魔術師の小指

坂水


 遠く離れた恋人から届けられた贈り物は、白く華奢な小指だった。

「ゴッホの真似?」

「川端康成の小説のオマージュよ」

 ゴッホが送りつけたのは耳で、川端康成が借りてきたのは腕だ。圭一けいいちがそう告げると、国際電話でつながった恋人は、細かいことはいいじゃない、と悪びれずに返してきた。

 付け根から切り落とされた左の小指。凄惨な印象を与えそうなものだが、断面はなめらかな皮膚に覆われて丸味を帯び、特に痛々しくは見えない。薄暗い部屋の中、ほの白く発光したそれは、精巧な作り物めいた美しさがあった。だが。

「……なんか、動いてるぞ」

 発泡スチロールの緩衝材を押しのけ、箱からはい出ようとしている小指を見つめながら、圭一はうめく。

「それはそうよ、私の小指だもの」

絵里子えりこの?」

「海外研修の三か月間、あなたに貸してあげようと思って」


 ――私は魔術師なのよ。それが絵里子の口癖だった。

 大学で出会った才色兼備。一目惚れして、猛アタック、見事玉砕。彼女の返答はいつもツレなかった。

 曰く。血筋のせいか、自分は生まれつき奇妙な力を宿している。だから誰ともつき合わない、結婚しない、子どもも生まない。

 もちろん信じられるはずがない。圭一はていの良い断り文句だと断定し、所構わず、時構わず、なり振り構わず、アタック・玉砕を繰り返した。

 それが二桁を超えた頃。いい加減うんざりしたのか、憐れに思ったのか、彼女は己の〈力〉を証明してみせた。すなわち、学食の『今日の定食』を二週間当て続けたのだ。これには圭一も驚愕し――同時に驚喜せざるを得なかった。

 証明ついでに、圭一は彼女に試験問題の予知を頼んだのだ。当初は渋っていた彼女だが、何度かお願いすると――最終的に焚きつけると――、彼女はその挑戦を雄々しくも受けて立った。圭一は意気揚々と試験にのぞんだが、結果は撃沈。絵里子はおかしいわねと首を捻り、圭一は責任とってつき合ってくれと泣きついた。

 失敗の原因は半年後に明らかになる。後期試験に予知がそっくり出題されたのだ。つまり絵里子は先の先の予知をしていたことになる。もちろんその頃には暗記しておいた回答は忘却の彼方、結局圭一は連続して単位を落としてしまったが。

 そんなこんなで二人は親しくなり、つき合い始め、愁嘆場を繰り返し……三十歳を目前にした先日。再三のプロポーズの末、ようやく婚約まで漕ぎついたのだった。


 この十年と少しの間、空に虹を描き出したり、失せ物を見つけたり、ストーカーを撃退したり、その力を間近で見てきたので、彼女が『魔術師である』ことは圭一も事実として受け止めている。もっとも、前例が示すように彼女の魔術はいささか抜けているのだが。  

 それにしたって――

「こんな引き出しがあるとは思わなかった」

 ぽとり。箱から脱出した小指は、ガラス製のテーブルに落ち、関節を逆U字型に曲げては伸ばし、曲げては伸ばし、前進する。動くたびに皮膚のシワが波打っては、ぴんと張られた。絵里子はふふふと含み笑いをもらす。

「これぐらいで驚いていたら大変よ。ウチは魔術師の血統、父も母も妹もそれぞれ〈力〉を持っているのだから」

 生真面目な義父と温厚な義母の顔を思い浮かべるが、あまりピンとこない。特に義父。なんとはなしに、彼がしかめっ面のままシルクハットを被ってスティックの先からチャチな造花を咲かせる様を想像するが、お世辞にも似合っているとは言えなかった。

「そういえば、婚約してからまだ挨拶に行ってないな。帰ってきたら忙しいぞ。食事会に、式場の手配、新居も探さないと」

 そうね、と軽い相槌。絵里子は今、勤めている大手企業の研修で三か月間ヨーロッパへ行っている。帰国は三月下旬。才媛の彼女を持つと、休日の過ごし方とか、給料の格差とか、求婚プロポーズのダメ出しとか、色々と辛いものがある。もっとも、絵里子に心底惚れている圭一にとってその程度の障害ハードルは、取るに足らない高さだが。

「その子、可愛いでしょう?」

 絵里子はそんなことを訊いてくる。

「言いたかないが、芋虫みたいで気持ち悪い」

 憮然と返す――と、突然。背中に尖った痛みを感じる。

「いでででっ!」

「どうしたの?」

「服の下に入り込んで爪立てやがって。うわ、くすぐるな!」

「あらあら、さっそく仲良しさん」

「どこがだよ、どこが」

「あなたを一人にするのは心配なのよ。まあ、うまくやってちょうだい」

「俺は小指と同レベルか……って」

 受話器をあごと肩の間に挟み、シャツをたくし上げ、あられもない格好になりながら、ふと気づく。

「君の左手は、今、どうなってるんだ?」

「もちろん小指は無いわよ。普段は義指をつけて手袋をはめているわ。くっつければすぐに元通りになるから大丈夫よ」 

 絵里子が当然のように言うので、圭一もそうなのかと納得する。

 ようやく背中から小指を追い出し、一息ついた時。

 圭一。絵里子が名を呼んできた。艶深く、柔らかく、滑らかな声音。そっと、両手で頬を包み込まれるような、否応無く圭一を陶酔させるその質感。

「誕生日、おめでとう」

 ――一番大事な日に、そばにいてあげられなくてごめんなさい。

 彼女のいる異国では雨が降っているのだろうか。絵里子の声は限りなく優しく煙っていた。周囲を薄紫色のモヤで包み込んでしまうような、細かい雨が降っているに違いない。きっと絵里子は樹影の下、一人たたずんで。

 その姿は神秘的で、同時に寂しそうで……それは想像というよりも思い出なのだろう。学生時代、彼女は常に独りでいた。キャンパスのはじっこ、置いてきぼりにされた子どもみたいにポツネンと。

 ふいに。濡れた髪が香った気がして、今すぐ抱きしめたい衝動に駆られる。毛先をつたう玉雫。だが、今、受け止めるべき指先は遥かに遠く届かない。

「今年は、小指だけで我慢するさ」

 ――結婚したら、嫌でも毎日顔を合わせるんだし。

 たかぶった気持ちを押し沈めて言う。彼女は、ありがとう、とつぶやいた。

 耳を澄ませばかすかな雨音。小指がよじ登ろうとしている窓辺から、細い細い銀糸が幾筋も垂れているのが見て取れる。雪になりきれない真冬の雨。いつの間にかこちらでも降ってきたらしい。

 さあさあ、さあさあ。深く染みいる静かな音階。

 だから。最後の一言がやたらうるおいを帯びていたのも、圭一は雨のせいなのだろうと思った。


 小指との生活は、正直、不愉快だった。

 起床。もう五分だけと布団に潜ると、目覚まし時計の音量を最大にして耳元に落とす。それでも無視していると、ちぇすとーっ! と手加減なしに目蓋を突かれ、圭一は否応なしに飛び起きた。

 身支度。圭一がクローゼットから引っ張り出したシャツとネクタイを見て(どこをどうして知覚しているのか甚だ疑問だが)、何その組み合わせと言わんばかりに身をよじらせる。じゃあ見立ててみろよ、と手の平に乗せて選ばせると、気負いなくひょいひょいと指差ししてみせる。同僚には最近センスが良くなったとほめられた。

 会社。いつの間にかポケットに忍び込み、こちらの都合もお構いなしに番号が登録してあった顧客に携帯電話をかけまくる。しかも自分からは絶対に近づきたくない苦手な相手ばかり。かけた手前切るわけにもいかず、しどろもどろに会話を紡ぐと、なぜか受注に発展。いつの間にか圭一は月間売り上げ№1に輝いていた。

 夕食。買ってきたコンビニ弁当を食べようとふたを開けると――唐揚げと春雨サラダの間、赤い液体にまみれた白い指。うっ、と胃液がこみ上げる。赤く滴るそれはエビチリソースだとすぐに判明したが、生理的嫌悪はぬぐえず、弁当はゴミ箱行きになった。絵里子はインスタント食品、ジャンクフードの類を毛嫌いしていた。小指は絵里子の意志をきっちり引き継ぎ、圭一がその手の食事を摂取しようとすると、ちゅうちょ無く妨害。幾度にも渡る攻防の末、圭一は本屋にて『料理の基本』を購入した。

 夜。絵里子がいない寂しさをどうまぎらわすか。ちらりとテレビに夢中になっている小指に目をやる。さすがに一本だけじゃなあ、せめて丸ごとなら手伝ってもらえるんだけどなあ……と悶々と考えていると。小指が振り向き――まったく妙な話だが、確かに振り向き――、圭一は慌てて愛想笑いをした。猛烈な後ろめたさに襲われるが、それが誰に、何に対するものなのか、自身よくわからない。結局、圭一は無難にヤラシイDVDを借りてくるのだが、小指が四六時中そばにいるため視聴するすきが無く……畢竟、再生しないまま、返却日を迎えたのだった。


