第2話 陽子先生

 翌日迷ったが結局、約束の時間に浜辺に行った。家に居ても気分が塞がるだけだし、見知った人間と話をするのも億劫だった。幸いにして体型は変わってないので、中学時代に使っていた水着を履いてズボンを履くと自転車に飛び乗って出かける。着いて見ると陽子はもう既に来て海の中に居た。


「来た来た」

 陽子は白い歯を見せて笑う。

「それじゃ、早速始めようか」

「ああ……うん」


 陽子は泳ぎが巧みなだけでなく、教えるのもなかなかのものだった。浜辺で形を見せて、僕にその真似をさせる。意外なことに褒めるのも上手かった。

「なんだ。筋は悪くないじゃない。これは今まで教えた人間がヘタクソなだけだよ。すぐに泳げるようになるって」


 2時間弱ほど教わって、お日様が中天に差し掛かる頃になると僕はへとへとになっていた。

「じゃあ、今日はここまでにしよっか。進歩の跡が著しいね。まあ、この陽子さまが教えてるから当然なんだけど、カイトも大したもんだね」


 2日・3日と通ううちに25メートルは泳げるようになった。次第に打ち解けるようになってきて、泳ぎの合間や終わった後に少しだけおしゃべりをするようになる。僕が通ってる高校の名を告げると陽子は素直に感心した。

「へえ。有名な高校じゃない。勉強はできるんだね」

 は、にアクセントがある気がしたが気のせいだろう。


「そのつもりだったんだけどさ。同級生は化物ばかりで、僕なんか学年の半分からちょっと上に行くのがやっとさ」

 自嘲気味に言う。他の人には言えなかったが、陽子にだけはなぜかそんなことも言えた。名前しか知らない相手だったからかもしれない。


「そんなこと別にいいじゃない」

「え?」

「それって他人と競うことかな? そんなことをして楽しい?」

「楽しくはないけど」

 でも、勉強ってそういうものじゃないのか? 他人よりも少しでも早く正解を導くためのものだろう?


 陽子と出会って1週間経つ頃には、午前中のレッスンが終わった後に一緒に木陰でお弁当を食べるようになっていた。泳ぎの方はかなり長距離を泳げるようになり、さらにちょっとした潜水もできるようになる。レッスン後に食べるおむすびはやたらと美味かった。


「カイトも随分泳ぐの上手くなったよね」

「ヨーコ様のお陰です」

「そうだね。感謝しなよ。でも、一生かかっても私より上手くなるのは無理そうだね」

「そりゃそうだよ。でも、ここまで上達で来たし十分だよ」


 会話が途切れたので陽子を見るとこっちをじっと見ていた。

「この間さ、同級生に勉強が敵わないことをボヤいてたよね。泳ぎは悔しくないんだ? 所詮は泳ぎなんて大したことじゃないと思ってる?」

 俺は慌てて、食べかけのおむすびを飲み込むと否定する。


「そんなことないよ。本当に前と比べたらもの凄く泳げるようになったから、それだけで嬉しいんだ」

「なんでもそうじゃないのかな」

「どういうこと?」


「勉強だって、昨日できなかった問題が解けるようになる、知らなかった言葉を知る。それって、カイトが成長したってことだよね。それだけで嬉しくはなれないの?」

「だけど、受験ってのは上から決まった人数しか合格にならないんだ」

「それはそうだよ。でも、それと勉強って切り離せないの?」

 黙ってしまった僕を見て、陽子は笑う。

「都会っ子って大変なんだね」


 その日の夜は、陽子の言葉がぐるぐると頭を回って眠れなくなる。諦めて布団から出ると読書灯をつけて持ってきていた高校の教科書を取り出した。パラパラと最初のページからめくる。全部が全部分かった訳じゃないけれど、すっと頭から知識が漏れてくる。今までやったことは決して無駄ではないのかもしれない。


 バサバサと網戸に蛾がぶつかる音がした。読書灯を消して再び布団に潜り込む。微かな潮騒の音を聞きながら、今度は深く眠りに落ちて行った。


 翌朝、起きるとすぐに両親にできるだけ早く東京に帰ることを告げた。最初は驚いていたけれど、僕の様子に何か感ずることがあったのだろう。船のチケットの手配をしてくれることになった。ハイシーズンなので通常の方法では取りにくい。父親が手を回して2日後の便を押さえてくれる。


