<3>
「エンシェン族の守護を持っているなんて、素敵ね。さぞかし気分が良いでしょうね」
華やかな顔立ちを際立たせる髪型、肌の色によく馴染むドレス、そんな自分の魅力への自信に満ちた堂々とした態度で、エルビアは微笑みながらチャコールに言った。
キリエール家の屋敷で、母親が主催する午餐会で初めて顔を合わせ、互いに自己紹介をしてから、十分も経っていなかった。
かつてはうんざりするほど繰り返し聞かされた言葉を、二十歳過ぎてからは耳にすることも少なくなっていた。そのせいでチャコールは、彼女に向けた笑顔こそ崩さなかったものの、咄嗟に言葉を返すことができなかった。
「…なにか誤解されているようですね。ぼくはエンシェンの守護なんて、持っていませんよ」
「あら、でも、あなたの守護だと噂のエンシェン族は、この国にいる時、宮廷ではなくあなたのお宅で過ごすと聞いたのに」
エルビアはなにげないそぶりで言葉を続ける。彼女は同じアトラントの国内でも、アトレイとは別の都市で生まれ育ち、アトレイはせいぜい二年に一度訪れ、短い滞在をしたことがあるだけ。宮廷に直接出入りしたこともなく、彼女の言葉が言葉通りの羨望なのか、それとも皮肉なのか、知り合ったばかりのチャコールには判断できなかった。
「確かにぼくの家で過ごしていますが、だからってぼくの守護ということにはならないでしょう。他の家族もいるんだし。彼とはただの友人です」
エルビアは黒い大きな瞳を瞬かせ、すぐに目を伏せる。
「ごめんなさい私、エンシェン族のことを良く知らなくて。噂を鵜呑みにしてたみたい」
「お気になさらず。エンシェンにも彼らの生きる掟とは別に、友人も恋人もいるようですよ」
「あの人たち、守護を選んだらいつも相手の傍にぴったり張りついてるんだと思ってた。それじゃあ、守護の方はどこにいるのかしら」
そう言ってエルビアは、この広間を見渡す仕草をしてみせる。チャコールは胸の奥が重たくなったが、それを表情に出したりはせず、首を振った。
「ハイドロに守護はいませんよ。彼は誰も選ばないんです」
「まさか。エンシェン族なのに?」
エルビアは目を瞠った。
「エクテシアではふたりのエンシェン族を見たわ。ふたりとも、エクテシアに招かれて五年のうちに、守護を見つけていた。だからそういうものだと思ってたのに」
「こればかりは本人の意志でしょうから、ぼくの方からはなんとも言えません。ぼくはエンシェン族でもないですし」
「チャコール様は、羨ましいと思いませんの?ご自分を守護に選んで欲しいとは思いません?あなたは友人だというけど、周りから見たらチャコール様はエンシェンの守護同然なのに」
率直な質問に、チャコールの浮かべた笑顔が歪みそうになる。けれど同じようなことは、今まで何度も聞かされてきた。ただ、平然とした対応をすぐに思い出せないだけだ。
「エンシェンの守護を持ちたいと思ったことは、もちろんあります。だけど、選ぶのはぼくじゃありませんから」
「選んでくれ、とお願いすればいいのに。お宅にお住まいなら、簡単でしょう」
チャコールは頭を振って苦笑する。
「ハイドロにお願いするなんて、御免です。それに、今まで誰も選んでないんです。これからも誰かを選ぶとは思えません」
「だとしたら、私にもチャンスがあるのかしら」
エルビアがきらりと一瞬、目を輝かせる。
「ねえ、チャコール様、会ったばかりで図々しいとは思いますけど、そのエンシェンの方を紹介をしていただけない?」
彼女はそう言ってチャコールを見上げた。
「それは…」
言葉を探しながら、彼は改めてエルビアを眺めた。彼女のような女性を、チャコールはもう何人も見てきた。若さと美しさ、加えて富と後ろ盾。そのすべてを兼ね備えた、宮廷に近い上流階級の娘たち。エンシェンの守護を、そのほっそりした鎖骨を飾る貴石のように、自身の魅力に彩りを添える装飾品のように考えている娘たちを。
「彼には彼の考えがありますから、エルビア様が守護を望んでいると知っていて、あなたを彼に薦めることはできません」
予想外の言葉だったのだろう、エルビアは露骨に顔を曇らせる。
「薦めろなんて言ってませんわ。ただ、引き合わせて欲しいとお願いしているだけです」
「エルビア様、ぼくの立場もご理解いただければと思います」
チャコールは努めて礼儀正しく言った。
「彼は誰も選ぶつもりがなく、ぼくはそれを知っています。彼はぼくの友人です。だから彼の気持ちも尊重したいんです」
