晩夏の残煙

HiraRen

晩夏の残煙



 一学期が終わって、平和的な夏休みがやってきた。


 平和的といっても午前七時に慌ただしく起床しなくて済むだけのことで、そのほかはあまり平和的ではないかもしれない。唐突な夕立と身を燃やすような暑さ、わずらわしい蝉の音に、気力を奪う太陽の光……。さらに深刻なことを言えば、薄着姿で甲子園の予選を見ている姉と四六時中、顔を突き合わせていなくてはいけないという現実だ。

 アイスの棒をくわえて縁側で横になっていた僕に、姉はつまらなそうに「予定ないの? あんた」と聞いてきた。その視線は甲子園の茨城大会準決勝の模様に注がれていた。そもそも埼玉県民なのに、どうして茨城大会を見ているのだろう。それも準決勝を!

 そんなことを思いながら「予定はべつにないよ」と答えた。


「高校生のくせに哀れね。少しは出かけたら?」

「うるさいな。姉ちゃんだって、ヒマなんだろ」

「甲子園で忙しいの。それに、わたしは高校のとき彼氏いたし。暇じゃなかったし」


 でも、その彼氏は茨城大会準決勝よりも遠いどこかへ消えてしまったのだ。

 会話はそこで尻切れて、再び甲子園の実況と蝉の鳴き声だけが居間と縁側に満ちた。

 僕らは仲が悪いわけではないのだが、お互いに長い間顔を突き合わせているのが、どことなく気まずいのだ。それは恋心とか近親相姦とか、そういった類のものではなく、もっともっと純粋に『どっかいかねーかな、この人』という程度のものだ。

 軒先につるした風鈴が自由気ままなタイミングで風の来訪を告げたが、それは涼を得るには弱々しすぎた。


「あんたさ、部活ないの? 夏休み」

「明日ある。今日はない」

「なによー、いまは毎日やってないの?」


 被服部の先輩でもある姉は、そう言ってから顧問の悪口を言った。わたしの代は毎日やってたのに、最近はたるんでるんじゃないの、と。だから僕は、顧問をフォローするわけじゃないけれども、「最近は部員のほうが集まらないんだよ。夏期講習とか、そういうので」と反論していた。


「夏期講習って言ったって、まだ高校一年じゃない。それはね、夏期講習にかこつけたサボりで、きっと男と遊びまくってるのよ。涼しいエアコンの入った部屋で、二人きりで夏の思い出を作ってるってわけ」


 被服部に男子生徒は僕ともう一人しかいない。男子高校生が部活動で縫物をするというのも、確かにちょっと変わっているのかもしれない。ただ、被服部以外に僕が出来そうな部がなかったのだ。

 得意か不得意かといわれれば得意だったし、母は裁縫がとても上手だった。その血を引いているのか、姉も僕も小さいころから裁縫に関してはそれなりの指導を受けた。だから、数少ない家庭科の被服実習はぬるま湯に浸かっているかのような時間だった。

 姉の裁縫セットのおさがりもあるし、自分が出来そうなのは裁縫ぐらいだから……そういった理由で入部した被服部だ。いうまでもないが、二十名のほとんどが女子部員という構成である。


「大体さ、畑口もわかるじゃん。夏期講習なんて遊びの口実だって。あいつどうしちゃったのよ」


 つまらなそうにはき捨てる姉に、僕は「姉ちゃんもそうだったの?」とからかい半分で言ってみた。ちなみに、畑口とは被服部の顧問で今年で三十六歳になる男性なのだ。彼もまた、珍しい被服男子といえる。


「そうだったけど、実際は思ったほどいい思い出にはならなかった。遊園地は行く前日のほうがわくわくするのと同じで、実際に行ってみるとそうでもなかったっていうのに似てるかも」


 率直に答えた姉に、僕はちょっとだけ驚き、うんざりした。


「やめろよな。ここ、俺の家でもあるんだから」

「だから、昔の話だって。それとも、もっと美的な作り話の方がよかった?」


 大学に通うようになった姉は、いろいろと変わった気がする。それは悪い意味じゃなくて、大人っぽくなったというか、上手になったというか……。

 社会学部というところが、姉をそう変えてしまったのだろうか。でも、そこでどんな勉強をしているのかは知らないし、想像もつかない。前にどういう勉強をしているのかと聞いたことがあったが、『普通じゃ出来ないことを学んでるのよ』と姉は言っていた。

 今年、高校に上がったばかりの僕には、やっぱり大学の社会学部というところは難しくてよくわからなかった。

 姉が裁縫関連の道に進まなかったことを母は嘆いていたが、僕は裁縫がすべてだとは思わないから、別に姉の選択を間違ったものだとは思わない。ただ、社会学ってなんなんだろという根本的な疑問は、いまもずっと残っている。

