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「お、壁の花発見」

ハイドロがそう言いながら近づくと、広間の壁際に立っていたチャコールが目を上げた。

短く揃えた榛色の髪、少し淡い同じ色の目がハイドロを捉える。ありふれた色彩だが、灰色の三つ揃いに身を包んだ立ち姿からは、育ちの良さと品格が感じられる。ハイドロには見慣れた姿だ。

「こんなところに突っ立ってていいのか、お坊っちゃま。お前を待ってるご婦人方がたくさんいるぞ」

「そんなことないだろ?」

チャコールはかすかに眉を顰めて辺りを見回す。その仕草に、ハイドロは小さく笑った。

招待客は男の方が多くて、チャコールがそれを知らないはずなかった。給仕から果実酒のグラスを取り上げ、彼にひとつ渡してから、ハイドロは広間の正面に視線を向ける。

「お似合いだな」

チャコールは彼の目線の先を追う。そこには今日の主役である、アトラントの王女アデリルと、彼女の婚約者クレセントが並んでいた。アデリルは特徴的な赤紫の巻き毛を結い上げ、ふたりとも敢えて装飾を抑えた衣装に身を包んでいる。華やかな出で立ちの客が溢れる中で、それがかえって品の良さを際立たせていた。

ここは宮廷の広間のひとつで、今夜は彼らの婚約式だった。

「いいかげん、仲良くできそうか」

「まあ、好きにはなれないけど、アデリルが選んだなら黙って見守るよ」

「あそこに立つのは自分だったのに、ってな」

ハイドロはチャコールに視線を戻すと、からかうような口調でそう言った。チャコールはそれを鼻で笑う。

「立ちたくない、って思ったことなら何度もあるよ」

キリエール家は代々アトレイ王室に仕える由緒正しい家柄だ。その上、チャコールと王女は誕生日も一ヶ月ほどしか違わない。物心つく前からふたりは引き合わされ、共に育った。本物の兄妹のように、という言葉があるが、本物の兄妹よりも仲が良かった。長ずるにつれてかたちを変えてはいるが、その親密さは今でも続いている。

彼らが幼い頃から、ゆくゆくは彼を王女の婿に、と望む権力者たちがいることを、チャコールは肌で知っていた。五年前にアトレイにクレセントが現れ、王女と親密になってからも、その期待は続いていた。若い男女の恋心など、宮廷にあっては泡沫のようなものだと、誰もが考えているからだ。結婚は気持ちでするものではない、戦略的にするものだと。

だが、彼らの目論みは今日を持ってご破算となる。今夜からクレセントは、正式にアトレイ王室の一員として扱われることになるからだ。

「これで政局が変わるな」

「そんなの、今までだってずっとそうだっただろ? ここは陰謀と策略が、見せかけの華やかさで隠されてる場所だよ」

と、チャコールは笑い飛ばす。

クレセントはラントカルドの元王族だ。アトラントにとってラントカルドはとるに足りない小国だが、王族の身分を捨てて臣下に下ったクレセントが、五年前にラントカルド大使としてアトレイに赴任してきてから、二国の関係が少しずつ変わり始めた。

王女に近い国内の有力者たちの多くは、ラントカルドに働きかける人脈がない。アデリルとクレセントが親密な関係になっても、それを邪魔する動きは何度かあった。チャコールはクレセントとはそりが合わないが、ふたりの関係を守った家臣のひとりだった。

「だから少しでも、それを忘れられる存在であってほしいよ」

「チャコール、ハイドロ」

傍らからそっと呼びかける声に、ふたりは同時に振り向いた。そして意外な顔に出会って、笑顔を向ける。

「シェイレイ様、お久しぶりです」

そこにはアデリルの遠縁にあたる、シェイレイが立っていた。彼女は裾の広がったドレス姿ではなく、細身のトラウザーズに銀糸の縁取りのあるジャケット姿だ。この場では突飛な出で立ちだが、背筋の伸びた彼女にとても似合っていたし、元から彼女を知るふたりには見慣れた姿だった。

「シェイレイ様、ご無沙汰を」

ハイドロはそう言って、軽く頭を下げた。同時に胸の前で左手を拳に握り、右の手のひらでそれを包む、エンシェン式の挨拶をしてみせた。

「ふたりが揃ってるなんて、珍しい。しかもハイドロ、あなた、正装じゃない」

今夜のハイドロは、長く伸ばした髪を細かく編み、さらにそれを頭の後ろでひとつにまとめている。エンシェンの正装だ。服装も今夜はチャコールに劣らず、身体に合った上等なものを身につけていた。

