第7話

「なるほど、資格はない、と……」


 面接官は露骨に顔をしかめた。

 その表情を見て、私はまたこの会社も駄目だと悟った。


 すでに履歴書を送った企業は十社を超えていた。ほとんどは書類審査の時点で落とされた。高卒で資格も無く、派遣の経験しかない女。そんな条件で積極的に受け入れてもらえるとは、自分でも到底思えなかった。

 しばらく、実家で家事手伝いという名の充電期間に入ることも考えた。私が学生だった頃に頼っていたすずめの涙の祖父母の遺産はもうとっくに底をついている。私が職を失えば、立ち行かなくなることは明らかだった。

 適当な男と結婚してしまうか。そんな考えも浮かばないわけではなかった。適当な婚活パーティーにでも出て、そこそこの男を引っかける。その方が就職活動よりはまだマシなのではないだろうか。そう考え、一度、婚活パーティーとやらに出席してみた。だが、そこに居た男たちは当然、負け組ばかりだった。小奇麗なだけでダサい服装。聞いたこともないような企業。面白さの欠片もないトーク。少しはましに思えた男は、別の女にかっさらわれた。高い会費だけが消えていった。

 そうこうしている内に契約の終了期限が迫ってきた。まだ新しい勤め先は見つからない。適当な男も居ない。なんだこれは。私はいったいどうすればいいんだ。

 街中を歩きまわっているときに不意に足が止まる。頭の中心から身体を貫くように鉄の棒がぶっ刺される。そして、私の頭の上に居る誰かがそれをぐるぐると回し始める。私の中身はぐちゃぐちゃにかき乱される。

 本当に、どうすればいいんだ。


「ねえ――」


 夜の街の下卑た匂いが鼻をかすめた。


「お姉さん、暇だったら一杯やらない?」




 ——何をやっているのだろうか。

 ベッドの上から知らない天井を眺める。シャワールームからは軽快な水音と男の鼻歌。じんじんと響く股の鈍い痛みが自分が今居る場所が夢ではなく、現実だと教えてくれる。

 行きずりの男と身体を重ねて、それが何になる。無意味だ。こんなことがしたかったのか、私は。

 いや、きっとそうじゃない。

 何の意味もない行為だからこそ、私は受け入れたのだ。

 何かの目的のために息をするのは、もう御免だった。

 そんな夢見心地の頭で思い浮かぶのは、なぜか、まなかの顔だった。芸術品みたいに精緻で美しい彼女の顔。その顔は毎晩、男どもに汚されている。

 不意に私は口元を押さえる。ああ、今、私は笑っているんだ、などと、なぜか他人事みたいにそう考えた。

 ベッドの上に放り出していたスマホに手を伸ばす。

 私はまなかに連絡を取ることにした。




「本当に大丈夫なの……?」


 まなかは心配そうに私を見ている。


「いいの。もう決めたから」


 以前、待ち合わせをした喫茶店に彼女を呼び出して私は言った。

 私はまなかに彼女が勤めている店を紹介してもらうことにした。

 風俗で働く。それしかもう道は残されていない。汚い男に身体を許すことに抵抗がないと言えば嘘になる。だけれど、逆に言えば、男を満足させてやるだけで、私が今まで身を粉にして働いて得た給料の何倍もの金が手に入るのだ。それは大きなメリットだった。

