<7>
マルカは診療所に面した裏通りに、馬の蹄の音が止まるのを聞いた。時計を見ると、午後二時五分前。時間通りだ。
診察室に入り、患者がやってくるのを待つ。さして広くもない部屋でも訪問客がくつろげるよう、淡いクリーム色の花模様の壁紙に、座り心地の良い一人掛けのソファを、マルカの対面に置いている。傍らのテーブルには面談の時間がわかるように、小さいが凝った細工の時計を置き、色ガラスの花瓶に花を活けてある。カーテンは閉め切っていても光を通す、軽やかな生地だ。
マルカにとってはできる限り気を配った、贅沢な部屋だ。それでも室内をちらりと見ただけで、難癖をつける訪問者は多い。
本当は診療所を名乗りたくないし、訪問客を患者とも呼びたくない。いつになったら、こうした偏見がなくなるのかしら、と午後の明るい陽射しの入る部屋を眺め渡してマルカは思う。ただ、彼女は医者の着るような裾の長い白衣を着ていた。医者のように身体を治療するわけではないが、白衣を着ると自分の身が引き締まるのだ。仕事をする自分になれる。それはマルカにとって重要なことだったので、こうして訪問客と会う時は、白衣を着るようにしている。
と、その時、扉をノックする音がした。
「どうぞ」
立ち上がりながら彼女が言うと、静かに扉が開いて、ひとりの青年が入ってきた。
「こんにちは、マルカ先生」
「こんにちは、チャコール。ようこそ、わたしの診療所へ」
そう言って微笑むと、訪問者の青年、チャコールもどこか戸惑ったように笑った。
マルカは素早く、彼の全身に目を走らせる。髪は乱れていない。顔色も良いし、表情も穏やかだった。背筋の伸びた立ち姿は、彼女が既に何度か会ったことのある、感じの良いチャコールそのものだった。
彼は少し落ちつかなげに、部屋の中を見渡す。
「どうぞ座って、あなたの部屋と比べたら、見劣りがして落ち着かないだろうけど」
「そんなつもりじゃ」
チャコールは慌てて首を振った。そして座りながら、
「意地悪ですね」と、かすかに苦笑する。
「だけど、本当にいい部屋です」
彼はもう一度部屋の中を見回してから言った。向かいの椅子に座って、マルカも笑う。
「そう思ってくれて嬉しいわ」
チャコールは微笑んだきり、黙った。テーブルの上の時計の秒針が進む。面談時間は限られているので、彼女は口を開いた。
「お母様は元気にしてらっしゃる?」
「はい、最近は寄付金集めで会うばかりだから、家でのお茶にも招待したいと言ってました」
「嬉しいけど…、やっぱりキリエール家は少し敷居が高いのよ」
「母にもそれとなく言っておきます。でも、気が向いたらいつでも来てください」
マルカはチャコールの母親よりも十歳近く年下だが、彼女とは長い付き合いになる友人だった。ひとしきり近況をたずねてから、
「それで…」と、マルカは言って続けた。
「なにから話しましょうか。話し難ければ、わたしの方から聞くけれど」
「すみません」と、チャコールは頭を振り、片手を額に当てた。
「こういうところに、慣れてなくて…。お願いしたのはおれなのに」
「謝ることではないですよ。チャコール、ここは宮廷じゃないし、わたしは貴族の大臣じゃないのよ。話すことは駆け引きじゃないとまず知ってほしいから、ここへ来てもらったの」
「…そうですね」
チャコールは頷くと、椅子の背にもたれた。
彼は最初、往診を強く望んでいた。チャコールに限らず、マルカとの面談を必要とする者は、彼女の診療所にやって来るのではなく、自宅や滞在先の宿に招こうとする者が多い。相手の身分が高ければ高いほど、その傾向が見える。そのぶん言い渡された診察代は、ずいぶん良かったけれど、彼女はそれをすべて断っていた。
チャコールも例外ではなかった。何度か往診の依頼があり、マルカがそれを拒否し続けたので仕方なく、彼は恥を忍んで今日この町中にある小さな診療所を訪れたのだ。
マルカは以前から彼のことを知っていた。友人の息子であるだけでなく、寄付金を集めなどに招かれると、彼はしばしばそこにいた。チャコールからすればマルカは母親に近い年齢なので、友だちのように親しくなるわけではないけれど、彼は礼儀正しく、そしてマルカの方も彼のことを感じの良い青年だと思っていた。
だから正直、彼が自分の面談を受けたい、と言い出した時は驚いた。
マルカから見れば、彼はなにひとつ不自由のない青年に見えたからだ。