「エンシェン族が守護を持たないなんて、ありえないわ」
疑い深い目つきでチャコールを見つめ、エルビアは鼻で笑った。
「でも、お気持ちはお察しします。友人である自分が選ばれなかったのに、後から現れた他の誰かが守護に選ばれたら、とても嫌な気持ちでしょうね」
チャコールは笑った。はっきりとした皮肉のほうが、どっちつかずの言葉より気楽だった。
「エルビア様、お許しください。同じようなことは、もう何度も何度も、何年にもわたって繰り返したくさんの人から言われているんです。それでも彼は選ばない。だからぼくに期待しないでください。その代わりエルビア様が彼に近づくことを、邪魔したりしませんから」
チャコールはそう言ったが、その言葉はほとんど無意味だともわかっていた。繰り返される言葉に、彼がどれだけうんざりしているか伝えても、
「エンシェン族の守護に選ばれたい」と初めて口にする相手の耳に届くことはない。
不服そうな顔をしたエルビアとの会話が途切れた時、チャコールに話しかけるのを待ち構えていた別の客が、ふたりの間に割って入った。エルビアもまた別の客に声を掛けられその場を離れ、話はそれで終わりになった。
チャコールは解放された気分になりほっとする。同時に、重苦しい胸の奥に気が付いた。
どんなに聞き飽きた言葉でも、その言葉が引き起こす胸苦しさが薄まることはなかった。
エンシェン族の守護の話題はいつでも、チャコールの気持ちを重くした。
アトラントや五国同盟のみならず、近隣諸国にその名を轟かせるエンシェン族は、国を持たず、独自の規律で生きる人々だ。まず見た目に特徴がある。燃えるような赤い髪に、褐色の肌。高地に拠点を持つ彼らは、かつてはどの国にあっても一族の装束を纏い、より人目を引いた。だが最近ではその習慣は廃れ、服装は個人の好みに依っている。
彼らの生業は各国の王侯貴族を相手に、空軍の要となる高地竜を世話することだ。高地竜はその名の通り、険しい岩肌の連なる山岳地帯に群で棲む竜だった。エンシェン族はその竜の住処の傍に集落を作り、竜を手懐け、世話する技術を編みだし、求めに応じて竜を群から引き離し、平地に下ろす。平地にいる間は、目の濁りと鱗の色の微妙な変化を見極めて、竜が弱らないようにするのが彼らの役目だ。
大戦が終結して百年が過ぎた今では、高地竜を戦の道具にする国は年々減り続けている。だが、見た目の迫力は今でも空軍の華だった。大がかりな式典で、祝砲とともに巨大な翼を広げて空中を旋回する高地竜は、見る者の目を惹き付ける。
さらに高地竜は一頭世話するだけでも、莫大な維持費がかかる。その他に貸出料や世話代として、エンシェン族は金を取る。それでも王家や旧家の威信を保つために、主立った国の王侯貴族の多くは未だに、エンシェン族の協力を求めていた。
そしてもうひとつ、エンシェン族にはよく知られた慣習がある。それが守護を持つことだ。幼い頃から一族の里で育つエンシェン族は、高地竜の世話の他に、彼ら独自の護衛術を習い覚えて育つ。やがて成長してからは、生涯ただひとりの自分が守ると決めた相手を『守護』として選ぶのだ。選ばれる側も、選ぶ側と同じく「守護を持つ」と言い表す。
エンシェン族はそれをもって一族の中で一人前になったと認められ、その時にようやく、高地竜の世話からも里の掟からも解放され、自分の人生を生きることを許される。
選ばれる相手は、身分の高い者とは限らない。そして高地竜を持つことが国や家柄の名誉であるのと同じように、エンシェン族の守護を持つことは、個人の名誉とされた。
ただ、ハイドロのように若い世代のエンシェン族の中には、それに疑問を抱く者もいる。守護を持って一人前と認められても、それは従うべきが掟から別の人間に移っただけではないのか、と。
それに生活が戦場のような前時代と今では状況が違う。果たして物騒な護衛術を持ったエンシェン族に選ばれ、生活に侵入されることが、相手にとってどれほどの名誉だというのか。
ハイドロは冷めた気持ちでそう考えているが、それでも彼の手を求める者は後を絶たない。その上、エンシェン族が取る高地竜の貸出料や世話代の値は、個人の采配に任されている。つまり交渉次第ということだ。
そのために多くのエンシェン族は宮廷や、或いはそれと同じような場所に滞在を許され、手厚いもてなしを受ける。だが、ハイドロは違った。
