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「おはよう、ハイドロ」

その声に、高地竜のそばにいたハイドロが振り向くと、アデリルとクレセントが近づいてくるところだった。

まだ夜が明けて間もない時刻、空気は肌寒く、濃い緑の匂いが立ちのぼる。今日の晴天を約束するかのように、空は高かった。ハイドロは軽く笑ってふたりに会釈する。

「朝早くから、もの好きだな」

ここはアトレイ郊外の丘の中腹にある、高地竜の飼育場だった。アトレイ王室は現在二頭の高地竜を契約していて、普段はここで過ごしている。

ハイドロはこれから、夏を過ごしたアトレイの高地竜を、故郷に連れ帰ることになっていた。そのうち一頭は高齢になったため、もう二度とアトレイに戻ることはない。故郷の山麓で野生に還り、仲間たちと共に余生を過ごす。

それに立ち会いたいと言ったのは、クレセントの希望だった。

ふたりが少し離れたところで立ち止まったので、竜の背で鞍を緩めたハイドロは、その場でふたりに視線を向けた。

「見に来たんだろ?」

「近づいても平気なのか?」

クレセントがわずかに固い面持ちで訊ねる。ハイドロは軽く笑って頷いた。

「竜の視界に入るようにゆっくり近づいてきてくれ」

高地竜一頭の体長は、ゆうに成人男性の六、七人分ほどもある。今は二頭とも翼をたたみ、地に顎と足をつけ、寝そべるような体勢でじっとしている。ふたりがそっと近づくと、金色の眼球がゆっくりと動いた。間近で見ると、鱗の光沢と厚さがよくわかる。

「アデリルは見慣れてるんじゃないのか」

「そうでもないの。見たいと言えば見せてもらえるけど、基本的には黒騎士隊が世話をしてるし、こんな風に近づいたの、初めてよ」

「意外だな、竜が珍しいのか? カルド王室にもいたはずだ」

「こんなに間近で見るのは初めてだ。俺は竜の飼育場に近づくこともできなかった」

「王室を飛び出してアトレイに来てよかったな、クレセント様」

「ハイドロ、止めて」

険しい目つきでアデリルは言ったが、クレセントは軽く笑って、

「まったくだ」と、頷いた。

ハイドロは手際よく、鞍と手綱を外していく。

「もう戻らない竜はどっち?」

「この竜だ」

アデリルの質問に、ハイドロが答えた。彼女は高地竜の頭の脇に進み出る。ハイドロは竜から下り、クレセントに近づいて、彼女の少し後ろに立った。

小さな人間の姿を追うように、金色の目の中の虹彩が動く。

「大人しいな」

牙の間から洩れる生温かい息がかかるほどの距離で、竜を見あげたクレセントが言った。

「もともと凶暴な生き物じゃないし、ひと夏ここで過ごして体力が落ちてきてる。人間にとっては戦の道具だから、荒っぽい印象を持ってる奴が多いけど」

「そう言われると確かに。俺も最初に高地竜のことを知ったのは、子ども向けの英雄譚だったかも知れない」

「私もだわ。ロースレンダー王に忠誠を誓ったエンシェンのグリアルゴが、西の蛮族たちを竜に乗ってなぎ倒すの。大好きな物語だった」

「アトレイで言うところの西の蛮族っていうのは、ラントカルドとホフストラトにまたがる地域だから、下手すりゃ俺の祖先だな」

「三百年近く経ってここまで友好的になれてよかったわ。文明ってやっぱり前に進んでるのね」

ふたりのやりとりに、ハイドロが笑った。

「伝説には尾鰭がついて話がでかくなるからな。火を噴く高地竜なんて、昔も今もいやしない。目にも留まらぬ速さで飛ぶのも、空中から襲いかかって人の頭を食い千切るのも、鋼鉄のようなかぎ爪の一撃で人を殺すっていうのも、全部作り話だ」

