12 至高性

 いよいよ「呪われた部分」3部作のラスト、『至高性』ですが、これは生きている間に書きあげられることなく、出版もされていません。

 ので、邦訳『至高性』(湯浅博雄ほか訳、人文書院、1990年)は遺稿を整理したものとなっています。

 

 さて、思いますに、バタイユは消尽を、①社会のレベルから、②二者関係のレベルから、③個人のレベルから、と、それぞれのレベルに応じて論じていったような気がします。

 すでに記しましたが、社会というものの最小のユニットは三者関係です。

 ですから、それぞれ①3人以上、②2人、③1人、のレベルで消尽を論じていった、ということが言えると思います。

 それで、①が『呪われた部分』、②が『エロティシズム』、③が『至高性』に該当するわけです。


 『至高性』では、内面的なものが描かれていきます。


 「至高性を際立たせるのは、富を消尽するということだ」[訳書P9]


 「有用性というものによって正当化されることのないようなかたちで諸可能性を享受することは至高なのである(有用性というのはつまり、その目的が生産的な活動にあるもののことである)。有用性を超えた彼岸こそ至高性の領域である」[P10]


「至高であるということは、現在という時を、その現在という時以外にはなにものも目ざすことなしに享受することである」[P11]


 簡単に言いますと、有用性にとらわれて生きるのは至高な在り方ではない、ということです。


 この考え方を通俗的にとらえてしまいますと、たやすく反論できます。


 勉強するのは将来のためだ(有用性のためだ)、だったら勉強するなというのか?


 働くのはカネを稼ぐためだ(有用性のためだ)、だったら働くなというのか?


 べつにバタイユはそういうことを言っているのではありません。

 少し、振り出しに戻って考え直してみましょう。

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