継夢

真花

継夢

 広い板間が自分の場所でないことは直ぐに理解出来た。

 その世界を構成している素子の呼吸が違う。ここは他の誰かの夢の中だ。静かにしっとりとした空間は明け方のように薄暗く、しかし太陽は永遠に昇らないでずっとこのままなのだろう。

 秀吉はぐるりと周囲を見渡す。

 三方の、外とここを切り離す壁には戸が開け放たれており、後ろには人間と同じくらいの大きさの仏像が柔和な瞳で立っている。戦国の世のつり合いを取るために仏が居るのなら、信長様の覇業が成された後はこれらは尊ばれなくなるのだろうか。まあ、してみれば分かることだ。

 夢が夢であると分かることは初めてのことだったが、何のことない、いつもの自分の延長がここにあるだけか。

 秀吉は自らが置かれている状況を頭で捉えると、次は感性でそれを理解し始める。知的な把握、感覚的な把握その両方を生かすことは彼が戦功を上げ続けた重要な要素で、それを行うことは板に付いている。

 ゆっくりと呼吸をすると、この夢の主の精が入り込んでくる。

 それは異物でありながらも、大切で。

 あ、と気付く。

 引かれるように右の戸を目指す。

 潜って外に出ると一面の草原。

 気配は左。

 信長様。

 歩いてこちらに来られる。

 これは信長様の夢なのだ。

 信長様に呼ばれてここに居るのだ。

 信長様は見たことのない穏やかな表情をしている。いや、昔草履を暖めて渡したときに一瞬だけ、喜ぶ直前に差し込んだのがこのようなお顔だった。

 信長は何も言わずに秀吉の横に立つと、仕草で草原に出よと言う。

 三段の短い階段を降りて足の短い草のどこまで続くか分からない広大さの中に身を置く。

 直ぐに信長も降りてくる。

 歩けよ、と示しながら、信長は歩を進める。

 ゆっくり、ゆっくり、その背中を見て最初は歩いていたが、信長が横に来いとするので、失礼致しますと信長の横に秀吉は収まる。

 歩く。

 時間の概念がないように感じる。

 信長が何も言わないから、秀吉も何も言わない。

 空があって、うすら闇夜によく似ていて、しかし星が満天ではない。

 見える地平線は全て草原の先。

 歩く。

 信長様。今は京にいらっしゃる。何故儂が今その夢に居るのか。

 訊いてみてもよいのだろうけど、どうしてかそれはしてはいけないことのように感じ、押し込めた。

 供の者も付けずに二人だけで居ると言うのは初めてかも知れない。

 前の方にせせらぎが聞こえてきた。

 行けば、ひょいと飛び越えられそうな小さな川がうねっている。

 対岸にはさっきまではなかった筈の森のような、霞のような範囲がある。

 ふと、信長が振り返る。

 何も言わない。いや、ここでは何も言えないのかも知れない。

 何かを渡される。


 滂沱の中で目が覚めた。

「あれは、信長様、最後の夢」

 布団から上半身だけ起き上がる。それ以上のことが出来ない。

「儂は、託された。信長様の夢を継げと、託された」

 そうでなくても天下を取るのが自分の夢であることは分かっている。信長がしかしそれを成そうとすることには尽力してきたし、その形であっても天下が平定すると言うことは悲願だ。しかし、継げと言う。

「この儂に、継げと」

 虚空を見つめる、総身に染み渡ってゆく。

「信長様」

 その死の確信。

 継ぐ覚悟の萌芽と瞬間の完成。

「信長様」

 もう一度呼びかけたら、秀吉の涙は止まった。

「誰か!」

「はっ」

 迅速に番の者が応じる。

「京からの使者を全て捕らえよ」

「はっ」

 天正十年六月二日の朝のことだった。

 然るに、三日夜、明智から毛利に向けた使者から「信長討たれる」旨の情報を捉える。秀吉は戦いの最中にあった毛利との講和を直ぐに取りまとめ、信長の仇を討ちに京へ向かう。

 他の誰にも譲ることは出来ない。信長様の夢を継ぐのは、儂だ。



 草原が広がっている。

 いつか同じようなところに来たことがあった。

 そう、あれは信長様の夢。

 よく似ている。けど、ここは儂で出来ている。

 儂の夢か。

 あれから十六年。一応の天下統一は果たしたが各地で乱はまだ多く、本当の平定には遠い。

 儂も道半ばで逝くことになるのだろう。

 ここに居ると言うことはそう言うことなのだ。

 だが、儂は遺言をしっかり残している。五大老がそれを全うしてくれれば秀頼も安泰な筈。

 全うしてくれるのかな。

 もしそうでなくてもこの国を安泰に導いて貰わなければ困る。間違っても再び戦国の世が来るという方向に進んではいけない。民も武士も武将も、明日には死ぬかも知れないと日々を送るのが当たり前な世を、終わらせなくてはならない。そのために信長様も儂も命を懸けて来たのだ。

 信長様が儂を呼んだように、儂も呼べる筈。

 誰を選ぼうか。

 そうか、こうやって信長様は儂を選んでくれたのだ。

 そこには能力の評価、現在の地位、だけではなくて、この男ならばと言う想いが色濃く含まれる。

 五大老の中から選ぶしかないが、だとしたら一人しか居ない。

 戦国をやり続けるのではなく、天下泰平の礎を築ける男、それは家康だ。

 あの狸ならば成そう。もし、信長様と儂の夢を継ぐのなら。

 そう思った途端に気配がした。今回は御堂かないからなのか、向こうから家康が歩いて来た。

 秀吉も家康の方に向かう。

 その姿を認めると、家康は深々と礼をした。

 うむ、と返しつつ、家康に共に歩くように示す。

 声の出し方を忘れたように、言葉にすることが出来ない。

 ゆっくり、ゆっくり、歩く。

 家康もあのときの儂と同じように、この状況が何かをもう分かっている風だ。

 だからなのか家康も何も喋らずに、二人で横並びになってゆっくり進んでゆく。

 頼むぞ家康、信長様と儂の成そうとした夢はお前が完成させて初めて、夢から成る。

 言葉が出せない分、想いが募る。

 信長様もこう言う気持ちだったのか。

 この散歩はまるで、想いを一つの結晶にするために必要な工程を踏んでいるようだ。一歩一歩家康と歩く度に儂の中で不純物が取り除かれていき、まるで形あるもののように想いが輝く塊になってゆく。

 いずれそれは掌に乗るくらいになって、ほらやはり、川が見えて来た。

 家康。

 言葉にならない言葉を掛ける。

 でもこっちを向く。

 後は頼んだぞ。

 渡したら家康は唇を引き締めて、そのまま消えてしまった。

 きっと遺言が上手くいってもいかなくても、家康がやってくれる。信長様に託されたときの儂と同じ気持ちに今奴はなっている筈だから。


 家康は天下統一を成し遂げる。その家康がその後どんな夢を持ち、誰がそれを継いだかは知れない。



(了)

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