第3話 思い出
一生懸命に海藻を引っ張る僕の上に再び影が差したと思うと僕の唇に何か柔らかなものが押し付けられて、空気が口いっぱいに広がった。陽子はすぐに離れると腕からあのナイフを引き抜き、僕の足元にしゃがみ込む。海藻の根元をつかむとナイフをあててサッと断ち切った。
ナイフを鞘に戻した陽子は、自由になった僕の体を抱きかかえるようにしてトンと底を蹴る。僕らはすぅーっと光の元へと上がって行った。息が苦しくなってきたが、なんとか海面に出る。そのまま二人で息が落ち着くまで静かな波間に浮かんでいた。しばらくすると助かったという安堵の想いが体中に広がる。
すぐ側に浮かぶ陽子は太陽を浴びてキラキラと輝いていた。僕よりも早く呼吸が落ち着いた陽子はそれでもまだ半口を開けている。僕は自分でもよく分からないままに陽子の体を引き寄せて、唇に唇を重ねる。その触感と共に潮の味が舌に伝わった。
陽子は僕の体をそっと押しやると向きを変えて崖の方に泳ぎだしていく。上からは気が付かなかったが、登って行けそうな裂け目があった。陽子に崖上で追いつくと僕は取りあえず謝った。
「ごめん」
「なんで謝るの?」
「いや、気分を害したかもしれないかなと思って」
「どうして?」
「いきなりキスをしたから……」
「大丈夫よ。気にしてないから」
「そう……。あのさ……。今更だけど、陽子のことが好きなんだ」
「そう。本当に今更よね」
「怒った?」
「怒ってないわ。別にね。明日には東京に帰ろうというのにキスして好きだなんて言ってどうするの? カイト。あなたはきっとすぐに私のことなんか忘れちゃうわ」
「そんなことはないよ。ヨーコには本当に感謝してるんだ。君のことを忘れたりはしないよ」
「嘘つき。今までだって東京の人の振りをしてたくせに。本当はこの島の人でしょ!」
「待って。別にだますつもりは無かったんだ」
必死に呼びかける僕だったが、陽子はくるりと向こうへと走り去って行った。
「サヨナラ」
***
翌年。
僕は夏休みになると実家に戻ってきた。学年順位はそれほど上昇したわけではないけれど、もう昨年のような焦げた感情は落ち着いていた。両親との再会を喜び、訪ねてきた元同級生たちと旧交を温める。一晩ぐっすりと眠ると翌朝には家を飛び出して、あの秘密の入り江に向かっていた。
ひょっとすると、一抹の期待を抱いて入り江を見渡すが僕の探し求める人の姿は無かった。着替えをして海に飛び込む。ざぶりと水しぶきを浴びて、自然と体が沈んでいくに任せる。慎重に海底に届かぬ距離に留まり、上を見上げると壮麗な光の宮殿が目に飛び込んできた。
まるで神の国に迷い込んだような光景に心を揺さぶられながら、物足りないものを感じる。僕はもう昨年の僕ではない。この光景に足りないものは何かは十分に理解していた。過去に遡れるならば、あの時こうすれば良かった、という悔恨の念が湧きあがる。
陽子。心の中で呼びかけた。
人はどうしてそうありたいと思う時にその成熟さを得ることが出来ないのだろう。あの日、もし、こうしていたら……。自らの未熟さを恥じ、後悔しても未来は変わらない。今はまだ過去を正す時ではない。どうか、僕にその時が与えられんことを。
***
私は転寝から目を覚ました。脳裏にあの青と光の姿が蘇る。そして、欠くべからざるあのキラキラ輝いていた姿も。窓から吹き込む風が、数年ぶりに読み返した日記のページをめくっていた。思わず口をついて出る言葉。
「陽子……」
少し湿り気を帯びた風の向こうの景色を眺める。遠くの空が茜色に染まり、夜が始まろうとしていた。私は日記を机の引き出しに仕舞う。時おり、私はこの日記を取り出すことにしていた。過ちを犯さぬように、犯した過ちを速やかに正せるように。海にきらりと光る陽光が思い出させるものは常に私の襟を正させた。
私は賢くはない。だが、過ちから学べないほど愚かではない……と思いたい。夕餉の支度が出来たことを告げる声は、私を再び時を超える旅路へと誘っていた。
-完-
海が太陽のきらり 新巻へもん @shakesama
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