 それに――

 私は目の前に座るまなかを見ながら思う。

 まなかでもできた仕事なのだ。

 きつかろうが、しんどかろうが、彼女にはできた。

 なら、私に務まらないはずがない。

 一年だ。一年の間に稼ぐ。それと並行して、婚活を続けて、適当な男を見つける。結婚してしまえば、こちらのものだ。

 風俗で稼ぎつつ、結婚相手を見つける。それが今の私の人生プランだった。


「そっか。茜ちゃんが決めたんなら、私からこれ以上は何も言えないけど」


 彼女はふっと小さな息をついて、力のない笑みを見せた。


「ちょっと助かったかも」


 そんな言葉を小さな声で呟いた。


「助かった?」


 私は彼女の口元を見て、鸚鵡返しに呟く。

 すると、彼女はまるで何か恥ずかしいところを見られたようなはにかみを見せながら言った。


「私、もうお店辞めることになってたから」

「え?」


 私の視線は、彼女のつややかな唇に突き刺さる。瞬間、まるで神様の時計が狂ったみたいに、世界はスローモーションになる。


「結婚するの」


 私は言葉を失って、呆然と彼女の幸せそうな笑顔に目を奪われる。


「そうなの……?」

「うん」


 私の唇は動かない。うまく言葉を紡げない。数度呼吸を繰り返して、ようやく私は「おめでとう」という言葉を固い声で絞り出した。


「相手は……?」


 動かない唇とは裏腹に私の思考は加速する。結婚相手が居る素振りなどなかった。なら、結婚する相手は勤めている店の客とか……? それだったら、大したことない。あんな店に来る男なんてたかがしれている。

 彼女はコーヒーを一口飲んでから言った。


「隆太……長谷川くんだよ」

「長谷川……? 長谷川ってあの……?」

「うん。その」


 数か月前の同窓会で顔を合わせたときの彼の陰気な顔が脳裏をよぎる。

 解らない。彼女なら、まなかなら、ほとんどどんな男でも選び放題なのに。なんで、よりにもよって、あんな冴えない男なのだ。

 このときの私の心情は後から考えると不思議だった。私は自分よりも先に結婚を決めたまなかにも、そのまなかを射止めた長谷川にも、その両方に嫉妬していた。彼女に女として敗北したという事実と、彼女を男に奪われたという現実が、入り混じって私の心の壁を塗りつぶした。


「ほら、彼と私って昔から結構趣味合ったでしょ。漫画とか音楽の趣味」


 知らない、そんなことは。

 私はまなかがどんな漫画が好きで、どんな音楽が好きなのか解らなかった。


「こないだ再会したら意気投合して――」


 知らない。あの日にそんなことがあったなんて。


「彼、今、小説書いてるんだって。すごいよ、彼の書いた本、本屋で平積みになってて。ちょっとした有名人だよね」


 そんなことはどうでもいい。

 どうでもいいことだ。


「彼に全部打ち明けたの。お店のこととか、お母さんのこととか。彼はそれでもいいって言ってくれて――」


 なんなんだよ、それは。


「それで結婚しようって――」


 本当になんだというのだ。

 職を失い、支えてくれる人も居ない明日の生活にも困る私。

 後ろ暗い過去を受け入れてくれる人を得たまなか。

 何が違う?

 私と彼女は、いったい何が違った?


「あ、由衣や亜里沙たちにはこないだの飲み会で、もう報告したんだ。ほら、茜が来れなかった先々週の。同窓会とは別に女子だけで集まろうって言ってたやつ」


 そんな飲み会は知らない。

 私は誘われていなかった。

 私と彼女との違いなんて、本当は解っている。私と彼女は何もかも違う。彼女はただ容姿が優れているだけの馬鹿な女だなんて考えは私の自惚れに過ぎない。彼女は思いやりがあり、誰にでも優しい。それゆえ、誰からも愛される。彼女の持つそういった美徳は、確実に私の中に無い物。私が彼女に劣っている部分。

 そういう部分は見ないようにしていた。私は彼女の外面の美しさを認めることで、彼女の内面の美しさを無視した。そうでもしないと、私は私を保てなかった。そうでないと、私という影は芹沢まなかという光にかき消されてしまっていたから。


「あれ? 茜? 大丈夫?」


 彼女は心配そうに私を見ている。

 こういうところも、本当に本当に――大嫌いなのだ。


                       〈了〉

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世界で一番嫌いなトモダチ 雪瀬ひうろ @hiuro

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