失恋した、涙の一つも出てこなかった

久里

失恋した、涙の一つも出てこなかった*前編

「ごめん、菜子なこ


 ゆったりと落ち着いた雰囲気の、お洒落なイタリアンレストラン。


 そこで、もうすぐ二年の付き合いになる彼氏と食事デート――とは、到底思えないような凍えた空気が私と一真かずまの間には流れている。


「他に、好きな人ができた。別れてほしい」


 苦しそうに眉間にしわを寄せて、それでも、私から目をそらすことなく。

 真摯に頭を下げる彼を見つめながら、心は真冬の夜のように冷え切っていて。


「そっか」


 まぁ、予想通りの展開だ。

 最近、連絡が途絶えがちだった彼氏から突然『明日の夜、空いてる? 話がある』だなんて不吉なメッセージを受け取っていたら、誰だって考えるよね。


 いざ現実になってみたら、頭の中でこの事態を想定していた時よりも、冷静な自分がいた。


「……申し訳ない」


 一真は、一言ひとことも言い訳することなく口を閉ざした。二年前、ここで共に食事をしながら告白を受けた時からは、想像もつかないほど沈痛な面持ちで。店の隅に立てられた燭台は、あの日と同じように仄かな光を灯している。


 端から見ていて、呆れるほど責任感の強い彼のことだ。

 今はきっと、自己嫌悪の海で溺れそうになっているに違いない。


 だから私は、普段あまり使わない真っ赤なルージュを引いた唇で、鮮やかに笑ってみせた。


「謝らないで」


 一真が、下げた頭を、恐る恐る振り上げる。


「心変わりなんて、誰にでも起こりうることでしょ」

「っ」

「だから、あんまり自分を責めすぎないで。分かった?」


 彼は、笑顔を浮かべている私を見つめながら、虚をつかれたような顔をした。

 それから、申し訳なさそうに私の瞳を見つめてきて、何か言いたそうに唇を噛んでいる。


 もうこれ以上、そんな後ろめたいものに向けるような視線を送らないでほしかった。だから、一真が再び何か言葉にしようとする前に、先回りして釘を刺した。


「私なら大丈夫だから、気負わないで。一真、二年間すごく楽しかった。ありがとう」


 完璧だ。

 私のどこがダメだったかと聞くことなく、心変わりした彼を責めるでもなく。

 昨夜からの予行演習通り、最後までちゃんと良い女でいることができた。


 お店を出て、駅で彼と別れてからも、涙の一つも出てこなかった。


 なんだ。

 強がりなんかじゃなくて、本当に大丈夫じゃないか。

 

* 


 朝。

 スマートフォンから鳴り出したけたたましいアラーム音で、目が覚めた。

 布団の前方に置いて充電している携帯にめがけて手を伸ばす。


 まだ寝ぼけた頭でアラームをOFFにし、そのまま流れるようにメッセージアプリを開き、手慣れた動作でおはようと送りかけて――


 一真:菜子。あらためてになるけれど、俺の方こそ、今までありがとう。不甲斐なくて、ごめん。


 ――いや? 違う違う違う、間違えた……!


 そうだ。私たち、もう、他愛もないメッセージを気軽に送り合う仲ではなくなったんだった。危うく、別れた翌日の朝から、さっそく未練がましい連絡を送る元彼女モトカノになりかけるところだった。習慣って恐ろしい。

 

 送信ボタンは押さずに、メッセージアプリの連絡先から一真を非表示にする。


 よし。これでもう、手癖で誤送信してしまうこともないだろう。どこにも彼の名前が見当たらないトップ画面に少しだけ違和感を覚えてしまうのは、きっと今だけだ。時間が経てば、すぐに慣れるはず。


 スマートフォンを投げ出して、もう一度布団に転がりながら、今日は何をしようかと考える。


 久し振りに、何の予定もないまっさらな休日だ。

 午前中は溜めてしまった家事をこなすとして、午後からは何をしよう。

 

 考えてみれば、今の私は独り身なのだから、本当に何をしても良いわけだ。別に、一真が束縛する男だったわけではないけれど、恋人がいる時には絶対に考えられないような選択肢も候補にすることができる。


 例えば、新しい出逢いを求めてみる、だとか。


『あー、えっとね、今の彼氏とはマッチングアプリで知り合ったんだ。最初は、そういう媒体を通して知り合うことに抵抗感がないわけでもなかったんだけど、会社の信頼できる先輩がアプリで知り合った人と結婚したって聞いて始めたの。付き合いはじめてもうすぐ三ヶ月になるけど、いまね、すっごく幸せ。思いきってアプリを始めてみて本当に良かったなぁって思ってる』 


 数週間前、散々聞かされ続けた大学時代の友人の惚気話が、ふと脳裏をよぎる。


 マッチングアプリ、か。

 実は、話を聞いている時から、気になってはいたのだ。

 浮気願望があったわけではなく、純粋に好奇心的な意味で。


 彼氏に振られた一日後から、新しい出逢いを求め始めるだなんて節操がないと言われてしまうだろうか。


 ううん。

 今の私の行動を咎める人は、もう誰もいない。


 きちんと起き上がって、その辺に放り投げたスマートフォンをもう一度手に取る。検索サイトを開いて、マッチングアプリ、と打ち込んでみた。


 一真の時は、もうとっくに、動き出している。

 私だけ立ち止まっているわけにはいかない。



 金曜日の夜は、道行く人々の足取りが心なしか弾んでいるように見える。前方から吹きつけてきた秋の夜風が肌身に染みた。

 

