外伝 たかねさん、参謀勤務の巻
※この作品はフィクションであり、実在の人物・国立大学附属高校・事件・実力組織などとは一切関係ありません。
東京都目黒区駒場四丁目 的場邸
令和五年十一月二十三日(木)午前七時
「旦那様。
「信濃路ということは……『殿下』か。よかろう、存分に昔を語り合ってこい。それからこれは、私からの線香料だ。私の代わりに、菩提寺に届けてくれ」
「かしこまりました、旦那様」
十一月下旬の連休。的場邸家政婦長――杉原たかねは、的場邸に来て初めての休みを取った。
小さなキャリーケースに二泊分の荷物を入れ、自衛隊時代の制服で屋敷をあとにする。即応予備自衛官でも冠婚葬祭のときは、制服を着用できるらしい。
でも……杉原さんが自衛隊の服を着るのは、事件が終わって初めてのことだ。俺は思わず、杉原さんに声をかけた。
「杉原さん。会いたい人……って、誰ですか?」
「わたくしの戦友であり、主人であり、上官であり、満州の平野を並んで駆けた友……わたくしにとって彼女は今も、まぶしい青春なのですよ、お坊ちゃま」
『まぶしい青春』……過ぎ去った過去を語る杉原さんの眼差しは、どこか慈愛に富んでいる。
「人は美しかった思い出を、四季になぞらえて青春と呼ぶのです。もし美しくなかったとしたならば、それはただの『歴史』でございます」
俺は思わず、杉原さんに駆け寄った。
「杉原さん。あの……俺も一緒に連れていってくれませんか? 本当はお二人の思い出に、俺みたいな第三者は不要だと分かっているんですが……的場先生が線香代を渡したのが、どうも気になって。たとえ使用人の恩人とはいえ、普通はしませんよね?」
「……めざといですね。無理もありません。彼女は、多くの日本人が知る有名人でございますから」
と、そこで袴姿の的場先生が、突如として現れた。
「牧原。そう言うと思ってな、杉原に貴様の分の宿泊セットも用意させておいた。学割証はこれだ。楽しんでこい」
と、的場先生は俺の分のキャリーケースを、学割証をセロテープで留めて渡してくる。
やっぱり的場先生は的場先生だな。予想済みだった、ってわけだ。
「先生、先輩」
見送りのために玄関に集まった二人に、頭を軽く下げる。
「知らない人についていくんじゃないぞ、牧原」
「潤っ! 泊まるとき、部屋は別々にするのよ。いいわね?」
頷きで返し、木枯らしを蹴って屋敷をあとにする。杉原さんの話だと、八時ちょうどのあずさ五号で松本方面に向かい、松本駅から北松本駅に移動するそうだ。
京王井の頭線のホームで渋谷行き普通列車を待っている間、俺は一つだけ尋ねてみることにした。
「杉原さん。今日行くお墓の主、名前はなんて言うんですか?」
杉原さんは少し考えこみ、告げた。
「
あ……その名前、聞き覚えがあるぞ。未確認生命体事件の時だ。確か、その時の呼び名は――
「満州安国軍司令、川島芳子――?」
言葉では応えず、杉原さんは頷く。
「彼女は、わたくしの青春そのものでした。最初の出会いは、昭和六年十一月の溥儀夫妻脱出事件。そして彼女が大活躍したのが、昭和七年一月の上海事変。そのときわたくしは、陸軍士官学校の卒業を控えた『見習士官』でした」
二
ときに満州国建国の、二ヶ月前。昭和七年一月中旬、魔都上海。そこは各国の外交官、軍人、そして商人の陰謀が渦巻く、混沌の国際都市だった。
それを裏付けたのが「租界」だった。つまり中国側の主権が及ばないエリアを、各国が上海に設定していたのだ。
当時の上海は、中国であって中国でなかった。植民地同然の街だった。アングロサクソンもフランスもイタリアも、そして日本も『租界』を上海に設定していた。
中国人は、上海では最下層だった。そして彼らが苦役に喘げば喘ぐほど、『租界』という砂上の楼閣は発展していった。中国人の義憤は、頂点に達していた。
陸軍士官学校での訓練を終えた見習士官の私は当時、川島芳子こと「
同年一月、某日のことだ。私は家政婦の出で立ちでスーツ姿の殿下に従い、上海日本公使館へと向かっていた。
