<5>

外務省の建物の二階の廊下に並んだ窓からは、アトレイの宮殿が見えた。時刻は午を過ぎたところで、秋晴れの陽射しに宮殿の建物とそれを取り囲む前庭が照らされている。

フロラは扉の前に立ち、小さく息を吐いた。ここへ来るようになって二週間、窓からの眺めは見慣れたが、この扉の前に立つ時は未だに、少しだけ緊張する。

重たい木製のドアを軽く叩くと、中からは返事がない。部屋の主は出入りが多いので、不在かもしれない。そう思いながらも、フロラはもう一度扉を叩いた。

「…どうぞ」

かろうじて聞き取れる声が、中から聞こえた。主の声ではないが、ここに部屋の主以外の人物がいることは珍しくもない。フロラは返事があったことにむしろほっとして、とりたてて気にせずに、扉を開けた。

「失礼します」

そう言って、部屋の中に入る。中はこぢんまりとしているが、窓のカーテンは開け放たれ、陽射しがたっぷりと差し込んでいる。窓際に使い込まれた重厚な机と椅子、そこに誰もいないので、フロラはやはり部屋の主がいないことを見て取った。明るい草模様の壁紙の壁は、東側が一面書類棚で埋まっている。落ち着いた雰囲気の部屋だ。

「…誰?」

低い声が聞こえて、フロラはびくりと肩を震わせる。彼女の正面にはテーブルを囲んで応接用の長椅子と一人掛けが置かれているが、見回るとその長椅子に、誰かがうつぶせで寝ている。声と体つきは男だ。長く赤い髪がまとまりなく肩と背中に流れている。その髪の隙間から睨むように、不機嫌そうな目つきで男はフロラを見ていた。

「あの、わたしはチャコールに用事があって…」

刺さるような視線が恐ろしく、そう言ったフロラの声は上擦っていた。けれどそもそも、ここはチャコールの執務室なのだ。得体の知れない男に問われる覚えはなかったが、彼の威圧感に、フロラはそこまで頭が回らなかった。

「すぐ戻る」

呻くようにそう言うと、男はクッションに顔を埋めた。顔を見合わせなくて済んだことに、フロラはほっとする。ただ、身の置き所はなく、彼女はその場に立ち尽くしていた。それからそっと、長椅子に寝ている男を観察する。

顔は見えないが、背中まで届く赤い髪、服装は汚くはないが、だらしなく見える。この部屋には相応しくなく、町中の労働者のようだ。今、彼を見てわかることはそれくらいだ。どうしよう、と途方にくれた時、フロラの背後で静かに扉が開く気配がした。

振り向くとチャコールが入ってくるところだった。先に彼の方が気づいて、目を上げる。

「あれ、フロラ。早かったな」

「チャコール、こんにちは」

彼が盆を手にしているのに気づいて、フロラは駆け寄ると扉を押さえた。助かるよ、と言いながら、彼が部屋に入ってくる。

「少し待ってて」

と、フロラに言うと、得体の知れない男が寝そべったままの長椅子に近づいた。

「ハイドロ、薬」

そう言って彼は盆をテーブルに置く。粉薬の袋と伏せたグラス、なみなみと水の入った水差しが乗っている。

会話を聞いていたフロラは、彼らの背後で密かに目を丸くした。

ハイドロと呼ばれた。

それはアトレイ王室に出入りするエンシェン族の青年の名前だと、フロラでも知っていた。そして、彼がキリエール家のチャコールと、とても親しいということも。噂は本当だったんだ、と納得すると同時に、今まで想像上の人物にすぎなかったエンシェン族の青年が突然目の前に現れたことに、理解が追いつかなかった。

「頭が痛い」

「さっきも聞いたよ。今日の朝、騎乗訓練に立ち会うって前から言ってたのに。バカだな」

「朝まで平気だった。高地竜から下りたら一気に来た」

「完璧に二日酔いだね」

バカにするようにそう言って、チャコールは顔を上げないハイドロの髪を引っぱった。ハイドロが億劫そうに顔を上げ、上半身を起こすと座り直す。水差しの中身をグラスに注ぎ、チャコールが薬と一緒に彼に渡した。ハイドロは軽く頭を振って、粉薬を水で飲み干す。

