【郷倉四季】あとがきにかえて。

 はじめまして、もしくは、こんにちは。

 郷倉四季です。


「顔のない獣 その② とどのつまりを知っている」が完結しましたので、「あとがきにかえて」と「解説」を、郷倉四季が担当させていただきます。

 よろしくお願い致します。


 相変わらず、著者ではない人間が「あとがきにかえて」と「解説」をなぜ担当しているかと言えば、僕が書きたいからです。

 どこかで書いた記憶もありますが、倉木さとし作品を他の人にも読んでもらいたい、と思って僕はカクヨムの「郷倉四季」というアカウントを作成したのでした。

 あと、やっぱり人の作品について考えるって大事だな、と思うんですよね。


 今回で言えば、倉木さとしが何を書いているのか、ってただ読むだけでは見えてこない部分ってありますよね。読んで、考えるってプロセスが、どういう作品に対しても必要な気がします。


 さて、「解説」の方で書くことですが、倉木さんの一連の作品を僕はライトノベルというよりYA小説と定義しています。

 定義は「十三歳から十九歳の世代の人たちで『若いおとな』という意味」なんですが、これに類する作品って何があるかな? と考えてみると、「僕のヒーローアカデミア」が浮かびました。


「僕のヒーローアカデミア」って思いっきり、資本主義な話なんですよね。ヒーローって存在が、人気あっての職業だとテン年代にマーベル映画なんかで確立してしまったので、ヒーロー=資本主義って図式は切り離せなくなってしまいました。


 一応、資本主義の説明をすると、一切全てを商品化していく「市場システム」であり、かつ、諸々の近代国家に蓄積・競合をさせる「世界システム」です。

 世界は結局のところシステムで、言葉を変えればゲームなんだそうです。


 だから、今のライトノベルって物語というより、ゲームとして如何に優れているか、ってことが重要になっている印象を僕は持ちます。それが良いとか、悪いとかではなくて、そうなっているんだと思います。


 ただ、資本主義の世界は確かにゲーム的な言語で語ることができるんですが、我々が生きている肉体的な世界は別にゲームではないんです。

 ツイッターにて、なるほどなと思ったツイートを見かけました。以下に引用させてください。


 ――「さすがにコロナもそろそろ収まるでしょ」って言う人がいるんだけど、聞いてみるとなんの根拠もない。まるで、どこかに良心的な運営がいて、ちゃんと破綻しない範囲でゲームバランスを取ってるみたいな世界観なんだよな。

 まぁ、正常性バイアス、ってことなんだろうけど。


 確かに世界そのものがゲーム的ではあるんだけれど、「ちゃんと破綻しない範囲でゲームバランスを取ってるみたいな世界観」って言うのは凄い。

 けれど、実際の話コロナウィルスから学ぶべきは、ノーベル文学賞を取ったカズオ・イシグロがインタビューで答えていた以下のようなものだと思うんです。


 ――私たちは長らく安定した時間や場所に慣れすぎて、社会というものは私たちによって作られている、ということを忘れがちです。政府は"普通の人々"によって運営されており、何か魔法のシステムが私たちを守ってくれているわけではない。パンデミックはそういうことを私たちに思い出させたわけです。


 僕たちの生活は別に「良心的な運営」から守られている訳ではなくて、普通の人間によって運営されているんですから、ゲームはゲームでも原始的なサバイバルに近い内容になるんじゃないでしょうか。

 そして、そういうサバイバルの中で何が大事かってことが描かれているのが「Dr.STONE」なのかな? と僕は思ったりする訳ですよね。


「僕のヒーローアカデミア」や「Dr.STONE」を引き合いにだしていくと、今のジャンプ作品って凄いんだな、って思わされる部分ではあります。

 そう言えば、ツイッターで「HUNTER×HUNTER」のアート・思想・異端な要素を抽出したのが「チェンソーマン」で、「HUNTER×HUNTER」のバトル漫画としての魅力を濃縮したんのが「呪術廻戦」なのではないか、という仮説があって面白かったです。

 それは良いとして。


 結局は過去の蓄積というか、良いものに如何に影響を受けるかってことが、この資本主義の根幹にあるんじゃないか? って「僕のヒーローアカデミア」とかを見ていると思うんです。

 自分が何に憧れているか、あるいは「自分は何で出来ているか」って言えることに越したことはないんです。


 例えば、ラッパーの般若が「我覇者なり」って曲の中で「俺は何で出来てる?長渕 ブルーハーツ NANJAMAN エムネム」って羅列する歌詞があって、そういう風に自分が何でできているか、って言えることは強いと思うんです。

 なぜなら、迷った時に自分が構成されているものまで戻れば良い訳ですから。


 ちなみに、僕の敬愛する作家の一人に中村文則がいるのですが、彼はあるインタビューで以下のように言っています。


 ――もしかしたら、オリジナリティというのは、30代くらいから出てくるものなのかもしれないですね。20代の若い頃は、何かの模倣や影響のなかで揉まれて、30代くらいでオリジナルが熟してくるというように。だから、自分が何に影響を受けたのかということは、もっと前面に出してしまった方がいいのかもしれない。


 この論法でいくと、YA小説の読者である「十三歳から十九歳」の『若いおとな』たちは、自分は何に興味を持っているのか、世界はどのようなルールで動いているのか、ということを知っていく時期なのかも知れませんね。

 

 ちなみに、「顔のない獣 その② とどのつまりを知っている」の中では突然、まったく予想外のルールを突き付けられて、その渦中に自分がいることを知るシーンがあります。

 そういう理不尽な世界に放り込まれた瞬間、どのように振る舞うことが正義か、というのは状況によることでしょうが、浅倉隼人の在り方は、その一つの参考として読むことができると思っています。

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