用務先は、田中隆吉少佐。公使館付き陸軍武官補佐官でありながら、「田中機関」と呼ばれる関東軍の諜報網を上海に張り巡らしている。殿下は田中少佐と行動をともにし、謀略の数々を共有していた。
扉を開くや否や、殿下は田中少佐に詰め寄った。
「このままでは、上海自体が国民党の十九路軍に囲まれ、いずれ連中の支配下に置かれる。キミはこの局面を、どうやってひっくり返すつもりだ?」
一月九日に出た反日新聞「民国日報」が天皇陛下暗殺未遂事件を好意的に取り上げたため、日本人居留民の反中感情は既に頂点に達している。
「簡単なことですよ、殿下。日本人が少なくとも一人、中国人に暗殺されればいい。一人と言っても、そこらの一般人では話題になりません。名の知れた宗教家……それも、信徒に日本軍人が多い宗派がいいでしょう」
「――日蓮宗か! 確かに連中は、こっちでも盛んに勤行をしている」
「そうです。上海で『身延』の坊主が中国人に一匹殺されるだけで、日本人は立ち上がる。既に青年団に、中国企業を焼き討ちにできる程度の装備は与えています」
「焼き討ち……その大義名分が欲しいわけかい、キミは?」
「左様です。それが引き金となって十九路軍と上海日本軍の対立が深まれば、やがてどちらかの陣営から『最初の銃弾』が放たれる。下旬には、租界を守る海軍陸戦隊も増派される見込みです。――事実などどうでもいいのです。歴史というものは常に、勝者によって書き換えられますから」
「キミのことだ。当然、そのための根回しはしているんだろう?」
「ええ。戦闘が始まった頃には、十九路軍は『世界の公敵』に成り下がっていますよ。これで満州事変から、西洋各国の目を欺くことができる。世界の目は上海に釘付けです。その隙に我々関東軍は、清朝を復興させ満州国を建国します」
少佐はアタッシェケースを机の上に置くと、留め金を外して殿下に差し出した。
殿下は腰をかがめ、アタッシェケースの中を覗く。そこには溢れんばかりの札束と、封をしていない封筒が一通入っていた。
「殿下は日本人であり、また中国人でもあります。日本人が日本人を暗殺するというのなら道理が通らないが、中国人が暗殺を幇助するというのなら話は別。工作が露見した場合、貴女の立場は保険としてうってつけです」
「……田中、依頼の内容はなんだ?」
「この封筒に書いてある僧侶を捕捉し、中国人の暗殺者を使って暗殺してください。条件は『中国人がやった』と分かるようにです。余った分は、貴女の活動資金です」
「期限は?」
「一月中旬中にお願いします。それを過ぎたあたりで、日本軍が本格的に上陸してきます。戦闘は、満州国建国の日――つまり三月一日まで続くのが望ましい。これは清朝を復興させるための、壮大かつ無意味な戯曲に過ぎません」
「分かった。すぐに杉原と手配する。清朝
「清朝復辟万歳」
「行くぞ、杉原。ボクたちにはまだ、大事な仕事が残っている」
「かしこまりました、殿下」
私は田中少佐に腰を折って敬礼し、預かったアタッシェケースを持って外の車へと急いだ。
三
川島……芳子。「東洋のマタ・ハリ」とか「満州のジャンヌ・ダルク」とか、今では色々な名前で呼ばれている女スパイだ。
あのあと気になって、少しだけ満州の歴史を調べてみたけれど……少なくとも満州国建国初期のころ、川島芳子が暗躍していたのは間違いない。
渋谷で電車を降りて山手線に向かう途中、杉原さんは懐かしげな面持ちで唇を開いた。
「わたくしも彼女も、女を捨て男として生きざるをえませんでした。そういう星のもとに生まれ、ともに満州を駆け抜け、風雲のただ中に飛び込んで行った。それがわたくしと、川島芳子の関係です」
川島芳子は『売国奴』として戦後、中国国民党によって射殺されている。その生死を巡っては様々な説があり、今も論争の種になっている。
杉原さんが的場先生に休暇を求める際、俺は偶然、書斎の目の前を通った。その時、確かに杉原さんは「死んでいるやら生きているやら、誰にも分からない」と口にした。
……杉原さんは川島芳子が生き延びた可能性を、一定の根拠をもって信じている。それだけは間違いがなさそうに思える。
