<4>

「ハイドロ、アトラントに行こう。あなたは私の後を引き継いで、アトレイ王室のエンシェンになるの。あの国の自由な風は、きっとあなたに合うと思う」


自分の育ての親代わりだったエンシェン族のクルフが、そう言ってハイドロをエンシェンの里から外へ連れ出したのは、彼が十六歳の時だった。

もっとも、ハイドロは自分の正確な年齢を知らない。おそらくそのくらいだろうという推量だ。生まれた日も知らない。バルメリアの内戦を逃れてハイドロを里に連れてきた母親は、幼い彼を他のエンシェン族に託しただけで、多くを伝えないうちに里を去り、それから今日まで一度も姿を見ていない。もう顔も声もおぼろげだった。

里に残されたハイドロは、人の足ではたどりつけない山奥でエンシェンとしての誓いを立て、左の二の腕にエンシェンの証である刺青を彫られ、高地竜の世話と扱い方を教わり、そしていつか守護を持つ時のために、エンシェンに伝わる護衛術を叩き込まれて育った。

高地の生活は過酷だったが、ハイドロはエンシェンのしての才に長けていた。それに、その生活しか知らなかったせいで、逃げだしたいと思ったことはなかった。

一方でクルフからその言葉を言い渡される前にも、既に彼は何度も里の外へ出ていた。高地竜の世話も、取引先での仕事もない時、エンシェン族は稼いだ金を持って、自由に世界を飛び回ることを許されている。国を持たず、どこにも属さないエンシェン族は、国の許可なしに国境を越えることができた。そうした時間に、クルフはハイドロを里から連れ出し、あちこちの国に連れて行き、そこの景色と人々の暮らしぶりを見せてくれた。

外の世界へ出ることは、定められた運命でもあった。だからハイドロはその言葉を聞いた時、自分がすでに訪れたことのある国々の景色をぼんやりと思い浮かべ、期待も恐怖もなくただ、来る時が来た、と思っただけだ。

今思い出しても、クルフは彼女なりに、ハイドロのことを考え、親身に世話をしてくれていたと思う。そうして彼はクルフに連れられて、アトラントを訪れたのだ。

場所は首都アトレイではなかった。アトレイに程近い場所に土地を持つ貴族の屋敷に、クルフは招待されていたのだ。広大な農園と、そのさらに先まで広がる、手つかずの自然が残る領有地。その中に村があり、少し離れたところに、城のような領主の館が建っていた。目の前に運河の流れる開放的な庭に客人を招いての、園遊会だった。それに相応しく季節は初夏で、天には抜けるような青空が広がり、外にいても快適な気温の昼下がり。

それがチャコールと初めて出会った日だ。

エンシェンの里の外にでるのも、アトラントを訪れるのも初めてではなかったとは言え、ハイドロはエンシェン族が客として招かれることがどういう意味を持つのか、よくわかっていなかった。

屋敷にはクルフと自分以外にも、五十人ほどの招待客がいた。そのほとんどがアトレイ王室に縁のある貴族たちだと、ハイドロはずっと後になって知った。中には本当に貴族かどうか疑わしいごろつきも混じっていたと知ったのは、それよりもさらに後のことだ。

庭で談笑する男たちのほうは皆、明るい色の背広で似たような服装だったが、レースの日傘を差してそぞろ歩く女たちは、歩くたびにふわふわと裾がひるがえるドレスに身を包んでいた。ハイドロが訪れたことのある市井で見かける町娘の服装よりも、布の量がたっぷりとしていて、それなのに軽やかさを感じさせる。上等な服だと、疎い彼にもわかった。

屋敷を臨む庭には、平たい屋根の天幕が張られ、その下には敷布を掛けたテーブルが並び、テーブルの上には脚付き食器に盛られた果物や肉料理、魚料理がところ狭しと並び、客の皿に取り分けられるのを待っていた。その周りで、揃いの服を着た屋敷の使用人たちが忙しく立ち働いていた。