 洗い立てのバスタオルの真ん中で、柔らかく節を曲げ、横たわる小指。どうやら眠っているらしい。高級ダブルベッドで安らかな寝息を立てているようなその様。夢でも見ているのか、時折ピクリと小さく身じろぎする。可愛いんだか、不気味なんだか、判断がつきかねて圭一は苦々しく嘆息した。その昔、遊女は客に小指を贈り、愛の証としたらしいが、これではあまりに色気がない。

〝あなたを一人にするのは心配なのよ〟――なるほど、小指は有能な目つけ役だった。趣味、嗜好は絵里子と同様で、圭一をしっかり監視する。だがその一方、行動パターンがいささか大人気なく直情的だった。

 小指は絵里子の要素である。だが、〈小指=絵里子〉ではない。頭が無いのだ、理性が欠けるのは当然なのかもしれない。いや、これこそが彼女のナチュラルな姿とみるべきか。遠からぬ新婚生活に不吉な影がよぎったような気がして、圭一はぶるんと頭を振った。

 小指との生活は、正直、不愉快だった。

 怒ったり、焦ったり、うめいたり。恋人の不在を嘆く暇など与えないほどに。

 

 ――だから。

 絵里子が事故死した。

 三月中旬に受け取ったその報せは、到底信じられるものではなかった。


 奇妙な葬式だった。

 葬儀社のセレモニーホールではなく、郊外の小さな集会所のようなところで行なわれた小さな催し。坊主も神父も神職も呼ばれておらず、もちろん読経も、焼香も、戒名もない。遺影すら飾ってなかった。三十名ほど集まっていたが、どうやら圭一以外は、皆、親族のようだ。絵里子の友人も会社の上司も参列していない。通夜も省略されている。ただ花だけはあふれんばかりに飾ってあった。

 一人ずつ、絵里子に花を捧げる。

 黙々と、静々と、粛々と進行する喪服の列。

 何かに似ているな――進みながら、ふと思い出す。学生の頃やったパン工場でのバイトだ。ベルトコンベアの上、延々と流れてくるアンパンに胡麻をぱらりと乗せる、ただそれだけの。あれは退屈だったが、時給がそこそこ高かったし、なにより好きなだけパンがもらえたので悪くなかった。最後にはアンパンを見るのも嫌になっていたが。そんなことを考えているうちに、圭一の番がやってくる。

 バラ、ユリ、カラー、カスミソウ、シンビジウム、トルコキキョウ、カーネーション。白で統一された花々に埋もれた恋人は美しかった。肌の色も、張りも、睫毛も、唇も、指も、最後に会った時と何一つ変わっていない。海外から遺体を空輸するには、死体防腐処理エンバーミングを施すと聞いたことがある。だがそれにしたって――

 やっぱり、そうだよな。

 ひとりごち、圭一はもう一歩前に出て、ごく間近で見下ろす。

「絵里子」

 ベッドの左側、毛布をまくったその下、朝日に晒される白い面。いつも通りの穏やかな寝顔。

 ――彼女は起きない。

「絵里子」

 彼女がまとっているのは、浴衣風の死装束ではなく、ゆったりとした白いナイトウエアのようなものだった。普段、黒っぽくシャープな服ばかりを着ていた絵里子には珍しく、妙に新鮮に見える。年齢からするとやや乙女チック過ぎる気もするが、結構似合っていて、こういうのもアリかなと思わないでもない。まさか、この格好がしたいがために、こんな大仰なことをしたんじゃなかろうな?

 ――彼女は答えない。

「絵里子」

 エイプリルフールはまだ半月も先だ。それとも少し早めにやるのが欧米式なのか。有給使ったんだぞ今日。これから結婚式やら新生活やらの準備で忙しくなるって言っただろう、無駄づかいしたくなかったのに。もう少し待てば本番で好きなだけ白いフリルだのレースだの披露できるじゃないか。いい大人が少しぐらい我慢できなくてどうするんだ。

 ――彼女は反論すらしない。

 そうして。無意識のうちに棺を揺さぶっていた圭一は、斎場の外に引きずり出されたのだった。


 集会所の敷地内では桜が咲いていた。新聞で読んだ開花予想は四月上旬だったはず、随分と気が早い。空は灰白色、霧雨が降り積もり、視界をにじませる。暗いのか、明るいのか判然としない。淡彩画の上に誤って水をぶちまけてしまったような、全ての境界線が曖昧な光景だった。

 あれから斎場に戻る気が起きず、圭一は外のベンチでぼんやりと座っていた。

 ジャリ、と砂をかむ音。白いモヤから、黒い影がゆっくりと浮かび上がってくる。

「圭一君」

 視覚よりも聴覚でわかる。絵里子の父親だった。

 一メートル程の至近距離に入って、ようやく銀に染まった髪をなでつけた老紳士の姿があらわになった。年相応に恰幅が良く、黒縁眼鏡を掛けている。大手銀行の役員だと聞いていたが、いつもの鷹揚な雰囲気はすっかりぬぐわれ、彼こそが幽鬼のようだった。

 いいかね? と律儀に断ってから、義父は隣に腰掛ける。あっちは大丈夫なのかと尋ねると、少しぐらいなら構わんよ、と押し出すように彼はもらした。

「さっきは親族の者が手荒なことをしてすまなかった」

「……いえ。こちらこそ申し訳ありませんでした」

 謝罪と共に、白い吐息が宙を舞う。

 しばらく無言で、並んで空を眺めていると。

 絵里子の墓はつくらないんだ、ふいに義父はそんなことを言ってきた。面食らってその横顔を確認するが、そこには特に感情らしい色は浮かんでいない。

「我々一族は、痕跡を残さないのが信条でね」

 我が家の〈力〉について聞いているんだろう? ――義父の問いに、うなずく。

「魔術師の血ですね」

「魔術師? 絵里子がそう言ったのかい?」

 義父は戸惑うように目をしばたかせ、次に、なるほど絵里子らしいと微苦笑した。

「実際はそんな器用なものじゃない。せいぜい『世界びっくり人間』か『一発屋芸人』ぐらいのものだ」

 意外な物言いに、今度は圭一がきょとんとする。

「私は意識し、指定した物の時をほんの一時止めることができる。妻は――私達はいとこ同士なんだが――、感情がたかぶると自分の周囲の植物を成長させる」

 老境に差し掛かった男が真面目に語るべき内容ではないが、圭一は淡々と受け入れた。

「どれも他愛ないが、なかなかどうして厄介でね。〈力〉は制御せねばならない。だが制御に手一杯になってしまうと、勉強や仕事、人づき合いと、周囲と足並みをそろえられなくなってしまう」

 ――だから優越感よりも劣等感が生まれやすい。義父は自嘲気味に語った。

「実際、絵里子も苦労していたよ。子どもの頃はよく泣いて帰ってきた」

「大学時代、彼女はとても優秀でしたが」

知子ともこが……十歳違いの妹が生まれてからは、必死に手本を示そうとしていたからね。『魔術師』なんていうのはコンプレックスを吹き飛ばすための言い回しにすぎないよ」

 妹。斎場にいたはずだが、絵里子のことで頭がいっぱいで記憶に残っていない。だが、たびたび話には聞いていた。なんでもお姉ちゃん子だったが、この結婚には良い顔はしていなかったとか。絵里子と婚約してからも一度も会っていなかった。

「君との結婚に踏み切ったのも、知子のことがあったからじゃないかと私は思っている」

「妹さんは賛成してなかったんじゃ?」

 圭一の言葉に、義父は苦笑のしわを深くした。

「知子は内向的なところがあってね。だからこそ〈力〉を持っていても、普通に幸福になれると証明してやりたかったんだろう」

 ふと、視線というか、奇妙な気配を感じて圭一は顔を上げた。霧雨の中、何体もの黒い影が揺らめいている。近づいたり、遠のいたり、一向に定まらない距離。まるで黄泉からの使者が手をこまねいているような。人影? それとも……?

 見張りだ、義父が吐き捨てるように言う。肩を落として一回りも小さく見えるが、その視線は鋭い。突き刺すほどに。

「私が妙なことを言わないように監視しているんだろう」

「監視?」

 突拍子もない台詞に、繰り返す。探偵小説じゃあるまいし。

「我々一族の結束は強い。だが裏を返せば単なる劣等感の表れにすぎない。群れて精一杯虚勢を張り、その内実を隠すために一切の余所者を拒絶する」

「いいんですか?」

 そんなことを聞かせて。言っていることのチグハグさに義父をうかがうが、

「構わんよ。どうせ何もできない臆病者たちだ。私と同じでね」

 上等なダブルの喪服スーツに、霧雨が苔のように貼りつく。義父を覆い尽くしてしまうかのごとく。そのせいか、彼は隣にいるはずなのに、やたらと遠く感じられた。その声も、気配も、内容も。義父は続ける。

「絵里子は一族を疎んでいた。対立していたと言っても過言じゃない。妹にあることないこと吹き込むのも許せなかったんだろう。もちろん、私とて快く思ってはいなかった。だが私は一族内で婚姻した身だ。妻を選んだのは後悔していない。しかし、結局私は外に出られなかった臆病者の一人だ。絵里子が親族に反発するたびに、私は自分を恥じていたよ」