アデリルも、竜の目を眺める。

「きれいね。こんなきれいな生き物を、戦争の道具にしてたなんて。騎竜兵は英雄として、墓標と歴史書にその名が刻まれるけど、一緒に死んだ竜に名前はないものね」

「竜は墓標を立てて欲しいとは考えないだろうけどな」

「にしても、見た目じゃどの程度年を取ってるか、わからないな」

クレセントが二頭の竜を見比べながら言った。

「見分ける方法がある、エンシェンの秘密と言われてるが、ほとんど日頃の観察でわかる」

「軽々しく口にしていいのか?」

「高地竜の年齢がわかったくらいで、世話ができるようにはならないだろ」

「まあ、そうか」

ハイドロはアデリルの横に進み出た。そして年取った竜を見上げる。

「こいつは平地での適応力が高くて、アトレイに十年以上いた。今、二十歳くらいだと思う。竜の寿命は三十年前後と言われてるが、それは群れから引き離して平地に下ろすからだ。五十年以上生きる竜も珍しくないし、百年生きる竜もいると言われてる。誰も見たことはないけどな」

「ハイドロに高地竜の話を聞くと、素晴らしいものを借りてるというより、竜を苦しめるためにお金を払ってるみたいだなって、たまに思うのよ」

「カルド王室も何年か前からその話で揉めてる。竜には金がかかりすぎるのに、その金は税金だ。特にラントカルドは敗戦国だし、金を払って竜を借りても戦に負けた、と」

クレセントの言葉に頷いて、アデリルは再び高地竜に向き直った。

「いつか、王室で竜を飼わなくても良い日が来るかしら。王家の威信なんて実体のないもののために、竜を利用しなくても良くなる日が来るかしら。この竜を養ってるお金を、もっと他の、アトレイの民のために使える日はくるかしら」

「くるかじゃなくて、尽力しろよ、王女様」

「もう、今はまだ理想の話よ」

ハイドロは作業を終え、陽が上りきる前に出発するつもりだった。けれどアデリルとクレセントは、高地竜への興味が尽きないのか、その場から動く気配がない。

「触ってみるか?」

「いいの?」

アデリルが顔を輝かせて、ハイドロを振り向く。彼は軽く肩を竦めた。

「人間の匂いがつくと群れの中に戻れなくなるから、本当はダメだ。でもまあ、少しくらいなら害はない。特にこいつは、もうここへは戻ってこないし」

そう言って顎で竜を示すと、アデリルは手を伸ばして下顎の鱗に触れた。岩肌のようなざらつきと、金属のような固い感触。指先に、口から漏れる生温かい息がかかる。アデリルは顔を上げると、金色の目を見つめて言った。

「今までありがとう。故郷で仲間たちとゆっくり休んでね。私はあなたたちも、アトラントの民も、誰も戦場に行かせない国を作るわ」

「気は済んだか? 俺はそろそろ行く」

ハイドロが言うと、ふたりは竜から離れた。出発しようとハイドロは、離れたところで翼を畳んでいた自分の高地竜のところへ戻り、足をかけた。

「ハイドロ、待って」

振り向くと、アデリルが追ってくる。

「離れてろ」

「チャコールに伝言は?」

その名前に、ハイドロは一瞬だけ顔を顰め、首を振る。

「ない」

「また喧嘩したんでしょう?」

「俺と険悪になる度に、チャコールはアデリルに泣きつくのか? 喧嘩じゃない。ちょっと言い争いをしただけた。なあ、クレセント様」

言葉の途中で顔を顰めると、ハイドロはアデリルの背後、少し離れたところに立つクレセントに向かって、声を張り上げた。

「あんたのお姫さまに言ってやってくれ、仲良しの幼なじみだかなんだか知らないが、今までどおり男の出入りを自由にさせるのは、王女としての評判を落とすと」

「入り婿のせいで、あまり強い態度に出られない」

クレセントはにやりと笑って肩を竦める。ハイドロは大袈裟に舌打ちして見せる。

「本当にいいの? しばらく帰らないんでしょう?」

「一生帰らないわけじゃない。言いたいことがあったら自分で言う。アデリルには関係ない。そろそろ行くから、離れてくれ」

ハイドロはそう言いながら、アデリルには目を向けず、自分の竜にまたがった。アデリルは不服そうに顔を歪めたが、こうなると取り付く島もないことは、彼女にもわかっていた。クレセントに促され、アデリルはハイドロの乗った高地竜から離れる。