物珍しげに自分を眺めるシェイレイに、ハイドロは肩を竦めて苦笑した。

「さすがの俺も、この場にいつもの格好では来られません」

シェイレイは微笑んで、アデリルとクレセントの方へ一瞬だけ視線を向ける。

「アデリルが羨ましいわ。あんなにいい男との結婚を決めたのに、キリエール家とエンシェンの男たちまで婚約式に駆けつけてくるなんて」

「シェイレイ様のお呼びとあれば、どこへでも駆けつけるが」

「駆けつけた時にはシェイレイ様はそこにはいないでしょうしね。置いてけぼりの男同士で、顔を見合わせるなんてみっともなくて嫌だな。罪作りなのはどっちなんだか」

ハイドロとチャコールが順に言い、そして三人は顔を見合わせて笑った。

チャコールより十歳ばかり年上のシェイレイは、アトラントの外務次官だ。現在は五国同盟の各国を渡り歩き、アトラントにいることはおろか、ひとところに留まることは少ない。十年前、外交官に着任したばかりの彼女が、現在の五国同盟の締結のために、裏で大きく尽力したことを、チャコールもハイドロも知っていた。その功績のために、この若さで外務次官に抜擢された。その肩書きを裏切らず、彼女は今も日々その能力を惜しみなく発揮している。

アトラントは女王が望まれる国で、その影響か有能な女性は歓迎される。シェイレイもまた、アトラントが才気闊達な女性の国であることを印象づけるひとりだった。

「シェイレイ様も婚約式のためにアトレイへ? しばらく滞在なさるんですか?」

「明日まではね。明後日にはまたハイラントへ発つ予定」

「その手を取る暇もない」

「あら、ハイドロ、この格好の私と踊る気?」

「シェイレイ様は自分が一番魅力的に見える服装を知ってるだけだろ。仕立て屋の言いなりになって、金のかかる流行の服をかぶってるだけの女たちとは違う」

「ハイドロ」

辺りにひしめく婦人たちの耳に届くことを気にして、チャコールが睨んだ。ハイドロはわざとらしく聞こえないふりをして、シェイレイの前に手を差し出す。そして恭しく言った。

「もしよろしければ、その手を取る光栄を私に」

「いいわよ。許す」

呆れたように笑って、シェイレイはその手をハイドロに預けた。

「先を越された」

「チャコールとも踊ったら、妬まれる」

「シェイレイ様と踊った方が妬まれますよ」

チャコールの声を背中に聞いて、シェイレイとハイドロは広間の中央へ進み出た。

ひとりになったチャコールが空になったグラスを戻しに行くと、周囲の人に会釈しながら自分に近づいてくるアデリルが見えた。彼は足早に王女に近づく。一方で広間へ視線を向けると、クレセントは中央に立ち、彼の母親くらいの年の婦人の手を取って踊り始めたところだった。

「チャコール、シェイレイ様がいらしてた?」

彼女の前に立ったところで、アデリルが彼を見上げて言った。

「うん、今ハイドロと踊りに行ったよ。探してた?」

「来てくれるとは言ってたけど、何時になるかはわからないと聞いてたの。挨拶がまだなの。ハイドロにも…」

「お客さんに囲まれてたでしょう。大丈夫、後回しにしたって気を悪くする人たちじゃないよ」

「そうだけど」

「クレセントは」

「お客の相手してるわ。どっちかっていうと、今夜は私より彼に近づきたい人の方が多いでしょうから」

「アデリルも踊りたい?」

そうたずねると、彼女は素早く回りに視線を走らせ、小さく首を振った。それから声をひそめて、

「いいえ、少し休ませて。傍にいて喋ってるふりをしてくれると良い」と、言った。

「喜んで」

チャコールは頷くと壁際を連れ立って歩き、広間の中でも一段高い場所にある、王女のための長椅子にアデリルを座らせた。チャコールは飲み物を取ってアデリルに渡し、自分も隣に座る。ふたりが同じところに座ったせいで、人垣からは距離ができた。

「あ、ハイドロ。それにシェイレイ様。今夜もドレスじゃないのね。ああいうところ、とっても素敵。すごい、みんなじろじろ見てる。目立ってるわね」

注目を浴びるふたりを見つけたアデリルが、声を抑えて笑った。

「心配しなくても、愛しの婚約者様も十分注目を浴びてるよ」

列が入れ替わり現れたクレセントに視線を向けて、チャコールは言った。婦人の手を取り踊る姿は、身のこなしの軽やかさを感じさせる。揺れる灰青色の髪も、彼の魅力だった。その髪の色のおかげで、赤紫色の髪のアデリルの隣に立つと、お互いが引き立つ。

「あれだけが取り柄だもの」

「見た目と踊りしか取り柄がない男を選ぶなんて、アデリルは見る目がないなあ」

そう言ってわざとらしい溜め息をつくと、アデリルは笑ったが、ふと笑みを消すとつかのま、広間を見渡して何かを考え込む。それから振り向いてチャコールに顔を寄せると、囁くような声で言った。