外の世界を知っているつもりだったハイドロは、正直呆然としていた。

アトラントを知っていると言っても、今まで見たことのある市井の暮らしとは、かけ離れたなにかがこの場にあることを肌で感じた。

中でも最もハイドロを戸惑わせたのは、屋敷の主人や、他の招待客の振るまいだった。

あの場に立ったハイドロは、エンシェンの里から出てきたばかりの自分の身なりが、薄汚いと思ったことを覚えている。他の客に比べて明らかに見劣りがし、使用人たちの制服のほうがずっと立派だった。自分の服は生地はくたびれ、垢じみていた。この場に来る前、クルフはやんわりと着替えた方がいいと助言を与えてくれたのに、ハイドロはいつもの服装で何が問題なのかと、聞き入れもしなかった。その上、燃えるような赤い髪に、岩肌のような色の肌の持ち主は、自分とクルフのふたりだけだ。

だから居並ぶ客たちが、自分とクルフに関心を向けていることに気づいた時、ハイドロは悪目立ちしているのだと思った。

だが、その場の何人もが既にクルフと知り合いで、親しげな挨拶と気易い世間話を交わす様子は、クルフや自分を悪く思っているようには見えなかった。

それどころか客の視線がハイドロのほうへ向き、クルフが彼を客の前に押し出すようにして、

「ハイドロです。そう遠くないうちに彼が私の後を引き継いで、アトレイで高地竜の世話をする予定です」

と、言うと、自分を見る目が変わるのがわかった。それから彼らは例外なく、クルフに向かって耳打ちするように、何ごとかをたずねる。

彼女は答えを囁いたりしなかった。

「いいえ、まだです。彼はまだ選ぶ時期ではないんです」

守護を持つことを言っているのだと、ハイドロにもわかった。クルフと同じく、左の二の腕には刺青が入っているが、守護を持った印は、まだ刻まれていない。

入れ替わり立ち替わりする華やかな客に、クルフは同じ言葉を言い続けた。

客のほとんどはハイドロよりもずっと年上の大人たちで、彼らはハイドロに丁重に挨拶し、親しみのこもった笑顔を向けた。握手を求める者もいた。戸惑ったハイドロがまごついても、怒りの目や呆れた表情を向ける大人はひとりもなかった。

ハイドロは察しが悪いほうではない。あの場にいたわずかな時間で、今自分たちに向けられている関心と、この広々とした庭でのもてなしは、自分がエンシェン族だからだと理解した。金のかかる高地竜と、守護を与える立場の人間だからだと。

エンシェン族というだけで、この薄汚れた身なりの自分に、華やかに着飾った金持ちの大人たちがへつらう。

その感覚を、ハイドロはあの時初めて味わった。

それから食事が始まり、一同が人心地ついて、やや中だるみの雰囲気が辺りに漂い始めた時だった。

「クルフさん、よろしければ、甥を紹介させてください」

端のほうの席にいたクルフとハイドロのところへ、少年を伴ったひとりの婦人がやって来て言った。彼女の脇には、ハイドロよりももっと幼い少年が立っていた。

少年の存在には気づいていたが、彼はあまり大人たちの輪には加わらず、隅のほうで目立たず自分の身内だけを相手に過ごしていて、ハイドロに近づく気配もなかった。

目の前に立った彼は年齢の割に背が高く、その時のハイドロとは今よりも身長差が少なかった。けれど体つきは少年特有の細さを残していて、顔つきはまだ明らかに幼い。彼を前に押しやるようにして、婦人が朗らかに言った。

「年齢も近いでしょうし、親しくなれるのでは」

まだ子どもじゃないか、と心の中で思いながらも、ハイドロは立ち上がる。少年の前に立つと、それまでほとんど表情のなかった彼は笑顔を浮かべ、榛色の明るい目でハイドロを見上げた。そして、

「チャコール・キリエールです。エンシェン族の方とお知り合いになれるなんて、光栄です」

と、手引きでも読み上げるような口調で言って、右手を差し出した。ハイドロはその手を取って握手を交わしたけれど、自分より年下のチャコールのほうが、明らかにこの場に馴染み、初対面の相手との握手にも慣れていた。ハイドロは顔にこそ出さなかったが、少年の急な変化に戸惑う。