ちゃんとそれを見届けたハイドロが中腰のまま手綱を引くと、両翼を広げた高地竜がゆっくりと翼を動かした。辺りに風が巻き起こり、草地を揺らす。その勢いに、アデリルとクレセントはさらに距離を取った。

ハイドロの乗った高地竜が舞い上がり、竜は弧を描くように空中で旋回した。それを合図にしたように二頭の竜もはばたくと、後に続くように空中へ舞い上がる。三頭の竜はさらに高く上昇し、何度か飼育場の上を旋回した。

見上げていたクレセントは、思わず溜め息をつく。朝日を浴びて羽ばたく高地竜の姿は、溜め息が出るほど美しかった。

三頭の竜は間もなく故郷を目指して飛び立ってしまったが、高地竜の姿が小さな点となり、やがて見えなくなるまで、アデリルは悲しげな表情でその姿を見上げていた。



連なる断崖の先で、霧に隠され姿の見えない高地竜の鳴き声が聞こえる。

ハイドロはその声に耳を澄ました。空気は剥き出しの顔を刺すように冷たい。この場所は、数時間前までいたアトレイよりずっと気温が低かった。

遠くに聞こえる鳴き声を聞きながら、ハイドロは岩肌に沿って続く切り立った細い道を登っていた。下りて来た雲が霧となり、辺りの景色を霞ませては過ぎていく。見慣れた景色だが、ここへ帰る度、ハイドロはいつでも、慣れるまでにほんの少しだけ時間を必要とした。

アトレイの宮廷や、滞在先のキリエール家では、ハイドロの行く手には使用人が待ち構え、自分で扉を開ける必要さえない。

今から十年前、キリエール家が彼のために最初に用意した部屋は、日当たりの良い続き部屋だった。自分には広すぎるし、エンシェンの仕事を持つ彼はアトレイにいない期間も長い。加えてキリエール家にいても与えられた部屋で過ごさないので、翌年にはその部屋を独占することを辞退した。今のハイドロの部屋は狭すぎて、客はおろか、誰が使うにも不十分だと思われている余りもののような一室だ。それを客人であるハイドロの部屋にすることには、チャコールを含め家族の誰も良い顔をしなかった。

それでも、ハイドロは押し切った。

彼らが貧相だと考えているあの部屋には、ハイドロにはもったいないほどの広さと上等な家具が据えてあったし、どうせその部屋だってほとんど使わないのだ。それに部屋の広さなんて重要ではなかった。それ以上に、キリエール家からは恩恵を受けている。

朝も昼も晩も、その気になればいつでも、食卓には申し分ないほどの量と品数の料理が並べられ、浴室ではふんだんに湯を使える。夜は身体が沈み込んで泳げそうなほど広い寝台で眠り、寒い季節ともなれば一晩中、暖炉から火が消えることはない。煩わしいのでハイドロは断っているが、望めば自分専用の応接間や、従僕だって用意される。

それがアトレイでの日常だ。それが今はどうだろう。

歩くにつれて雲が去り、霧が晴れて目の前が見渡せるようになった。少し開けた平らな地面が現れ、そこを取り囲む山並みの壁面に張りつくようにして、雨風に晒された粗布づくりの天幕が建ち並んでいる。

変わりやすい山の気候に、少しでも強い風が吹けば飛ばされそうなほど貧相な天幕だ。

ここがエンシェン族の、ハイドロが物心ついてからのわずかな時を過ごしたバルメリアでの生活を除けば、長い時間を過ごした故郷だった。この場所には、ハイドロの天幕と呼べるものもない。一定の年齢に達したエンシェン族は、高地竜を利用して外の世界との商売を始めるため、集落に長く暮らすことはないからだ。

その時に空いている天幕を、適当に寝泊まりの場所にする。私物を持ち込んで増やしたり、部屋を飾ったりは、外の世界ですることだった。この場所へは高地竜なしに、麓から人の足だけで辿り着くことはできない。そのため、生活に必要な物資以外のものを持ち込むことは、禁じられてこそいないが歓迎されてもいなかった。