アトラントの歴史にも名の残る名家キリエール家の長男で、法務長官の父親は、ゆくゆくは大臣になるだろうと言われている。遠い親戚にあたる次期女王のアデリルとは幼なじみで、今でも親しいことで有名だ。王立学院の法律科を好成績で卒業したあとは、父親のいる法務省ではなく外務省に入った。礼儀正しく実直な性格で、人望もある。育った環境のせいで敵も多いが、味方も多い青年だ。
彼が本当に望めば、手に入らないものなんてない。
それが、マルカから見たチャコールだった。
もっともマルカは職業上、なにひとつ不自由がないように見える暮らしの人々が、その胸の奥底にどれだけの不自由を抱えているかも、じゅうぶんに知っていた。ただ、チャコールもそのひとりだったことは、やはり少し意外だった。
「仕事のこと? それとも別のこと? いきなり話にくいことを言う必要はないのよ。順を追っていきましょう。まずは楽しかったことでいいの。最近、心弾むことがあった? 誰かと共有したいと思ったことはある?」
「実は…」
努めて明るい表情で言ったマルカとは裏腹に、チャコールは目を伏せ、言いづらそうに口ごもってから、それでも言った。
「先生の意見を伺いたいのは、おれのことじゃなくて、友人のことなんです」
「もちろん、友人との付き合い方に悩むことはあるでしょうね。私の知っている人かしら」
「えっと…、とりあえず友人のひとり、ということにしておいてもらえますか」
マルカは頷く。
「その友人と知り合ったのは、今から十年前です。コーゴル卿の屋敷に招かれた時に知り合って、その後に彼が、一年のうちの数ヶ月をアトレイで過ごすことになったので、親しくなったんです」
「それじゃあ十年前から今までずっと、親しいということね?」
「…そのはずです」
チャコールはマルカから視線を反らし、どこか悲しげな表情で首を傾げた。彼女の視線を意識して、というより、この場にはいない誰かのことを、頭に思い浮かべているようだ。
「友人と言っても、いつもずっと親しくしてるわけじゃないんです。その友人は一年の半分くらいしかアトレイにいないし、ひどい意地悪をされたことも何度もあるし、言い争いしたことも数えきれない。掴み合いの喧嘩もあります」
「チャコールもいつも品良く礼儀正しく、とはいかないのね」
その言葉に彼はマルカを見て小さく笑った。
「そうです。特に、彼の前だと。わざと嫌味を言ったり、無駄に突っかかったり。おれが悪い時も多いです。でも」
と、そこで彼は口ごもり、目の辺りを隠すように、両手で額を覆った。
「一緒にいると、本当に楽しいんです。友人はいろんな国に行くことが多いので、勉強の知識とは違う意味で、たくさんのことを知ってます。人の楽しませるのも上手いし、今までその友人といて、退屈だと感じたことがないくらいです。向こうがどう思っているかは、わかりませんが」
「良い友人と巡り合えたと、感じているのね」
「そうですね、そのはずです。ただ…」
手を下ろしたチャコールの顔から表情が消え、神妙な様子でなにか考え込む。それからマルカ見つめ、真剣なまなざしで言った。
「先生は、ここで患者から聞いたことを、他の誰かに話したりしませんよね?」
「もちろんよ」
「でも、ほんとうにこれは約束してほしいんです。決して口外しないと」
自分の打ち明け話が他人に洩れることを恐れるのは、訪問者のすべてに共通している。正直なところ、マルカが抱えている患者はチャコールひとりではないので、いちいち他人に言ってられないというのが本音だが、今は、チャコールの信頼を勝ち取らねばならなかった。
「私としては、約束する、としか言えないわ。チャコールがまだ私を信頼できなくて、だけど今の気持ちを話す必要があると思うなら、時間をかけましょう。少し別の話をして、あなたに信頼してもらえるのを待つこともできる」
「…ありがとございます。でも、おれが待てないかも知れません」
チャコールはそう言ってしばらく口を噤んでいたが、やがて話し出した。
「…友人は生まれが少し、複雑なんです。小さい頃、暮らしていた場所を追われたんです。友人の母親は、自分の友人に彼を預けて姿を消し、それから息子の前には一度も姿を見せていないそうなんです」
「小さい頃に、辛い経験をしているのね」
「きっとそうだと思います。おれは聞いただけで、想像することしかできませんけど」
チャコールはそう言って目を伏せる。
「その出来事は冬で、この季節になると、本格的な冬が来る前に、友人はその時のことを思い出すみたいで、うなされるんです」
「待って、友人の彼は、あなたの部屋にいるの?」
「ああ、そうです」と、チャコールは苦笑した。
