失恋した、涙の一つも出てこなかった*後編

 ピコン。

 久しぶりに、新着メッセージを知らせるその音で目覚めた時、心臓がとくんと色めいた。期待に胸を膨らませながら、急いで、携帯に手を伸ばしたけれども――


 誠司:おはようございます。


 ――届いていたのは、絵文字の一つもないシンプルなメッセージ。

 

 どうしてだろう?

 どうして、一瞬でも、一真からの連絡だと思ってしまったんだろう。

 筋違いと分かっていながらも、心に黒い染みが垂れ出すのを止められない。


 誠司:明日の件ですが、どこか行きたいところはありますか? 菜子さんの希望が特になければ、僕の方で考えてみようかと思っているんですけれども。


 続けざまに送られてきた折り目正しいメッセージを見てさえも、胸がこれっぽっちも踊らなくて。


 明日、誠司さん本人を目の前にしてさえも、同じように心を灰色にさせている自分を容易に想像できてしまった。


 菜子:ごめんなさい、誠司さん。今朝、起きてみたらひどく寒気がして……もしかしたら、明日も難しいかもしれません><


 気がつけば指から滑り出ていたメッセージに、息が詰まるような罪悪感を覚えて携帯の電源を切った。そのまま視界に入らないところに携帯を放り投げ、布団を頭までかぶりなおす。


 私、本当に、どうしちゃったんだろう。


 誠司さんは、申し分のなく、良い人だ。誠実で、優しくて、大人な彼。お付き合いすることができたら、きっと幸せにしてくれるだろうと確信できる素敵な方なのだ。


 私なんかには、もったいないような人なのに。

 考えていることと、実際にやっていることがまるでちぐはぐで、全然噛み合ってくれない。


 もう、嫌だ。

 自分で自分のことが、よく分からないよ。



「はあ……」


 私は、一体、何をやっているのだろう。

 缶ビールを開けながら、自分に呆れ果てて、ため息が出てしまう。 


 先ほど二度寝をしてから再び目が覚めた頃には、既に日が傾きかけていた。折角の休日一日目の半分以上をだらだらと寝て過ごしてしまったことに、虚しさを覚えた。のろのろ布団から這い出て、洗面台に向かったら、死んだ魚のような瞳をしている自分が鏡に映っていた。


 二度寝をしてみれば、気分も少しは晴れると思ったのだけれども。

 心はむしろ、どんどん落ち込んでいくばかりで。


 このままではいけない、と気分転換に軽く身支度を整えて、外に飛び出してみたけれども。電車で遠くまで行く気にはなれず、なんとなく立ち寄ったコンビニで購入した缶ビールを片手に、またここに来てしまった。時間帯が早まっただけで、昨日と全く同じことをしている。


 土曜夕方の公園は、賑やかだった華金の夜とは打って変わって、人っ子一人いなかった。夕焼け色に染め上げられた滑り台とブランコはなんとも物淋しい。


 ぼうっとしながら、缶に口をつける。

 おかしいな。ビールって、こんなに苦い飲み物だったっけ。 

 今まで感じたことのないような壮絶な苦みに顔が歪む。


「っ……」


 どうして。

 ただ、ちょっとでも気分が良くなりたくて買ったはずなのに、なんでまなじりから涙がこぼれてくるのだろう。


「菜子さん」


 もう、振り向かなくても、誰の声だか分かった。

 こんなところまで昨日の夜と一緒だなんて、うんざりする。


「昨日の夜に会った時から思ってたけど、菜子さんやっぱりおかしいよ。二日も連続で、こんなところに一人きりで何やってんの。ねえ、今日は用事があるんじゃなかったの」


 前に回り込んできた悠真くんが、私をいたわるような眼で見つめてくる。肩にギターケースを背負っているところを見ると、これからバンドサークルの練習に向かうところなのだろう。


