第十話 とある博物学者

「皆様、こんばんは。ぬいと申します。普段は医師をしておりますが、今宵は聴診器をギターに持ち替えさせて頂き、演奏をさせて頂きます。どうか、最後までお付き合いのほどを」

 貸し切りとなった、夜のミルクホール。小さな演奏会を主催するのは、玄武の知り合いの女性医師だ。

「ギターという楽器、初めて見ました!」

 晶水は、若い子らしく純粋な目を輝かせ、奏者に拍手をする。その様子が微笑ましく、玄武は目を細める。肩を叩かれて振り返ると、頬に指先を押し当てられた。

「こら、人を指で指すなや……果乃」

「果乃?」

 晶水が反応し、目を丸くした。

 話と違う。そう言いたそうな表情だった。

「紹介するわ。果乃。俺の嫁」

 果乃は黙ってお辞儀し、玄武は果乃を椅子に促した。

 ギターの演奏が始まる。果乃は楽しそうに、右に左に小首を傾げる。着物の後ろ衿より若干短い癖っ毛が、ふわふわ揺れる。綺麗に化粧をした果乃は、演奏に合わせて歌う唇にマットな紅を差し、白と濃い灰色の縦縞の着物に身を包む。茜色の帯に紫色の帯締めという斬新な組み合わせだが、果乃には似合う。帯留めは琥珀だ。



「では、最後の曲でございます。曲名は、『愁いを知らぬ鳥のうた』」

 それまで明るい曲をぽろぽろと弾き語りしていた女性医師は、曲調をがらりと変え、哀愁漂う音色を奏で始めた。

 玄武は眼鏡の位置を直し、頭の中で歌詞を書き起こす。

 間違いない。あのとき、秋心粧太郎が聴かせてくれた歌だ。

 演奏が終わり、玄武は女性医師に訊ねる。どこでこの歌を知ったのか、と。

 女性医師の返事は、こうだった。

 ギターのお師匠様が教えて下さったの。



 夜のとばりが下りる帰り道。玄武の後ろを果乃がついてくる。

 街灯の下で玄武は立ち止まり、果乃の肩を抱く。しかし、すぐに肩にかけた手をはねのけられ、手をつないだ。

 果乃は帝都に来てから、より美しく、可愛くなった。相変わらず、無駄な口はきかずに、気を利かせる。たまに悪戯っ子のように玄武の心をざわつかせる。子はまだ授からない。それでもいい、と玄武は思う。生き生きした果乃を近くで見守ることが、今一番の幸せだ。

 玄武は果乃の手を握りしめ、夜空を見上げた。

 月は今日の夜も、帝都をしんしんと照らしていた。



 【「愁いを知らぬ鳥のうた」完】

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愁いを知らぬ鳥のうた 紺藤 香純 @21109123

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