 こんなにも饒舌な義父ははじめてだった。絵里子の家を訪れた際、何を話題にすれば良いのかわからず、こちらが途方に暮れてしまうほど寡黙な人なのに。

 そこで、ようやく悟る。これは昔話なんかじゃない。

「絵里子は聡い子だった。いつしか私の気持ちを察して、黙って耐えるようになっていた……」

 曇った眼鏡、土気色した顔、震える声音――

 義父は懺悔しているのだ。

 実直で、厳格で、正しい『父親』の鑑。それが絵里子から紹介された時の第一印象だった。その後、何度も顔を合わせたが、そのイメージは揺らぐどころか、ますます強固になった。それが、今。

 ――本当に、できすぎた娘だったよ、絵里子は。

 天を仰ぎ、噛みしめるようにつぶやき……再びうつむいて、彼は嗚咽をもらしはじめる。

 肩を落とした義父にかけるべき言葉が見つからず、圭一はただハンカチを差し出した。

 すまない、圭一君、すまない――繰り返す義父。

 いえ、気にしないでください、ほんと――合わせて返す圭一。

 二人きりのベンチ。辺りは濃霧で視界がきかない。右も左もわからない大海に小舟で漕ぎ出したような心細さを覚える。と。

「伯父さんたちが、呼んでいるわ」

 くぐもった声が響く。

 思いがけない近距離に人影がたたずんでいた。

 のっぺりした黒影たちとは違う、立体感のあるそれ。赤毛のアンや小公女を彷彿させる、どこかクラシカルな型のワンピースをまとった女。それはあまりに唐突で、歩み寄ってきたというよりも、天から舞い降りたという印象を圭一に与えた。

「ああ。今行く」

 義父はゆらりと立ち上がった。頼りなげなその様に手を貸そうと、腰を浮かしかけるが、

「……父も疲れております。あとは身内だけで済ませますので、申し訳ありませんが、今日はこれでご遠慮していただけませんか?」

 慇懃でありながら、どこか刺々しく無遠慮な口調――圭一は、相手が誰なのかを悟る。絵里子の妹、知子だ。

 一体、彼女はどんな眼差しを自分に向けているのか。妙に気になって霧の中を見すえるが、薄い遮光カーテンを通したようにかすんで判然としない。そのうちに中腰の姿勢がつらくなって、圭一はぺたりと尻をベンチに下ろしてしまう。

 幾重にもカーテンが引かれるように、二人はだんだんと見えなくなってゆく。

 親子の姿が完全に消えて……圭一の意識もまた茫洋と霧に浸蝕されていった。


       *


 マンションに戻り、自宅のドアを開けると、冷たい闇が広がっていた。

 ひどく疲れていた。ひたすら眠い。何もかもが億劫だった。

 明かりも点けないまま、湿気を吸って重くなった背広を脱ぎ、ネクタイを外し、スラックスを脱ぎ、ベッドに放り投げ……ふと違和感を覚える。そう、どんなにくたくたでも、すぐさま背広はハンガーに掛け、ネクタイは棚に仕舞い、スラックスはプレッサーに挟むようになっていたから。せっつく誰かがいたから。

「小指?」

 声はあまりに間の抜けた響きだった。小石を湖面に投げ入れたほどの波紋も立たない。さして広くないマンションの一室は、深閑と静まり返っている。

 ふと圭一は思い出す。棺の中に横たわった絵里子の指は、両手ともきっちり五本そろっていた。いつの間に戻ったのかはわからない。だが魔術師たる絵里子には、容易なことなのだろう。

「……え?」

 暗闇の中、立ちすくむ。

 今日は一日、現実感が乏しく、ふわふわと雲の上――むしろ雲の中――を歩いているかのようだった。そのくせ、身体にはたっぷりと疲労が染み込んでいる。朝の除湿機、開けたタンクの中、どこから絞り出したのか溜まった水に驚くような。

 だけれども。

 ぐるりと部屋を見回す。リモコンの配置、広げっぱなしの新聞と雑誌、底すれすれの醤油さし。これらは間違いなく手垢じみた現実のもの。今朝の続きであり、昨日の続きであり、三か月前に小包を受け取った続きだった。

 夢のような葬儀。夢ならばいつかは覚める。

 だけれども、小指のいないこの部屋は、否定しようがない日常だった。

 突如、目には見えない何かが津波のように押し寄せてきた気がした。足がもつれ、バランスを崩し、倒れ、強かに頭を打ちつける。その衝撃に、頭に立ち込めていた霧がきれいに洗い浚(さら)われ、ごくシンプルな証明にたどりつく。


 小指は絵里子の要素である。小指はいない。絵里子が死んだから。


 すぅっと。貧血に似た感覚に襲われる。

 己の思考が導き出した結論に、息ができなかった。まるで汚水を口いっぱいに注がれたよう。飲み込めるわけがない。受け入れられるわけがない。認められるわけがない。こんな理不尽、不条理、でたらめな……

 それとも。圭一はハッとする。

 この部屋ひっくるめて全てが夢なのか? 今朝から? 昨日から? 三か月前から? この部屋に越してきた時から? 絵里子と出会った大学時代から?

 いや『いつから』なんていうのは大して重要ではない。問題は『いつまで』だ。明日になれば、この悪夢から覚める? それとも明日は今日の続き? 明後日は? 一か月後は? 一年後は? いつまで待てばよい? いついつまでも、明日は今日の続きで、今日はずっと追いかけてくるのか?

 そんなの、耐え切れるはずがない。

 トランクスとワイシャツ、靴下という滑稽な格好のまま、愕然とたたずむ。

 静かだった。空虚だった。意味が無かった。

 ……どうすれば、いい?

 圭一は自問した。

 時計の秒針の音だけが響いている。主が茫然自失しているというのに、己の仕事を黙々とこなす。その生真面目ぶりが、ひどい裏切りに感じられた。この部屋の何もかもが信じられない。

 頼れるのは自分だけ。ならば、取るべき方法はひとつしかない。

 圭一はゆっくりと部屋の中央に移動した。といってもほんの大股一歩で済んでしまう距離だったが。ソファの前に置かれたガラステーブルの端に手を置く。

 そして、呼吸を整え――一気に静から動へと移行した。

 載っていた新聞、雑誌、マグカップごとちゃぶ台返しの要領でひっくり返す。壁に掛けてあった時計に後ろ蹴りを喰らわし、そのスピードに乗ったまま、食器棚をなぎ倒し、落ちてきた皿やカップをつかみ取ってフローリングに叩きつける。ベッドに敷いてあったシーツをはいで力任せに引き裂き、買ったばかりの大型液晶テレビを倒し、クローゼットの扉を蹴破り、吊り下げられた照明を引っこ抜く――

 ただひとつの方法。壊してしまうしかなかった。壊して、無くして、終わらせるしかない!

 何かの破片が頬をかすめる。割れたガラスでも踏んだのか足の裏に鋭い痛みが走る。腕も足もあちこち打撲している。だがそんなことに構っていられない。一刻、一分、一秒でも早く抜け出さなければ捕まってしまう。何に? 何かに。はやくはやくはやくはやくはやく!

 獣じみた雄叫びをあげて、圭一はちっぽけな2DK――すなわち『悪夢』を破壊し続けた。


 ガコンっ。玄関先で鈍い音が響いた。

 この音を聞くのは、三度目だった。郵便受けは三日分の朝刊で満杯になっているに違いない。うつ伏せに倒れたまま、ほんの少し上方に顔を傾ける。ベランダに続くガラス戸に引かれたカーテンの隙間から細い光が射し入っていた。

 丸一日暴れ続けて、二日目の朝、あっさりと体力が尽きた。元来、圭一は体育会系ではない。それからは夢と現を行ったり来たり、起きては暴れ、暴れては倒れ、倒れては眠り、夢の中でも手足を振り回し、つまるところ意識の上では四六時中――いや、七十二時間中――戦っていた。その間、インターホン、電話の着信、隣人からの苦情が鳴り響いていたが、一切合財を無視していた。

 あらゆるものが倒され、落とされ、崩れた部屋。朝の光の中、充満していたホコリが立ち昇る。それは配色こそ反対だったが、霧雨の中漂っていた黒影たちを連想させ、圭一をあざ笑っているかのように感ぜられた。

 ぎりりと奥歯をこすり合わせる。ぐにゃりと臓腑がねじれる。感情が沸き立つ。

 まだ足りないのか。これ以上何をすればよい? 爆破か、放火か、地盤沈下か。

 暗い光をたたえた眼差しで部屋を見渡し、嘆息混じりに起き上がろうとして……起き上がれなかった。

 なん――っ? 焦燥に駆られ、必死にもがこうとするが、わずかに筋肉が痙攣するだけで動かない。それすらもそのうちに止まる。プツンと断線してしまったみたいに。

 いや……その逆なのか? ぞっとした思いでひとりごちる。

 これだけやってもまだ足りない。 

 どれだけやってもまだ足りない。

 ――なぜなら、どだい、壊したところで絵里子が生き返るわけではないのだから。

 そのまっとうな脳からの指令が、心を飛び越え、身体の末梢にいたるまで行き届いたなら……

 なんだよ。理解(わか)っているのか、俺。

 ふっと、乾いた笑いが鼻から抜けて。圭一は意識を失った。

 

 カコンっ。玄関先で軽い音が響いた。

 まぶたの向こうに、光の気配は無い。まだ夜は明けていないはず、新聞の投函ではない。いい加減、マンションの管理人か会社の同僚がのぞきに来たのだろうか? 部屋の有様を見てなんと言うか。管理人には退去を求められ、同僚には退職を勧められるか。いや、まずは心療科への受診が先か……

 だが、しばらくしても重たい鉄製のドアを開閉する音は聞こえてこない。まあ、どうでもよいことである。もう、どうでもよい。だらりと四肢を放り出し、ばふりと闇の毛布にくるまり、緩やかに意識を手放す、その一歩手前。

 ふいに。何かが頬に触れた。ひんやりとした熱。柔らかく、はかなく、だが確かな感触。

 …………?