今ならすぐに茶化す言葉のひとつやふたつ浮かんでくるが、あの時ハイドロは、思い返すとどこか気後れしていた。不慣れなその場の雰囲気に飲まれていたのだ。

「あなたがチャコールなの?」

ハイドロが返事をする前に、クルフが少しだけ驚いたように目を瞠った。

「はい。クルフさんのことは、父と母から伺っています。お世話になっていると」

「お世話になっているのは私のほうよ」

微笑んでクルフも立ち上がり、ハイドロの肩に片手で触れる。

「お会いできて嬉しいわ。彼はハイドロ。私の後に、アトレイ王室のエンシェンになってもらうつもり」

クルフはその日何度も繰り返した言葉を言ったが、隅のほうにいたチャコールは初めて聞くことのようだった。軽く目を瞠り、一度だけハイドロと彼女を交互に見た。

ハイドロはもっと後、チャコールと親しくなってから、あの時のことをたずねたことがある。するとチャコールは鼻の頭に皺を寄せて、

「あー、なんだか薄汚い奴がいるなあと思ってさあ。クルフさんしかエンシェン族のことを知らなかったから、エンシェンだって言われても信じられなくて、近づきたくなかったなあ。こんな浮浪者みたいな奴が、宮廷に出入りするなんて嫌だなあ、と思ったよ」

と、心からの正直かつ率直な感想を教えてくれた。それを聞いたハイドロは無言で笑顔を浮かべ、小突いてやった。

だが、あの時はまだ、彼のことをなにも知らなかった。クルフがそんな彼の耳に顔を寄せ、そっと囁く。

「キリエール家の令息よ」

ハイドロは『れいそく』という言葉を知らなかったが、その家の子どものことだとは察しがついた。だが、それがどういう意味を持つのかまでは、わからなかった。

「それがなにか、問題なのか?」

ハイドロが不思議そうにクルフを見ると、目の前の少年と、彼を連れた婦人が意外そうに目を上げる。クルフは少しだけ慌てた口調で、

「キリエール家はアトレイ王室に近い、歴史ある家柄なの」

それを聞いてもハイドロはぴんと来なかったが、その時のハイドロは、それ以上考える必要はなかった。

「そうだ、丁度良い。チャコール、彼に手合わせを頼んではどうですかな」

近くの席で彼らのやりとりを眺めていた初老の紳士が、軽く手を鳴らして割って入ったからだ。ハイドロとチャコールは同時に彼を振り向く。

「この場では、不躾だと思いますが…」

チャコールはそう言ったが、紳士は軽く笑った。

「なに、めったにない機会だ。打ち負かせばエンシェンの守護が手にはいるぞ」

その言葉を聞いた周りの大人たちが、声を忍ばせて笑った。

それを見たハイドロは、言いようのない気分になる。クルフを見ると、彼女はほほえんだままだったが、それでもわずかに表情が強張っていることに、彼だけは気が付いた。

あの時の自分の気持ちを、とっさに理解できなかったのも無理はない。あとになってハイドロは思う。あの場にいた客は全員、エンシェン族は特殊な修練を積んでいると知っていたはずだ。高地竜を世話する技術だけでなく、将来守護を選び、そのたったひとりの人を守るための技術を。それなのに、あんな風にエンシェンの習慣を、大人たちが居並ぶ場所でからかい調子に言われたのは初めてだった。

「こんな子ども相手に」

胸の奥がざわめくのを感じながら、ハイドロは首を振って見せる。

「きみだってまだ子どもだろ。気楽にやればいいのさ。年も近いし、子どものお遊戯だと思って」

別の席から囃し立てる声がして、辺りが再び笑いに包まれる。

バカにされている。今度こそハイドロははっきりとそれを感じて、胸が悪くなる。顔を顰めるのは堪えたが、次の言葉が出なかった。

あの時はチャコールのほうがよっぽど冷静だった。彼は表情こそなかったが、ごく穏やかな口調で、

「子どものお遊戯で、目の肥えた方を楽しませるなんてできませんよ」

そう言って、その場を収めようとしていた。けれど頭に血が上ったハイドロは、それに気づかず勢いで、

「俺は構わないけど」

と、口にしてしまった。小さな歓声が上がったのを聞いて、失敗した、とすぐに思ったけれど、周りの大人たちが動き出し、ハイドロは引っ込みがつかなくなった。

どうするのかと思っていると、どこから木の棒が用意され、それがハイドロとチャコールに手渡された。間近でよくみると、脱穀用の打ち棒だ。これを剣に見立てて勝負しろということらしい。子ども相手のおふざけだと思ったハイドロには、どうでも良かったが、チャコールは憮然としていた。