「急降下がまずかった」

口元を袖で拭うと、ハイドロがグラスと盆に戻した。チャコールが顔を顰める。

「ボトルひとりで空けたからだろ。おれがもらったのに」

「どうせそんなに飲まないだろ」

ハイドロはクッションを置く位置を変えて、今度は仰向けになって目を瞑った。長椅子の肘置きの上に足を投げ出し、これまただらしない姿だ。

「フロラ、お待たせ」

チャコールが彼女に向き直って言った。ハイドロとの話はこれで終わりで、彼はそこにいるままなのかと、フロラはわずかに驚く。その驚きが伝わったのか、ああ、と、チャコールは苦笑してから、ハイドロを指し示す。

「フロラ、彼はハイドロ。宮廷で仕事をしてるエンシェン族だよ。聞いたことあるかも知れないけど」

「フロラ・フロレンティーナです。実習生として、チャコールのお世話になっています」

チャコール越しにおそるおそる自己紹介すると、反応がないと思っていたハイドロは目を開け、無表情のままフロラを見た。その視線はやはり鋭い。

「実習生? ってことは、学生か」

「王立学院の後輩だよ。今、卒業前の実習中で、省庁をいくつか回ってる」

「ふうん、エリートだな」

ハイドロはつまらなそうに言って、また目を瞑ってしまった。フロラは否定したかったが、誰も彼女の言葉を求める様子はなかった。ハイドロは動く気配もなく、チャコールの執務室にこのままいるようだ。

チャコールもそれ以上気にする様子もなく、机に向かうと、分けてあった書類を差し出した。中に目を通し、決済したものと確認が必要なものに分け、後でそれぞれの担当者のところへ書類を届けるのが、フロラの仕事だった。手伝いとも言えないような雑用だが、若い外務官の関わる仕事を、まずはこうして学ぶのだ。

いつものようにチャコールの他は誰もいない執務室だったら、応接用のテーブルに書類を重ね、一人掛けに座って作業している。チャコールは普段通りにテーブルの上に書類をまとめて置いた。

だが、フロラが一人掛けに座るとハイドロと向かい合ってしまう。彼の不機嫌そうな声と、鋭い目つきを思いだし、彼女はためらった。

「ああ」

尻込みしているフロラに気づき、チャコールは軽く笑い、いつもの一人掛けを示した。

「彼はいないことにしよう」

そんなのできるわけない、とフロラは思ったが、仕方なくいつものように座って作業を始めた。チャコールも机に戻り、自分の仕事を始めている。

しばらく室内では誰も話す者がいなかった。ペンを走らせる音や書類をめくったり、揃える音、それから廊下を誰かが横切る音など、部屋の外の物音が時折かすかに聞こえるだけだ。

フロラは書状の一覧に目を通す。当然だが五国同盟以外にも、アトラントと国交のある国の名前が並んでいて、主な貿易品などが次の項目に書かれている。昨年よりも取り引きする国が増え、アトラントの貿易は黒字だ。

どれくらいそうしていただろう。ハイドロの気配を感じなくなり、目の前の作業に没頭して彼の存在が気にならなくなった頃だった。視線を感じてふと目を上げると、いつの間かハイドロがフロラを見ていた。目が合った彼女はびくりと肩を震わせる。