俺は渋谷から新宿に向かう山手線の吊革を掴みながら、杉原さんに尋ねてみた。
「杉原さん。最初に川島芳子と会ったのはいつですか?」
「忘れもしません、陸軍士官学校の本科が終わったあと……見習士官として関東軍に派遣された、昭和六年の十一月一日です。その月、川島芳子は清朝最後の皇后陛下の天津脱出を成功させています。そして上海で戦闘が続く昭和七年三月一日、満州国が建国されました」
「……満州国が建国されたあと、杉原さんはどうしたんですか?」
「満州国軍の『上校』……つまり大佐相当官として満州国軍に異動となりました。相当官、というのは当時の日満両軍で、女性の採用制度がなかったからです」
「え……? なら、どうして杉原さんは陸軍士官学校に?」
「わたくしには、漢字の『高嶺』を名に持つ双子の兄がいました。戸籍は兄のものを使い、身体検査は父の工作で合格。もちろんすぐバレましたが、のちに中野学校というスパイ養成機関を作った一派が見込んでくれまして。『相当官』という形で、なんとか陸士に残ることができました」
……なんか、全般的に幸薄いんだよな、杉原さん。不遇な境遇に置かれる確率が、明らかに高すぎる。前の事件でも、情に流されて死にそうになったし。軍人や自衛官としても屈辱的なキャリアを、ずっと送ってきている。
新宿駅で『あずさ』の切符を買って、既に入線している車両に乗り込む。杉原さんは目をつぶると、椅子に深く腰掛けて昔に思いを馳せた。
「川島芳子は工作資金の分け前を使って、満州国軍とは独立した義勇軍『安国軍』を造りました。当時の彼女にとって、清朝復辟……それだけが、生きる証。あの人は、本物の愛国者でした。わたくしは満州国軍から参謀として安国軍に派遣され、教練に当たりました。――そして我が安国軍は昭和八年二月、初めての実戦を経験します。世に言う『熱河作戦』です」
「それにしても杉原さん、あまり満州時代を悪く言いませんよね。こうしてお墓参りにも行っているわけですし」
「生きた死んだは時の運。満州はわたくしたちにとって、紛れもない『青春』でございました。後悔など、露一つございませんよ」
晴れやかな面持ちで瞳をあけるやいなや、列車がホームから滑り出す。
「杉原さん。もっと俺に、昔の話を聞かせてください。現代を生きる日本人として、俺は歴史を知る義務があると思うんです」
「かしこまりました、お坊ちゃま」
いつもの笑みを浮かべ、杉原さんは遠い表情をする。その脳裏には、遥かな満州の荒野が広がっているのだろう。
四
馬が吐く白いいななきを静め、手綱を両手で引いて停止させる。
熱河作戦が継続される中、殿下から旅順への呼び出しが届いた。
関東軍司令部付き満州国軍政部最高顧問・
私は早馬を飛ばし、前線の指揮を副官に任せて旅順に舞い戻るハメになった。
司令部の警衛に上番している兵に答礼し、身分証を見せる。
「用務先は、軍政部最高顧問室。川島司令は既に?」
「はい、ご到着済みです。杉原上校のことは、仰せつかっています」
「なら話は早い。通らせて貰うぞ」
私は軍刀をカチャリと鳴らしながら、軍政部最高顧問室へと向かった。
「ああ……来たか杉原! 会いたかったよ!」
軍服についた土埃の汚れも意に介さず、殿下は私の胸に飛び込んできた。
「ご無沙汰しております、殿下」
「なにしろ後方地域にいると、毎日演習の連続さ。前線で指揮を取らせろと言っても、多田をはじめとする関東軍の連中は、どうしてもボクを前線に出したくないらしい。ボクは『満州のジャンヌ・ダルク』だろう? 他でもない、日本人がそう宣伝したんだ! ならボクは……踊らされるより、自ら踊る人生を選びたい」
「難しい判断ですね。失礼ながら殿下は、軍の采配を振るう軍事教育を受けていらっしゃらない。しかし殿下が熱河作戦の前線に出られるのなら、士気は間違いなく上がります。我が安国軍の将兵は、殿下に忠誠を誓った者ばかりですから」
「悩むまでもない。ボクは行くよ。だから杉原……キミはボクの忠実な参謀として、この交渉に赴いて欲しい」
「……了解しました、殿下」