並んだ天幕の奥に、長の天幕がある。その周りに端切れで作った小さな旗が並んで吊るされ、山頂から吹き下ろす風に音を立ててたなびいていた。

「ハイドロだ」

厚い布の垂れ下がる入り口の前に立ち、ハイドロは奥へ声をかけた。

「おお、入れ」

中から応える声がする。布をめくり上げると、温かい空気が外へ流れた。同時に、食べ物と垢と汗を混ぜ合わせたような匂いが鼻につく。芳しい香りではないが、ハイドロには懐かしく嗅ぎ慣れた、エンシェン族の生活の匂いだ。彼は中に入り、後ろ手に垂れ布を下ろした。天井の中央には開閉式の穴が開いていて、今はそこから外の光が差し込んでいる。天幕の奥、古ぼけたストーブの前に椅子を置いて、そこにエンシェン族の長が座り、ハイドロを見ていた。

「帰ったか。アトラントはどうだ」

「いきなりだな。予定どおり二頭連れ帰った。ここへ来る途中で群れに戻して来た」

翼を広げて霧深い崖に飛び込んでいった高地竜の姿を思い浮かべ、ハイドロはかすかに笑った。背負っていた荷袋を下ろし、長が押しやった椅子に遠慮なく座ると、湯気の立つバター茶の入った器を渡された。

山羊の乳独特の匂いを嗅ぎながらそれをすすり、ハイドロは四ヶ月ぶりに会う長の姿を眺めた。以前会った時と、なんの変わりもない。

長く伸ばした炎色の髪を大雑把に編み込み、後ろでひとつにまとめている。長い髭も同じように編まれていた。エンシェン族は本来、髪を切らず髭も剃らないが、今ではそれを忠実に守る者は少ない。

ハイドロもアトレイにいる時にそんな無精と思われる見た目でいようものなら、チャコールが顔を顰めて、目も合わせてくれなくなるだろう。自分のためにもキリエール家のためにも、アトレイではその場に相応しく身だしなみを整えていた。そのせいか今のハイドロは、里に戻ってもアトレイと同じでいるほうが快適だった。

傍らの小さなテーブルに器を置いて、ハイドロは荷袋の中から少し皺のついた書類の束を取り出す。

「ご苦労だったな」

彼が差し出した書類の束を受け取って、長は手近にあった眼鏡をかけると、それに目を通し始めた。ハイドロは彼の顔をぼんやりと眺める。

正確な年齢は彼自身も知らないが、五十を過ぎた男だ。髭に埋もれた顔中に刻まれた皺は、生きた年数よりも深い。左耳の下から首に掛けて、藍色の刺青が刻まれている。

エンシェン族以外には唐草模様のようにしか見えないが、ハイドロにはそれが、エンシェン族として守護を失った印であることがわかる。彼が自分の選んだ守護を失ったのは二十年近く前だ。以来この山間に戻り、このささやかな集落を守る長となった。この集落で長く暮らすのは子どもを除けば、守護を失い、エンシェンとして力不足の烙印を押された者たちだけだ。

「あと、これ」

ハイドロはそう言って、小切手を差し出した。この薄汚れた天幕の中で、その紙切れはひどく不似合いだった。このやりとりをする度に、ハイドロは妙な気持ちになる。

この山奥では、小切手に書かれた金額を振り出すことすらできない。長は小切手を受け取り、ハイドロの渡した書類と見比べた。

「平地で世話する費用も少しずつかさむな。もう少し取れ。アトレイ王室なら払えるさ」

書類から顔を上げて、苦笑まじりに長が言った。ハイドロはだらしなく足を崩して、長の顔を見た。

「この山奥に、そんなに金が必要か?」

エンシェン族の里は決して貧しくはない。それどころか資産は潤沢にあると言っても良い。ただ使い道がないだけだ。この場所では宮殿を建てることもできないし、純金で作った箱車に鈴なりの馬をつけた馬車を持つことも、走らせることもできない。