「愛想笑いがはりついて戻らない」
ハイドロが呻くようにそう言った。片手で浴室のドアを押さえ、片手で頭を拭いている。
椅子に座ってぼんやりとエルビアのことを思い出していたチャコールは、黙って視線を向けた。ちゃんと拭いてから出ろ、と口うるさく言うのは何年も前に諦めた。
時刻は午前零時を回っている。王女の婚約式がつつがなく終わり、キリエール家に帰ってきたところだった。先に浴室を使ったチャコールは、居心地の良い自分の部屋の長椅子の上に足を伸ばして、仏頂面のハイドロを眺めた。
「エンシェンではそんなことも教わらないのか?」
からかうような口調で言うと、ハイドロが手を止め、チャコールを見てかすかに笑った。
「俺の椅子を返せ」
ハイドロはそう言って近づくと、椅子の背にタオルを放った。おまえのじゃない、と言うのも何年も前に諦めた。長椅子の上にも下にも雑多な荷物や衣類が溢れ、ハイドロがキリエール家にいる間、この長椅子はハイドロの巣だ。
式典場で結っていた髪を解いたハイドロは、上半身裸の姿で軽く頭を振った。昼間だったらさすがに服を着ろ、と諦めずに言うところだが、今は屋敷の中もしんとしていて、部屋を訪れる者もない。
「あと一杯だけ飲みたい。飲むか?」
キャビネットに近づきながら、ハイドロが振り返る。
「作ってくれるなら」と、頷いて、チャコールは長椅子の向かいの一人掛けに移動した。
グラスに氷を落とす音がかすかに響き、ハイドロが酒の入ったグラスをふたつ持って引き返してくる。ひとつはチャコールの前に置き、もうひとつは手に持ったまま、長椅子に半分寝そべるようにだらしなく腰掛けた。
今夜のことを思いだし、チャコールは独り言のように呟く。
「今夜はありがとう。アデリルも喜んでた」
「改まって礼を言うほどのことか?」
「そうだけど、ハイドロは目立つしさ。来てくれると、やっぱり場が華やかになる」
「チャコールの式じゃないだろ。我が物顔はクレセントに嫌がられるぞ」
「とっくに嫌がられてるよ。今日も睨まれた。でも良い式だった。来年が楽しみだよ」
今日の婚約式の半年後に結納の儀が行われ、一年後には盛大な結婚式だ。もう準備は始まっていて、チャコールはそのすべてに参加することになっている。
グラスに口をつけ、彼は小さく笑った。ハイドロは顔をほぐすように頬に手を当て、動かしている。
「シェイレイ様に会えたのは運が良かったな。良い奴ほど、アトレイに残らない」
「優秀な人材を各地に派遣してると言って欲しいね」
「アトレイは手薄って言いたいのか? そうだな、知らない顔がだいぶ増えてた」
「だからたまには宮廷の集まりに顔を出しておけばいいのに」
「チャコールは仕事だが、俺には違う。煩わしい」
「また何人かに言われただろ、人数を当てようか」
冗談めかしたチャコールが身を乗り出して言うと、目を細めたハイドロも呆れたように笑った。
「当てたらまたマリエバに乗せてやるよ」
チャコールは左手を軽く振りながら、ハイドロの顔を眺めて考えるふりをする。それから指を立てて見せた。
「三人」
「残念、四人だ」
「そんなにいたんだ? でも、誤差の範囲だろ? ほとんど当たりだ。いつ乗せてくれる? そろそろまた戻るんだろ?」
「当たってないだろ。俺も一晩でこんなに言われたのは久しぶりだ。それも初対面の奴らばっかりな。アトラントでは謙虚は美徳だと思っていたが、いつの間にか消えたのか」
「ハイドロはアトレイではそれなりに知られた有名人だと思ってたけど、そんなことなかったね。みんな少ない機会を逃すまいって必死なんだよ」
「そういや、チャコールの知り合いを装って来た女もいたぞ」
ハイドロがグラスに口をつける。氷が鳴った。
「それ、装ってないと思う。黒い髪に赤いドレスの娘じゃない? たぶんエルビアだよ。ウチの集まりで先週知り合った女の子。その時にハイドロを紹介してくれって頼まれたけど、断った。だけど、諦めきれなかったんだなあって、アデリルと見てたよ」
「先週ってことは、ミレステラさんの?」
チャコールは頷いた。あの日はハイドロは、宮廷に用があって出られなかったのだ。
彼はわざと鼻白む。
「もっと強く断っておけよ。そうしたら当たったぞ」
「断るのはハイドロの方が得意だろうから、自分でやりたいかと思って」
「強く断ってあの場の雰囲気を悪くしたら、怒るくせに」
「でもやらなかっただろ。アデリルと感心してた。ハイドロも大人になったねえ」
