【解説】宇宙が広がるみたいな愛の物語。

 浅倉隼人の成長譚(ビルドゥングスローマン?)として読める今作ですが、あえてジャンル分けさせていただくとYA小説なのではないか、と考えます。


 YAはヤングアダルトの略称で、定義はアメリカに則ると「十三歳から十九歳の世代の人たちで『若いおとな』という意味」です。

「顔のない獣」をライトノベルとか青春小説の文脈で読むよりも、YAとして読む方がしっくりくるように僕は感じました。それは定義にある『若いおとな』にあります。


 隼人、遥、コトリ、そして、総江の四名が「顔のない獣 その②」の主要メンツです。

 彼らの共通点はコトリが語った育児放棄、ないし親の不在(総江の場合はやや複雑ですが)によって、「子供らしくできる環境」に居られていません。

 自分の常識、判断基準、出来ることをフルに使って状況を打破するしかありませんし、手を抜いたり他人に頼ったり(甘えたり)する訳にはいきません。


 そんな「子供らしくできる環境」にいない、隼人はオナニーはするし、喧嘩を売れば負けます。しかし、彼は夢を諦めません。

 今作の最後で明かされましたが、UMAを見たという遥の言葉を隼人は頭っから信じることが出来ていませんでした。ここに一番の肝があるように思えます。

 浅倉隼人は彼が思っている以上のリアリストでした。


 倉木作品のキャラクターを読み解く時に、このリアリスト、現実主義という点は重要です。

 少なくとも「情熱乃風R」の川島疾風はUMAの存在を認めながらも、それを捕まえることが職業になるのか? と疑問を口にします(つまり生きる、生活することが目的としたリアリスト)。


 隼人は疾風とは違ったリアルを持っていることが本作を読んでいて伺えます。夢、幻によって、つまり見えないものによって見えるものが傷つくことが許せない。

 顔のない獣と化した遥を苛めた同級生たちの思想の根底にはUMAを見たという嘘をついた遥をからかってやろうという軽い気持ちだったはずです。


 隼人はそこに共感していない。言い方を変えれば、UMAを見たと言ったのが遥で無かったとしても、隼人はクラスの空気を読んでその人間をからかったりはしなかったでしょう。

 それは何故か、興味がないから。僕はそう読みました。


 浅倉隼人は恐ろしいぐらい根底が冷たい。彼は自分が気に入ったもの以外、自分が見たもの以外に関心を抱かない。

 隼人の関心事は自分の家族とお隣の久我家、大きく言えばその二つだけです。その二つさえあれば、他のものはどうでも良い。

 正直、隼人は抗争譚時の中谷勇次以上に不気味に見えます。


 それが最も顕著なのが、コトリを助けるシーンとユウジに喧嘩を売るシーンです。

 命をかける、と言えば言葉は良いですが、隼人がかけたのは「嫌がらせ」と「いますべきこと」でした。


 一番狂っているのはユウジに喧嘩を売った理由。「いますべきこと」です。オナニーを毎日していたから、右手が裏切った。「こいつは、隼人が隼人であるために、いますべきことを教えてくれようとしているのではないか。」と隼人は考えます。


 ユウジに銃口を向けます。

 この瞬間、『RAKE』を殺せず怖気づいた隼人は何の成長もしていません。ユウジにも、「勝てるときに勝たない奴は雑魚以下」と言われています。

 そこで何故、隼人はユウジに銃口を向けたのか、僕は最初に読んだ時は分かりませんでした。

 隼人は何かを殺す覚悟をしたようには見えません。ただ、ユウジを倒すことを決めた、と隼人は言います。

 そんなユウジが「人殺しになれるのか?」と問います。


 二度目を読んだ時に、ここが一番浅倉隼人のトチ狂った部分だと思いました。何故なら、この瞬間、隼人はユウジと真正面から対等に会話を成立したのですから。

 ユウジと隼人の関係は、決して対等ではありませんでした。

 助けられ、状況を教えられ、何故か正座させられた。試験に関しても、総江と里菜のお膳たてがあってこそです。ユウジと隼人は常に二人で会話することが許されない状態で物語は進んでいきました。


 しかし、隼人がユウジに銃口を向けることで、倒すと敵対することで、隼人はようやくユウジを同じ土壌に引きずり下ろした。

 その上で、隼人は自分の疑問を問いとしてユウジへぶつけます。まるで、ユウジを試しているかのように。

 隼人の「いますべきこと」はユウジと対等になること、もしくはユウジを試すことだったのではないか。『RAKE』を殺すことでは隼人はユウジと対等になれず、常に付き従う下僕になるだけです。


 隼人はユウジに銃口を向けることで、彼に支配されることを良しと出来るかどうかを試したのではないか。

 当然、この辺は結果論というか、僕の印象の話の域を出ません。ただ、そのような印象で読み進めた結果、隼人の最後の叫びはエグイです。


 ――「オレは――僕は、UMAを捕まえて、遥を幸せにするんだ! だから、あんたを!」


 この台詞の何が卑怯って、隼人自身が考えた「死んだ後に残された大事な人の悲しみ」を理解した上で言っているということです。

 ユウジは隼人に好きな女がいることを知っています。

 その為、ユウジは隼人を殺すことを躊躇するのか、という点が問題なのではなくて、人が死んで残された大事な人の悲しみを知らない人間を浅倉隼人は認めない、と叫んでもいる。


 銃口を向け、殆ど殺されるような状態で隼人はユウジを信頼に足る(自分を支配するに相応しい)人間かを試していたのではないか。

 それが無意識であったとしても、死よりも重い思想が隼人の中にある事実、そして、それを貫く姿勢こそ僕が不気味に感じた肝でした。


 川島疾風、中谷勇次は人を殺すことに躊躇がありませんが、浅倉隼人は逆で自分が死ぬことに躊躇がありません。

 少なくとも理由さえ納得できれば(遥の為、コトリへの嫌がらせなど)、笑顔で隼人は死ぬんじゃないかとさえ思ってしまう。


 そして、そんな浅倉隼人が今作のユウジとの対峙によって、「相手を殺す。殺される前に殺して生き残る。 自分の命の危機に、隼人は生ぬるい感情を捨て」ます。

「顔のない獣 その② とどのつまりを知っている」は、浅倉隼人が自分の命を守る為に他人を「殺して生き残る」と決意する物語でした。


 そして、そんな浅倉隼人が幼少期に影響を受けたのが、川島疾風だったと今作で明かされました。


 ――子供の時にきいたので、ほとんど意味を理解できていなかった話だった。

 でも、大事なことだとはバカなりにわかって、忘れてはいなかった。


 ここで重要だったのは内容ではなく、記憶だったこと。

 それがタイムカプセルのように「いまになって疾風の伝えたかったことを、ほんのちょっとだけ理解できた気がする。」と自分の命を守る為に他人を「殺して生き残る」と決意した隼人は考えます。


「顔のない獣 その② とどのつまりを知っている」の結末に立つ浅倉隼人には問題が山積みです。

 遥の勘違い、彼氏の倉田、『獣の烙印』にUMAの討伐……。


 それらが無ければ隼人の日常は平和でした。しかし、その代わりにUMAと出会うこともなく、ユウジと対峙することもありませんでした。

 浅倉隼人が成長する為に、そして、遥のことをより愛する為に、それらは必要なことだったのでしょう。それは顔のない獣 その①の冒頭と比べれば、明白なように思います。

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顔のない獣 その② とどのつまりを知っている 郷倉四季 @satokura05

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