「何度も教えたろう」

「『生活のために必要なのではなく、一族の価値を認めたという証に、支払われる対価』なんだよな」

「そうだ」

長が満足げに頷いた。ハイドロは軽く肩を竦めてから、首を振る。

「だから、里には十分入れてるだろ? あとは俺に任せてもらう」

小切手で渡したのは里に納める金で、アトレイ王室から世話代として彼に支払われる金は、また別だ。その金額はハイドロが自由に決めて良かった。立場を利用してあこぎな真似もできるが、ハイドロは使い切れないほどの金を持つことに、あまり魅力を感じなかった。

それにもうひとつ、金に汚いエンシェン族の噂が立てば、キリエール家の評判を落とすことに繋がる。誰にも話したことはないが、それはハイドロが絶対に避けたいことのひとつだった。

「アトラントは今、景気がいいと聞いたぞ」

「来年、王女が結婚するからな。相手はラントカルドの出身だから、たぶん式は二国にまたがる事業になる。海外からの投資も勢いづいてるし、旅行客も年々増えてる。アトレイにいると、町に活気があることを肌で感じる」

「披露宴では高地竜を使うか」

「さあな。今の王女は竜を見せ物に使うのを、快く思ってないからな」

「そんなアトレイでなら、新しい顔に出会うことも多いだろう。守護を選ぶ気にはなったか? いや、聞くのは無駄か」

「俺はエンシェンの掟すべてに従うつもりはない」

「いつもその繰り返しだな」

長が小さく笑ったので、ハイドロも首を振ると、バター茶を飲み干した。

「エンシェンに二言はない、だろ?」

「掟に従わない奴のために、その言葉があるわけじゃない」

長は呆れたように溜め息をついた。

「しばらくいるのか」

「地慣らしをソアがやってるはずだ。俺と交代して、ソアがホフストラトへ行く手はずになってる」

ここで言う地慣らしとは、高地竜を群れから引き離し、仲間のいない環境に慣れさせることだ。

「そうだったな。そうか、ソアが出て行くか」

長がわずかに顔を顰めた。ハイドロはその顔を覗き込んだ。彼はわずかに考えこむようなそぶりをして見せたが、まもなくハイドロに視線を向けた。

「ヨルンを覚えているか? 半年くらい前に会ってるはずだ。髪の黒い子どもだ」

「ああ」

ぴんと来なかったハイドロは、特徴を言われて思いだした。嫌な予感を抱きながら、

「それで、その子がどうした」と、先を促す。

「正式に、エンシェンとして迎えることにした」

「本気か?」

長は静かに言ったが、ハイドロは思わず顔を顰めて身を乗り出した。

「あの子にはエンシェンの特徴がない、と言って門前払いしたのは、あんたらのはずだぞ」

「そうだな。でも、話し合いを重ねて考え直した」

ヨルンという男児は、半年前に父親であるエンシェン族の男に連れられてここへ来た。燃えるような赤い髪と褐色の肌がエンシェン族の特徴だが、肌の色はエンシェンでも、ヨルンの髪は濃い茶色だった。長ずるに連れて、もっと黒に近くなるだろう。

短い挨拶を交わしただけだが、子どもらしい細い体つきと、見慣れぬ高地に身の置き所を探すような心細い表情を覚えている。

母親とは既に別れ、ヨルンの養育は望めず、父親はエンシェンとして守護を持つ身だ。息子の世話をしている時間はないというのが、彼の言い分だった。

「俺は反対だ。俺がいる間に、もう一度話し合いの場を作ってくれよ。俺も参加して良いはずだ」

「もう決まったことだ。既にヨルンはここで暮らして、今はソアが世話をしてる」

「あの子どもはいくつだった? もう、十二か三だったよな。今からエンシェンの護衛術を学ぶには大きくなりすぎてる」

苛立ちを隠さず、ハイドロは言った。

「できる限りのことは教え込む」

「エンシェンの誓いも終わったのか?」

「これからだ。ヨルンがここに来てから、まだ二ヶ月にもならない。一族としての資質を見極めるには、もう少し時間が必要だろうな」

「なら、誓いと刺青は止せ」

「そんなことはありえない。妙なことは言うな」

怪訝な表情で、長が彼の顔を窺う。ハイドロは自分の左の二の腕を服の上から叩いた。そこにも、そして目の前の長の同じ場所にも、エンシェンの証である刺青が刻まれている。

「刺青を入れたら、あの子からエンシェン以外の生きる道を奪うことになる。あの子の見た目はエンシェンじゃない。なのにエンシェンの刺青を持っていたら、あの子がどんな目で見られるか、考えたことがあるか? 刺青を真似してエンシェンを騙った詐欺師が、今まで何人もいたことを知ってるよな」