「年下にそう言われて感激だよ」
ふたりは顔を見合わせて笑った。チャコールはグラスを呷り、中身を飲み干すと、
「さあ、俺先に寝るよ。明日は学院に行かないと」
と、グラスを手にして立ち上がり、キャビネットに近づく。切り硝子の扉を開けた時、棚の隅に目を向ける。そこに南方風の陶器の煙管と、揃いの装飾のある灰皿が置いてあった。
「そう言えば、これ」と、彼は煙管のほうを手に取り、ハイドロを振り返る。
「そろそろ片づけろよ」
「うん?」
ハイドロが首を伸ばした。チャコールは手にしたものを見せる。
「ああ、置いといて」
「なんで? もう使わないじゃん」
チャコールは不服そうに言った。この煙管と灰皿はハイドロのお気に入りで、彼がこの部屋に入り浸るようになってから、開け放した窓とチャコールの渋い顔の前で、煙草を吸うのに使っていた。
部屋に匂いがつくのが嫌で、チャコールは何度も止めろと言ったが、ハイドロは露台に出るからと笑って言って取り合わず、部屋の主の言うことは一度だって聞かなかった。
なのにここ一年ばかり、ハイドロは煙草を吸わなくなった。この煙管も、紙巻きも。他では知らないが、少なくともチャコールの前にいる時には。
それに気づいて煙草を止めたのかと聞いた時、ハイドロは短く、
「うん、そう」とだけしか返事をしなかった。
ハイドロが自分から話すことだけしか話したくないとよく知っているチャコールは、それ以上聞かなかった。だから、理由は知らない。
「別にいいだろ? そんな場所取るもんでもないし」
「要らないなら処分しろよ。それか、持って帰れ」
ハイドロは一瞬意外そうに目を上げ、それから意地悪そうに唇だけで笑った。
「どこに?」
「…どっか、女のとことか」
チャコールは目を反らす。
「そんなのいない。知ってるだろ」
背中に声を聞きながら、嘘つけ、とチャコールは思ったが、口には出さなかった。黙っているとハイドロが、グラスを手にして近づいてくる。わざと揺らしているので、小さくなった氷がぶつかり、音を立てる。
「なに」
「もう一杯飲んだら寝る」
そして腕を伸ばすと、チャコールから煙管を取り上げた。そして
「チャコール」と、彼を覗き込むように、ハイドロは顔を寄せた。
「置いといてくれ」
「もう使ってないのに」
「それでも」
ハイドロは煙管を持った手の甲で、チャコールの肩を軽く叩く。
「チャコールのところに、置いといて欲しいんだ」
浮かべた薄笑いに、チャコールは束の間黙り、それから小さく息を吐いて言った。
「…わかったよ」
頷くとハイドロが嬉しそうに笑った。チャコールはハイドロから煙管を受け取り、再び棚の中の灰皿の上に置く。酒を取り出したハイドロが硝子戸を閉めて、長椅子へ戻った。
「…さっきの話」
「ん?」
キャビネットに寄りかかったまま、背中に向かって声をかけると、ハイドロが振り向く。
「おまえが守護を見つければいいのに、って思う時もあるよ。守護はエンシェンの慣習だけど、そういうの関係なく、本当にハイドロがそばにいたい、と思う人が見つかればいいのにって」
「なんだ、酔ったのか? 久々に聞いたな」
「そうだっけ? エルビアみたいに率直に言われたの久々だから、俺もそう思ったのかも」
「俺は誰も選ばないよ、チャコール」
ハイドロはそう言って、グラスを持った手で彼を指さす。
「おまえが一番よく知ってるだろ」
そう言って彼はグラスの中身を呷った。
「うん、そうだね…」と、チャコールはかすかに笑って頷き、姿勢を正した。
「グラス、片づけてから寝ろよ。置きっぱなしするなよ」
「口うるさいところだけは成長しない」
「おれの部屋だ」
「知ってるに決まってるだろ。何度も繰り返して自分が嫌にならないか」
「どうせおまえは全然聞いてないだろうから、おれだって気が済むまで言い続けることにしたんだ」
「わかった。続きは明日だ。もう遅い。明日は学院に行くんだろ?」
ハイドロは笑ってそう言い、その場でグラスに薄く残っていた酒を飲み干した。
「おやすみ、チャコール」
「うん」
寝室に入りながら、チャコールはハイドロを振り返る。
「おやすみ」
扉を閉めると、ハイドロの姿は見えなくなり、明かりのない部屋の中でチャコールは、彼が落とす氷のかすかな音を聞いた。
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