ふたりは天幕の下から庭に連れ出され、その後ろから物見高い大人たちが続く。

芝生が途切れ、地面が剥き出しになった平らな場所に、ハイドロはチャコールと向き合った。左手に棒を握った少年を見て、彼は左利きなのか、とぼんやり思った。

「審判はわたしが務めよう」

先ほど彼らを囃し立てた初老の男がそう言って進み出る。ふたりのまわりに少し距離を取って、まばらな人垣ができた。

それを見たハイドロはようやく、本当にこの子どもと、まねごととは言え手合わせするのだ、と気がついた。

「それでは、互いに礼」

重々しく言われたことばに、チャコールが先に頭を下げる。ハイドロはこんな風に格式ばった手合わせをするのは初めてだったが、チャコールの真似をして礼をすると顔を上げ、改めて向き直る。

「では、初め」

棒の先、真剣だったら切っ先を、軽く打ち鳴らす。すぐにふたりは相手との距離を取る。棒を構えたチャコールは真剣な目でハイドロを捉えた。そしてすぐに打ち込んでくる。ハイドロは難なく避けたが、その動きは思ったよりもずっと正確だった。身軽なせいか、次の動作へ移るのも速い。応えるようにハイドロも打ち込むと、切っ先の動きでかわされた。

目を反らさず、常にハイドロの動きを追い、動く時も重心は身体の低い位置で保ったままだ。力こそ足りないが、ハイドロは感心していた。

彼が剣を学んだのは、おそらく学校だろう。教本の動きも悪くない、と思ったものだ。

けれど、彼が学んでいることと、エンシェンの自分が習い覚えたことはまったく違う。

ここにいる誰も知らないことだが、エンシェンで学ぶ戦法は、守護を持つことを前提にしている。勝つためならどんな手段でも、つまり卑怯なことでもなんでもする、というのがエンシェンのやり方だった。

自分の知る剣術に比べて、チャコールはあまりにも正々堂々としている。それに、年齢による体格差も大きい。

久しぶりの打ち合いと、チャコールの動きを楽しんでいたハイドロだが、やがて勝負を決めるために大きく動いた。少年の動きの一瞬の乱れを逃さず、まず脇腹に一突き入れる。杖術のたしなみもあるハイドロはもちろん、すぐに腕を引き、力を逃がすことを忘れなかった。それでもチャコールがバランスを崩す。すかさず、彼はチャコールの左手を払った。彼の手にしてた棒が高く舞い上がり、チャコールは尻餅をつく。

棒は観客のところまで飛んだ。その周りが騒然とする。

「勝負あり、ハイドロ」

その声が響き渡った。

ハイドロは棒を置くと、チャコールに近づいて手を差し出した。彼は軽くハイドロを睨むと、その手を振り払って、ひとりで立ち上がる。汚れた衣服をはたいてから、ふたりは再び向かい合い、最初と同じように礼をした。