「高地竜の扱いを学ぶ者は、見た目が多少違ってもエンシェンだ。それにヨルンには身寄りがない。エンシェンに属することは、彼を助けることにもなる」

「父親がいる国の養児院に引き取ってもらう手だってあるだろ。エンシェンにならなくてもエンシェンの血を引いてるんだ。金を出してやればいい。どうせこんな山奥じゃ、使い道なんてないんだから」

「それは掟に背くことだ。なによりドランは自分の息子を、エンシェンにしたがってる」

「父親がエンシェンになれというから、息子はエンシェンになるのか? 違うよな。俺やあんたも含めて、自分の父親の顔を知ってるエンシェンなんて、半分もいないのに」

鼻で笑い飛ばすと、長は溜め息をついた。それから煙草を取り出し、一本をハイドロに勧める。彼が断ると、長は自分の煙草に火を点けた。

「正直なところ」と、煙を吐き出してから長が言った。

「見た目が多少エンシェンでなくとも、受け入れる必要がある。この二年、里には新しい子どもが増えていない」

「そりゃそうだろ。守護を選ぶから結婚もできないし、子作りは外でしろと言うくせに、炎の髪と土の肌を持つ者しかエンシェンではないなんて、くだらない掟があるんだからな」

高地竜を通して各国と取り引きするエンシェン族は、男女問わず集落に留まらず外の世界へ出て行くことを求められる。そして広く世界を知り、自身の守護を持ち、その相手に生涯を捧げることが、一族としての栄誉だ。そのせいで、結婚する習慣もない。

守護に選んだ相手と夫婦のようになり、子ども持つことも多いが、エンシェン族のとってそれは結婚ではない。守護を選ぶことを脇に置いても、必然的に知り合う相手は一族以外の者が多くなる。エンシェン族の数それ自体がとても少ない上、同族同士で子どもを設けることは、ごく希だ。

片親がエンシェンであったとしても、その子どもに常にエンシェンの特徴が現れるとは限らない。かつてはエンシェンの特徴を持つ子どもは、ほとんど強制的にエンシェンに帰属させられた。今はその反動か、それを望まない親が増えている。この里に連れて来なければ、誓いも刺青もない。エンシェン族として認められることはない。

「若い奴らはそう言うが、くだらなくはない。この掟のおかげで、エンシェンは三百年近くも生き延びてきた」

ハイドロはまとわりつく煙を軽く払った。

「三百年前なら、エンシェンの掟も優れたものだと思うさ。武力を磨き、権力者に取り入り、戦場で功を遂げる。守護なんて仰々しい言葉を使って忠誠を誓う相手を選んで、主君を守った美談を振りまき、エンシェンの名を上げる。その一方で高地竜を飼い慣らす方法を一族だけの秘密にして、国を相手に法外な金を取る。俺もご先祖さんたちには感謝してるよ。自分の出自も知らないならず者の俺たちが、宮廷に出入りして貴族顔負けのもてなしを受けられるんだからな。山奥の、こんなボロ天幕で育ったこの俺でもだ。俺ひとりだったら、こうはいかない」

「そうだ、この生活を守り抜いていることこそが、エンシェンの誇りだ」

長はそう言って、しばらく黙って煙草を吸った。ハイドロは椅子の背にもたれて、静かに息を吐く。

「本当に誇りか? 宮廷の奴らは、高地竜欲しさに上っ面だけ俺たちにへつらって、心の中では見下してるとわかっているのに」

「またその話か、ハイドロ」

短くなった煙草を消しながら、長は溜め息をつく。

「どう見えるか、というのは、とても重要なことだ。宮廷に暮らす人々や、時によっては王家の人間が、エンシェン族にはへりくだる。その月日が積み重なって、今のエンシェンの扱いがあるんだ。宮廷では貴賓として振る舞え。彼らに軽んじられるようなことこそ、避けるべきだ」

