神業
柄杓を手にしたまま、久秀が井戸へ向かう。冬場の井戸水は温さを残しているが、それも外気に触れればじきに冷気を漂わせる。久秀は柄杓に水を汲むと、手近な巨岩の一つに近づいた。
「そもそも、岩というものは
久秀は巨岩の上部を見やる。そこにあった亀裂に、柄杓を持って近づき、亀裂の中に静かに水を溜めた。
「山中は冷える。ここは特にな。この水もじきに凍るであろう。面白いもので、凍った氷は元の水より少し大きゅうなる。亀裂に入った水が氷となって膨らみ、自然の楔となって石目を少しずつ広げてゆく。広がった亀裂にはさらに雨水が溜まり、また凍る。それをくり返せば」
久秀が懐から取り出した小石は、きれいな断面で二つに割れていた。
「この通り、数年後には石が割れる。この巨岩も同様。毎年柄杓で石目の亀裂に水を入れてゆけば、数十年、数百年のうちにはきれいに割れるであろう。その割れ方が見事なあまり、人の手で為されたものと誤解されるに過ぎん」
宗厳は反論もせず、ただ無言で久秀の言葉を聞いている。
「だいたい、すっぱり割れた大岩など全国各地にある。鬼の仕業じゃ神の仕業じゃと有難がられているが、なんのことはない、たまたま雨水が石目に沿って岩を割ったものに過ぎぬ。同じ道理で、石目に沿って楔を均等に打ちこんでいけば、己が手できれいに割ることもできる。柳生の名を天下に知らしめたおぬしの天狗斬りも、実体はこんな小細工に過ぎないということじゃ」
哄笑する久秀から目をそらし、宗厳は大きく息を吐き、拳を握った。怒りで体を震わせるなど何年ぶりのことだろう。
「その話を聞いて、明音はなんと」
「泣いておったよ。とんだ与太話を真に受けてしまったとな」
「わしはなんという未熟者だ。守らねばならなかった娘を、みすみす失意のうちに死なせてしまうとは。己の目指した道がまやかしと言われ、もはや邪法の剣しか残されていないと思いつめてしまったか。わしはなにを伝え、なにを教えてやれば、あの娘を救ってやれたのであろう……」
つぶやきつつ、腰の刀を抜く。
危機を感じたのか、久秀が後ずさる。
宗厳は呼吸を整えると、太刀を両手で天高くかざし、脇にあった巨岩めがけて裂帛の気合いと共に打ち下ろした。寸分違わず石目に直撃した斬撃は鋭い反響音を社中に広げ、岩はぱっくりと一刀両断され、鋭利な切り口を見せて地面に転がった。
驚愕し、呆然とする久秀に宗厳は一喝した。
「新陰流を見くびるでない!」
久秀はしばらく言葉もない様子だったが、やがて我に返ると、
「まさに、道理を超える神業の剣。よもやこれほどまでとは」
脂汗を浮かべつつも、皮肉な笑みを見せた。
「いやはや、恐れ入った。明音の目指した道は確かにあったということか。業が深いのう、宗厳。ならばおぬしは天狗斬りをあえて教えなかったということになる。活人剣が正しいと信じ、明音にそれを押しつけ、死なせたのじゃ」
宗厳が抜き身の太刀を持ったまま久秀に向き直る。久秀はすでに刀の届かない間合いまで距離を取っていた。そのままゆるゆると離れながら、言葉を重ねる。
「おぬしの剣は崇高すぎる。太平の世なら君子を育てもしようが、戦国乱世に活人剣は望まれぬ。剣を持ちながらにして戦を避けるなど、夢物語よ。理想をほざくばかりでは娘一人救えぬのだ……」
久秀が闇に溶け込んでゆく。天を仰ぎ、宗厳は瞑目した。
「明音、そなたを救えなかった愚かな師を許せ。せめて姉君と寄り添い安らげるよう、祈らせてくれ……」
時は天正四年。こののち、宗厳の子、
了
天狗斬りの乙女 真弓創 @mayumisou
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