 そんな姉の声を背にしながら、僕はごろんと庭へ寝返りを打った。

 足元から細々とした蚊取り線香の煙が雨どいへと立ち昇っている。

 じりじりと肌を焼く日差しに、やっぱり僕はうんざりした。

 夏なんて、ただうっとうしいだけじゃないか。

 背中で姉が「うわっ、ちょっとゲッツーじゃん!」と声を上げた。

 まったく、うっとうしいばっかりだ。

 そんなとき、庭の生け垣に複数の人の気配を感じた。僕は通りがかった一団の人影に思わず目を見張り、上半身を起こした。くわえていたアイスの棒を床に落とした。その見知らぬ黒い集団に眉を寄せ、時には膝を立てて生け垣の向こうの様子をうかがった。

 彫が深く、鼻の高い男性が先頭を歩き、彼に続くように黒いスカーフを全身にかぶった集団が無言で列をなして歩いていた。人数は十五名ほどだろうか。

 そのほとんどが生け垣の深緑と、身につけている黒いスカーフで全く顔はわからなかった。しかし、一人だけ僕の目を引く人物がいた。彼女は他の人よりも背が高かったせいで、胸元から上の姿がしっかりと確認できたのだ。それは彼女も同様だったのだろう。生け垣よりも高い位置にある一対の目が、黒いマスクともスカーフともわからない装束の隙間から僕をじっと見つめていた。

 数メートルの距離があったにもかかわらず、僕は黒々とした一対の瞳をもつ人物が同世代の女性であるという確信を得たのだ。

 黒装束越しに見える肩幅や胸の恰幅、さらには細い腰つきなどが、若い女性的な活力を発していた。脈々と訴えかけてくる若い女性の温かみと、その一対の瞳に宿った力強い印象の力が、明らかに激しく、そして強固に結びついていた。そこに矛盾はなく、僕は黒装束の異国人を目の当たりにしているにもかかわらず、年頃の生娘と不慮の事故から視線が衝突してしまったような衝撃を覚えた。

 黒装束の一団は金環日食が数分のうちに終わってしまうのと同様に、わずかな衝撃の空白を残したのちに、夏の蜃気楼の中へと歩き去って行ってしまった。

 僕は衝撃的なまでの視線の衝突に、まだ足りない、と前のめりに倒れそうになった。淫乱な女がビデオの中で見せるような、気色悪い表情だっただろう。しかし、僕はそれを客観的に考察するよりも早く身を動かした。

 玄関へ走り、突っかけサンダルを履いて外へ躍り出たのだ。

 あの黒装束の集団を、もう一目見てみたい……いや、あの一対の美しい瞳をもった女性をもっと知りたいと思ったのだ。

 しかし、その装束の集団は白昼夢の如く通りから姿を消してしまっていた。

 僕が居間に戻ると、新しい棒アイスを袋から出した姉が、胸元に汗染みをつくって待っていた。


「どしたの、急に?」

「いや、変な人たちがいてさ」

「安心しなよ、東京に行くとそういう連中ばっかりだよ。とくに東京の大学はね」


 違うんだ、そうじゃないんだ、と弁明しようとしてやめた。あの美しい瞳に魅せられた衝撃を、この姉に説明したところで理解はされないだろう。きっと淡泊に「若さだよ」とでも言われてしまうのが関の山だ。

 僕はしばらく縁側に腰をおろし、勢いを失った蚊取り線香の煙に指先をやさしくからませた。

 甲子園の茨城県大会準決勝は、あと三分後からNHK教育で放送されるらしいことを実況のアナウンサーが告げていた。盛り上がり具合からも、どうやら終盤というところらしい。


「姉ちゃん、この辺に外国人の集まってる所ってあったっけ?」


 唐突な僕の質問に彼女は「えっ?」と聞き返してきた。仕方がなく、もう一度同じ質問を繰り返すと、彼女は「ほら、あそこあるじゃん」と台所の方を指さした。


「商店街のさ、豆腐屋のはす向かいに中華屋さんあるでしょ? あそこの三階に雀荘があって、そこに中国人いっぱいいるよ。あ、台湾人だったかな?」

「違うよ。そういう外国人じゃなくて、もっと外国人って感じの……なんていうんだろう、レアル・マドリードとかインテルみたいな感じの外国人だよ」


 言いながら、自分の説明も妙なものだなと思った。

 しかし、姉は「ああ……」と合点がいったらしく幾度かうなずいて、再び台所の方を指さした。


「サンヨー薬局の研修所あるじゃん。ほとんど使ってないところ。あそこの隣に教会がなかったっけ? 屋根が丸っこい教会」


 丸っこい屋根の教会という言葉で、僕は姉が言っている建物が頭に浮かんだ。

 確かに彼女が言うように、誰も使っていない薬局の研修施設の裏に屋根の丸い教会がある。昔からある教会なのに、近所の人たちの口から好意的なうわさを聞いたことがない。一方で陰口みたいなものも聞いたことがない。不思議な建物だ。薬局の研修施設でどんな研修をやっているのか不明であるように、その教会でどんな信仰が行われているのか、僕は知らなかった。


