13 おわりに

 一般的に言って、人間が動物と異なるのは「理性」があるからだ、とされます。詳しくは脳科学書に譲るとして、確かに、大脳新皮質が発達した人間は動物とは異なり、「理性」がメルクマールになるという考え方には一理あるでしょう。

 しかしバタイユは、むしろ「禁止」があることに、動物との違いを見出したのは前述したとおりです。


 人間は「禁止」という檻の中、あるいは、それをシステムと呼んでもいいのでしょうが、その中でこそ、普通に生きられているのです。


 この「禁止」というシステムは、歴史的に、さまざまに変異していきます。

そして、現代における主要な「禁止」システムとは、みなさんご存じのとおり、いわゆる資本主義システムですね。


 とりわけ何が「禁止」されているのか?

 バタイユのいう「消尽(無意味な浪費)」です。


 お金の無駄遣いはバカだと見なされます。蓄積が美徳とされます。お金持ちは、さらにお金を貯めようとします。


 過剰な富は捨てること、あるいは無償で誰かに与えること、すなわち「消尽」が美徳とされた時代は終わり、富を蓄積すること、あるいは与えるのではなく奪ってくることが、具体的に言うと、資本主義的競争により、富を勝ち取ってくることが美徳とされます。


 勝ち組とは、与える者ではなく、(市場競争により)奪う者です。


 バタイユの「消尽」が敵視しているのは、こういった時代的価値観、あるいは資本主義的精神、といってもよいでしょう。


 資本主義における「資本」を、無限増殖の運動として把握したのはカール・マルクス(1818-1883)です。富を「消尽」することなく蓄積し、投資し、さらに富を増やす運動です。


 「消尽」が見ている世界は、資本主義の外、あるいは、アフター資本主義と言ってもいいでしょう。


 が、しかし、資本主義の破綻は、戦争につながる怖れがあるとバタイユは見ています。富をいわば投資することによって先送りに「消尽」(資本主義的消尽)していたのが資本主義システムです。投資先を見失えば、すなわち資本主義的成長が止まれば、「消尽」を戦争によって行うかもしれない、と考えたわけです。


 すでに述べたとおり、人間は「禁止」によって人間になりました、が、この「禁止」とセット販売されているのが「消尽」です。人間が人間である以上、「呪われた部分」に常に憑かれています。


 このまま資本主義という名の檻の中で生き続けるのか、どうか? そこで投資的消尽をし続けるのか、どうか?


 資本主義に生きづらさを感じるのは、バタイユ的に言うなら、人間としてむしろ正常な反応でしょう。

 しかし資本主義とは違った方法で、ある意味「安全に」消尽する方法を、人類史は未だ見出していないのです。

 戦争は、論外です。

 宗教(的消尽の世界)へ、回帰しますか? 今更ムリでしょう。


 資本主義か、戦争か、宗教か、あるいは・・・・・・


 ポスト資本主義的消尽のカタチを、人類史は見つけられるのか?

 あるいはこのまま、多少の生きづらさは無視し、資本主義しかないと割り切り、この檻の中で未来永劫暮らしていくことを選択するのか?


 バタイユが投げかけている問いは、そういうことです。


 そして、未だ誰も答えられてはいません。

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ジョルジュ・バタイユの思想 千夜一夜 @kitaro_n

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