◆虹色の海陸風
挿絵
<1>
バルメアの港町、バルメリアを見下ろす日当たりの良い丘の中腹に、古い神殿の跡地があった。信仰は遙か昔に廃れ、建物は崩れ落ち、今では草むらの中に柱や床のわずかな残骸があるだけだ。
その跡地を囲むように石像が立っている。かつては神殿に荘厳さを加えていたであろう彫像たちは、神殿と同じく今ではほとんどが崩れ落ち、草むらの中に台座を残すだけになっていた。ただその中に二、三体、かろうじてかたちを留めている石像があった。
女神の像も、そのひとつだ。
その像の頭から胸元にかけてはすでに失われ、丸みのある胴体を覆う長衣の裾から、妙に精巧な裸足の爪先が覗いていた。雨風にさらされて薄汚れ、ひび割れた背中からは、天に向かって鳥のような一対の翼が生えている。ただ、その片翼も半分は失われていた。
その人間離れした姿と、バルメリアの方角を向いて建っているのを見て、幼いハイドロは勝手に、この石像はバルメリアを見守る女神だと考えていた。誰に教えられたのでもない、子どもの頃の無邪気な空想だ。
彼がまだバルメリアに暮らしていた頃、ここへひとりで来て、町を見下ろしながら、女神の像の傍らで過ごすのが好きだった。
風に吹かれて草花のそよぐ音を聞き、まとわりつく虫を払いのけながら、失われた女神の顔を想像するのが好きだった。
それは母に似ている時が最も多く、それ以外にも近所に住む世話好きの中年女や、露天の売り子、そして時折、母に連れて行かれるきらびやかな場所で見かける、揃いの服を着た若い女たちの似通った、それでいて漠然とした顔の時もあった。
台座にもたれてぼんやりとそんなことを考えていると、女神が自分に話しかけてくるような気がした。
『今日も来たのね、ハイドロ。あの雲のかたちは』
彼女の囁きに、ハイドロも空を見上げる。青空に浮かんだ雲は、山羊やウサギや狐のような動物に見えることもあれば、鍋や釜などの台所道具、そしてハイドロの住まいの近くの誰かや、バルメリアの通りを行き交う人々の列に見えることもあった。
風に吹かれてかたちを変える雲を眺めていると、女神の像は嬉しそうに笑った。
『ハイドロ、あなたは大きくなったら、きっとバルメリアを出て、もっと広い世界を見るのよ』
顔のない女神はそう言った。
暖かい陽射しと、海の匂いの混ざる緑の風、草木がそよぐ音、鳥の声、虫の音。女神が見守っているこの穏やかな場所が、失われるなど考えたこともなかった。
そのハイドロは今、女神の像の足元で、身体を縮こまらせて震えていた。暖かい陽射しは消え、あたりは闇だ。
空気は冷たく張りつめ、かすかにちらつく雪の切片が、ハイドロの髪や頬に舞い降りる。
だが、彼が震えていたのは、寒さのせいだけではなかった。
日が沈んだのはもうだいぶ前だと言うのに、彼方の空は白々と明るい。もう振り返ることもできないが、悲鳴や怒号、そして銃声が断続的に聞こえてくる。バルメリアの市街地は炎に包まれ、燃えさかる炎が夜空を照らし、立ちのぼる煙が天を白く染めていた。
ハイドロはなにが起こったのかわからないまま、ここまで逃げてきた。母の姿はなく、とにかく町から離れなければ、という一心で、ここへたどりついたのだ。
身体が震えている。どうしたらいいかわからない。
すると、女神が振り向いた。胸から上はないはずの女神に、いつの間にか顔がある。
明るい陽射しの下で、あれほど想像した女神の顔、バルメリアの方角を向いていた女神は今、ゆっくりとハイドロを見下ろした。
初めて女神の顔を見た彼は、その場に凍り付く。
女神の顔は黒い髑髏で、眼窩の暗闇からは、血の涙が流れていた。
髑髏の顎がかすかに動いて、上下の歯がかちかちと鳴る。その合間に聞こえた。
『ハイドロ、どうして』
それは髑髏のものとは思えない、澄んで美しく、そしてか細く頼りない声だった。
『あの時、わたしを見捨てたの?』
血の涙が頬骨を伝い落ち、彼女を見上げていたハイドロの頬に一粒落ちた。
その冷たい一滴に、ハイドロは声にならない悲鳴を上げた。そして女神を振りきるように走り出す。逃げなければ。ここから逃げなければ。バルメリアより、女神の丘よりももっと遠くへ。
いつの間にか、辺りはさらに濃い闇だった。一筋の光も見えない中を、ハイドロは右も左もわからぬまま、必死で駆けた。
『ハイドロ、良かった。ここにいたのね、探したよ』
聞き覚えのある声に顔を上げると、母親が立っていた。短くした赤い髪、褐色の肌、顔も体つきも若い頃の、最後に見た頃の母親だ。母親は心底安堵した表情で、ハイドロの方へかがみ込み、両手を広げている。
良かった、母さんだ。俺を迎えに来てくれた。俺のことを心配してくれていた。
ハイドロは立ち止まり、母親の方へ歩みよる。
だが、気持ちとは裏腹に、その足取りが次第に重くなる。
俺は知ってる。この手を取っちゃいけない。この手を掴んだらもう二度と母さんに会えないし、逃げ出せない。
不安そうな面持ちで立ち止まったハイドロを、両手を広げたままの母親は不思議そうに見つめる。