「水」

無表情に彼がそう言って腕を伸ばしたので、フロラは書類を置くと、傍らにあった盆を持って差し出した。ハイドロがそれを取り、水差しに残っていた中身をグラスに注いだ。

「フロラ、ここには誰もいないから、相手にしなくて良いよ」

「おまえは病人に優しくできないのか」

「自業自得って言葉以外、まったく思いつかないなあ」

チャコールはそう言って笑っている。ハイドロが身体を起こして盆を戻そうとしたので、フロラは先にそれを取ってテーブルに置いた。そんな彼女を窺うような目で見る。

「フロラ?」

「はい」と、フロラは思わず、その場で姿勢を正した。

するとハイドロが初めて微かに笑った。

「びくついてるな、俺が怖いか」

「いえ…、緊張して」

そう言いながらチャコールに視線を向けると、彼も手を止めて、見張るような目つきでハイドロを見ている。

「実習中にしちゃ子どもっぽいな。年齢は?」

「十八です」

「ずいぶん若いな。チャコールが実習を受けた時は、二十歳を超えてたぞ」

「飛び級したんです。早く学校を卒業して、勤めに出たくて」

「立派な心がけだ」

「ハイドロ、やめろ」

座ったままチャコールが厳しい口調で言ったが、ハイドロは見向きもせずに軽く手を振っただけで、取り合わなかった。

「外務官になるのか?」

「いいえ」

と、首を強く振った後、フロラはさらにその言葉を打ち消すように両手を振った。

「って、試験に受かるかどうか、わかりませんけど。王女の秘書官を目指してるんです」

「アデリルの秘書官? 正気か?」

ハイドロは片眉を上げ、笑いをかみ殺すような表情になってフロラを見た。そんな彼にチャコールは冷たい視線を向けている。なにかおかしなことを言ったかと、フロラの鼓動は早くなったが、自分の正直な気持ちだったので頷いた。

「…はい、本気です。王女の役に立ちたくて」

「宮廷の権力図がこれからどうなるか知らないのか? フロラ様。今の流行は、外務官を目指して、ラントカルド大使の覚えめでたくなることだ。将来の女王の夫の愛人の座を狙う」

「なんて無礼なことを!」

チャコールがたしなめる前に、フロラは身を乗り出し、かなり強い口調で言った。

ハイドロは一瞬目を瞠ったが、すぐにからかうような薄笑いを浮かべ、腕を組んだ。

「秘書官なら待遇はいいかも知れないが、宮廷の中でも特に王女付きは、もっとも清廉であることを求められるからな。親衛隊と同席することも多いのに、あいつらと火遊びさえできない。我慢の連続だ。バレたら解雇だし」

少しの間をおいて言葉の意味を理解したフロラは、顔を赤らめる。

「興味ありません。だから秘書官を目指しているんです」

「今は興味がなくても、そのうちに興味も出てくるだろうさ。宮廷には旨味もたくさんあるからなあ、まあ…」

ハイドロはそう言って、不躾な視線でフロラを眺める。

「今の格好じゃ、あの連中をたぶらかすのは難しそうだが」

灰色がかった金髪の髪を後ろでひとつに纏め、今は制服姿だ。とりたてて不美人だと貶されたことはないが、美人だと誉められたこともない地味な顔立ちに、それを支える小柄で貧弱な体つき。自分の容姿に不満があるわけではないが、特にこの場所にあっては冴えないことを、フロラは自覚していた。視線に耐えられず、思わず俯く。

「ハイドロ、フロラの邪魔するな。病人なら黙って寝てろ。優秀な学生で、引く手あまただよ。外務官だろうと、秘書官だろうと、求められるのは能力の高さで、見た目じゃない。フロラ、ハイドロのことは無視して。相手にしなくて良いから」

「実習生は薄情なおまえと違って、俺のことを無視なんかしないさ。なあ、そうだろ?」

「いえ、あの…」

フロラは返事に困って、険しい表情のチャコールと、薄笑いを浮かべたハイドロを交互に見た。

「エンシェン族の方とお会いするのは、初めてなので…」

「なら、付き合い方も練習しておかないとな、フロラ様」

「でも、からかうのは止めていただきたいです」

できるだけ顔を顰め、不快さを表しながらそう言うと、ハイドロは微かに笑い、片手で頭を支える姿勢で寝そべった。彼を最初に見た時からずっと、だらしない格好だ。

「まじめな話、あんたが目指す宮廷では、野心的で貪欲でないと生き残れないぞ。そうでない奴ははじき出される。成績だけで評価されてた今までとは違う」

フロラはハイドロの顔を見て、弱々しく頷いた。それは実習が始まり、いくつかの省庁を回って気づいたことだ。アトラントの政治を動かす建物の中は、フロラの想像する宮廷とは別の華やかさと、緊張感があった。

学院の中で勉強に励むのとはまったく違うなにかが必要なことを、フロラは肌で感じていた。そして自分がそれを身につけられる自信は、今のところなかった。

「秘書官の座もな。アデリルに面通ししろとチャコールに頼んだか? 無駄だったろ。そういう融通の利かない奴なんだ」

チャコールの手前、頷くことはしなかったが、フロラは黙って目を伏せた。

自分の指導係のひとりがチャコールだと知った時、フロラは正直、自分にも好機が巡ってきた、と気分が高まった。チャコールとアデリル王女が親しいのは旧知のことだ。そして実際、顔を合わせたチャコールは予想以上に、一介の学生でしかないフロラに礼儀正しく、親切だった。自分が王女の秘書官になることを望んでいることを知れば、アデリル王女に紹介してもらえるかも知れない。

