10 エロティシズム的消尽(1)
さて、バタイユが恐れていたのは、世界的な蓄積運動が「世界最終戦争」という名の消尽へ至るのではないか、という結末でした。
モダンな社会においては、「供儀」という名の消尽も、「対抗贈与」という名の消尽も、バタイユは選択されないと考えたのでしょう。また、「宗教的消尽」もです。「資本主義的消尽」は結果として富の増殖を招き、いつ「軍事的消尽」へ転化するやもしれぬというキケンな雰囲気があります。
しかし、‘ぼくらの世界’は、過剰なエネルギー=呪われた部分、を、ソフトランディングして破棄せねばならない運命にあります。
それでは、どうするか?
結論を先取りし、簡単に言いますと、バタイユはそれを、‘ぼくとあなた’の閉じた二者関係の内で消尽すること、あるいは、自己自身の内面において消尽すること、の2つを(ささやかな)処方箋として掲げたものと、ぼくは理解しています。まずは前者が、「エロティシズム」に関係します。
ここで、二者関係、というのがポイントです。
なぜなら、‘ぼくとあなた’の閉じた世界では、「社会」にならないからです。
「社会」というものを構成する最小限のユニットは、ズバリ三者関係です。‘ぼくとあなた’、そこにいわば外から見つめる眼差しが加わってこそ、社会、が成立します。この第三者は、‘ぼくとあなた’がぶつかったときの調停者、ルール、裁き手、といった立ち位置でもあります。二者関係を「―」、三者関係を「△(または▽)」でイメージしてみましょう。これは今村仁司さんのところで紹介した「第三項排除」とも重なりますが、水平的な二者関係を上から吊り支える(または下から支える)「第三項」の存在が、社会を生みます。この「第三項」は、あるいは「法」と言い換えてもよいでしょう。
第三者の眼差しは、裁きの目、法の目、関係性に秩序をもたらし「社会」に転化させていくものなのです。
このあたりの事情については、たとえばサルトル(1905-1980)の戯曲『出口なし』なんかを読むと、イメージしやすいと思います。
さて、バタイユの、いわば「エロティシズム的消尽」は、消尽を二者関係の内側で行う、つまり、人間と人間との関係性が社会になる手前で、過剰なエネルギーを処理してしまう、というものです。だから「生贄」=第三項を排除しての消尽とか、過酷な、暴力的な在り方をしません。第三項排除にまつわる暴力性は、社会ができて後、あるいはできる過程においてのものですから。後述しますが、「エロティシズム的消尽」をバタイユは、「幸福な消尽」とまで書いたりしてます。
もちろん、だからといって、「幸福な消尽」にひたれば戦争(それも社会が生まれて後のもの)が回避できるとか、そんな脳天気にバタイユは考えていたわけではないですが・・・・・・
なお、これは半ばギャグですが、二者関係を「凸/凹」で表記するとするなら、凸凹がドッキングしてしまうと□となり、自閉します。過剰な暴力的エネルギーは外部へ放出されることなく、閉じてしまうがため、(対外的には)無害、です。
もちろん、二者関係は、男と女、に縛られることなく、べつに同性愛でも構いません。
それでは、より具体的に、エロティシズムの内容について見ていきましょう。
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