはアトラントの北側の国境に接する隣国だ。五国同盟の加盟国でもあり、現在のアトラントとは友好的な関係にある。

「というか、ハイラントは養児院にいただけです。学校に上がる前に、今の両親に引き取られてアトラントに来たから、それから十二年間ずっとアトラントで育ちました。気持ちはアトラントの民です」

「アトラントはどこの民でも歓迎するよ。だけど、今の両親とか、養児院って…」

と、言いかけて、チャコールは自分は首を振った。

「いや、いい。なんでもない」

「…それってやっぱり、恥ずかしいことでしょうか」

「まったくそんなことないよ。この国では生まれは関係ない。重要なのは、どういう人間かってことだけだよ。ただ、家庭の事情に立ち入るようなことを聞くのは無礼だと思って」

チャコールが珍しく慌てたように、強く否定した。フロラは頷く。

「そうです。わたし、孤児なんです。だけど、隠してないし、里親の今の両親のこと、大好きだし、本当の親だと思ってる」

まだ火照った頭で考えながら、そう言って彼女はチャコールに笑いかけた。

「わたしはバルメアの、バルメリアっていう港町で生まれたんです。十七年前の内戦で生みの親を亡くして、そのまま死んだか行方不明になった子どももたくさんいたはずだけど、わたしは運良く誰かにハイラントまで連れて行ってもらえたんです。その時のことは、全然覚えてないけど」

部屋の壁際で、ハイドロが手にした本を取り落とした音が聞こえた。

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