「いまさ、真黒い服を着た人たちが歩いてきたんだけど、その人たちって教会の人かな?」


 僕が言うと、姉はテレビのリモコンを操作しながら「そうじゃない?」とつまらなそうに言った。

 やはり、あの黒いスカーフをかぶった人たちは教会の人なのか。

 黒々とした装束に身を包んだ人たちは、まさに『異教徒』という言葉がぴったりとあてはまると思った。

 真夏の日本であんな格好をしているのだ。

 彼らには厳格な戒律があって、明確な様式があるのだろう。そうでもなかったら、年頃の女の子があんな黒いスカーフを身につけて、真夏の日本を闊歩したりしないだろう。


 しかし、あの美しい瞳の輝きは何であったのだろうか。


 僕はふと肩越しに振り返り、テレビに熱中する姉の顔を見つめた。彼女の瞳も黒いのに、どうして先ほどのような衝撃的な高揚感を感じることができないのだろう。それに、姉は薄手のシャツに下着みたいなパンツという姿だ。でも、興奮どころか下品とも思える。

 一方で、あの黒い装束の女性は、体のほとんどを隠していたにもかかわらず、魅力的な力を持って僕の心になにかを訴えてきた。この違いはなんだろう。

 そんなふうにして姉を見つめていたら、彼女は「どうしたのよ。教会の娘に恋でもしたわけ?」と聞いてきた。

 核心を突かれたわけではないのに、僕は「え、いや、ち、違うし!」とシドロモドロな返答をしてしまった。そのせいか、姉は怪訝な顔をしただけで、なにも言ってこなかった。



* *



 畑口は僕の話を聞くなり、怪訝な顔をした。


「それ、イスラム教徒だろ?」


 そう言われて、僕は初めて新聞やテレビの世界の出来事が現実世界に現れたような気がした。


「眼だけ出す黒装束って、イスラム教徒の服じゃなかったか? ほら、こういうやつ」


 カツカツと音を立てて顧問の畑口は黒板に汚らしい絵を描いた。遠目からみれば銀行強盗か怪しげな男性の上半身に見えなくもない絵だ。なにせ、ウィンナーの上半分に郵便受けのような横穴があり、そこに点々の目が書き加えられただけの、簡素な絵であったのだから。

 僕は畑口に向かって「この人たちはどういう人たちなんですか」と聞いた。

 畑口は「普通の人さ」と言ったので、「普通の人は、こんな黒い装束をかぶったりはしないんじゃないですか」と僕は答えた。そんな僕に彼は苦笑いを浮かべながら「彼らにとっては普通のことなんじゃないかな」と返答してきた。

 部活動の活動日だというのに、出席したのは僕と数人の女子だけだった。ほとんどの部員が『夏期講習』という名の、夏の思い出作りのために欠席した。それも畑口にメールで伝えるという、姉の時代では考えられないような軽率なやり方で。

 そのせいか、活動時間が終わるなりほとんどの部員は帰ってしまった。こうして教室に畑口と残っているのは僕だけというわけだ。


「でも、珍しいな。こんな埼玉の片田舎にイスラム教の人たちが来るなんてな」


 昨日の出来事をかいつまんで説明したせいか、畑口は腕を組んで「見たことないもんな、こういうの着てる人」とつぶやいていた。


「彼らは何語をしゃべるんですか。僕、ちょっと彼らの言葉を勉強してみようかなって……」

「えっ……何語って、そりゃアラビア語だと思うけど」

「アラビア語……? 谷本先生、わかりますかね?」

「バカいえよ。谷本先生は英語の先生で、アラビア語はわからないよ。でも、どうして習おうなんて思ってるんだよ。その人たちと友達になろうって言うのか?」


 その質問に僕は小さくうなずいた。


「ちょっと興味があるっていうか、どういう人たちなのか、気になってて……」

「昨日、ちょっと見かけただけだろ?」

「そ、そうなんですけど……なんていうか、物珍しいっていうか……」


 僕があいまいに言葉を濁していると、畑中はまじめな顔をして「いいか」と前置いた。


「肌の色が違う、食べるものが違う、文化が違う。外国人っていうのはいろんな人がいて、みんなそれなりに誇りを持ってるんだ。だから、あんまり軽はずみに『物珍しい』なんて外国の人に言っちゃいけない」

「い、いえ、違うんです。そうじゃなくて……」


 僕はそこでいったん言葉を切って、決して物珍しいという理由だけで彼女に惹かれているわけではないのだと心の中で自分に言い聞かせた。それから僕は思い切って畑中に打ち明けたのだ。