「悠真くんには、関係ないでしょっ。早く行かないと、遅刻しちゃうよ」

「こんなになってる菜子さんをほうっていけるわけがないでしょ。ねえ、やっぱり、無理してるでしょ……? 好きなんでしょ?」

「ちがう、ちがうっ! 一真のことなんてっ、もうこれっぽっちも……っ!」

「菜子さんは、嘘吐きだ。オレは、誰のことが好きかなんて一言もいってないよ」


 呆然としてしまった。


 ただただ瞳を大きく見開いて、目の前の彼を見つめることしかできないでいたら、悠真くんはひっそりと微笑んだ。


「いい加減に認めなよ。菜子さんは、まだ、一真のことが好きなんだろ」


 その瞬間。

 涙が、堰を切ったように、次から次へと溢れだした。

 止まらない涙が、臙脂えんじのスカートに濃い染みを作りだす。


「そんなの……大好きに、決まってるじゃん……っ」


 ずっとずっと、この気持ちを認めてしまったら終わりだと思っていた。


 私は、振られても引きずり続ける重い女になんて絶対にならないって。彼に捨てられたんじゃなくて、むしろ私が彼に愛想を尽かしていたんだって、そう信じたかったんだ。


 でも、そうやって自分を言い聞かせようとするたびに、心は黒ずんでいった。


「だってだってっ……どれだけ長い間、一緒にいたと思ってるのっ。どんだけ沢山の思い出があると思ってんのっ。それなのにっ、突然、別の女に鞍替えってなに……? たしかに、心変わりは誰にだって起こりうることだよっ。でも、でも、どうして一真だったんだろう……っ!」


 子供みたいに泣きじゃくりながら、ずっと心の奥底にしまいこんできた感情をありったけ悠真くんにぶつけるように叫んだ。


 泣いても、縋っても、残酷な現実は何にも変えられない。だから、そんな醜いことはしたくないって、綺麗なままでいたいって思っていたけれど――


「やっと、ほんとのことを言ってくれたね。そう。菜子さんは、一真とのことをちゃんと哀しまないと、先に進めない。これからどうするか決めるのは、それからなんだと思うよ」


 ――惨めでも、重くても、汚くても良いのか。

 だって私は、一真に振られて、すごくすごく哀しかったんだもの。

 

 しばらくの間、悠真くんはぐずる子供をあやす母親のように、頭を撫でてくれていた。


 彼が慌てて練習に向かってから、とぼとぼと一人きりで帰宅したその夜は、嗚咽を漏らしながら泣き続けた。体内から水分がなくなってしまうのではないかと思うぐらい涙を流した後は、少しだけ胸が軽くなっていた。


 それから、意を決して今日の朝振りに携帯を開いたら、誠司さんから『体調の方は大丈夫ですか?』と気遣わしげなメッセージが数時間も前に届いていた。


 菜子:ごめんなさい、誠司さん。体調が悪い云々は真っ平な嘘で、やっぱりまだ元彼のことが忘れられません。自分勝手で、本当に申し訳ないです。


 もしかすると、逃した魚はかなり大きかったかもしれない。

 それでも、この選択を後悔することはないだろう。

 今は、胸を張って、そう思えている。



 土日休みの会社員には憂鬱極まりない、月曜日の朝。まだ寝ぼけた頭で通勤の電車を待っていたら、突然、後ろから肩を叩かれてものすごくびっくりした。


「おはよ。ふあ……菜子さんと駅で会うなんて、珍しいね」


 振り向けば、グレーのニットにジーンズ姿の悠真くんが眠そうな顔で立っていた。今日は眼鏡をかけているらしい。黒縁のお洒落なやつ。


「あ、あぁ、おはよう。えと、その……土曜日は、ありがとう。悠真くんって、ほんとに優しいね」


 散々、醜態をさらした後でどんな顔をすれば良いのか分からなくなって口を噤んだら、彼は瞳を丸くしながら「ごめん、菜子さん。オレ、そんな良い奴じゃないかも」と視線を下げた。


「えっ」


 少しの間を置いた後。

 悠真くんは、頬をすこしだけ赤く染めながら、くぐもった声で言った。


「正直なことを言うと、一真から菜子さんと別れたって聞いた時、すごく複雑だったんだよね。一真のことが腹立たしくて仕方なかったけど、正直、嬉しいとも思っちゃったし……」


 えっ? それって、どういう……。


 呆然と困惑してしまった私を見つめながら、「またね、菜子さん。オレ、反対の電車だから」と手を振り上げ――


「覚悟しててね。今度は、アイツの弟としてじゃなくて、男として見てもらえるように全力出すから」


 ――最後にとんでもない耳打ちを残し、悪戯が成功した子供のような笑顔で反対側の電車に飛び乗った。


【完】

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失恋した、涙の一つも出てこなかった 久里 @mikanmomo1123

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