「チャコール、これで良かったと思う?」

赤紫色の瞳の奥が、わずかに揺れている。チャコールも笑顔を消して言った。

「幸せの絶頂で不安になったの?」

「いいえ、クレセントは王族でいるのが嫌になって臣籍に下ったのに、またアトレイ王室に引き込むようなことになって、本当にこれで良かったと思う?」

「それはおれじゃなく、クレセントに聞かないと。大使が王女の婿なんて、大出世だよ」

「そういう、上っ面のことじゃなくてよ」

「『いつまでも幸せに暮らしました』は、現実にはないだろうからね。でもおれはアデリルの傍にいるよ」

「本当よ、約束して。自分で決めたことで、後悔はしてないけど、今までみたいに会えなくなるのが、少し怖い」

「そのぶん、クレセントの存在が大きくなるよ」

「だとしても、私は変わってないのに、周りがどんどん変わっていって、自分も変わらざるを得ないのが怖いみたい…」

独り言のように呟いた彼女に、チャコールはそっと唇の前に人指し指を立てる。

「アデリル様、今は、その話しはお止めください。今は」

「そうね」

アデリルは笑って頷くと、背筋を伸ばして座り直した。音楽が止み、踊りの列が崩れる。クレセントはまた別の女性を紹介されているようだし、ハイドロとシェイレイは続けるつもりはないようで、壁際へ身を寄せた。

「あら」と、アデリルが広間に顔を向けたまま、チャコールに顔を寄せる。

「若い女の子がハイドロに近づいてる。誰だっけ、見覚えがあるような。さっき挨拶したような」

「ああ、エルビアとか言う、レオルビカン家の下の妹だ。先週会った。初対面なのに、『エンシェンの守護を持ってて羨ましい』って言われたよ」

アデリルがわずかに眉を顰める。

「そういうの、久しぶりに聞いたわ」

「そうだね、おれも一瞬、こういう時どうしてたっけ、ってちょっと会話が止まったよ」

「ああ、私も思い出した。お父様のお仕事でエクテシア生まれで、アトレイに来たのは一ヶ月前だって」

遠くから眺めていると、シェイレイを介してハイドロに紹介されているのがわかる。エルビアはハイドロに笑いかけているが、遠くから眺めているだけでも、チャコールには彼の心が動いていないことがわかった。

その上、シェイレイも笑みを浮かべてはいるが、あまり良い表情ではない。

「あれかしら、また『私の守護に』って突然、頼まれたりしてるのかしら」

「だとしたらこの場で良かったよ。さすがのハイドロもこの場で客人に失礼なことはできないからね」

小さく溜め息をついたチャコールに、アデリルはちらりと視線を向ける。

「ねえ、ハイドロが今日来てくれたのは、やっぱり私のため?」

「そりゃそうだよ。自分の取引先の王女の婚約式に出ないとは言えないでしょう」

「そうかな。チャコールが頼んでくれたんじゃないの?」

「そりゃ、おれも出席するとは言ったけど」

「持つべきものは、エンシェンの友人を持つ友人、かしらね」

「おれとハイドロは友だちかなあ」

茶化すようなアデリルの言葉に、チャコールも笑いながら首を傾げる。

「そう見えるけど。あ、まだ食い下がってる。ねえ」

と、アデリルはいたずらっぽい目を向けた。

「あの子が守護に選ばれたらどうする?」

「ありえないよ」

チャコールはすぐに笑い飛ばした。

「あの子は全然ハイドロの好みじゃないし」

「女性の好みと、守護の選び方は別でしょう」

「口説きたくもならないような女性を、ハイドロが選ぶとは思えないけど」

「確かにそうね。チャコールの言うとおりよ」

「だから誰も選ばないよ。ずっとそう言ってるしね。おれだって選ばれてないのに」

それは話の流れの、なにげない一言だった。けれどチャコールの言葉の最後に、アデリルは目を細める。けれど彼女が口を開く前に、ふたりに近づく人影があった。

「お話中のところ失礼、そろそろ私の婚約者を返してもらえませんか」

クレセントがふたりを見下ろして立つ。口元は微笑んでいるが、心なしかチャコールを見る目が厳しい。チャコールはそれを軽く鼻で笑いながら言った。

「お返しするもなにも、アデリルはずっとあなたのものですよ、クレセント様」

「今夜だけは遠慮を。またアデリルに悪い噂が立つ」

「今日だけ私たちが目も合わせなくたって、噂はどうせこの後もずーっと続くわよ。チャコールが隣にいれば遠慮して誰も近づいて来ないから、ちょっと休憩してたの。今行くわ」

アデリルは裾を直して立ち上がり、クレセントに差し出された手を取らず、腕に抱きついた。踵を返した時、アデリルが一瞬だけ振り向くと、チャコールは彼女の背中越しに、ハイドロに視線を向けていた。ただ、アデリルにはその場で続きを話す余裕はなかった。

クレセントと共に壇上から降りると、彼女は再び客人たちに取り囲まれた。

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