 億劫ではあったが、薄紙一枚分、重たい目蓋を持ち上げる。

 はじめはなんだかよくわからなかった。それがあまりに近くにいたから。目と鼻の先、睫毛が引っかかるほどの間近に。

 小指がたたずんでいた。

 圭一は目を見開いた。

 ぴんと関節を伸ばして、つやつやした腹を向け、三日月を描く爪を光らせて。小指は実物の何倍も大きく、圭一の視界いっぱいに入りこむ。

 夢、ではない。頬に残る感触が、その存在を証明する。

 圭一は呆然と小指を凝視した。それは小指も同様だったのかもしれない。寸間、二人は見つめ合って。

 にわかに小指はすっと後方に下がり、奇妙に身をくねらせる。その様子の面妖さに眉をひそめるが……気づく。小指は傷だらけのフローリング上に何やら文字を書いているのだ。


『 ひ と り に し な い 』


 何度か繰り返した後、圭一はようやくその意を読み取った。同時に――

〝あなたを一人にするのは心配なのよ〟

 三か月前、海を越えて届いた苦笑混じりの声音がよみがえる。

「…………」

 廃墟と化した部屋の中、足の踏み場も無い床の上。

 ただ小指だけがほの白く、清浄で、明るかった。もっとも朝日ほどの盛大な輝きは無い。とてもささやかで、吹けば消えてしまいそうな、かすかな光。それでも……

〝一番大事な日に、傍にいてあげられなくてごめんなさい〟

 耳に残る、君の声。

 鼻の奥が痛む。目頭が熱くなる。吐息がもれる。

 なけなしの体力を振り絞って手を伸ばすと、一心に文字を踊っていた小指は動きを止めた。圭一は、小指に自身の小指を絡める。

 ――違う。君はいてくれた。俺のそばに。今、この瞬間。

 ただその事実だけが、どっと胸に染み込んで……

 絵里子の訃報を聞いてから、圭一ははじめて泣いた。


 四月になって数日。世間では開花予想通りに桜が咲きはじめていた。空はおぼろな薄紅と水色の斑に染まり、大気は甘くぬるく揺らいでいる。

 そんな中、圭一はごく普通の日常生活に戻っていた。朝起きて、会社に行って、仕事をこなして、食事をして、風呂に入って、眠る。会社の無断欠勤は、厳重注意はされたが、特別なペナルティーは科せられなかった。むしろ恋人を亡くした悲劇の人と同情をもって迎えられ、お茶やらお菓子やらをさり気にもらう機会が増えた。

 ひとつ、変わったのは。

「…………」

 外回り中、歩きながら圭一は背広の胸ポケットを確認する。そこには携帯電話と、くるりとダンゴムシよろしく丸まった小指がいた。携帯電話を取り出すでもなく、小指に話かけるでもなく、こうして日に何度もその小さな存在を確かめる。出先でも家でも、圭一は必要最低限以外、小指をそばから離さなかった。さきの言葉通り、小指も文句を言わず、大人しくつき従ってくれている。その代わりというべきか、圭一は生活習慣を小指に合わせるようにした。

 いつでもどこでも一緒。見えなくなると不安でさがし回る。まるで母猫と仔猫のような関係性。ならば、どちらがどちらだろう。そりゃあ当然……と考えて、思いがけず答えに窮す。突きつめれば突きつめるほど、人として――いや、男としての尊厳が瓦解してしまいそうで、圭一は気にしないことにした。

 

 桜がほころびはじめ、十日も経つと、今度は街中を花吹雪が駆け抜ける。圭一は花見に出掛けるでもなく、小指と共に、マンションのベランダから薄紅の嵐を見送った。

 清々しい青空の下、迎えた五月の連休。浮世の喧騒とは裏腹に、圭一と小指はいたって平静に過ごした。

 ゴールデンウィークが終わると、唐突に真夏のような陽射しが降り注ぐ。それは長雨の先触れ、やがてもったりと重たげな陰雲を連れてくる。季節は春から夏へと移り変わろうとしていた。

 淡々と日々を送りながらも、圭一の頭からは、あの霧雨がそぼ降る葬儀が、離れなかった。朝起きて、会社に行って、仕事をこなして、食事をして、風呂に入って、眠る。休日は、洗濯機を回し、布団を干して、買い物に出掛け、テレビを観る――そんな一日のサイクルの中、ふいに立ち止まって思い出す。

 脳裏によみがえるのは、斎場の中での出来事ではなく、決まって外でのことだった。霧の海に沈んだような白く煙った景色。近づき、遠のき、揺らめいていた黒い影。義父の激しい嗚咽、対照的に静かな義妹。

 考え過ぎなのか、会社で、駅の改札口で、スーパーのレジで、いたるところで霧が出てくる錯覚まで見る。その度に圭一は、目頭を押し、頭を振り、深呼吸して幻を追い払った。

 ――そんなある日見た、霧が立ち込める不思議な森の夢。

 それは白昼夢というよりも……考え続けた思考の最果て、終着駅だったのではないかと後になって思うのだった。


 森を、歩いていた。

 霧が漂う、深い森。日本か、海外か、場所はわからない。

 大学のキャンパスの一画かもしれないし、子どもの頃遊んだ父親の田舎かもしれない。もしかしたら絵里子が海外研修に行く前に話してくれた黒い森シュバルツバルトかもしれないし、はたまた最近小指と観たジブリアニメかもしれなかった。

 おそらく、頭の中に眠っている森のイメージをごたまぜにした世界なのだろう。

 したたるほどに生い茂る葉、しっとり黒々と艶めく幹、踏み出すごとに足をとらえて離さない腐葉土。大量の樹木は植物というよりも、むしろ、むせかえるような動物臭さを漂わせていた。空を見上げるが、高々と伸ばされた枝葉の手にさえぎられてほとんど見通せず薄暗い。すっぽりと何かのシェードの中に押し込められたような空間だった。

 ぴちょん。天からこぼれた雫が、右の眼球に命中する。あっ、と叫ぶ間もなく雨が降り出してきた。たちまち霧が一層濃くなり、辺りが、乳白がかった薄紫色に沈む。入浴剤を溶かし入れたのではないかという性急さだった。

 ……どうしたものか。一際大きい樹の根元に逃げ込み、溜息をつく。緑の天蓋のおかげでほとんど濡れないが、困った状況には変わりない。白状してしまえば、圭一は道に迷っていた。そも、森には道など無く当然といえば当然なのだが。

 立っているのも疲れ、樹の幹に寄り掛かってしゃがみ込む。むっちり肥えた女の足を連想させる樹の根は、光沢あるコケの絨毯に覆われており、少しでも気を抜くと滑ってしまいそうだった。溜息を吐き出した分、吸いこんだ空気にはたっぷりと水気が含まれており、だんだん水っ腹になってくる。このままでは身体の内も外もカビてしまうのではないか。いやカビぐらいならよい、明日の朝あたり、鼻の穴からにゅうと茸が生えてきたらどうしよう……。

 不安な気持ちを抱えたまま霧の中を眺めていると、ゆらゆらとした黒い影が何体も通り過ぎていった。何度かすれ違い、見慣れてしまったので今更驚きはしない。幽霊なのだろうか? 自分は霊感が無いはずだが。もしかしたら彼ら(あるいは彼女ら)も、道に迷っているのかもしれない。いずれにせよ声を掛ける気にはなれず、スクリーンの映像でも眺める心地で見送った。

 さあさあ、さあさあ。深く染み入る静かな音階。眠気を誘われる落ち着いた旋律。ついうとうと、圭一はしゃがんだまま船を漕いでしまう。

 ハッとして目の前にぶら下がる蔦にすがりついて体勢を起こし……唖然とした。

 隣というには二人分ほど離れた位置。いつの間にか、同じ樹の下、雨宿りをしている線の細い人影がいた。濡れた髪の香り、毛先をつたう玉雫。それはあまりに唐突で、歩み寄ってきたというよりも、天から舞い降りたという印象を圭一に与えた……

「絵里子?」

 緩やかに波打つ長い髪、黒のトレンチコート、黙っていると少し冷たく、人を寄せつけない雰囲気。間違いなく彼女だった。絵里子は答えず、雨の中、ためらわずに踏み出す。

「おい!」

 既視感。前にもこんなことがあった。

 にわか雨、これじゃ次の講義出られないなあと学食の前でたむろしている馬鹿どもを尻目に、一陣の涼風さながらに颯爽と歩き出した女。あの日あの時あの姿に、落ちてしまったんだ……。

 ぼんやりしているうちに、その後ろ背が霧に隠されてゆく。慌てて圭一は立ち上がり、待ってくれ、となんとも情けない声を上げた。

 必死になって水蒸気の粒を払いながら追う。真っ直ぐな背筋、揺れる髪、律動的な歩み、それらが薄紫の霧と緑の樹影に埋没してゆく。

 待ってくれ、行かないで、俺を置いて――気ばかりが急く、足がもつれる、呼吸が乱れる。そう、いつだって圭一は絵里子をさがしていた。無駄に広いキャンパス、なんの約束もない休日の雑踏、いるはずもない日本の空の下。君があんなことになった今も、ずっと、ずっと、ずっと。君がいないと寂しい、君がいないと不安、君がいないと苦しい――

「ひとりにしないでくれ!」

 …………? 声に出して、なんとはなしに自身の叫びに引っかかるもの感じる。

 と。注意力が散漫になったせいか、ぬるりとしたコケの絨毯にすっ転んでしまった。身を起こそうとして二度三度滑ってつんのめり、強(したた)かに顔を地面に打ちつける。口に入りこんできた木の葉や土をぷっぺっと吐き出しながら、顔を上げると……

 いない。消えた? 半泣きの思いで森の奥へ目を凝らす。いや……?