帽子を取り、樫の木で出来た重い扉を開くと、そこにはやせこけ、神経質そうな軍人が座っていた。
私は殿下の太刀筋を塞ぐ形で、殿下の左側に控える。……いざというときの抜刀は、あくまで私の役目だ。
最初に口を開いたのは、殿下だった。
「多田少将。なぜボクを前線に行かせない? 安国軍の指揮権は、あくまでも総司令であるボクにある! 上海事変を起こしたのも、皇后陛下を天津から満州にお移ししたのもこのボクだ。ボクなしでは、絶対に満州国は成立しなかった! 演習地獄は、もうこりごりだ……ッ!」
多田は紙巻きを灰皿に置くと、侮蔑の色を込めて返してきた。
「殿下。殿下は連隊旗のようなものです。決して傷ついてはならない。ゆえに軍政部最高顧問として、前線行きに決裁は出せません。貴女の存在そのものが、わが満州国軍の士気を高めるからです」
「ボクは……満州のジャンヌ・ダルクではないのかッ! キミたち日本人は新聞にさんざん、そう書かせただろう? ならば前線に行くのが道理じゃないか!」
殿下が激昂しているのを感じたので、私はすっと身を進めた。
「恐れながら、多田少将閣下に申し上げます。私は安国軍参謀・満州国軍上校の杉原たかねと申します」
「……話には聞いている、杉原上校。前線からトンボ返りだそうだな。同じ日本人として、貴官の痛い立場はよく理解している」
「ありがとうございます。僭越ながら申し上げますと、殿下の前線行きという選択肢、そう捨てたものではありません」
「ほう?」
「義勇軍である我が安国軍の健闘は、熱河作戦の正統性に直結するものです。そして仮に殿下が前線に出られた場合、将兵の士気が上がることは間違いありません」
「……ふむ」
「そこで、私から提案があります。映画技師を一人、つけてはいただけませんか? 川島司令が軍刀を抜いて突撃命令を出すとなれば、日満国民はその画に熱狂する。その映像を撮った上で速やかに退却すれば、司令の安全は保証されます。――映画ほど素晴らしいものはありませんよ、少将。なにしろフィルムに焼き付いたものは、嘘であっても銀幕で真実となる」
「……さすがは女だてらに兄上の戸籍を使い、軍医と通じて身体検査を通っただけはあるな。確かに貴官の能力は、実に惜しい。あやうく言いくるめられそうになったよ」
「と、おっしゃいますと?」
「……映画撮影を名目に殿下を前線に送り、フィルムを没収するなり、内容に難癖をつけるなりして、そのまま殿下を前線に留め置く気だろう?」
「……っ」
「策士策に溺れる、というやつだな……さすがは、優秀な成績を陸士に残しただけはある。しかし日本側としては、今の貴官は『あってはならない』存在なのだ。陸士時代の人事記録も、全て処分している。よって満州国軍の上校相当軍属として、我々は貴官を扱っている。貴官は殿下の影武者に過ぎん」
多田少将のその言葉に、殿下は軍刀に手を伸ばした。私はそれを制し、即座に抜刀する。
切っ先を喉元に突きつけながら、私は冷たく言い捨てた。
「交渉決裂ですね、少将。次の総攻撃の際には、川島司令みずから前線に立っていただきます。我が満州国は、れっきとした独立国であります。関東軍に属する貴官の助言は受けても、その命令に服する立場にはありません」
殿下……いや、『川島司令』は私の言葉を受け、続けた。
「……清朝の王女として、ボクはこの際はっきり言っておく。この国は五族協和の王道楽土だ! 日本人の指図を、我が安国軍は一切受けない! 次の総攻撃には、ボクも参加する。誰がなんと言おうと! 全ては清朝
私は命令に従い、軍刀を納刀した。殿下は力強くきびすを返し、扉へと向かう。私は殿下の横に付き従い、今後の段取りに考えを巡らせた。
「――杉原参謀、ボクを補佐してくれ。今からすぐ、熱河に向かう。馬を用意させてくれ」
「了解しました。すぐに
五
前線に私達がつくと、我が安国軍の士気は信じられないほど上がった。
……やはり、この人はカリスマだ。素直にそう感じざるをえなかった。
殿下は背筋を張り、馬に乗って力強く告げた。
「熱河省は! 我が満州国の生命線である!
