6 「暴力」と「消尽(蕩尽)」(4)

 過剰な富、エネルギー、暴力性を、’ぼくらの世界(共同体)’を維持するために吐きだす簡単な方法、というか、もっともイメージしやすいやり方は、容易に想像がつくとおり、「戦争」です。


 『呪われた部分』において、バタイユは、イスラーム帝国を事例として取り上げています。


 イスラームでは、その教えにより、浪費(贅沢)が忌避され、蓄積に向かった、とバタイユは見ます。そして、蓄積による余剰が、他の共同体を制圧し、征服するという軍事的エネルギー、拡張運動に転嫁した、とします。


 じつは、後でふれますが、この「戦争による消尽」というパターンが、じつはバタイユがもっとも避けたいと思っているものです。

 そもそもバタイユは何を見つめていたのかというと、同時代における「米ソ冷戦」です。そして、それがもたらすかもしれない「世界最終戦争」です。

 それを、バタイユは避けたいと願っていた。

 アメリカもソ連も、もっというと全世界が、蓄積を美徳とし、その蓄積を前のめりに投資することで、さらなる成長を目指していました。そして、その成長が、さらなる蓄積を生む。その延長線上に垣間見える、壮大なる消尽の終幕、それは「世界最終戦争」かもしれない。

 だからこそバタイユの筆は、なぜそんなことになってしまうのか、あるいは、どうすればそれを回避することができるのか、という考察へ向かったのでした。それが、『呪われた部分』です。


 さて、「供儀」「対抗贈与」「戦争」という3つの消尽パターンについて見てきたわけですが、この「戦争(暴力)=消尽」のフレームは、様々なカタチで顕現します。


 たとえば、最近なにかと話題になる「日韓問題」について普遍経済的見地から一望してみましょう。


 韓国にとって、「反日」とは、消尽の一形態です。

 

 ここでは、「反日的消尽」という造語をつくっておきます。


 韓国という’我々の世界(共同体)’を平穏に維持するためには、その相互暴力性、あるいは社会が抱え込んでしまっている「矛盾」と言い換えてもよいのかもしれませんが、それを「外部(外の世界)」へ放出し、消尽する必要がでてきます。

 どこへ放出するのか? 日本へ、です。

 前述した「イジメの存在論的構造」でもふれましたが、放出する相手、その相手選びには根源的合理性はなく、誰でもよいです。’あなたがイジメられることに、必然性はない’。ただ、表面的には、’何かが他と違っている’、つまり「印」がついてる相手が選ばれやすいです。

 日本は、韓国にとって、言うまでもありませんが「印」がついています。

 ’我々を併合しやがった、侵略してきた相手’としての「印」です。

 消尽にとって、「印」の目的はまさに「印」であることですから、その真実性は問題とはなりません。

 たとえば、’大便をもらしたある少年’がイジメられるとして、その少年が実際に大便をもらしたかどうかは問題とはなりません。真実は、問題ではない。

 その少年が他の少年と違う「印」をつけられた、その「印」を目安に、暴力性が一点集中していきます。真実ではなく、「印」がつけられた、という事実そのものが問題なのです。

 だから、その少年がいくら’ぼくは大便をもらしてない!’と叫んでみたところで、無意味です。イジメは終わらない。唯一、イジメが終わる方法があるとするなら、自分ではない他の人間に「印」がつけられることです。

 これは、極めて悲しいことですが、その少年がすべきことは、真実を訴えることではなく、他の人間に「印」をつけ、暴力性がそちらへ向かうよう誘導すること、でしかありません。書いてて嫌になるほど、愚かなことです。


 日韓問題に戻りましょう。

 慰安婦がどうの、徴用工が、とか、真実の歴史認識とか、そんなことは本質的には、どーでもいい問題です。

 繰り返しになりますが、「印」の真実性は、問われない。

 「印」がついているということ、そして、そこへ’ぼくらの共同体’を安定させるために、暴力性が放出されていく、ということが肝心なのです。

 つまり、頭の悪い劣化左翼、通称パヨクが、歴史認識がどうの、とか、韓国に謝罪せよ、とか、いろいろわめいておりますが、残念ながら、普遍経済的見地から発言するなら、日本人にできることはほとんどなにもありません。

 韓国が、日本に「印」をつけて、内部矛盾と、過剰なエネルギー、暴力性をそこへ向け、一点集中で消尽する、という消尽のパターン、フレームを捨てないかぎり、「反日」が終わることはありません。

 韓国が「反日的消尽」を捨てないかぎり、これはエンドレスです。

 しかし一方では、韓国が「反日的消尽」を捨てるなら、他の消尽方法を見つけないかぎり、内部崩壊してしまうかもしれません。’ぼくらの共同体’が抱え込んでいる内部の矛盾に、自らが押しつぶされてしまうわけです。


 おそらく日本人がマジメに考えないといけないことは、韓国のスタンスが「反日的消尽」であることを前提に、どのように関わっていくのか、あるいは関わらないのか、ということです。

 いつの日か、あるいは永遠にその日はやってこないかもしれませんが、韓国が「反日的消尽」ではない違う消尽のパターンを社会的に選択する、その日がくるまで、ぼくらはどのような態度で臨むのか、そこが、じつは日韓問題における日本側の根本的課題だと、ぼくは思います。

 簡単に言うと、謝って済む問題ではないのです。

 単なる謝罪は、「反日的消尽」にさらなるエネルギーを注入すること以外のなにものでもないでしょう。

 実際、徹底した誠意ある謝罪をし続けてみるとよいと思います。それにより何が生じるか。おそらく、延々と繰り返される「謝罪」と延々と繰り返される「反日的消尽」がセット販売されたまま、日韓問題という名の店頭に、100年後も並び続けることになるでしょう。


 話がだいぶ横へ逸れました。

 バタイユ論に戻りましょう。


 「供儀」「対抗贈与」「戦争」と見てきましたが、その他にも消尽のパターンがあります。

 これも容易に想像がつくことですが、「宗教」です。

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