長も今のハイドロよりもっと若く、守護を持たず高地竜の世話をしていた日々、華やかな宮廷で豪奢な生活を手に入れていたはすだ。

「長の言いたいことはよくわかる。俺も生まれた家が金持ちだっただけの奴らに、見下されるのはごめんだ。けどな」

と、ハイドロは別れ際のアデリルとクレセントを思い浮かべながら続けた。

「エンシェンは見せかけだけで、本当はなにもない。高地竜は俺たちのものじゃない。ただ生きてるだけで、エンシェンはそれを勝手に都合良く利用しているだけだ。竜を扱う技術がエンシェンだけに継承されているのは、けっこうなことだが、今までたまたま外へ洩れなかっただけだ。エンシェン以外の者がその方法を知ったらどうする? エンシェンに価値はなくなる」

「たまたま洩れなかったわけではない。掟があるからだ。裏切り者は現れない」

「じゃあ、高地竜が必要なくなったら? 大戦が終わって何年経つ? 高地竜を兵器に使う国は減り続けてる。王家の威信を保つための飾りのとしては、金がかかり過ぎる。王室の存続に高地竜など不要だと、すべての国が考えたらどうする」

長はうんざりしたような顔で、首を振った。

「そんな日は来ない。高地竜はこの世の神秘だ。高地竜を持つ国は、神の神秘を手に入れるのと同じことだ」

「掟の暗唱だな。ヨルンって小僧にも、これからそれを覚えさせるか」

ハイドロはふと笑ってそう言い、それから真顔に戻る。

「来ないと決めつけるばかりではなく、来るかもしれない日を想像してくれ。もしも、だ。来年のアトラントでの王女の結婚式で、高地竜は使わないとなったらどうする? 」

「アトラントとエンシェンの付き合いは長い。王女の結婚ひとつで、その絆が断たれることはない」

「アトラントだけじゃない。ラントカルドでも間違いなく祝典が開かれるはずだ。そこでも同じように高地竜を使わないと言ったら? 二国同時に、それが新しい夫婦の方針だと全世界に広まったら、まったく影響がないと言えるか?」

「ハイドロ…」

片手を額に当て、重々しい口調で長は言った。

「我々もエンシェンの行く末を考えてないわけじゃない」

「わかってる。だから俺の話もこうして聞いてくれるんだよな。感謝してるよ。だけど、考えるだけじゃなく、もう次の一手を打つ時が迫ってると感じるんだ。長にもアトレイでしばらく暮らし、あそこの生活を見て欲しいよ。どうせ掟のせいで里から出られないと言うんだろうけど。

あの国を目指して、各国から人が集まる。五国同盟が結ばれてから王立学院では学生の交換留学を進めているし、関税が撤廃されたせいで労働者の流入も貿易も盛んだ。ものが溢れて、アトラントの民には生活を楽しむ余裕がある。庶民なのに、貴族のような生活をしてる奴も珍しくない。あの国の人々は、もう神や竜からは離れつつあるんだ。

その上、次期女王の結婚相手はラントカルドの元王族だ。王籍を捨てて臣籍に下っているが、ラントカルドとの関係も変わるだろうよ。五国同盟が六国になるかも知れない。すぐにことが動くわけじゃないが、少なくともラントカルドは間違いなくそれを狙ってる。

アトラントの影響力が強くなれば、アトレイ王室には神も竜も必要なくなる。今は人を惹き付ける高地竜も、守護の慣習も、古くさい因習になって見向きもされなくなったら? 

今でさえ、エンシェンの血を引く子どもたちはもう、髪も目も肌の色も、明るすぎるか暗すぎるかだ。混血を進めてきたのに、見た目でふるい落としてきたツケだ。それはもう止まらないし、親も子どもをエンシェンには差し出さない。

それなのに掟だなんだと、数少ない子どもに意味のわからない誓いの言葉を繰り返させ、身体を押さえて腕に刺青を入れて、一族から逃れられなくすることが、本当に誇り高い一族として正しいことなのか?」