 マッチングアプリに登録してから、あっというまに三週間が経過した。その間にマッチングが成立してメッセージのやりとりにまで至った相手が六人。その中で実際に会ってみたのが二人。


 特に、この前の日曜日にお茶をした誠司せいじさんは、包容力がありそうで良い感じの人だった。


 今週末も、誠司さんとデートの約束をしている。

 このまま順調にいけば、きっと、彼と付き合うことになるのだろう。

 我ながら、別れた直後とは思えないぐらいうまくいっていると思う。


 そのはずなのに。


 どうして私は、自宅近くの公園のベンチに佇みながら、コンビニで買ってきた缶ビールを手にしたりしているのだろう。もうすぐ新たな恋が実ろうとしているOLにあるまじき醜態を世間様にさらしている。


 アルコールによってとろかされた頭で、ぼんやりと、少し離れた位置で馬鹿騒ぎをしている大学生らしき集団を見つめていたその時だった。


「菜子さん?」


 よく耳に馴染んだ、少し低めの声。

 その声で、急に背後から名前を呼ばれたものだから、心臓がどきりと飛び跳ねた。


「……かず、ま?」


 勢いよく、振り返ると――


「残念ながら、一真かずまじゃなくて、悠真ゆうまです」


 ――そこに立っていたのは、一真ではなく、その弟の悠真くんだった。

 一真よりも少しだけ背が高くて、愛嬌のある顔立ちをしている大学生の彼。


 悠真くんは、むっと頬をふくらませながら、歩いてきて私の隣の席に腰をおろした。


「あっ、えと、ごめん……。悠真くん、どうしてこんなところに……?」 

「サークルの飲み会の帰りっす。菜子さんこそ、どうしてこんな公園で、一人で酒を飲んでるんですか」

 

 手に持っていた缶にジトリと視線を注がれて、羞恥心で頬がカッと熱くなる。


 そういえば、私の自宅と、一真の実家って同じ最寄り駅だったっけ。だとすれば、悠真くんとうちの近くで遭遇してもなんら不自然ではない。


 でも、まさかまさか、一人で酒をあおっている時に出くわすだなんて最悪も最悪だ! 慌てて、お酒を持っていない方の手をぶんぶんと振りまくる。


「いや、えっと、違うの! これは、そのっ」

自棄酒やけざけ、ですか?」

「自棄酒!? べ、別に、そんな深刻なものじゃなくて、日々のちょっとした憂さ晴らしってやつで、そのっ、社会人は大変なの!」

「本当に仕事のこと? 菜子さん、無理してるんじゃない?」


 悠真くんは、じっと私の顔を覗き込んできたかと思えば、「ごめん。今の、ちょっと無神経だったかも」と悲しそうに視線を地面に落とした。あ、その仕草、一真に似てるなぁ……なんて、一瞬でもそんなことを考えてしまった自分に嫌気が差す。


 彼が、私たちが別れたことを知って、気遣ってくれているのは痛いほど分かる。

 だけど、そんな風に同情してほしくはなかった。

 だって、私は可哀想なんかじゃないもの。


「ぜんぜん無理なんてしてないよ? 一真とのことは、もう吹っ切れてるし。なんなら、もうすぐ新しい彼氏もできちゃいそうだしね」

「えっ! まだ、別れて一ヶ月も経ってないっすよね!?」

「早過ぎる、って言いたいの?」

 

 あえて剣呑さを孕ませた声に、彼は目を丸くしながら口を閉じた。

 その隙をつくように、熱くなってきた喉で言葉を絞り出す。


「たしかにちょっと早いかもしれないけどさ、そうはいっても、いつまでもくよくよしてたってどうにもならないじゃん。どうせ一真は、今頃、とっくに新しい彼女ができてるんだよ。私だけ早過ぎるだなんて言われる筋合いはないよ……っ」


 目の前の悠真くんが滲んで見えるのは、悲しいからじゃない。

 お酒を飲んだから、すこし感情が昂ぶってしまっただけ。

 ただ、それだけのことなんだ。


「じゃあ、菜子さんは、もう平気?」

「あったりまえでしょ」

「でも、菜子さん、泣いて――「悠真くんは、心配性だなぁ。大丈夫だって、言ってるじゃん!」」


 そういうお節介なところも、一真にそっくりなんだから。

 口にしかけるすんでのところで、ぐっと飲み込んだ。


「私、もう帰る」

「ちょっと、待ってくださいよ」

「待たない、明日も朝早いんだよね。悠真くん、心配してくれてありがとう。君もあんまり遅くならないようにするんだよ」


 ベンチから立ち上がり、彼の制止を遮って、足早にその場を立ち去る。だいぶ酔いが回ってきたらしい学生集団の騒がしい笑い声が、背中越しに聞こえた。


 本当は、明日も予定なんてない。

 ただ、これ以上、彼と話をし続けているのはなんだか怖かった。

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