『どうしたの、ハイドロ。バルメリアはもうだめ、一緒に安全に暮らせるところへ行くんだよ』
母親がわずかに身を乗り出す。ハイドロはそのぶん、後ずさった。母親は顔を曇らせて、ハイドロに手を差し伸べると、更に彼に近づこうとする。ハイドロはもう一歩あとずさり、そして足が動くことがわかると、踵を返して走りだした。
『ハイドロ、ハイドロ』
母親が息子の名前を呼んでいる。だが彼は、その声を振り切るように駆けだした。すぐに母親の呼び声は聞こえなくなる。辺りは再び闇だ。目を瞑って走っているのかもしれない。走るのに夢中で、ハイドロにはわからなかったし、どうでもよかった。
逃げなければ。それだけを考え、夢中で走った。
『ハイドロ』
いつの間にか、小さな呼び声が耳に届いた。母親のものとは違う、もっと小さく低く、かすかな声で、自分を呼ぶ声。sハイドロは走る速さを緩め、声の主を捜した。
『ハイドロ』
呼びかけはまだ続いている。左右に頭をめぐらしながらのろのろと歩いていると、暗闇の遙か先に、小さな点のような、ぽつんと輝く光が見えた。
吸い寄せられるように、ハイドロは近づく。近づいてるつもりだが、輝きは大きくならない。けれど揺れ動くこともない。確かにそこにあった。
「ハイドロ」
その声で目が覚めた。身体が湿っていて、ひどく冷たい。荒い息づかいが聞こえると思ったら、自分の呼吸だった。
暗い部屋の中で、薄明かりに照らされたチャコールが心配そうにハイドロの顔を覗きこんでいる。仄暗い明かりは、寝台の脇に灯した蝋燭だ。
彼の顔を見て、ハイドロは一気に現実へと引き戻される。大きく息を吐き、もう一度目を閉じた。再び目を閉じても、もう悪い夢の続きを見ることはない。
「大丈夫?」
耳に響く声に、ハイドロは黙って頷いた。
ここはアトレイのチャコールの部屋で、自分が今横になっているのはチャコールの寝台だ。寝台は重厚な樫材、寝具は青と象牙色で、金色の房飾りがついている。部屋の装飾に合わせてチャコールが選んだものだ。
再び目を開けてチャコールを見ると、彼が腕を伸ばした。
「汗がすごい」
そう言ってハイドロの額に触れ、はりついていた前髪を払う。それでハイドロは、自分がひどく汗をかいていることに気が付いた。身体は冷えているのに、衣服が張りついて心地が悪い。ハイドロは身体を起こした。
「あの夢?」
心配そうにたずねたチャコールに、ハイドロは軽く頷く。
「起こしたか。悪い」
「殊勝な言葉だね。おれのベッドを占領しといて。水飲む?」
チャコールは小さく笑いながらそう言って、水差しとグラスを乗せた盆を差し出した。それを見てひどく喉が乾いているのに気づいたハイドロは、水差しの蓋を外し、中身をグラスに注ぐと、そのまま一息に飲んだ。ただの水は、沁みるように甘かった。
盆に空のグラスを戻して口元を拭うと、ハイドロは寝台から下りる。
「起きるの?」
「着替えたい。チャコールは寝ろ、明日あるだろ」
「ハイドロがうなされるまでは寝てたよ。それにもうすぐ夜が明けるよ」
「じゃあ、あと少し寝ろ」
「勝手だなあ」
盆を片づけたチャコールは苦笑しながらそう言って、それでも布団にもぐりこむ。ハイドロは着替える代わりに上だけ脱いで、キャビネットから煙草と燐寸を取り出した。チャコールは吸わないので、ハイドロのものだ。
露台に出て、なるべく音を立てないように窓を閉めた。椅子はないので、直に座る。空気は冷たいが、今は心地良かった。煙草を一本取り出して火を点けて銜える。久しぶりの煙草はしけっていた。味が悪くなったのを確かめるように一服して煙を吐き出しながら、ハイドロはテラスの向こうに広がる景色を眺める。
この屋敷はアトレイの中でも見晴らしの良い高台にあって、城下町が見渡せた。町は未だ眠りに就いている時間だ。見える明かりは少ない。そのせいで夜空の星の瞬きが、輝いて見える。そしてチャコールの言ったとおり、東に見える山並みの向こうがうっすらと白み始めていた。
ハイドロはゆっくりと煙を吐き出す。吸い慣れた味に、嗅ぎ慣れた匂い。ここはアトラント公国の首都アトレイで、バルメリアからは遠く離れている。
あの夢の景色は、もう十七年も前のことだ。七年前にハイドロは一度、意を決して自分の高地竜を駆ってバルメリアに戻ったことがある。
戦乱の傷跡はそこここに残ったままだった。そして丘の上の女神の像は、あのなにもない場所まで荒らす者がいたのか粉々に打ち砕かれ、草むらに埋もれた台座と、その上に足の指先が、ほとんどそれとわからないほど、わずかにしか残っていなかった。
すべては過去のことだ。今はここ、平和なアトレイの、安全なキリエール家の、チャコールの部屋にいる。なにも心配ない。
チャコールには煙草を止めたと思われているので、久しぶりに煙草の匂いがするのに気づいたら、また口うるさくなにか言うかもしれない。でも、本気で怒られることはない。
白み始める空と、見慣れた町の灯りを眺めていると、夢の中で感じた恐怖が薄れていくのがわかった。
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