海が太陽のきらり

九一七

海が太陽のきらり

 沈みゆく陽光を背に浴びた少女が歩くその先、波打ち際の砂浜に少年が佇んでいる。彼女の黒髪からは水が滴り、その褐色の肌を伝い落ちた。


「こんな時間に一人で海に入るなんて危ねーぞ。死にてぇーのか?」


 眉間にしわを寄せ、目尻を吊り上げたその少年は、刈り揃えられた髪を揺らして声を荒げたが、一方の彼女はなにひとつ顔にだすことなく平然と彼を見上げ、口を開く。


「あら、ご親切にどうも。でも忠告は無意味よ」

「人がせっかく心配してやったっつうのに言うじゃねぇか」

「こう見えてあたし、毎日泳いでるから」


 そう告げられた彼の眉間からしわが消え、吊り上がっていた目尻が下がる。


「考えてみりゃそうか。他所モンがこんな時間に泳ぐわけねぇしな。おし、いっちょ俺も泳ぐか」


 宣言した彼は白いTシャツとサンダルを脱ぎ去り、青色のハーフパンツ姿のまま、陽が沈みかけた黒い海へと走った。




 完全に陽が沈み、星が瞬く砂浜に少年と少女は並んで腰を下ろしている。彼は濡れた顔をTシャツで拭きながら、なにを気にするそぶりも見せず、言った。


「助けてくれてサンキューな」


 彼女は顔だけを彼に向ける。


「あなた、底なしのバカね。でなければ無謀な自信家よ。泳げもしないのに夜の海に入るなんて……死にたいの?」

「悪かったな」


 彼は悪びれる様子も見せず、その顔からは白い歯を覗かせていた。



 ◇◇◇



 少女が少年と出会って数日が過ぎていた。


 正午過ぎの白い砂浜の波打ち際、夏の日差しがふたりを照りつけている。


「ちゃんと泳げるようになったじゃない。都会育ちのもやしっ子のくせに……」


 沈黙のあと、せわしなく瞳を揺らした彼女は、白いビキニ姿でモジモジと腰をゆすりながらボソリと呟く。


「褒めてあげるわ」


 彼はさして気にする様子も見せず、微笑をたたえて返す。


「ヒデェ言われようだ」


 下を向いた彼が、数拍の間を開けて口を開く。


「……楽しくなっちまってな。それに、ここに来た理由を思い出したんだ」


 彼女は彼を見上げ、顔を近づけた。


「あら、理由ってなに」


 そのおどけた調子にそっぽを向き、口ごもるように答えた。


「口じゃ説明できねぇ」

「口じゃ説明できない何かを探しに来たのね」


 彼の目が丸く見開かれる。


「……なんで分かった?」

「そんなの簡単よ」


 彼女は得意げにそうとだけ言い、それ以降なにも語ることはなかった。




 翌朝、海辺を走るふたりの姿があった。彼女は白いワンピースを風にはためかせ、Tシャツにハーフパンツ姿の彼が追いかける。


「明日帰るのよね。こっちよ」

「ったく、なんちゅう速さだ。コケんなよ」


 ふたりは走り続ける。


 やがて浜辺は途切れ、ふたりを照らしていた朝陽を木々が遮る。


 松林の獣道を走るふたりの視界が突如開けた。


「ここよ」

「…………」


 ふたりは海を囲む崖の上に立っていた。彼はその下に朝陽を浴びてさざめく水面みなもを眺めている。彼女は一歩下がってその様子を眺めていた。


 なんの予兆もなしに、彼が突然崖から身を投げる。両手を伸ばして頭から海面に着水した彼を追うように、彼女も着の身着のまま飛び込んだ。


 ふたりは同時に浮上し、息がかかる距離で向き合う。


「……子」


 そう呟いた彼の焦点は定まっていなかった。


「どうしたの? 誰かの名前を呟いていたようだけど」


 その声にビクリと反応した彼の視線が彼女に戻り、焦点が結ばれる。次第に彼女を見つめるその顔つきは穏やかになっていった。


「いや、なんでもねぇ……水の中から光り輝く海面が見えた。それで思い出したんだ」


 ふと、彼女の目から涙があふれた。彼はそんな彼女を優しく見つめている。彼は優しく彼女の体を抱き寄せた。


「……そう、探しものは見つかったのね。ここに連れてきた甲斐があったわ」

「ああ」


 ふたりの顔がさらに近づき、彼女はそっと目を閉じた。


 逆光に照らされたふたりの影が重なる。しばしの時間重なり合っていたその影が別れた。


「もう時間ね」


 彼は黙ってうなずいた。


「……さよなら」

「ああ、さよならだ」



 ◇◇◇



 あれから一年が経った。


 あの崖の上からすこし背が高くなった彼が姿を現した。


「いるわけねぇよな」

『あたしはここにいるよ』


 しばらく崖の下を見おろしていた彼が、あの時と同じように海へと飛び込んだ。朝陽に照らされた海面に白い波しぶきが立ち上がる。


 しばらくして浮上してきた彼が辺りを見回した。


「……いいか陽子! よく聞け。俺は俺の道を歩く。だからお前も自分の道を行け」


 そう叫びながらも彼の視線は周囲を探り、定まらない。


『あたしの名前、思いだしてくれたのね。大好きだよ! 海斗』


 海斗は叫んだ後も、しばらく辺りを見回していた。そこにはただ、波音だけが響いている。


『あたしにはもう時間がないの。本当にこれが最後。でも、あの夕方の海で成長した貴方に再会あえた。うれしかったんだよ。また会いに来てくれてありがとう。あたしの……海……斗』

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

海が太陽のきらり 九一七 @kuina917

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