淡い思いとは言え、そんな期待を抱いたのは事実だ。顔を合わせるようになって二週間、フロラは何度かアデリル王女に憧れていることをチャコールに伝えたが、チャコールが友人に声をかける様子は一度もなかった。

「フロラの希望は聞いてるよ。だけど、公私混同はできない。秘書官だろうと女官だろうと、アデリル付きになりたかったら、それこそ実力で勝ち取ってもらわないと」

静かにチャコールが口を挟んだ。ハイドロが彼を指さす。

「チャコールの言うことが正解だ。口利きを頼まれるなんて、それこそアデリルには日常茶飯事だし、あいつから紹介されたらフロラの印象が悪くなる。開きかけた道も閉ざされる」

チャコールも軽く頷く。フロラははっとして、ハイドロを見た。

「ハイドロ様は、アデリル様ともお親しいのですか?」

「微妙だな。俺の仕事はアトレイ王室相手だし、アデリルはチャコールの友人だ。公私ともに付き合いはあるが、親しいかどうか。あと、『様』は止せ。気持ち悪い」

「でも、わたしよりずっと上の身分の方ですし…」

ハイドロはわずかに眉を顰める。

「知らないのか? エンシェンに身分はない。もし身分で分けるとしたら、エンシェンは下の下だ」

「そんなこと。エンシェン族には、誰もが敬意を払うはずです。高地竜を乗りこなし、守護を持つ神秘の一族だもの」

「そう習うのか」

フロラが頷くと、ハイドロが寝ころんだ姿勢のまま薄く笑った。

「フロラもエンシェンの守護が欲しいか」

「要りません!」

悲鳴のようにフロラは即答した。ハイドロは、そしてチャコールもその口調の激しさに一瞬、目を丸くし、それからハイドロは笑い出した。

「こんなにはっきり振られたのは初めてだ。若い世代には、エンシェンの守護なんて古臭くてみっともないか」

ハイドロの言葉と態度にフロラは青ざめ、次にチャコールに視線を向け、彼が俯いて笑いを堪えているのを目にして、赤くなる。

「…そうじゃなくて、畏れ多いってことです。わたしみたいにただの学生で、日常的にエンシェン族の方と接する機会のない人間は、エンシェンの守護を持つなんて想像もできないんです」

「でもエンシェンは別に、身分が高いとか金持ちだからって理由で守護を選んだりしないぜ。それに手に入らなくても、欲しいものを欲しいと言うくらい自由だろ」

「欲しいとも思いません」

フロラは小刻みに首を振った。

「だって、わたしには分不相応です。そりゃ、王女付きの秘書官を目指すのだって厚かましいと思われるかも知れないけど、それは頑張って勉強して試験に合格すれば、たどり着けるかも知れない場所です。でも、エンシェン族の守護に選ばれたりするのは、幸運とか、生まれ持った魅力とか、そういう努力とは別のことでしょう? わたしにはないものです。身の丈に合わないものは、欲しくないんです」

「この殊勝な言葉を聞いたか? チャコール。なんでそこまで謙遜する? フロラだってここまで上り詰めたエリートじゃないか」

「わたしは…」

フロラは控えめに苦笑して、首を振った。

「そんなんじゃないんです。ここまでこれたのは、アトラントの制度のおかげです。少し勉強ができたから奨学金をもらえたし、今は寮の生活費も出してもらってます。育った家は普通だと思ってたけど、官吏を目指すような女子は、みんなすごくお金持ちの家の娘ばかりで、未だにちょっと引け目を感じるもの」

「もう十年以上前から、省庁だけじゃなく宮廷で働く人間も、家柄や人脈じゃなく、能力で採用するようになってる。今は宮廷勤めの人間の半分は、上流階級の出身じゃないはずだよ…って、おれが言っても説得力ないけど」

脇からチャコールが言って、最後に少しだけ肩を竦める。

キリエール家のチャコールは、本人さえその気になれば、働かずとも家の資産だけで暮らしていける。外務官に籍を置くのは体の良い道楽のひとつだと、くちさがないことを言う者も多いことを、フロラですら知っていた。