「やはりエンシェンは手強いな」

審判役の男が、チャコールに笑いかける。少年は彼とハイドロを順に見渡し、

「真剣だったら」と、憮然として続けた。

「ぼくが勝ってた」

言葉に悔しさを滲ませ、ハイドロを睨みながら言ったその言葉に、ハイドロは一瞬、呆気にとられた。

今までの行儀よく取り澄ました少年は姿を消し、感情を剥き出しにしたチャコールが、目の前に立っていた。

あの時のチャコールの背後と頭上に広がる空の青さを、ハイドロは今でも覚えている。

その景色に彼は突然、愉快な気分が込み上げ、場違いにも笑ってしまった。

「そんなわけあるか」

笑い出したハイドロに、チャコールはますます顔を顰めた。その表情こそは年相応で、ハイドロは自分が大人げない気持ちにすらなった。

「でも、おまえは見込みがある。俺より年下だろ?」

「おまえじゃない。チャコールだ」

「じゃあ、チャコール」

「なんだ、もう一試合やるつもりかね」

脇に立った男が口を挟んだが、ふたりは顔を見合わせ、すぐに同時に首を振った。

「もう少し長く楽しませてもらっても良かったかな」

彼は満足げな表情を浮かべながらもそう言った。チャコールがなにか言いたげな目つきで見たが、それを制するようにハイドロが先に言った。

「次にやったら本当に俺が負けるかも。皆さんの前で無様な姿をさらすのはごめんです。ご容赦を」

おどけたように言って肩を竦めると、チャコールも脇から口を挟んだ。

「ぼくもこれ以上服を汚すと、母さんに叱られます。紳士に相応しい態度じゃないって」

「まだまだ母親が怖い年頃か」

チャコールは済ました顔に戻って頷いた。紳士がふたりに向かって背を向けたので、観客となっていた大人たちも、それで終わりだと思ったようだった。人だかりがばらばらになり、天幕の下の席に戻る者、連れだって散歩する者とに別れる。そのうちの何人かが近づいてくるのを感じて、ハイドロはそっとその場から立ち去ろうとする。

傍らのチャコールも同じことを考えたようで、同じようにのろのろと歩き出す。

結果的になぜか、ふたりは連れだって大人たちから離れることになった。芝生に覆われたなだらかな坂を下る。少し先に運河の流れが見えた。午後の陽射しを反射して、水面がきらきらと輝いている。

しばらく黙っていたが、先にチャコールがハイドロを見上げて口を開いた。

「あなたはアトレイに来るの?」

「あなたじゃない、ハイドロだ」

「じゃあ、ハイドロさん」

「『さん』も要らない」

聞き慣れない呼ばれ方が居心地悪く、ハイドロは顔を顰めて首を振った。

「じゃあ、ハイドロ。ハイドロ。いいのかな、会ったばかりだし、年上なのに」

他人を呼び捨てにするのは、チャコールのほうに馴染みがなかったようだ。彼は何度か口の中でその名前を繰り返している。ハイドロは小さく笑った。

「『さん』づけはかえって気持ち悪い。エンシェンの間だと、年齢は関係なく名前を呼ぶだけだ」

「でもぼく、エンシェンじゃないし」

「エンシェンじゃなくても、エンシェンを呼ぶ時はエンシェン風に」

「そっか、そう考えればいいのか。エンシェン風だ」

そう言うとチャコールは、納得したように頷いて笑った。ささやかとは言え、初めてチャコールが笑顔を見せた。その表情はまだあどけなく、年齢よりも幼いようにすら見えた。彼はそのままハイドロを見上げ、質問を繰り返した。

「ハイドロはアトラントのエンシェンになるの?」

「よく知らないけど、クルフがそう言ってるから、そのうちにそうなるかも知れない」

「そっか」

チャコールは少しだけ残念そうに言って、前を向いた。坂を下ってきたので、既に大人たちの姿は見えなくなっている。陽射しは明るく、庭の緑の匂いが立ち上り、静かだった。

「クルフさんだったらいいな、と思ったけど、守護は決まっちゃったね」

「そんなことないだろ。ここへ来たのは俺に仕事を教えるためだ」

「だって、次の人が来るって、そういうことでしょう?」

首を振ったハイドロを、チャコールは不思議そうな目で見つめ、首を傾げた。

ハイドロはもう一度否定したが、あの時のことを思い出すと、少しだけ胸が痛む。結果的には、チャコールが正しかった。ハイドロはなにも知らされていなかっただけだ。けれどクルフを責めることもできない。なにも告げずに、彼女があの場に自分を連れて行ったことを、ハイドロは今も感謝している。ただ、そう思えるようになるのは、もっと後のことだ。

「チャコールもエンシェンの守護が欲しいのか」

「欲しくない人なんて、いないよ」

どこか挑戦的にチャコールが言った。こうしてふたりで話していると、チャコールの表情は大人たちに囲まれている時とはまったく違った。それに気づいたハイドロは別の表情も見たくなり、冗談めかして言った。

「じゃあ、どうする。俺に頭を下げるか」

チャコールは一瞬目を瞠り、それからまた笑顔を浮かべた。ハイドロはつい、その顔に見入ってしまう。

「お断りだよ。キリエール家の男子たるもの、そう簡単に頭は下げられない。ハイドロこそ、もうちょっと身なりをきれいにして、どうしてもって言うなら、選ばれてあげてもいいよ」