 ふわりはためく霧のカーテンの向こう、たたずむ立体感のある人影。それは停止しているようだった。

 自分を待っている? 圭一は急ぎ立ち上がり、泥を拭いもせずに駆け出した。


 絵里子は消えなかった。呼びかけには一切応じず、振り向きもしなかったけれど。姿がはっきりと確認できる距離まで圭一がやってくると歩みを再開する。そのまま五メートルほどの間隔を保ちながら、二人は進んだ。

 時折、圭一は追いつこうと足を速めるが、その分、彼女もスピードを上げる。そのくせ圭一がつまずいたり、転んだり、枝葉に顔をしばかれてうめいていると、立ち直るまで律儀に止まってくれた。

 それはまるで出会った頃の二人を象徴するような距離だった。圭一が追いかける、絵里子が逃げる。圭一があきらめる、絵里子がちらり振り返る、その繰り返し。

 まるで純な男心を弄ぶ性悪女のようだが(実際、彼女に振られた男共はそうそしっていた)、ちょっと違うんだよな、と圭一は思っている。一見、器用そうに見えるが、他人との間合いの取り方がすこぶる下手なのだ、彼女は。大きく回転する長縄、入るタイミングがつかめず、何度も縄を見送ってしまう子どもみたいに。なまじ『ザ・デキル女』ゆえに、他人には長縄などには興味が無いように、時には高慢に見えてしまう。もちろん、この見解には自身の惚れた欲目が過分にあるのだろうけど。

 だけど、少なくとも、そう見えるほど器用じゃない。腐葉土や根に足をとられることもない、先導する優雅なステップを眺めながらひとりごちた。

 そういえばと思い出し、圭一は尋ねる。

「絵里子、大丈夫なのか?」

「どうして?」

 今までさんざん無視していたくせにあっさりと返答してくる。だが妙なもので圭一自身もあっさり受け入れていた。

「どうしてって、この間、死んでたじゃないか」

 ――けったいな葬式までやってさ。自然と口が尖るが、

「私は魔術師なのよ」

「…………」

 と、背中越しにおなじみの口癖。絵里子が当然のように言うので、圭一もそうなのかと納得する。魔術師なのだから一度や二度の事故死ぐらいなんとでもなるに違いない。

 再び二人は黙々と歩いた。迷いなく進む絵里子の背中は惚れ惚れするほど、凛々しく、勇ましく、頼もしい。男女の関係としてはいささかどうかと疑問が残るが、これも魔術師たる彼女に惚れた業であり、そんな些細な事柄は十年の歳月を経て大してこだわらなくなっていた。圭一は彼女の後を歩いて、歩いて、ひたすら歩き続けて…………一向に森から抜け出ない。

「迷ってないか?」

 息を切らし、しびれを切らし、ついに訊く。

「私は魔術師なのよ?」

「…………」

 しれっとした言葉に我知らず渋面をつくる。だからこそ心配なのだ。彼女の魔術はどこかしら抜けている。半年先の試験問題の予知を忘れているんじゃなかろうな。

 進むほどに森はいっそう不気味な様相を呈してきた。一斉に羽ばたく奇怪な鳥、姿は見えねど剣呑な気配を発する獣、枝葉をはうバニラ色の巨大芋虫……

 ふと何かを思い出しかけたが、ぱしりとしなる枝に顔を叩かれ吹き飛んでしまう。記憶と一緒に、きらきらレモン色の光を反射する雫が舞った。

 光……? 圭一は天を仰いだ。

 気づけば、雨が止んでいる。身体を重くしていた霧も足元で波立つほどに収まっている。雨に身を潜めていた動物たちが活動を再開する。

 そして一斉に――薄明光線。樹々の間、何条もの光の帯が射し入った。陽の絵の具で塗り替えられて、黒から緑に、緑から黄緑に、黄緑から金色に、みるみる森の表情が変化する。木漏れ日が大気中に残る水蒸気に散乱して、いっそう白くまぶしく-膨れ上がる。絵里子の背が溶け消えてしまうほどに――

「絵里子!」

 とっさ、不安に押し出されるように走り寄って手を伸ばした。だが彼女はほんのわずか振り返り――逆光で表情はわからなかったが――、逆に圭一を引っ張るかのごとく手を取る。絡まる指と指。久方ぶりの恋人のしなやかな手の感触を、しかし、ゆっくりと味わう余裕はなかった。

 にわかに絵里子は走り出す。高校の頃、都大会で入賞したというその俊足で。

「絵里子っ!?」

 圭一の悲鳴を引き連れ、風を切って、樹々を追い越し、朽木を飛び越え、明るい方へ明るい方へと疾走し――

 突然、緑のトンネルが途切れ、百八十度視界が開く。

 森を抜ければそこは青空、光の世界。風がそよぎ、草が波打つ、太陽の下。

 だが熱望していたその世界を堪能するには、圭一は明らかに運動不足だった。屈伸の要領で腰を曲げ、空いている手を膝に置き、ぜはぜはと呼吸を整える。

 そんな圭一を尻目に、するりと絵里子がつないでいた手をほどいた。そのまま指揮者がタクトを振り上げるように、すっと空に向け――そこで圭一もつられて見上げると。

「…………あ、」

 圭一はぽかんと口を開けた。

 指先が示す遥か先には虹が架かっていた。まだところどころ暗雲が残る青空の画布カンバスにでかでかと描き出された七色の帯。分度器並みに見事な半円形、野球ドームの何倍ものスケール、大地と空をまたぐ壮大な架け橋。

「これ、俺に?」

 ハッとして見上げ、そこではじめて彼女の顔があらわになる――恋人は物言わず微笑んでいた。顎をツンと上げて、どう? と言わんばかりに。

 とんだサプライズだった。どんな宝石も絵画もCGも敵わない、最高にいかした彼女の魔術。森をさんざん歩き回らせたのは『空腹は最高の調味料』のつもりだったのか。彼女のプレゼントはいつも圭一の度肝を抜く。

〝『魔術師』なんていうのはコンプレックスを吹き飛ばすための言い回しにすぎない〟――いつかの義父の言葉を思い出す。なるほど、彼にとって絵里子はいつまでも泣きじゃくる少女なのだろう。

 だけど圭一にとってやっぱり絵里子は魔術師なのだ。長い髪をなびかせ、黒いコートをはためかせ、青空と虹を背負った魔術師。

 圭一の呆気に取られた様子に、絵里子はとても満足そうに瞳を細めていた。

「……――ふ」

 ふっふふっ。こらえきれずに圭一は吹き出した。おかしくて、痛快で、とてもらしかった。

 誰より鮮やかで、華麗で、そのくせどこか抜けた、俺の――

 息が詰まるほど、声が枯れるほど、涙が出るほど、圭一は笑った。笑い声は草原に吹く風に乗って、西へ、東へ、虹の彼方へ、どこまでもどこまでも遠くに運ばれていった……


 …………?

 億劫ではあったが、薄紙一枚分、重たい目蓋を持ち上げる。

 はじめはなんだかよくわからなかった。それがあまりに近くにいたから。目と鼻の先、睫毛が引っかかるほどの間近に。

 小指がたたずんでいた。

 TVを観ているうちに、ガラステーブルに突っ伏しうたたねしてしまったのだろう(このテーブルは、先日の騒動でも壊れなかった。ただし、傷だらけではあるが)。

 ガラスの冷たさとは別の、ペタペタとした奇妙な感触に眉をひそめる。何やら小指が顔を触っているらしい。止めさせようとして自身の頬を隠すよう押さえ、生ぬるい水に驚いた。涙。

 圭一はのそのそと上半身を起こして、テーブルの上、所在なさげな小指を見下ろした。なにやら明後日の方向を向いて、素知らぬ感を演出しようとしているそれ。 

 なんと切り出して良いか、圭一も戸惑う。

 身体は疲労感に包まれていた。だが、思いっきりスポーツをして汗を流したような快い疲れだ。泣いているのは、涙が出るほど笑っていたから。そういう意味でじゃない。だからお互いこんなにも気まずくなる必要は全然無いのだが……

 夕暮れのけだるい空気が充満している部屋に沈黙が降りた。どこからか気の早い風鈴の音と、ごううんと低い唸り声との二重奏が流れてくる。

 つと開けっ放しのベランダに続くガラス戸に目をやると、夢のラストとはまるきり正反対の空模様が飛び込んできた。一面に暗雲が敷きつめられた天。降り始めの風雨がカーテンを踊らせ、洗濯物をなぶっている。干しっぱなしの靴下やトランクスを救出すべく、圭一は慌てて立ち上った。