「フロラの欠点は野心がないのと、積極性に欠けるところだな」

「ご忠告は肝に命じますけど、そんなにすぐに身に付きません」

憮然としたフロラに、ハイドロは笑う。そして再び重ねたクッションの上に頭を乗せ、仰向けになり天井を見ると、肘置きに足を投げ出した。

「チャコールは? まだエンシェンの守護が欲しいか」

「おまえは誰も選ばないだろ」

「俺以外のエンシェンは?」

「おまえ以外のエンシェン族と知り合う機会はない」

じゃあ、とフロラが見ている前で、ハイドロは意地悪そうに笑った。

「もし俺が、守護を決めたら?」

「しつこいな、守護は持たないだろ」

口調がいくらか乱暴になったので、フロラがちらりとチャコールを見ると、彼は明らかに気を悪くした表情で、ハイドロを睨んでいた。慌てて目を反らし、手つかずだった書類を手に取る。

「もしもの話だ」

チャコールはおそらくわざと聞こえるように溜め息を吐き、投げやりに言った。

「祝砲を撃ってやるよ。おまえに向けて」

「祝いの席で悲劇を起こす気か? キリエール家のチャコールともあろうものが」

「日頃の行いを考えろ」

「若い世代だったらいいのかもな。フロラみたいに、これからはエンシェンの守護を軽蔑する奴らが出てくるのかも知れない。エンシェンを崇める奴は、古い人間になる」

「まだ酔ってるのか? おまえが軽蔑されるのは当然だけど、一族全体を巻き込むな」

チャコールの表情が次第に険しくなり、反対にハイドロは身体を起こして楽しそうに彼を見ている。まるでわざとチャコールの嫌がることを言って、それを楽しんでいるかのようだ。チャコールの不機嫌な顔を見るのは初めてで、フロラは内心、落ち着かなくなる。完全に取り残され、はらはらしながらふたりのやりとりを見守っていたが、聞き捨てならない言葉に、

「あの、わたしはエンシェン族を軽蔑なんてしてないし、言い争いは止めて…」

と、やっと口を挟んだ。

ふたりが同時にフロラに顔を向け、先に我に返ったような顔をしたチャコールが頷く。

「そうだ。今話すことじゃない。仕事中だ。ハイドロ、薬が効いてきたならやっぱり二日酔いだよ。気分が良くなったなら、出て行けよ」

「どうして医者でもないチャコールに、俺の気分が良いか悪いかがわかるんだ。もう少し休息が必要だ」

「じゃあ、黙って寝てろ」

乱暴にチャコールは言って立ち上がると、フロラに近づいた。

「フロラごめん、今日はハイドロが邪魔をするから、終わった書類だけ持って階下に行って、学院へ戻って。あとはまた明日」

そう言われると、フロラは頷くことしかできない。

テーブルの上の書類を揃えて小脇に抱えると、フロラは立ち上がった。チャコールが部屋の入り口まで見送ってくれたので、彼女は声をひそめてたずねる。

「大丈夫ですか、ハイドロと一緒にいて…」

「いつものことなんだ、心配しないで。ハイドロは今の時期ちょっと調子が悪くて、今日みたいに飲み過ぎたり、理由もなく不機嫌になる。嫌なものを見せてしまってごめん」チャコールは再びフロラの知る彼の顔で苦笑して、そう言った。

「それじゃあ、また明日」

フロラが軽く頭を下げて挨拶すると、「また明日」と、チャコールも言葉を返し、彼女の目の前で扉が閉まった。

そのまま廊下を歩き、一階へ下り、書類を渡す部屋へ向かっていたが、フロラは唐突に気がつく。今日のチャコールは変だ、と。

ここは外務省の建物で、チャコールも、実習生とは言え自分も仕事中だった。ハイドロは本来この場所とは関係ない、単なる訪問者のはずだ。

なのにチャコールはハイドロを追い出さずに、フロラの仕事を終わらせた。ハイドロは二日酔いだと言って動かなかったけれど、だったらなおさら、あの部屋に寝かせておく理由はない。

アデリルのことでは『公私混同できない』と、あれほど決然と言ったのに。

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