生意気な口ぶりは、ハイドロに負けず劣らず冗談っぽさが滲んでいた。ハイドロは笑って、

「残念だな、俺は誰も選ばない」と、答えた。

エンシェンの里で育つ間、ずっと考えていたことを口に出し、誰かに告げたのは初めてだった。チャコールがまた目を瞠る。いつのまにか運河が目の前に近づいていた。ふたりは手前で足を止める。せせらぎの音が耳に心地よかった。

「守護を選ばないエンシェンなんていないよ」

「今までいなかっただけだ。俺はそうなる」

「でも、掟じゃないの? エンシェン族は国を持たない代わりに厳しい掟があって、独自の規律を生きるって聞いたよ」

「その通りだ。けど、すべてのエンシェンが、すべての掟に従う必要はないはずだ」

ふうん、とチャコールは頷いて、つかのま水面を眺めてから、もう一度ハイドロを振り向いた。

「ハイドロは、新しいエンシェンなんだね」

チャコールはそう言って笑った。あの時の陽射しの眩しさも、水面の輝きも緑の匂いも、風の色さえ、ハイドロは覚えている。そしてそのどれよりもハイドロの胸に焼き付いているのが、チャコールの笑顔だ。

ちょうどその時、ハイドロは遠くで自分を呼ぶ声を聞いた。クルフの声だ。屋敷の方を振り向くと、小さな人影が黒く見える。たぶん、自分たちを呼んでいるのだ。

「戻るか」

ハイドロが言うと、チャコールが頷く。彼らは来た道を引き返した。

少し前を歩いていたチャコールが、ふと思いついたように振り返る。

「でもさ、ハイドロって変な名前」

「そりゃ、キリエール家のおぼっちゃまの名前には負ける」

「エンシェンの名前なの?」

「いいや」

ハイドロは首を振り、一瞬考えた。けれど自分を見上げるチャコールと目が合うと、こう言った。

「バルメリア風だ」

あの時なぜ、そんなことを言ったのか、ハイドロは未だにわからない。十六歳のあの時すでに、彼は同族にすら、自分の生まれを話さなかった。

なのにチャコールには言ってしまった。けれどそれは、必然のようにも思っている。

チャコールが笑顔を見せてくれた時、ハイドロは嬉しかった。そしてその表情をきれいだと思った。それに応えたいと思ったのだ。

ふたりが戻ってきたのに気づいたクルフと別の大人たちが近づいてきたので、それ以上話が続くことはなかった。チャコールは今まで見せた豊かな表情が嘘のように、また取り澄ました態度の少年に逆戻りしていた。

それきり園遊会が終わるまで、チャコールと長く話す機会はなかった。

その後、クルフはまもなく守護を選び、里に戻り刺青を入れ、アトレイ王室のエンシェンの役目をハイドロに受け渡すと、選んだ相手のもとへ行ってしまった。今では守護に選んだ男との間にふたりの子どもを設け、夫婦のように暮らしている。子どもたちはエンシェンにはならず、彼女と顔を合わせるのは、今はもう二、三年に一度だ。

彼女の言葉通りハイドロは、アトラントの高地竜の世話を引き継いで、アトレイ王室の客となった。まもなくチャコールと顔を合わせることが多くなり、親しくなるかならないかのうちに、ハイドロはアトレイでの住まいをキリエール家に移していた。

そしてエンシェン族であるだけでなく、彼と友人であることは、宮廷で大いに役に立った。王室に近しいキリエール家を後ろ盾に持つ効果は絶大だった。

チャコールを知って初めて、ハイドロは世の中に、自分が生きているのと同じ世界に、こんなにも、なにもかもすべて持って生まれてくる者がいることを知った。

けれどハイドロが彼と親しくなったのは、決してそれを利用するつもりだったからではない。ハイドロはチャコールといる時はいつでも、初めて会った園遊会の続きのような気持ちだった。

笑顔が見たかった。チャコールに会うたび、ハイドロはそんな衝動に駆られる。

初めて向けられた時、きれいだと思い、未だにきれいだと思っている、あの笑顔を。

こんな風に思っていることを、ハイドロは誰にも打ち明けたことがない。

ハイドロだけの秘密だ。

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