 いつものように浜辺に出かけていくと陽子が唇を尖らせて僕をじっと見た。そして、一つ大きく頷く。

「カイト。今日はなんだがいつもと様子が違うね。別人みたい」

「そうかな。気のせいじゃないかな」


 いつものように泳ぎの練習を終わらせて、簡単な昼食を食べているときに僕は陽子に東京に2日後に帰ることを告げる。

「刺激に満ちた東京が恋しくなっちゃったかあ」

「そうじゃないよ。ただ、やっぱり学生の本分は勉強だから」


「そんな風に言わなくてもいいよ。私も少し憧れはあるし。そうかあ。東京か。いいなあ。やっぱり今はタピオカ屋さんとかいっぱいあるんでしょ?」

「まあ、そうだね。行ったことはないけど」

「えー。もったいない」


「だって、黒い蛙の卵みたいだよ」

「でも、一度ぐらいは試してみたいじゃない。他にもさ」

 有名なコーヒーショップチェーンの名を挙げる。今まであまり意識してこなかったけれど、やはり陽子も年頃の女の子だということを急に思い出す。目元がきついけどよくよく見ると魅力的だ。その名の通りまるで陽のようにキラキラとしている。


「可愛い女のコもいっぱいいるんでしょ?」

「んー、それも良く分からないや。僕の学校は男子校だし」

「でも、街ですれ違ったりするじゃない。みんな綺麗にしてるんだろうなあ」

「ヨーコほどじゃないよ」

 思わず反射的に言ってしまって、しまったと思ったが陽子はケラケラと笑う。


「さすが、東京人は口がうまいね」

 僕は照れを隠すように早口で、泳ぎを教えてくれたことへのお礼を言った。

「急にそんな風にお礼を言われても……。元は私の早とちりのお詫びだし」

「いや。もう十分にお釣りが出るほどだよ。本当に感謝してる」


「そっか。じゃあ、陽子先生の水泳教室は今日で終わりだね」

 淡々と告げていた陽子だったが、思い出したように言う。

「明日の午前中、時間あるかな?」

「午前中ぐらいなら大丈夫だと思うよ」

「では、明日も同じ時間にここに来て。卒業試験を行います」


 陽子の真っすぐな瞳を見ていると断るという選択肢は思い浮かばない。

「はい。師匠。よろしくお願いします」

「覚悟しておきなよ。不合格だったらレッスン1週間延長だ」

「お手柔らかにお願いします」


 翌日、いつもの浜辺に行くと陽子も自転車に乗って待っていた。そういえば、いつも別れた後にどうやって帰っているのか気にしたことも無かった。勝手に家が近くなのだろうと思っていたけれど、考えてみればここはどこの集落からも遠い。

「それじゃ、試験はあっちでやるから」


 言われるままに陽子についていき、自転車で10分ほど移動する。そこで服を脱いで荷物を置いて、生い茂った藪の中の獣道を歩く。頭上には青空が広がり、気温がぐんぐん上昇していた。額から落ちる汗をぬぐう。離れた場所の林から聞こえる蝉の鳴き声が喧しい。


「着いたよ」

 陽子の声と共に視界が急に開ける。岩に囲まれた小さな入り江が広がっていた。海へとつながる岩に空いた穴からは波が乗り越えて入ってきているが、入り江自体の海面は鏡のように平らかで陽光を浴びて輝いている。視線を上げると水平線に入道雲が湧いていた。


「じゃあ、飛び込んで底まで行って上がって来れたら合格だよ。前から言ってるけど海藻に足を取られないように気を付けてね」

 分かったと頷くと陽子はお先にどうぞと手のひらで指し示す。僕は深呼吸をすると3メートルほど下の水面に向かって飛び込んだ。


 陽子ほどは上手くいかなかったけど、水面を切り裂いて体を海の中へ沈める。両手を使って大きく水をかき、さらに海底をめざした。数秒で到着し上を見上げる。その途端に僕は水中であることを忘れて嘆声を上げそうになった。水を突き抜けて光の矢が斜めに降り注いでおり、海面はまるで空のようだった。僕の体から立ち上る気泡がゆらゆらと立ち上っていく。


 影が差したと思うと陽子が自分のそばに降りてきているところだった。親指で水面の方を示す。上がれというサインだった。そのとき、力強い水の動きが僕を左側に押しやり、その動きが収まった時には海藻が足に絡みついてた。慌てて引きはがそうとするが、渾身の力を込めて引っ張ってもびくともしない。


 陽子は海底まで一旦おりてきたが僕の側に寄りつこうともせず、底を蹴ってまるで魚かイルカのようにサッと上がっていってしまった。恨めしそうに見上げる時間ももどかしく僕は海藻との戦いを再開する。でも、まるで歯が立たなかった。

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