 あの黒装束の中に見えた美しい瞳の彼女のことを。

 そして僕はどうやら彼女と会話をしたいと強く思っている。

 そのせいで、昨日の夜はうまく寝付くことができなかった。それは暑さのせいかもしれないし、あの装束の女の子を見たときの興奮のせいかもしれなかった。

 ぼんやりとしていたせいか、顧問の畑口は「おーい」と幾度か呼びかけていた。

 はっとなって我を取り返した時には、彼はもうニヤニヤして「言うな、言うな。夏だもんな」と意味深なことを口にしていた。

 そんな顧問の様子に、僕はとてつもなく恥ずかしくなってしまったのだ。

 彼は膝に手をついて立ち上がると、腕時計に目を向けた。


「今日は帰れ。部員も集まらないし、残っていても仕方ないだろう」

「あ、はい……」

「なんだよ、元気のない声を出すんじゃないよ。明日は活動日じゃないけれど、おまえ、学校に来い」

「えっ……?」

「アラビア語を教えてやるわけにはいかないが、ちょっとだけ手伝ってやる。まあ、手伝うって言っても、やるのはおまえで、努力するかしないかも、おまえ次第だからな」


 畑口はそう言って教室の扉に手をかけた。


「じゃ、明日な。職員室で待ってるから」


 僕は「わかりました、さようなら」と答えてはみたものの、なぜ明日学校へ来なくてはいけないのか。その意味がわからなかった。それに、手伝ってやるっていうのは一体なんなのだろうか。いやな予感がする半面、どこか救われたような気持ちもしていた。

 なんだか居心地が悪くなって、僕は荷物をまとめて教室を出た。




 翌日、僕が職員室へ行くと畑口は少々驚いたように「本当に来たのか」と言った。どうやら、僕が来ないと思っていたらしい。

 呼び出したのは先生じゃないか、と憤りながら言うと、彼は「そう怒るなよ」と言ってプリントアウトした用紙を僕に差し出した。


「自分にできることをやってみたらどうだ?」


 彼が示してきたのは、イスラム教徒が身につけている黒装束の写真だった。


「いろいろ調べてみると、種類がたくさんあってな。ここには三つほど写真を載せておいた。どうだ、おまえが見た装束はこのなかにあるか?」


 僕は写真をしげしげと見つめた。

 ひとつは顔もしっかりと隠せるタイプの装束だ。完全に布をかぶっているように見える。ただ、目のあたりには細かい穴があいているらしく、そこから周囲の様子を見るようになっているようだ。

 もうひとつが目線だけが表に出ているもの。頭巾にポストのような横穴を開けて、そこから目を出すというものだ。僕が見たのは、たぶんこれだろう。そして最後の一つが顔全体を外部に見せるタイプのものだった。どちらかといえば、スカーフをかぶっているようにも見える。

 僕は「たぶん、これです」と、二つ目の写真を指差した。

 それは目線の部分だけが見えるタイプのものだ。このわずかな隙間から見えた黒い瞳の興奮が、奇妙な着色を含んで僕の胸によみがえってきた。


「なら、これ作ってみたらどうだよ」


 畑口はそう言って僕をじっと見つめた。


「結構、構造は簡単だと思うぞ。まあ、生地は黒で統一だろうけれども、日本にいるんだ。ちょっとワンポイントで柄を小さく入れてやってもいいだろう」


 顧問は諳んじるように言ってから、「それをプレゼントって魂胆だ。そこにはアラビア語もいらなければ、おまえさんの気持ちも伝わる。一石二鳥だと思わないか?」そこまで説明してから、彼は笑った。

 僕は畑口に同調して笑ってみようと頑張った。けれども、なぜだかうまく笑えなかった。この異国の民族衣装を、自分がうまく作れるだろうか。そしてあの子はそれを受け取ってくれるだろうか、喜んでくれるだろうか。

 そう思うと、軽々に笑うことができなかったのだ。



* *



 その日から、家に帰ってミシンに向かう日々が始まった。自分の部屋にミシンはあるのだが、課題以外ではほとんど使っていないのが現実だ。

 畑口が紹介してくれたイスラム教徒の覆面にはたくさんの種類がある。

 目線のところを網目状にした頭巾を『ブルカ』と言い、顔を出すタイプを『ヘジャブ』と言うらしい。僕が作ろうとしている目線の部分だけを表に出すのを『ニカブ』というらしく、どんな理由で使い分けるのかは……僕にはわからない。

 ただ、僕らがお寺と神社で手をたたいたりたたかなかったりするのと同様に、イスラム教徒には厳格な決まりがあって、その決まりのもとでニカブとかヘジャブを使い分けているのだろう。

 試しに僕は深く考えず、布をかぶる形で目線窓をあけたものを作った。作業は三十分程度で、あまり針を入れたりする部分はなかった。窓の部分を慎重に切り、その周囲を返す形で縫いつけただけのシンプルなものだ。

 しかし、僕はそれをかぶったとき、信じがたいほどの衝撃に襲われた。

 まず、生地の選別を失敗したと思ったのだ。

 ニカブの中は息苦しく、とても埃っぽい圧迫感を感じた。まるで真夏に毛布をかぶって眠っているみたいな暑さだ。しかも、顔を左右に動かすと寸法があっていないためか、のぞき窓が視界からズレてしまい、いちいち手でニカブの位置を直さなくてはならなかった。これは上下左右の動きに対しても同様で、とても着用して生活を送ることは出来そうになかった。

 試作品のニカブを脱ぎ、僕はしばし考えた。

 口元の生地は薄いものにやり返れば呼吸の問題は何とか出来そうだ。しかし、首を動かすごとにのぞき窓と目線の位置がズレるのは致命的だ。

 僕は畑口がくれたプリントをじっと見つめた。

 あの顧問は白黒写真でプリントアウトしたので、正式なニカブの造形を読み取ることができなかった。しかし、目を凝らしてみてみると、後頭部あたりにニカブを折り返しているよな様子が見て取れた。