「アトレイにいる時は、だいたいおれの部屋を宿にしてます。おれの寝台に上がり込んできたり、ソファで寝たり床で寝たり、自分の部屋があるのに、めちゃくちゃです。我が者顔っていうんでしょうか」
「あの大きなキリエール家のお屋敷で? 確かにそれはちょっと、好きにさせすぎかも知れないわね」
「でも、誰もあいつを怒れません。家族はあいつのことを気に入ってるし、あいつもそうです。使用人たちにも人気があります。家の者みたいに気取らないから。誰からも好かれる人間ってうさんくさいけど、外面が良くて、そういう人気取りが上手いんです」
「その彼が、今の時期になるとうなされるのね」
「うなされるだけじゃなくて、調子も悪くなるみたいです」
「たとえば、どんなふうに?」
「不機嫌になるんです。ずっと苛々して、些細なことで怒り出すし。この時期は喧嘩が増えます」
「それは困るわね」
そう言ったマルカを、チャコールはわずかに不安げな目で見つめた。
「困る、ことでしょうか…」
「どうして? あなたの友人が辛い思いをしているのは気の毒だけど、その原因を作ったわけでもないチャコールが、苛立ちをぶつけられるなんて、困るでしょう」
「そうか…」
チャコールはそう呟き、目を伏せた。そしてしばらく黙って考え込む。
「おれは、それで良いと、思っていたんです」
そう呟いた彼は、両手を組むとそこに視線を落とし、指先を弄ぶように動かした。
「それで気が済むなら、少しでもあいつの気が晴れるなら、この時期に少しくらい機嫌が悪くなるくらい、別に良いと思ってたんです」
「じゃあ、これからも友人の機嫌が悪くなっても、それを許すの?」
「それが…」
チャコールは口ごもり、しばらく考えてから、前髪をくしゃくしゃにした。
「アトラントであいつの生まれのことを知ってるのは、たぶん、おれだけなんです。それ以上は聞いても話さないから、そんなに詳しく知ってるわけじゃないけど。だからあいつが不機嫌になるのは仕方ない、辛い思い出を乗り越えるためだから仕方ない、おれはあいつの生まれのことを知ってるから、それを許せるって思ってたんです」
「…今でも?」
彼の顔を窺うように聞くと、チャコールはわずかに顔を歪めて、首を振った。
「違うのかもしれない」
そう言って彼は、自分の身体を抱くように腕を組んだ。
「あいつがおれに喧嘩を売っても、不機嫌になって苛立ちをぶつけても、傍にいてそれを受け止めるのは良いことだと思ってた。あいつの力になってると思ってた。あいつがなにをしても、おれは傍にいるってわかってもらえれば、いつかきっと、あいつの助けになると思ってた」
チャコールは苦しげにそう言うと、俯く。
「でも、それで十年経ちました。なにも変わらない。あいつは今年も明け方にうなされて、こないだまた喧嘩になりました。仲直りもせずにあいつはアトレイを離れて、きっと戻ってきたら、また何ごともなかったみたいに、おれの部屋で過ごすんです。いつものことです。いつものことなんですけど、いつになったら変わるんだろう。あいつが昔のことを思いだして、苦しまなくて済む冬は、いつになったら来るんだろう。そう思ったら…」
彼は顔を上げ、マルカを見た。
「おれにはなにも考えつきませんでした。だから、ここへ来たんです」
マルカは深く頷いてから、口を開いた。
「あなたがその友人を、とても大切に思っていることはよくわかったわ。今の話を聞いてひとつだけ、チャコールが思い違いをしているんじゃないかと、感じたことがあるの」
チャコールが不思議そうな視線を向ける。
「さっきも言ったけど、友人の辛い経験は、本当に気の毒だと思う。きっとチャコールの言うとおり、その人は自分の小さい頃が忘れられず、今でも苦しんでいるんだと思う。だけどそれは、あなたのせいかしら、チャコール? あなたに解決できることかしら?」
チャコールはまた頭を抱えた。それから苦しげに、呻くように言った。
「…解決できると思ってたんです」
まるでなにかの罪でも告白するかのように、チャコールは言った。
「今はわかってます。そんなのは自惚れだったと。だけど、おれはあいつの抱えてる問題を解決できるって思ってたんです。自分だけがあいつに信用されてると思ってた。おれはあいつを理解してる、だから助けられるって思ってた。
でも、十年です。学生だったおれは官吏になった。年上の友人は昇進したり、仕事を変えてアトレイを離れ、そこで成功したりしてる。幼なじみは結婚相手を見つけて婚約した。色々なことが変わっていくのに、おれとその友人との関係だけが、変わらない」