 ベランダに出ると湿った風と大粒の雨が、まともに吹きつけた。カッ――空に亀裂が走る。刹那の明滅、光の傷痕、空と地表を結ぶ糸。同時にそれは、遠い昔、生物の授業で習った神経細胞ニューロンにも似ていて。

 遅れて雷鳴が轟く、その一瞬の間。

 雷は、『神鳴り』とも『神成り』とも書く。何かの本で読んだのか、それとも彼女から聞いたのか、唐突にそんな話を思い出して――

「…………」

 荒れ狂う曇天の下。圭一は自身が打たれてしまったかのように、トランクスを握りしめたまま硬直していた。


       *


 考えてみれば、単純な話だった。

 週明けの月曜。梅雨前線が活発化した、しっとりと雨のそぼ降る晩、圭一は絵里子の実家を訪れた。

 木材とコンクリートを融合させた、趣味の良い和モダンの邸宅。庭には季節の草木が植えられており、今は紫陽花が見事だった。もう半月もすれば、塀をはう朝顔の開花時期を迎えるだろう。郊外とはいえ、東京でこれだけの敷地面積を有する家を構えるのは並大抵のことではない。改めて、義父のビジネスマンとして、一家の大黒柱としての手腕に感服する。

 玄関を入って正面には生け花が飾ってあり、靴はきちんと仕舞われていた。絵里子にもこういった折り目正しいところがあったが、義母のしつけの賜物なのだろう。

 その彼女は、圭一の突然の来訪に戸惑いを隠せないように立ちすくんでいた。構わず告げる。

「娘さんに会わせてください」

「娘って。絵里子はもう、圭一さん」

 止める義母を振り切って上がりこむ。黒光りする上框あがりかまちに水滴が落ちた。

「圭一君、どうしたんだ?」

 何事かと義父も出てくる。帰宅して間もないのか、まだスーツ姿だった。答えずに圭一はズカズカと進む。この家の間取りは知っている。絵里子の部屋は二階。階段は玄関右手のリビングを抜けた先だ。

「圭一君?」

「俺に隠しているんだろう!」

 つかまれた腕を振り払い、怒鳴る。その気迫にか、言葉にか、あるいは双方に――義父は顔を強張らせた。義母の顔も蒼白に染まる。 

 考えてみれば、本当に単純な話だった。

 彼女は生きている。小指が何よりの証だった。彼女は待っている。圭一がやってくるのを。

 と。軽い足音をとらえて、圭一は振り仰いだ。暗がりの階段を下りてくる、髪の長い、線の細い、色の白い女。

 絵里子、ではない。驚くほど良く似た面差しの――

「……お義兄さん」

 正面切って相対するのははじめてだった。絵里子の妹、知子。

 葬儀の日、霧のカーテンの向こうにあったのは、この挑むような眼差し。ただし、どこかしら捕食者に追いつめられた兎のそれを思い起こさせるが。階段の途中、足を止めた彼女を見上げる。彼女も見つめ返してくる。お互い、にらみ合うほどの情念をこめて。

 そうして……ふっと、圭一は嘆息交じりに微笑んだ。

「君の小指を、返しにきたんだ」

 初夏だというのに黒い手袋をはめた知子に、背広の内ポケットから取り出した小指をかかげて。


 庭に面した応接間に通された圭一は、久しぶりに入ったその部屋をぐるりと見渡した。

 何かが変わったというわけではない。ただ、増殖していた。壁に、棚に、ピアノの上に、初夏の青葉が茂るがごとく、年の離れた、でもそっくりな姉妹の写真がずらりと飾ってあった。何気なく一枚の写真立てを手に取る。どこかの避暑地で撮ったスナップだろうか。お揃いのクリーム色のワンピースを着た少女と幼女がVサインを向けて笑っていた。

「姉一人の写真はほとんどありません。私と撮影したものばかり」

 ――本来、姉は写真が好きじゃなかったのかもしれません。

 麦茶を載せた盆を運んできた知子が訥々とした口調で言う。コトリとグラスを黒檀(こくたん)のテーブルに置き、どうぞとうながしてからソファに座った。圭一も写真立てを戻して向かいのソファに腰を下ろす。

 真っ直ぐな黒髪、襟つきのワンピース、棒のような身体つき。全体を通して見ると、知子は若いというよりも幼く痛々しく感じられた。まだ二十歳前、当然かもしれない。

「母が気分を悪くしてしまって……父は母を看ているので、お話をうかがえるのは私だけですが」

 元々知子に用事だ。構いませんかとの問いにうなずき、圭一は改めて小指を差し出した。

 彼女は少しためらう素振りをのぞかせたが、無言のまま受け取った。手袋と義指を外し、虚ろな左手にあてがう。瞬間、小指は吸いつくようにぴたりとくっついた。二、三度手を開いたり閉じたりして、それはまったく元通りになる。

「それが、君が唯一使える魔術?」

 半ば呆れる思いで圭一が訊ねると、知子は恥ずかしそうにうなずいた。

 斎場の外で交わした義父との会話で気付いた。〝せいぜい『世界びっくり人間』か『一発屋芸人』ぐらいのものだ〟――つまり、彼らが使える〈力〉は一人につき一種。例えば義父は、死者の時を止めて生前の美しさをしばらく保つことができる。義母は桜の成長を促進させ、花を咲かせて死者を見送ることができる。だがそれだけだ。瞬間移動も、念動力も、透視もできない。

 それは絵里子とて例外ではない。絵里子の力は予知。空に虹を描き出したり、失せ物を見つけたり、ストーカーを撃退したりと色々やっていたが……予知能力があればどれもさほど難しくない。虹ができる時間と方角を知っていれば、さも自分が描いたように空を指さすこともできよう。絵里子はたった一つの力を応用して『魔術師』を演じていたに過ぎなかったのだ。

「……私、男の子って大嫌いです」

 ふっと、よく手入れされた庭へ視線を移し、知子はそんなことを言ってくる。ガラス戸に映った顔からは、その心情は読みにくい。だがこちらの戸惑いはおかまいなしに、彼女は語り出した。

「私はこの〈力〉が恥ずかしくてしようがありませんでした。指が取れてしまうなんて、おかしいでしょう? 男の子ならロケットパンチみたいで喜ぶのかもしれないけど……仰った通り、芋虫みたいで気持ち悪いと思います」

 フォローしようとした圭一を知子は一歩先んじて牽制する。その記憶力に、外見だけでなく中身まで姉に似て優秀だと圭一は心中苦々しく認めた。

 小学校の頃――、そう続けながら彼女は自身の左手を見つめた。桜色の爪が彩る、一見、可憐なその指先。

「一度、〈力〉がばれてしまったことがあります。うっかり授業中に小指を落としてしまって、すぐにくっつけたけど、隣の席の男子に見られていました」

 無論、少年は囃し立てる。だが少女の指は元通りになっており、周囲は少年が嘘をついているのだと決めつける。だが少年は確かに見たのだ、ムキになって主張し、少女を責め立てる――知子の説明が無くとも、その成り行きは容易に想像できた。

「恥ずかしくて、くやしくて、惨めで……でも、嘘をついているのは私の方だから、何にも言い返せなかった」

 わずかにうつむき、唇をかむ知子。

「それからいじめっ子に目をつけられるようになって……いわゆる登校拒否をしました。両親は私を叱りましたが、姉だけは味方でした。姉にはいじめの原因を話していましたから」

 両親に相談しなかったのかと問うと、彼女はゆっくりと首を横に振る。

「父と母は、私達に〈力〉を受け継がせてしまったことに負い目を感じています。だから、責めているみたいで話せなかった……」

 知子はひとつ、大きな吐息をつく。

「姉は、私をいつも元気づけてくれました」

 買い物に連れ出してくれたり、一緒にビデオを観たり、お菓子を作ったり。でも一番楽しかったのは『魔術師ごっこ』だったと言う。

 むにゃむにゃと呪文を唱え、今日の夕飯はハンバーグにしてしんぜよう! と人差し指を振り、その通りに整う食卓。毎週楽しみにしていたアニメ、ピンチに陥った主人公をはらはらしながら見守っていると、魔術で助けておいてあげるからとウインクし、次週には迎える大団円。赤三つ、青四つ――夏の夕暮れ、こっそり教えてくれた、明朝咲かせる・・・・朝顔の色と数。全てが絵里子の言葉通りになった時の、ゾクゾクする感覚が忘れられないと。

「もちろん、姉は望むままに未来を視ていたわけではありません。姉の言葉を借りれば、あれは『降ってくる』ものだそうです。でも、私にはそれら全てが、姉が仕掛けた魔法に思えてならなかった」

 その気持ちはよく理解できた。絵里子はとても上手に魔術師を演じていて、まんまと圭一も騙されていたのだから。うっすら瞳を閉じ、どこか夢見るような知子に、いわずもがななことを尋ねる。