「そうか、ある程度の調節ができるようになっているのか」


 僕はいつかスカーフに関する実習を部活動でやったことを思い出した。

 スカーフには大まかなサイズはあるが、個々人の細かい首の太さに対応はしていない。そのため、ファッションの必要性に合わせて折り目をつけたり、結び目を変えたりして長さを調節する。もちろん、応用してほかの用途に利用したりもできるわけだ。

 つまり、ニカブにもそのような柔軟性が機能的に備えられているはずなのだ。

 僕が作った試作のニカブは、単に頭からかぶるタイプの簡素なものだ。しかし、本場のニカブはそう単純ではなさそうだ。

 その日、僕は夜遅くまでニカブの折り目について試行錯誤を繰り返してみたが、妙案は浮かばなかった。




 翌日、部活の活動日で学校に登校した。


 部活動が午後二時ごろに終わり、畑口に昨晩のことを話した。

 ニカブを作ってみたのだが目線の位置が変わること、折り目の付け方がわからないこと、出来ればカラー刷りの写真でニカブを見せてほしい、と。

 その話を聞いて、職員室で畑口はうなった。

 手際良くカラー刷りの写真をプリントアウトしてくれたのだが、正面からモデルの女性を写した写真では、最も大事な後頭部の構造を見て取ることができなかった。


「確かに折り目というか、調節がどうなっているのかはわからないな」


 畑口はそう言って眉を寄せた。

 僕は写真を見たままに、布をかぶる形で試作品を作った。しかし冷静に考えて、僕らがシーツや毛布を頭からすっぽりとかぶっても、それらが頭部にピタッとフィットするわけではない。頭を動かせば衣擦れを起こしながらするすると頭はいろいろな場所に動くことができる。しかし、ニカブでそれが起こってしまってはダメだ。狭い目線窓の位置と目の位置が動いてしまえば、行動に支障をきたすことになるからだ。

 被服室と職員室を行き来しながら、僕は畑口と二人でニカブをどのように折れば頭部に固定できるかを探った。

 やはり後頭部あたりで二度、三度と折ってみると頭部への密着と固定は認められたが、はたしてそれがイスラム教徒にとっての正道であるかどうかは微妙なところだった。畑口はこの現状にうなって。


「邪道かもしれないけれども、安全ピンで固定してやれば、だいぶ安定性が増すと思うんだ。ほら、結構動くと折り目がとけてくるだろ。それを織り込みじゃなくて安全ピンでとめちゃうってことだ。こんな感じでさ」


 空が朱色に染まり始めた夕暮れの被服室で、畑口はそう言いながら頭部のマネキンに着用させた試作品のニカブに安全ピンを入れた。安全ピンは刺し方次第であまり目立たなかったが、このようなことをしてもいいのだろうかという疑問だけが残った。


「やっぱり、本物を見せてもらったほうがいいかもしれないな」


 畑口はそう言ってから、僕に対して首をかしげた。


「本物って……」

「地元に教会があるんだろう。そこで、信者の人に見せてもらったらどうだ。学校の部活動で、ニカブを作っているんですけれどとか言ってさ」

「ああ……」


 でも、そうしたらサプライズプレゼントとしての意味が薄れてしまうのではないかと思った。いや、急に渡すよりも、学校で作ったけれどもかぶってくれる人がいないから、もしよかったらかぶってくれませんか、と言ったほうが自然にあの子にニカブを渡せるかもしれない。

 僕は思考が蛇行しながら進んでいることに気がつきながらも、「明日にでも、ちょっと教会に行ってみようと思います」と畑口にこたえていた。

 アラビア語が喋れなくても、神父みたいな代表の人は日本語が話せるだろうから、その人に聞いてみたらいいんじゃないかな、とアドバイスをしてくれた。

 それにうなずいて、僕は学校を後にした。

 民族衣装とは、やっぱりハードルが高いなと骨身に染みた。

 以前、姉の同級生で被服部の先輩だった女の子がアニメキャラクターのコスプレ衣装を作るということで手伝わされたことがあった。しかし、それには型紙もあれば完成図もあった。だが、今回のニカブにはそれがないのだ。それに、生活と密接にかかわっている衣装というのは、どうも適当に作っていいという気にはなれない。それも、イスラム教徒の伝統的な民族衣装なのだ。手を抜いて作るというのは、いろいろな意味で失礼だろう。