「それを変えたいと思って、ここに来たのね」
俯いたまま、チャコールは頷く。
「これから先の十年も、このまま運良くあいつの傍にいられたとして、毎年この時期に苦しむ彼を、ただぼうっと見てるだけなのよりは、ましな気がして」
「チャコール、勇気を持って話してくれてありがとう」
「勇気なんて」
情けないだけだ、とチャコールは顔を顰める。
「あなたの話を聞いていて、気になったことがあるの。まずはチャコールが先に、友人の問題を、自分の問題だと考えない訓練をする必要があるわ。同じ部屋にいては、チャコールとお友だちとの気持ちの境界が計れない。顔を合わせて、しばらく一緒に過ごすのは良い。だけど、夜を過ごす部屋は分けて。彼に自分の部屋を使ってもらうように言うの。まずはそこからよ」
「そんな、できません」
すぐに返ってきた言葉に、マルカの方が驚いた。
「…なぜ?」
「今まで何度も言いました。今だってたまに言っています。でも、成功したことがないです。おれの家にいる間、あいつに別の部屋を使わせるなんて、無理です」
「だったらせめて、寝台は分けるとか、あなたのお部屋は広いだろうから、あなたのスペースと、彼の使うスペースをはっきり分けることは難しい?」
「難しいどころか、そんなことできません。おれの言うことなんか聞きません。それに、今はいいんです。別の用事でアトレイにいませんから。戻ってくるのはしばらく先です」
チャコールは、今までとは別人のように首を振り、きっぱりと否定する。
「…友人との関係を、変えたいと思っているんでしょう」
「だから、あいつがいない間に、変えられるほかのことがあるはずです。もっとほかに、別のことが」
今までの話しぶりから、チャコールは自分が問題だと考えていることに取り組むことに、積極的だとばかり思ってた。だが、その前にもう少し、気づいてもらわなくてはならないことがあることを、マルカは思い知った。
「わかったわ。それじゃあ、なにができるか、次回までに考えておきます。チャコールも考えてみて。友人との関係を良い方向に変えるために、境界を作ることは必ず必要になるわ。チャコールの方が住まいを変えるのでも良いし、なにかあなたにできそうなことを、考えてみて」
「押しかけられて元通りのような気がしますけど」
「そうね、私には思いつかない解決法が、チャコールなら思い浮かぶかも知れない。自分で解決法を探してみて。最初は失敗しても、それをやっているうちにきっとできるようになるから」
チャコールはちらりとテーブルの置き時計を見た。診察時間が終わろうとしている。
「…次もやっぱり、ここへ来なくちゃならないでしょうか」
「ええ、それは守ってもらいます。ここへ来て、私みたいに母親に近い年齢の女の手を借りていると知られるのは恥ずかしい?」
「先生がどうっていうんじゃありません」
チャコールは少し慌てたように首を振る。
「恥ずかしいっていうより、ただ、情けないだけです。自分だけで解決できればよかったんですけど」
立ち上がりながら、チャコールは言った。マルカも立ち上がり、入り口まで彼を見送る。
「あなたがここへくることを、情けないと思わず、勇気を持って自分の問題に取り組むことだと思ってくれればいいんだけど」
「勇気なんて、そんな」と、チャコールは困ったように笑った。
「でも、まだ始まったばかりよ。少しずつ、一緒に考えていきましょう」
「ありがとうございます。おれも先生の言ったこと、もう一度考えてみます。それじゃあまた来月に」
「ええ、また」
部屋を出た彼が、しばらくして診療所の外に出る音がした。外に待たせていたらしい馬車に乗り、馬の蹄の音が遠ざかっていく。
その音を聞きながら、マルカは聞いたばかりの話を思い返した。
チャコールの言った『友人』は、まず間違いなくエンシェン族の青年のことだ。チャコールのほうでも隠せるとは思っていないだろう。そうするには、キリエール家の長男と、アトレイ王室に出入りするエンシェン族との親密さは、あまりにも有名な話だった。ただ、名前や属性を伏せることで、話しやすいというだけのことだ。
マルカはもう二十年以上、今まで老若男女、さまざまな立場の人の悩みを聞いてきたが、
非の打ち所がないと思われているチャコールですら、人知れず悩みを抱えているのかと思うと、少し悲しかった。しばらくそこでチャコールのことを考えていると、次の患者がやってくる物音が聞こえてきた。
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