「二人は、仲がよかった?」

「……はい、とても。それだけでなく、私は姉に心酔していました。綺麗で、頭が良くて、運動神経抜群で、魔術を使いこなして。私は、姉のお嫁さんになりたかった」

 お嫁さん。その単語に余程奇妙な顔をしてしまったのだろう、知子が凄味を効かせてにらみつけてくる。その視線は魔女といった風情を十分にかもし出していた。

「姉妹二人でいつまでも仲良く暮らしていたかった、という意味です」

 きっぱりとした口調。気圧されて、ああそうなんだ、とうなずく。それから一転、知子はうめくように、

「だけど、姉は大学に通い出して変わりました。私にあまり構ってくれなくなって、挙句男の人なんかとつき合い出して」

「…………」

「裏切られた気分でした」

 その一言はストレートに圭一の胸に突き刺さる。当時、知子は十歳前後。知らなかったとはいえ、結果的に甘えたい盛りの少女から一番大事な姉を奪ってしまったわけだ。

「私はすっかりへそを曲げてしまって……だから、ここ十年の写真はほとんどありません」

 彼女は写真の森のような部屋に視線を巡らす。愛おしそうに、痛ましそうに、複雑な感情が入り混じった眼差しでそれらをなぜてゆく。

「婚約したと聞いた時は、最後通牒を突きつけられた心地でした。私、あんまりくやしくてショックで。だから、普通の人が私達を理解できるはずないってやっかみで言ったら……試してみる? って」

 折り良く入った海外研修。知子の小指は圭一の元へ送り込まれた。表向き誕生日プレゼントとして、実のところ監察官として。あの日のサプライズの裏にこんな複雑な姉妹の愛憎が織りこまれていたとは、まさか想像できるはずがない。

 ともあれ、なぜ圭一を騙してまで別人(いもうと)の小指を送ってきたのか、ようやく謎が解けた。知子は伏し目がちに続ける。

「姉は頭が良いというか、計算高い人でしたから……私が挑発に乗って、結果的にお義兄さんとそれなりに打ち解けることを見越していたのだと思います」

 それなりに。圭一は微苦笑して小指との攻防を思い出す。あれは一度も顔を会わせたことのなかった義兄妹のふれあいだったのだ。

 しかし、姉を『計算高い』とは、なかなか辛辣だ。だが知子の評は言い得て妙で、よく絵里子はさり気なく雑誌を置いたり会話にネタを仕込んだりして、デートの行き先や食事など自分の希望に沿わせるようにうまく圭一を誘導していた。たまに文句を言えば、皆が幸せになるならいいじゃない、とあっけらかんとしていたが。確かに絵里子の判断はいつも正しく、それが悔しくもあって……

 ――ふいに、気づく。そう、絵里子は計算高い。彼女のやることなすことには、すべて意味がある。

 まさかと知子を見つめれば、その顔色はあまりに血の気が無く、圭一の想像を裏づけた。汗をかいたグラスを取り落としそうになりながら、麦茶で喉を湿らせて、訊く。その声は、わずかに震えていたかもしれない。

「絵里子は――君の姉さんは。ずっと前から自分の死を知っていた?」

 雷に打たれたように、知子は硬直する。

 目を見開き、唇をわななかせ、責めるような、傷ついたような、見る間に漂白されゆく表情は、先ほどの義父と義母と同じ種の哀切に満ちていた。無意識なのか、左の小指を強くにぎりしめる。

 ――ああ。やはり。

 言わずとも答えは知れた。圭一は晧々と輝く照明を仰ぎ、両手で顔を揉むように押さえる。目蓋の裏、光の輪が何重にもだぶって見えた。

 ずっと疑念を抱いていた。なぜ魔術師たる絵里子が事故を回避できなかったか。もしかしたら一族が放った刺客に魔術封じの鏡でも使われ、無力化したところを襲われた……などと妄想しないでもなかった。しかし、考えてみれば、本当に本当に単純な話だ。絵里子自身が己の事故死を予知していたのだから。絵里子ができるのは『予め知る』ことだけ。彼女の〈力〉は、決して未来を変えられるという類のものではない。

 さあさあ、さあさあ。雨は飽きずに降り続く。

「姉は、ひどい人です」

 青いインクをぽつんと一滴。数分も経ってから、こぼすように知子はつぶやいた。

「私はなんにも知らされてなかった……気づけなかった」

 染みはじんわりと広がってゆく。

「あんなに、一緒にいたのに」

 きっとクリーニングに出しても取れない。それほど深く深く、青く青く、透明になったところできっとずっと消えない染み。

 おそらく絵里子が自身の死を予知したのは大学に入る前後のこと、圭一と出会う前だろう。キャンパスでは常に単独行動をとっていたクールビューティー。笑いかけても、笑い返さない無愛想な女。恋人どころか友人さえ作ろうとしない変わり者。

 今なら理解わかる。ようやく理解る。あまりに遅すぎる理解。

 きっと、絵里子は自身を戒めていた。遠からずやってくるその日に備え、彼女は修道院の尼僧のごとくストイックな生活を送ろうとした。恋も友情も青春も崖の上から葬り去って。例えば明るく暖かな色合い――写真の中の姉妹が着ているような――を一切排除した黒っぽい服装にイメチェンして。それが自身の喪に服してのことと考えるのは、あまりに安っぽいセンチメンタリズムだろうか?

 面影が過ぎる。霧雨の午後、樹影の下、たった一人たたずんで。未来という無尽蔵の時間を有した同級生たちを、どんな思いで見つめていたんだろう?

 そして、彼女が遠ざけたのは他人だけではない。自分がいなくなった後、ひとり残されてしまう内気な妹。緩やかにその荒野に慣れさせたかったのだろう。だが、そこでいらぬ誤解が生まれてしまった。

 同時に、絵里子は圭一と出会った。出会ってしまった。何度もはねつけられた告白と求婚。彼女は一体どんな気持ちで断っていたのか。それでも絵里子は死の目前で、圭一のプロポーズを受け入れた……どうして?

「家族の中で知らなかったのは、私だけだったと思います」

 震える声音に、物思いから呼び戻される。

 蒼白な面は憐れだったが……申し訳ないと言うべきか、それは圭一も同感だった。義父らは薄々絵里子の様子から勘づいていたに違いない。もしくは、絵里子に予知能力があると知った時から、いつかこういう事態が起こりえると覚悟していたか。

 しかし、義母はともかく、少なくとも義父は絵里子に問い質せなかったのではないかと思う。訊いたところで、義父に何ができるわけではない。だが、なにより、その残酷な未来を明るみに出したくなかったのではないか。彼は迷いに迷い、途方に暮れ……そうこうしているうちに、結局、娘をひとり死地まで歩ませてしまった。

 葬儀の日、一族を非難し、懺悔していた義父。すまない、すまないと繰り返し謝った彼――それは号泣したことや差し出されたハンカチにではない。婚約者である圭一に黙っていたこと、そして亡き娘へのあまりに重い深謝だったのだ。

 知子は続ける。あの日の義父の懺悔のように。

「姉の一言一句、一挙一動を思い出すたびに、全部が全部、意味が込められたメッセージに思えて。なのに全然わからなくて……くやしくて、申し訳なくて、後悔ばかりが募って。息ができなかった……」

 仲が良かった姉。でも本当は何一つ理解できていなかったのではないか。笑顔も言葉も全部が嘘だったのではないか。姉にとって自分は何だったのか。問いかけても答えてくれるその人はもうどこにもいない。

 そして、喘ぐように知子が泳ぎ着いたのは、圭一の元だった。

「とても気になったんです、あなたが気づいていたかどうか。一方的にライバル視していたからかもしれません。祈るような心地でした。もし知っていたら完全に私の負けだと。でも、」

 ふう、と長い睫毛を伏せる。圭一としてはばつが悪いことこの上なかった。

「まさか、死にかけているなんて」

 そう。三日三晩暴れて、ぶっ倒れているところに、知子――小指はやってきたのだ。

「とても驚きました。怖くなって、後はもう必死で……今考えれば、体ごと部屋に入って救急車を呼べば良かったんですけど。全く、頭が回りませんでした」

 突いて、叩いて、引っかいて、小指の懸命な呼び掛けによって圭一は意識を取り戻した。後光が射していた小さなシルエット。知子は圭一の命の恩人というわけだ。それについては礼を尽くさねばならない、そう圭一が口を開く前に、

「ごめんなさい」

 逆に知子が深く頭を下げてくる。漆黒のドレープがさらりと扇形に広がり、完全に顔を覆い隠した。彼女の意図をつかみかねる圭一に、知子は悲痛な声で紡ぐ。

「あなたを騙していました。その上、利用した」

 恋人の死を受け入れられない圭一はまさしく同類だった。何も知らされず、気づかず、置いてかれた自分たち。分かち合おうと思ったわけではない。でもその無様さを目の当たりにすることで、乾きが癒された。呼吸ができた。楽になれた。だから失うわけにはいかなかった――それゆえすがったのだと、知子は告白する。

「すがった?」

 絵里子の小指のフリをして騙していたというのはともかく、すがった?