 僕は電車に乗って自宅に帰るまでにそんなことを考えていた。

 いつしか、あの子の気を引くためのニカブ作りから、イスラム教徒に認めてもらうためのニカブ作りに、ちょっとだけ性質が変わってしまったような気がした。



* *



 翌日の午後一時過ぎに、僕は例の教会へと向かった。誰も使っていない薬局の研修所の裏にある教会だ。

 夏の強い日差しのせいもあってか、人通りのまばらだった。

 教会から生活音らしき音はほとんど聞こえてこず、室外機の音だけが低く通り沿いに響いていた。

 僕は玄関チャイムを押して来訪の意を告げるべきかと考えた。

 どうしていいのか分からず、その場で右往左往していたら「どうされました?」と背後から声をかけられた。その声に僕は驚き、素っ頓狂な声を出して飛び上がってしまった。


「あ、あの……!」


 僕が振り返ると、そこには背の小さい初老の男性が立っていた。浅黒い肌をした彼はもしゃもしゃしたひげを生やし、白くて小さな帽子を頭に載せていた。


「が、学校の課題でニカブを作ってて……それで、本物を見せていただけたらと思ったんです……」

「ニカブ、ですか?」


 男性は首をかしげた。とても優しそうな顔であるのだが、底知れない谷間のような恐怖感が彼にはあった。

 異国の男性は目を険しく細めてから僕に言った。


「悪いけれど、いまはモスクに立ち寄らんでほしい」


 彼は突き放すように言ってから、「つらい時期なんでな」と肩を落とすように続けたのだ。

 そんな彼に僕は「ニカブだけでも教えてください。邪魔はしませんから!」と食い下がった。どうして食い下がってしまったのかは分からない。ただ、ここで「わかりました」と承諾してしまったら、なんだかとても悔しいような気がしたのだ。

 僕の主張に牧師らしい異国の男性は顔を赤くして、大股に近づいてきた。


「悪いことは言わん。帰ってくれ。いまの我々は文化交流を望んではいない。そういうものは慈善団体にでも頼んで教えてもらいなさい!」


 怒鳴りつけるように言う男の形相に、僕はすっかり驚いて返答すべき言葉を飲み込んだ。

 どうしてニカブのひとつも見せてくれないのだろうか。

 僕はそれが疑問だった。イスラム教徒にとってニカブを見せることは、快くないことなのだろうか。もしそうだとしたら、僕があの子にニカブをプレゼントするようなことは、もってのほかなのではないだろうか……。

 そう思いながら家路につこうとしたとき、あの黒装束の集団が歩いてきた。

 鼻が高く彫の深い男性に続いて、列を成した女性の集団。

 その最後尾に、あの美しい目元の女性がいた。彼女は僕を認めるなり、なにか悲しげな色を瞳に浮かべた。どこかうつろで、うつむき加減な、悲しい瞳に見えた。

 僕は彼女たちが教会の中に消えていくのを茫然と見送りながら、ニカブ作りを続けるかどうかを考えた。



* *



 翌日、畑口に教会へ行ったことを話した。そして牧師らしき人に拒絶された旨も伝えた。畑口は怪訝そうな顔をして「そういう宗教施設って珍しいな」と言ったのだ。


「だいたい宗教集団って信者がほしくて仕方ないんじゃないの? それなのに門前払いするって、ちょっと変ってるよ」


 彼の意見はもっともだと思う。僕は決してイスラム教に入信したいわけではない。けれども、ああいう態度を取られると、どうしてもイスラム教というものに悪い印象を持ってしまう。事実、僕はあまり気持ちのいい思いをしなかった。

「それで、どうするんだ?」畑口はそう言って「ニカブ作り、辞めるのか?」と聞いてきた。僕は何と答えていいのか分からなかったが、「続けます」と端的に答えた。

 言い訳とか、理由とか、そういうのが思い浮かばなかったのだ。けれども、清々しく続けますと言えるほど、晴れやかな気持ではなかった。

 作り方もわからないままだし、実物を見たのは昨日のわずかな一瞬だけ。それでも、僕はその記憶を頼りに、被服室や自室で作業を続けた。

 第二号の試作品は、最初に作ったものよりは、だいぶマシになった。しかし、まだ顔を動かすとのぞき穴と目線がずれたりした。どうにかそれを解消しなくてはいけないと努力をしたのだが、やっぱりうまくいかず、そうしている間にも七月が終わった。



* *



 八月に入ると部活動もお盆明けまで予定がなくなった。顧問の畑口も日直の仕事で学校へやってくるのはお盆明けになると言って、それまでは自分の力でニカブ作りを進めなくてはならなくなった。

 自室に設備はある。だが、相談できる相手がいないというのは心細かった。

 毎日部屋にこもってミシンをいじっているせいで、姉からは変な目で見られるし、母親もなにか気を遣っているような様子を見せる。けれども、そんなことにいちいち反応している余裕は僕にはなかった。

 いつしか、あの子のためのプレゼント、というよりもちゃんとしたニカブを自分の手で作り上げること、と目的がすり替わってしまっていた。作っては自分で着用し、なんだか着心地が悪い、目線がずれる、息苦しい……などの不備を見つける。それを改善するためにはどうしたらいいのか。それを探る作業が繰り返された。

