空飛ぶチョコレートケーキ

影梅宗

第1話 飛べないアイツ

 空は、飛べた例が無い。


 チョコレートは甘い。


「ねぇ、あの飛行機が落ちるかどうか、賭けてみない?」


「馬鹿かお前は?」


 空は赤い。


 外気は肌寒い。


 もうそろそろ六時になろうという夕刻の時間帯に、花見坂上は空を見上げてそう言った。ぼくも彼女と同様に空を見上げると、その視線の先には小指の爪ほどに小さくなっている旅客機を確認出来る。手を伸ばしたところで到底届く筈の無い距離。それは地面の上でも廃屋の屋上でも同じ事だ。


 その飛行機が、落ちるかどうか。


 花見坂上はそう問うた。


 だからぼくは言ったのだ。


『馬鹿かお前は?』と――。


「言うに事欠いて馬鹿とか、今時中学生でももっとマシな事言うわよ?」


「お前が中学生よりマシな事言えてないから『馬鹿か?』って言ってんだよ。何だよ落ちるか賭けないかって。意味分かんね」


 言うと、花見坂上は薄っすらと笑みを浮かべて見せた。それは嬉しいや楽しいなどを表す笑みでは無く、悪戯のバレた子供がそれを誤魔化す為に浮かべる、そんな風な笑み。


 ぼく等の頭上を通過した飛行機。それを見送ると、彼女はぼくに正面を向けて目を細めた。それはきっと、ぼくの後ろにある夕日の眩しさ故だろう。ぼくの影が正面へと、彼女の影が後方へと、その色を濃くして、コンクリートの上を長く伸びてゆく。


 風は冷たい。


 彼女の吐く息は白く、ぼくの吐く息も同様に白かった。


 首元の緩くなったマフラーを巻き直し、花見坂上は先と同じ様な薄い笑みを浮かべる。そうして言いを吐く為、彼女はゆっくりと口を開いた。


 彼女の頬は紅い。


 唇も、やはり紅い。


「じゃあさ、式日はあの飛行機が落ちないとでも思ってるの?」

「思ってるよ」


 間は空けない。


 花見坂上に主導は握らせない。


 間髪無くそう答え、ぼくは花見坂上の視線に自身の視線を重ねた。


 ぼくは笑わないが、彼女の目は、やはり薄く笑みを作っている。


「あれは空を飛んでいるのよ? 燃料で飛んでいるし、自力で飛んでいる訳じゃない。飛ばしている人がいる、操縦している人がいる。言うならば『飛ばされている物』だわ。それでも、式日はあれが落ちないと思う?」


「着陸はする。人が飛ばしているものだからこそ、急に落ちたりはしない。『着陸』と『落ちる』は違うからだ。それを理解して尚、お前は『あれ』が『落ちる』と思うのか?」


 花見坂上?


 問うと彼女は、「思うよ」と、それでも首を縦へと振った。


 彼女の、花見坂上の答えは真っ当では無い。落ちるか否かと問われ、それを全面から肯定へと頷ける彼女の真意を問い質したくも思う。……けれど、それは結局、ぼくの中での常識だ。


 彼女の常識はぼくの常識では無いし、ぼくの常識もまた、彼女の常識では無い。


「ねぇ、式日」


 彼女は切り出す。


 ぼくの返事を待つ事無く、彼女は続ける。


「飛行機に乗った事って、ある?」


「……あるよ」


 両親の故郷が北の方だ。現在の住居が関東である以上、里帰りには飛行機に乗るのが一番早い。産まれも育ちも関東のぼくは、子供の頃から幾度も飛行機に乗る機会があった。その度に祖父と祖母に可愛がられたものだ。


「私はね、無いよ。飛行機に乗った事」


 花見坂上は片眉を上げ、何処か可笑しそうに笑って見せる。そうして、「乗ってみたいなぁ、飛行機」と、独り言のように一言呟いた。


「もしあれに乗って、そのまま落ちて、乗ってる人達みんなで死ねれば、少しは怖く無くなるかな?」


「………………」


 ぼくは答えない。


 何を答えても、それが彼女の為にならないという事を知っているからだ。


「何も言ってくれないんだね」


「……何か言って欲しいのか?」


「うん」


 彼女の為にならない答え。


「死ぬのは怖いぞ?」


「知ってるよ」


 彼女の為にはならないと分かっているのに、それでも彼女は答えを欲し、ぼくもまた、彼女の望まんとする答えを吐き出してやる。


 それは、ぼくが花見坂上の事を好いているからだ。


「だからさ、みんなで死ねれば、少しは怖くないかも知れないでしょ?」


「………………」


 ぼくは花見坂上を好いている。


けれど、花見坂上がぼくの事を好いているとは限らない。


「お前死にたいの?」


「分かんない」


「……馬鹿じゃねぇの?」


「まぁ、そうかもね」


 すっかりと日の暮れてしまった屋外の気温は、ぼく等に一層の肌寒さを感じさせた。何も遮る物の無いこの場所では、冷たい風がダイレクトに外側と内側の体温を奪っていく。今日一番だろう強い風を身に受けてぼくが身体を震わせると、花見坂上は鞄から厚手の手袋を取り出した。


「片方なら貸してあげるけど?」


「………………」


 ぼくは黙ったままで片方の手袋を受け取り、「もう帰ろう」と言いを吐いた。日が暮れたとか時間が遅いとかの以前に、この場所は寒すぎる。この案に、花見坂上は意外でも無く素直に首を縦へと振った。


「ねぇ式日、手袋してない方の手が寒い」


 廃屋の屋上を後にし、ぼく等は真直ぐに帰路へと発つ。空には幾つもの星明かりと、幾つかの点滅して移動する旅客機の光。


「ねぇ式日、手を繋げば温かいかもよ?」


「ポケットにでも突っ込んでおけよ」


 花見坂上は怒った様に頬を膨らませる。その仕草は可愛くも思えたし、それと同時に苛立たしくも思えた。


 ぼくは花見坂上を好いている。


 しかしそれは、ぼくが花見坂上を嫌いではないという事にはなりえない。


「好きよ、式日」


「うるせぇよブス」


 ぼくの返事に花見坂上は笑みを浮かべる。


 帰りしな、「チョコレートケーキが食べたい」と言う花見坂上の要望に答え、ちょっと良い店でチョコレートケーキを買った。店を出るなり箱から手掴みでチョコレートケーキを頬張った花見坂上を、ぼくは心底愛おしいと思い、同時に羨ましくも思った。




 花見坂上はなみさかうえ沙耶さや




 彼女は成長しなければならない。




 三月場みつきば式日しきび






 そしてぼくは、彼女に嫌われなければならない……。







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空飛ぶチョコレートケーキ 影梅宗 @kageume_so

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