4 「暴力」と「消尽(蕩尽)」(2)
バタイユは『呪われた部分』(酒井健訳、ちくま学芸文庫、2018)の中で、まずは最初に、アステカ文明における「供儀」を取り上げています。
こんな言い伝えを、紹介しています。
「彼らアステカ人は、太陽自身からして自分を供儀に投じていると見ていた。太陽は、人間に似た神だったのだ。神は、燃えさかる火のなかに身を投ずることによって太陽になったのだ」[P70]
当たり前ですが、太陽が輝いてくれなければ、ぼくらは生きていけません。そこで、神々が話し合います。’誰か世界を照らしてくれないか?’と。ある神様が引き受けます。ところが、一人では足りない。そこで、「股間に腫れ物を持った神」が指名されることになり、生贄となります。
と、そんな言い伝えが紹介されているのですが、ここで、生贄となるのが、「股間に腫れ物」という「印」つきの者だった、という点がポイントです。
さきほどイジメの話でふれたように、’ぼくらはみんな同類、似たり寄ったり’なのだから、そして、’そんなぼくらが仲良くやっていくために’、ぼくらとは違う「印」を持つ者が、生贄に選ばれやすいのですね。
みんなが平穏に暮らすために、誰かが、とくに「印」つきの者が生贄となり、相互暴力を解消し、その過剰なる暴力、攻撃性を一身に受けとめる、これが、今村さんの言う「下方排除」でした。
誰かがスケープゴートとなることで、下方排除されることで、水平的な’ぼくたちの世界’が平穏に維持されるのです。
ただし、この下方排除された生贄は、天に昇り、太陽となり、燦々と輝き、’ぼくらの世界’を照らしてくれる存在と化すことで、「聖なるもの」となり、聖性を帯びることにもなります。これを今村さんは「下方排除」からの「上方排除」と呼びます。
下方排除からの上方排除、という構図は、じつにありふれたものです。
たとえば、よく耳にする言葉で、’まちおこしは、「よそ者」「若者」「バカ者」がしていく’なんてのがありますよね。
「よそ者」は、’ぼくたちの世界’、つまり共同体にとって部外者です。また、「バカ者」というのもまた、ノーマルなぼくらとは違う「印」つきの存在です。さらに、「若者」というのも、共同体を仕切っている「大人たち」にとってはまさに部外者、マージナルな存在でしょう。
つまり、「よそ者」「若者」「バカ者」とは、共同体にとっては、下方排除された位置に沈殿している存在なのです。それが、じつは不活性化した共同体を再生させる、救世主になる、英雄になり、つまるところ上方排除されて、’ありがとう~’と、聖化されていく。
しかも、です。この上方排除された「よそ者」「若者」「バカ者」は、まさに「排除」ですから、共同体内に踏み止まってもらっても困る。この再生された共同体のボス(新しいリーダー)として君臨してもらったら迷惑なので、去ってもらうことになります・・・・・・
昔話や民話なんかですと、共同体にやってきた流れ者など(下方排除)が、ピンチを救って、’ぼくらの世界’を護ってくれるのですが、たいてい、再び旅に出るか、共同体を護るのと引き換えに、命を落とし、いなくなります。そして、残された村人は神社に祀ったり、記念碑を立てたりします(上方排除)。なんてご都合主義!
話がやや脱線しました。
バタイユが、アステカ文明の供儀に見つけたものは、’お互いがお互いにとって不安の種である’という相互暴力、過剰な暴力の捌け口を、生贄という下方排除に一点集中させることで解消していく、というメカニズムです。
しかもそれを、聖なるものとして上方排除していく。
なぜ上方排除されないといけないのか?
それは、聖化されることにより、暴力性が隠蔽されるからでしょう。
この「聖なるもの」によって、’ぼくたちの世界’は、上から(清く正しく神々しく)吊り支えられることになります。
さてバタイユは、この生贄は、じつは共同体内の自己調達ではなしに、よその共同体に喧嘩をふっかけ、獲得した奴隷を使っていた、と指摘しています。
ここ、わりとポイントです。
もう一度、ここまでを整理しておきましょう。
(1)相互暴力、お互い疑心暗鬼で、共同体が成立しない状態。
(2)誰か「印」つきのヤツを見つけ、そいつをスケープゴートにし、よってたかってイジメることで、少なくとも、それ以外のメンバーが仲良くなれる。ズバリ、共同体の成立。
(3)しかし、ここで、しかし! です。そのパターンだと、’ン? もしかして、つぎにイジメられるの、こいつの次は、オレじゃね?’と、再び疑心暗鬼になり、相互牽制状態に・・・・・・
(4)となるから、イジメるやつを、共同体の内側にではなく、外に求める。つまり、よそから連れてくる、とする。
生贄の、外部調達。
だったら安心。次にイジメられるヤツ、オレじゃねぇわ。
と、つまりは、そういうことです。
じつはここで、あとで触れることになりますが、相互暴力、暴力の過剰エネルギーの発散方法の一つとして、端的に「戦争」を挙げることができます。
このとき、アステカ文明の社会は、「戦争」という選択肢をとってもよかったわけです。しかし、そうしなかった。
「戦争」は、あまりにリスキーです。
アステカ文明社会にとって、戦争は生贄調達の手段であり、ぼくらが普通にイメージするような戦争ではなかった、とバタイユは指摘しています。
言い換えますと、生贄とは、戦争を回避する「消尽」の一パターン、なのです。
アステカ文明では、生贄を外部調達し、共同体内の相互暴力、暴力の過剰エネルギーをそこで発散処理し、かつ、上方排除して聖化し、暴力性を隠蔽した。
また、聖化の過程では、生贄が死刑?執行までは特別な待遇を受けるなど、遅かれ早かれ死すべき人間のためにやたら(無駄に)財が消費されもした。女をあてがわれることもあった。
生贄の命が無駄に消尽され(むしろ奴隷労働させたほうが有益)、生贄に捧げられた富が無駄に消尽され、過剰な暴力性が消尽されていったわけですね。
そうすることで、アステカ文明社会は’ぼくらの共同体’を維持した。よその共同体と全面戦争することなく、内ゲバで内部崩壊することもなく・・・・・・
良い悪いはべつとして、これが、『呪われた部分』のアステカ風調理方法だった、というわけです。
さて次に、バタイユは、あの有名な「ポトラッチ」を紹介します。
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