 本来なら見本となるニカブを入手すればいいのだ。けれども、あのさびれた通り沿いにある教会へ、また足を運ぶという気にはなれなかった。

 次、あの教会へ行く時……それはこのニカブを寄付しに行く時だ。それ以外の理由で、あそこには絶対に立ち寄らないのだ。僕はそう心に決めていた。

 そしてお盆休みを二日後に控えた暑い日。

 ついに僕はこれまででもっとも着心地のいいニカブを作り上げた。

 多少の妥協と創意工夫を凝らしたものであるが、なんとかひとつのものを作り上げたという達成感は、これまでに感じたことのない満足を生んでくれた。

 僕はしばらく自分のニカブを胸に抱きながら、ベッドで眠った。

 夜遅くまで作業していたせいか、エアコンをつけずとも真夏の室内でぐっすりと眠ってしまったのだ。

 そして目が覚めたとき、すでに夕暮れ時だった。


「いけない! 届けに行かないと!」


 僕は飛び起きて、自分に言い聞かせるように声を発した。そして外出の準備をした。



* *



 夏の夕暮れは想像以上に肌を焼いた。

 この日の教会も、室外機の音だけが低く響いていた。夕食の準備時だというのに、生活臭や生活音はあまり聞こえなかった。遠くで車の行き交う音だけが聞こえていた。

 僕は生唾を飲み込み、ニカブを入れた紙袋を両腕でぐっと抱きかかえた。

 チャイムを鳴らすと、しばらくの間があってから「はい」という男性の声がインターフォンから戻ってきた。


「あ、あの……ちょっと、お渡ししたいものがあるんです」


 僕は言ってから、もっとしっかりとした台詞を準備してくれば良かったと後悔した。いつも見切り発車して失敗するのに、また似たようなことをしてしまったと思った。

 しばしの間があってから、たどたどしい口調で「お待ちください」と男性は言った。

 それから数分もしないうちに、白い装束を着た若い男性が教会から現れた。

 その男性を見たとき、僕は「あっ」と思った。彼こそ、黒装束の女性たちを率いて道を歩いていた、彫が深くて鼻の高い男性だったのだ。

 彼は僕をじっと見つめてから、「あー」とか「んー」とか言いながら、肩を寄せたりした。この男性もまた、もしゃもしゃしたひげと白い装束、そして頭に白い帽子みたいなものを載せていた。


「あの、女性の方にこれを使ってもらいたくて……」


 僕は紙袋の中からニカブを取り出して、彼にわかるよう広げて見せた。すると男性は僕が作ったものがなんであるのかを認識したらしく、目を見開いて驚いた表情を作った。

 彼は僕のニカブを手に取ると、口々に何かを言った。それはアラビア語らしく、僕には理解できなかった。ただ、前向きな表情をしたり、ちょっと苦笑いを浮かべたりしながら、僕の作ったニカブを検査するみたいに見ていたのだ。


「いま、モスク、導師いない。わたし、日本の語が、すごく苦手」

「え、あ……そうなんですか」


 たどたどしい言葉で返答してきた彼は、ちょっと困ったように眉を寄せてから「待ってて」と言って建物の中に戻って行った。

 僕はしばし夕暮れの教会の前でぽつんと立ったまま、再び誰かが出てくるのを待った。

 しばらくするとニカブを被った黒ずくめの女性が二人出てきた。


「こんにちは」


 背の低い少女はそう挨拶してから「わたし、少し日本語を話せます」と丁寧な日本語で言った。もう一人の子もわずかにうなずいたように見えた。

 僕は改めてニカブを作ったので、使ってほしいと述べた。

 彫の深い男性が持ったニカブを示すと、彼女たちはなにか口々に言ったが、やはりそれはアラビア語らしくて、わからなかった。


「ありがとうございます」


 女の子はそう言って立ち去る雰囲気を発したので、僕は「ちょっと待ってください」と声を掛けてしまった。

 ニカブを受け取ってもらえたことで安心ししてしまったが、僕はただ届けに来ただけではない。胸の内にあったのは、このニカブはあなたたちの使っているものと大きな違いがあるか。これはあなたたちが日常的に使えるものであるかどうか、というニカブに関する質問がしたかった。

 僕はそれらのことを彼女たちに、なんとかゆっくりとした日本語で説明した。

 二人の少女はしばし僕の作ったニカブを、彫の深い男性がしたように、仔細にチェックしてから言った。


「とてもよく出来ています。普段でも、使えると思います」


 この賞賛を、僕は社交辞令的な文言のように受け取った。

 違うんだ、もっと踏み込んだ話をしてほしいんだ。

 そう思ったとき、僕は自分自身でも驚いたことに気がついた。

 僕は、あの女の子に会いたい一心でニカブを作っていたのに、いまとなってはニカブに関する構造のほうに興味が注がれている。ニカブがイスラムの女性たちにとってどういう存在なのか。ニカブは日常の中でどのような役割をはたしているのか。そのニカブはどのようになっていて、どのようにして作るのか……。

 いつの間にか興味がすり替わってしまっていて、自分でも驚いた半面、おかしな気分になった。

 僕が不意に笑いだしたものだから、二人の女の子が困惑したような眼をした。だから、僕はごめんごめんと謝って。


「実は背の高い女の子に会ってみたくて、作ったんだ。洋服を作ることが、得意っていうか、ちょっと好きだったから。でも、いまはその子に会うことより、ニカブがどうなっているのかっていうほうがすごく興味があって……。自分でも変だなって、いま思ったんだ」