「おまえがそれを言うのか? おまえはそれを選んだじゃないか」

「そうだ。あの時は、そうしなけりゃ生きられないと思っていたからだ。でも今は、俺を育て、生きる術を与えてくれたエンシェンに恩を感じてる。だから高地竜の世話をするし、王室からむしり取った金だって、持って帰ってこうして渡す。けれどエンシェンの掟にすべてを投げ出すつもりはない。この先も守護を選ぶ気はない」

「おまえがそのつもりでも、それじゃあいつまでもエンシェンの中では一人前だとは認められない。いつまでも高地竜の世話をしながら、この里と外を往復するだけでいいのか。

それに守護を選ぶことは、おまえが思うほどの束縛でも不幸でもない。一族に対する誓いよりもっと深い、自分自身への誓いを立てることなんだ」

「俺はそれにも賛成できない」

そう言ってハイドロは笑って見せようとした。だが、その笑顔が歪む。彼は諦めて、長の顔を見た。皺の中に沈んだ小さな双眸が、ハイドロに真剣な眼差しを向けている。

「自分自身への誓いと言うなら、複数人の守護を選んでも、選んだ守護を人生の途中で変えてもいいはずだ。エンシェンである前に、俺たちは人間なんだから。人を見誤ることだってある。その時の気持ちさえ真剣なら、それは一度の失敗で取り返しのつかなくなるようなことじゃないはずだ。でも、掟はそれを許さない。生涯にたったひとりじゃないと、守護に選ばれる側の価値が薄くなるからだろ」

「そうじゃない。自分自身への誓いは、そんなに軽いものじゃないだけだ。エンシェンが選ぶ守護の価値を高めるというのは否定しないが、生涯の誓いを立てるということは、自分自身への約束を守るということだ」

「その言葉が本当なら…」

ハイドロは片手を額に当てた。まっすぐに長の目を見ようとして、けれど続かずに反らしてしまう。

「どうしてあんたは首にそんな刺青を入れてる? なあ、グロンスタ、あんたは最高のエンシェンのひとりだよ。先細りのこの里をまとめ、俺みたいな若造の話にもこうやって耳を傾けてくれる。俺が小さい時、あんたがどんなに優れたエンシェンだったか、他の大人たちからたくさん聞いたよ。そのグロンスタが、どうして落伍者の刺青を入れられてるんだ」

「ハイドロ、当然だ。私は失敗したんだ」

「あんたの守護が死んだのは、どう考えてもあんたの落ち度や能力不足じゃない。わかってるだろ、あの時のバルメリアでは、誰もどうにもできなかった…」

今はこの里の長となったグロンスタは、自ら選んだ守護の女性と共に、バルメリアの市街地に暮らしていた。その女性が彼の目の前で殺されたのは、バルメリアの内戦の時だ。あの雪のちらつく寒い、ハイドロが丘の上の女神のところへ逃げたのと同じ日だと、だいぶ後になってハイドロは知った。

「せっかく生きてバルメリアを出られたんだ。こんな掟さえなければグロンスタが守れる相手が、もっと他にもいたはずだ。あんたほどの優秀なエンシェンを、落伍者にしてしまう掟が、正しいものだと思えない」

「それは違う、ハイドロ」

名前を呼ばれた長は、静かに首を振る。その両手の拳は、固く握られていた。

「私は失敗したんだ。私が道を読み間違った。私がもっと先を見通せていれば、あの時、あの場所に行くことを止めていれば…」

そう言いながら彼はもう一度、強く頭を振った。

「私は落ち零れだ。首の刺青は、私を表している。掟に従い、私は里を出ず、他のエンシェンに仕え、ここに骨を埋める」

「掟はエンシェンが生き延びるためにあったはずだ。それが今じゃ、エンシェンを滅ぼすものに変わってしまった」

「もういい、ハイドロ。おまえの気が変わらないことはわかった」

「臆病者は、次の時代まで生き残れない。エンシェン族は時代を切り拓く勇気を持てと教えられてきたのに」

「それでも今は、掟に従ってもらう」

「次の長老会の時には、俺も参加を。地慣らしは今日からソアと変わる。ヨルンって子どもは、俺が世話をするよ。折りを見て顔合わせをしてくれ」

長が頷いた。ハイドロはそれを見届けると静かに席を立ち、天幕の外へ出た。

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