 圭一の疑問符に、項垂れたまま知子はうなずく。もっとも頭を下げたままの彼女は、上半身、黒色クラゲといった体(てい)で、ゆらゆら足が波打ったようにしか見えなかったが。

「あんなこと、言うべきじゃなかったんです」

 ――ひとりにしないで、なんて。

「…………」

 圭一は軽くにぎったこぶしを口元に当て、しばし黙考し――その手を広げ、顔を覆った。みるみる熱が上がってゆくのがわかる。このまま隠してしまいたいという誘惑は強かったが、それではフェアじゃない。圭一は、うー、あー、と唸りながら腹をくくった。

「いや、それ、違うんだ。俺は俺で違う解釈をしていて」

 しどろもどろ説明する。あの日、倒れ伏した圭一の眼前でフローリングの上、小指が踊った文字。

『 ひ と り に し な い 』

『 ひ と り に し な い で 』

 前者が圭一の読み取りで、後者が実際に知子の書いたもの。ようするに。

「俺は、小指――絵里子――が、『ひとりにしない』と誓ってくれたと勘違いしていたんだ」

 それは凛々しい恋人がいかにも口にしそうな台詞で、弱っていた圭一はすっかり早とちりをして、大いに甘えてしまった。言葉とは、げに恐ろしきもの。たった一文字、漢字や仮名など表記が違うだけで、全くニュアンスを異にし、時には逆の意味さえ示す。例えば雷。『神鳴り』と書けば無駄に神秘性を感じるが、『カミナリ』と書けばもうドリフのコントしか思い浮かべられないわけだ。

「利用したっていうんなら、それはお互い様というか」

 むしろいい大人である自分のほうに非がある。きまり悪く、斜め上の天井に視線をずらしながら白状する。

 知子は黙したまま、ゆっくりと面を上げた。責めるでもなく、怒るでもない。黒髪の間からのぞくのは、皿を割ってしまった子どものショックから立ち直れていない顔色(がんしょく)。ああ、皿には初めからヒビが入っていたのに、本当は。

「……葬儀の一週間後、私宛に手紙が届きました」

 たっぷり数十秒、あるいは数分後。ようよう気力を取り戻してから、知子はソファの脇から一通の封書を取り出し、テーブルの上に置いた。一見ダイレクトメールの体裁をとっているそれ。絵里子が両親に不審がられぬよう配慮したのだろう。目で問うと、知子は小さくうなずいた。

 中に入っていた白い便箋を開くと、懐かしい文字があふれ出す。

 おおむね予想していた内容であった。

 絵里子を失えば大きなショックを受けるであろう妹と恋人。願わくは、自分の死を二人で乗り越えて欲しい……あとには姉から妹への愛情とお節介に満ちあふれた文面がつづってあった。

 つまり、小指のプレゼントは布石。双方への贈り物。絵里子の最後の魔術――すなわち、遺言だったのだ。

「これを読んだ時、ようやく姉の想いを理解して……死にたくなりました」

 知子は深く深く嘆息した。薄い胸をわずかに膨らませて息を吸い、元通り以上にぺちゃんこにして吐く。そのまま消えてしまうのではと余計な心配をさせるほど。

 絵里子は全てをお見通しだった。姉の死に妹がどうにもならないぐらい動揺することも、混乱のまま圭一の元へ走ることも、そして束の間の安息を得ることも。

 だけど。いや、だからこそ。知子は、かぶりを振る。

「どっぷり甘えて、駄々をこねて、挙句に姉が用意してくれた全部をそっくり奪うなんて……私はそこまで無神経でいられない」

 知子は猛烈な自責の念に苛まれる。だが手紙を受け取った時点で、彼女は回れ右をするわけにはいかなくなっていた。なぜなら、読み違えたメッセージを真に受けた三十路男が、四六時中、小指を離さなかったから。

 圭一も深く深く嘆息した。このままぺちゃんこになって消えてしまいたかった。

 小指が届けられて早や半年。

 ひとりとひとゆびの共同生活は、そんな計略と後悔と勘違いの上に成り立っていたのだ。

「お義兄さんとの生活は、ちょっといい加減なところもありましたけど……正直、楽しかったです。姉とは不釣合いだということを証明したくて、突っかかってばかりでしたが……家族以外の人とあんなに遠慮なく接したのははじめてで。でも姉が死んでからは、騙している、縋っているという意識の方が強くて、なのにひとりになるのが怖くて……」

 ――出口が見えない霧の中を歩いているみたいでした。

 その霧が周囲に漂っているかのように、知子は視線をさまよわす。圭一の脳裏にも、霧深い森のイメージが甦った。二人は一緒にいながら、別々に霧の中を歩いていた。歩いて、歩いて、ひたすら歩き続けていた。

 圭一は少し逡巡しながらも訊く。

「出口は、もう見つかった?」

 その問いに、知子はピクリと前後に肩を揺らした。透明な誰かにぐいと背を押されたように。

 圭一にとっても、小指との生活は、正直、不愉快でありながら愉快であった。まだ見つかっていないなら、これからは二人一緒に出口を捜すことだってできる。実際、その方がずっと効率的で効果的で省エネなはずだ。なにせとっておきの魔術がかけられているのだから。

 知子がうつむき加減に、薄い唇を動かした。その小さなつぶやきは、何度か繰り返されて、ようやく音になる。

「……お姉ちゃんは、馬鹿です」

 白い指がワンピースの裾をきゅっとにぎる。

「お姉ちゃんは、何にもわかっていない」

 そろえられた膝の上。だけど左の小指だけはこぶしからはみ出し、ひとりのけ者にされている。

「ひとりになるのは怖かった。でもそれ以上に、私はお姉ちゃんが大好きだった……!」

 それは雑巾の最後の一滴、固く固く絞り上げるように発された声と感情だった。

 さあさあ、さあさあ。雨が止む気配はない。

 革張りのソファは座り心地良く、湿気で不快になるほどまだ気温は高くない。だが圭一はごく浅く腰かけて、前傾姿勢を保ったまま、嘆息ひとつ落とした。そして、告げる。

「俺も、そう思うよ」

 同意されるとは予想外だったのか、弾かれたように知子は顔を上げ、圭一を凝視する。

「絵里子の魔術は、どっか抜けてるんだ」

 そう苦笑してみせると――彼女は姉によく似た端正な顔立ちをくしゃくしゃにゆがめた。鼻にしわを寄せ、口をへの字に曲げ、瞳にぷっくら水玉を盛り上がらせて、本格的に泣きはじめる。しくしく、ではない。うわんうわんと盛大に、驚くほど大きな声で。

 圭一は唖然とその様を眺めて思う――こんなにも幼かったのだと。

 この三か月間、圭一は小指にすがりついて、辛うじて生きてきた。彼女がいなければ、とてもまともでいられなかった。

 同時に、期待もしていた。もしかしたら、絵里子は生きているのではないのかと。ほんの一分の可能性を失うのが怖くて、今日の今日まで小指を囲ってきた。

 だが、瞳を閉じると、樹影の下、寂しげな横顔で雨宿りしていた魔術師の幻影が揺れる。あの白昼夢、圭一は絵里子を追いかけた。見失うまいと必死だった。〝ひとりにしないでくれ!〟――そんな泣き言まで叫んで。

 だけど違う。本当は違う。違ってた。

 深い森を抜けた先、唐突に開けた視界、空いっぱいに広がる虹。こんな芸当ができるのは、どんなに世界が広かろうと、どれだけ沢山の人がいようと、どれほど高度なVFXを駆使しようと、この世にたったひとりだけ――

 ひとりにされるのが怖かったんじゃない。

 君という俺の魔術師を失うのが、ただただ怖かった。

 それは他の誰にも埋め合わせできない、いかな大魔術をかけようとも絶対に不可能なんだ。

 圭一の愛の言葉に、おおげさねと失笑する絵里子が浮かぶ。彼女はいつもこんな調子で、告白も求婚も、将来に関わる真剣な話になると軽く受け流していた。その事情も理由も気持ちも、今になってようやく理解する。

 だけど、絵里子。俺が怒ってないと思ったら大間違いだ。

 言ってくれたら、仕事なんか辞めて四六時中一緒にいた。海外研修にだってついてった。少女趣味なウェディングドレスだって、ドライアイスのスモークだって、愛のゴンドラだってやった。なんなら小指を切り落として交換しても構わなかった。

 それでよかった、そうしてやりたかった、そうさせてほしかった……!

 どっと気持ちがあふれて、涙腺が崩壊するのを圭一は辛うじて堪える。

 しかしそんな不自然さは、絵里子の望むところではなかったのだろう。未来が限られた彼女だからこそ、何より日常を慈しんでいた。考えうる中で、絵里子は大切な人々にとって最良の魔術を遺したのだ……

 でも、ほら。圭一は目蓋を上げる。

 君の大事な妹が泣いている。

 やりきれない事実を隠蔽するために彼女を利用するなんて、それこそ本末転倒な話じゃないか。

 教室の隅っこ、いじめられっ子そのままに嗚咽をもらす知子。姉の遺言、圭一の依存、自身の弱さ……たくさんの重圧を背負い、ずっとずっと我慢していたのだろう。

 圭一はすまない気持ちでいっぱいになり、そっと頭をなでてやった。

 ……やっぱり、君の魔術はどっか抜けてるんだよ。

 ――ごめんなさい、でもしょうがなかったのよ。

 悪びれず肩をすくめる絵里子が見えた気がして、ふと思いつく。もしかしたら彼女はこのシーンを予知して、全てを仕組んだのかもしれないな、と。

 だけど、それでも、最後に圭一の手を取ったのは……自分を愛してくれたから。

 そう、うぬぼれるぐらいは構わないだろう?

 泣きじゃくる知子の頭を抱き寄せながら、雨露に濡れた庭を眺めていると……赤、白、青。いつか姉妹が『魔術師ごっこ』に興じた朝顔が、闇の中、鮮やかな燈明のように花開いた。

〈了〉


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魔術師の小指 坂水 @sakamizu

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