 矢継ぎ早に僕が話をしたのに、一人の少女――控え目に立っていた奥の少女は「人の心は変わります」と流暢な日本語を返してきた。


「背の高い女の子に会うために作った。けれども、いまはニカブに興味がある」


 彼女は繰り返すようにそう言い、なにやらアラビア語で男性に話しかけた。

 男性は幾度かうなずき建物の中に入って行った。

 それを見送ってから、女の子は「素敵なニカブだと思います。ただ、わたし達のものとはちょっと違います」と答えた。


「どこがどう違うの?」

「口で言うのはとても難しいです。だから、実際に見てほしいと思います」


 もしかして、ここでいまキミがつけているニカブを脱いで、中を見せてくれるの、と僕は思った。しかし、彼女たちはニカブを脱ぐそぶりもしなかった。

 しばらくして、教会のほうから彫の深い男性が戻ってきた。そして、僕は胸がぐっと押しつぶされるような衝撃を覚えた。

 男性の後ろに伏し目がちな様子で現れたのは、まさに、あの背が高い女の子だった。

 美しい黒い瞳はしっかりとそこにおさまっており、僕を見てはすぐに視線を下げた。

 彫の深い男性は、きれいにたたまれた黒い布を僕に差し出すなり。


「こちらを、差し上げます」


 そういったのだ。

 僕が驚いた様子で「いいんですか」と答えたら、男性は笑顔でうなずいた。


「この子のニカブです」


 流暢な日本語を話す少女はそう言って、背の高い女の子を示した。

 僕は軽い混乱を覚えるのと同時に、全身の血が熱く沸騰するのがわかった。

 背の高い女の子は、もごもごと口元を動かすような気配を見せてから、たどたどしい日本語で「ありがとう」と言って、彫の深い男性から、僕が作ったニカブを手にした。

 その瞬間、僕はいろいろな努力と工夫を重ねて、ニカブを作り上げてよかったと心底思ったのだ。

 それから簡単な挨拶をしてから、男性と背の高い女の子は教会の中に戻って行った。

 日本語が話せる二人の少女も教会に戻っていこうとするのを僕は引き留めて、「あのさ、また来てもいいかな」と問いかけた。

 きっと今度は、教会の中に入れてくれるかもしれない。もしかしたら、あの怖そうな牧師さんも僕を受け入れてくれるかもしれない。そして、あの背の高い女の子の素顔が見れるかもしれない。

 そんな希望があったのだ。

 しかし、女の子は言った。


「わたし達のほとんどは、夏のあいだにここを離れます」

「えっ……国へ、帰るの?」


 僕の問いかけに二人の少女は顔を合わせ、わずかに間をおいた。


「他のモスクに行きます。ひとつの場所にながくとどまることはできないのです」

「じゃ、じゃあ、さっきの子も……」

「一緒に、別の場所へ移ります」


 彼女はそう言ってから「ニカブ、ありがとうございました」と頭を下げた。

 礼儀正しいイスラム教徒だと思った。本当に外国人なのか疑問だったが、黒い瞳だけで彼女が異国の人間か否かを判断するのは難しすぎた。

 なぜだか僕は、取り残されたような形で教会の前で立ち尽くしてしまった。

 せっかくうまく歯車が回りだしたと思ったのに、急にストッパーを差し込まれてしまったような気がしたのだ。




 ニカブ作りが終わってしまって、僕は家に帰るなり、ものすごい倦怠感を覚えた。

 玄関を入るなり、姉が不機嫌に「あんた、どこ行ってたのよ。夕食のおつかいぐらい……」と言ったのだが、僕はほとんど相手にしなかった。

 僕の様子がいつもと違っていると気がついたのだろうか。姉はそれ以上なにも言わずに「おかあさーん!」と台所のほうへ行ってしまった。

 部屋に戻り、僕は散らかったミシンとその周辺に目を向けた。

 その瞬間、途方もなく悲しくなって、涙が出た。

 もうニカブが作れない。いや、あの背の高い女の子がどこか遠いところへ行ってしまう。あの美しい瞳をもう見ることができなくなってしまう……。

 教会で話していたときは、あの子のことなんて毛ほども思っていなかったのに、いざ彼女がどこか遠い世界に行ってしまうと言われると……途方もなく悲しかった。

 自宅の縁側から、あの子の姿を見ることができないのだと思うと、本当に悲しくて……涙があふれ出た。

 僕は腕で涙をぬぐい、エアコンのスイッチを入れ、ベッドに転がっていたテレビのリモコンを握った。

 久しぶりに見るテレビは、夕方のニュースを流していた。

 ほとんどニュースなんか見ないけれど、そのニュースは偶然にもイスラエルのガザ侵攻を報じていた。

 僕はその瞬間、あの子のことを思って、強く、激しく泣いた。

 そしてその日の夕食どき、両親と姉に打ち明けた。


 大学は社会学部に行くよ、と。



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晩夏の残煙 HiraRen @HiraRen

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