安国軍の指揮所に、鬨の声が上がる。
――もっとも、今の満州国軍、そして関東軍に平津まで進軍する意思はない。この熱河省攻略作戦には、二つの意味がある。
一つは、国民党軍との軍事的緩衝地帯として、熱河を押さえること。
そしてもう一つは、熱河に眠る利権……即ち「アヘン」だ。
日本は、かつてこの国を滅ぼした禁断の果実に手を伸ばそうとしている。それは満州国軍の高級将校でもある私には、よく分かっていた。
しかし、それは政治屋の理屈だ。我々軍人の本分は、任務完遂以外に存在しない。
指揮所の天幕に戻ると、私は『総司令・川島芳子』の名で電文を打った。もちろん、司令に許可は取っている。
「発、総司令・川島芳子。宛、第二大隊。超越交代を敢行する際、射線の変更を確行すること。その際、同士討ちに注意。兼ねて宛、第三大隊。陣地防御の維持を下命。通信兵、送信しろ」
「杉原参謀ッ! 第五大隊より伝令、届きました。既に電信は不通であります」
「あそこか……、『右翼からの敵勢力の脅威を認める。援軍を請う』……日本軍や満州国軍への救援要請は?」
「それが……両軍とも、援軍を出す余裕はないの一点張りです」
「くそ……待てよ、第五大隊がいる現在地の
「はい」
「いまあそこに援軍を出したら、この戦は取れん。武器弾薬を乾いた土の上に偽装し、沼沢に身を隠せ。ただし、迂回の上で威力偵察を定期的に敢行すること。目的は敵の陽動、即ち『見えざる脅威』の演出である」
「つまり……杉原参謀、第五大隊は見殺しですか?」
「見殺しにはしない! ……ただし、救出には相応の時間と犠牲が必要だ。それだけをしたためて、伝令に持たせてくれ。それから、総司令の署名をいただくのを忘れるな!」
六
「気づいたときには、戦闘は終わっていました。結果は我が軍の勝利。わたくしには軍から勲章を与えられましたが、わたくしはそれを殿下に差し上げました。軍服の胸元が寂しくて、階級のわりにあまりに不格好でしたから」
あまりに重い杉原さんの語り口に、俺は沈黙してしまう。歴史の生き証人だけが語れる真実が、そこに感じられたからだ。
「その後、真の清朝復辟を目指す殿下を、関東軍は敵視しました。暗殺の危険性すら、一時期はありました。そしてその結果として殿下は、天津のレストランを任されることになったのです」
「……つまり、事実上の国外追放ですか?」
「はい。当時の日本にとって必要だったのは、傀儡としての満州国皇帝です。本当の意味での清朝復辟など、日本は考えもしていなかった――。関東軍に利用されただけだと彼女が悟ったのは、そのときでした。私が任務で天津に行ったとき、彼女はこう言っていました。『杉原、ボクは孤独だよ。一人でどこに行けばいいんだい?』と」
「……」
「殿下は、こうも仰っていました。『日本も、国民党も、既にボクの敵だ。ボクは二つの祖国を失った、流浪の民というわけさ』と」
歴史の文字でしか知らない人だけど……こうやって実際に良く知る人に聞くと、全然違うもんだな。
「次は、松本、松本。終点でございます。お客様におかれましては……」
杉原さんの話を聞いているうち、いつの間にか電車は松本駅についていた。『川島芳子』の菩提寺に近い北松本駅は、ここからすぐ近くだ。
「杉原さん、供えるお花……まだですよね。途中下車して、適当な店で買って来ます」
俺は降ろした荷物を杉原さんに預けると、東京よりずいぶん寒いホームに降り立った。
こういう連休の使い方も、たまにはいいかもしれない。俺は乗車券を握りしめると、改札口へと駆けだしたのだった。 [了]
的場佳奈子は触りたい 東福如楓 @MIYAGAWA_Waya
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