終幕  「ズルさ」のすすめ

東京都目黒区駒場四丁目 的場邸

令和五年十一月三日(金)午前七時


 天下は泰平、べて世はこともなし――。

 未確認生命体事件が解決し、一ヶ月弱が過ぎた。俺は生活の場を的場邸に移し、先輩や先生、そして杉原さんと平和な日々を送っている。

 事件の数日後に杉原さんが佐藤一尉に電話したところ、彼女は電話口の向こうで絶句してしまったらしい。……無理もない。佐藤一尉は、杉原さんが殉職したと本気で信じていたのだから。

 佐藤一尉は、対策本部で起こした独断専行のかどで左遷された。問題はその左遷先で、なんと彼女は現在うちの学校の公民科教諭を務めている。なんでも聞くところによると、文部科学省への人事交流制度に半ば追い出されるように推薦されたのだそうだ。


 いつものようにゆったり流れる朝食の時間。すっかり秋も深まった庭園から、柔らかな風が小食堂に吹き込んでくる。

 新調したメイド服を着た杉原さんが、扉の脇にじっと控えている。そんな彼女に、新聞を畳みながら先生が問いかけた。

「杉原。くどいようだが、自衛隊に戻りたくはないのか? 戻りたいのなら、無理してここに留まらずとも……」

「構いません。零号亡き今、墓守としてのわたくしの役目は既にございませんので」

「そうか。……それなら良いのだが」

「それに、わたくしには家政婦としての仕事ができました。……お嬢様とお坊ちゃまが幸せになれるよう、お二人をお導きすることです」

 杉原さんはそう照れくさげに言うと、ワゴンからお盆に食後のジュースを三つ載せ、こちらにやってきた。先生はタバコに火をつけると、大げさに手を振ってマッチの火を消す。

「その心がけ、実に素晴らしい。雇用主としては文句のつけようもない。だが――」

「何でございましょう、旦那様?」

、とは思わんか? 食事時にその服と言えば、ハプニングが付き物ではないか?」

「……と、おっしゃいますと?」

「パイを焼こうとしたらオーブンを爆発させたとか、何もない場所ですっ転んでご主人様の股間にバシャッとか、そういうお約束はないのかと訊いている」

 はあ、と気のない返事を返しながら、杉原さんはお盆の上のグラスをテーブルに配膳はいぜんしていった。

「さあ、勇気を出してトライ・アゲインだ!」

「……了解いたしました。意味不明ではございますが、旦那様のご命令とあらば」

 配膳を終えた杉原さんは納得のいかない表情のまま、テーブルに置いてあったティーポットを手に取る。何が起ころうとしているのか先生が察すると同時に、湯気の立つ紅茶がポットから袴の上へと注がれた。

「あぐッ……ば、馬鹿者、そういう意味、では……、」

 先生は椅子に座ったまま股間を押さえ、苦悶くもんの顔をゆでダコのような色に染める。……あまりの痛々しさに、俺は男として目を背けざるをえなかった。

 一部始終を見ていた先輩は何を思ったか、食卓の上のシチュー鍋に目を向ける。そして鍋の取っ手にふきんを巻き、杉原さんに手渡すとこう言った。

「ご覧なさい杉原、兄さんが泣いてよろこんでいるわ。次はこのアツアツのシチューで、もっと悦ばせておやりなさい」

 かしこまりましたお嬢様、と一礼して鍋を受け取る杉原さん。先生は慌てて椅子から転がり落ちると、プライドも何もかも捨て去って土下座した。

「分かったもういい、これ以上は許してくれ! 食べ物は大切にしなければならん! 貴様に何かを期待した私が間違っていた!」

「……ごちそうさまでした。文化祭の当日準備があるんで、先に学校に行きます」

 恒例行事のような朝の騒動に呆れ、俺は席を立つ。今日はウェイターの助っ人で高三喫茶班に呼ばれてるってのに、このまま付き合っていたら遅刻してしまう。

「あ……待ちなさい、潤。今日もちゃんと一緒に登校するのよ、いい?」

「分かりました。……それじゃ先生、杉原さん。行ってきます」「行ってきます」

 なおも掛け合いを続ける二人を残し、俺と先輩は屋敷を出た。


 今日が初日の駒高の文化祭は三日間連続で開催されるのだが、高三だけがHR単位ではなく『特別班』単位で出し物デコをやる。そして俺のクラスに高三喫茶班から助っ人の依頼が来て、演劇の裏方だった俺が駆り出されたというわけだ。

 だから今日の服はいつもの学ランじゃなく、一張羅いっちょうらのスーツだ。最初はなぜかウェイトレスの衣装を与えられたのだが、交渉に次ぐ交渉の末、スーツを着てウェイターとして働くことになったのである。

「あの、先輩」

 通学路の途中――駒場野公園の中で、俺は先輩に問いかけた。

「ん? どうしたの、潤子ちゃん?」

「っ! この期に及んで、まだ女装にこだわってるんですか?」

 動揺した俺の後ろに回ると、先輩はスーツの中に手を差し入れ、胸を揉みしだいてきた。

「んー、まだ膨らみが足りないわね?」

「ふ、膨らんでたまりますか」

 ――さらに言うなら、もし仮に膨らんだとしても、先輩に揉ませる気はありません。

 だけど先輩はそんなことお構いなしで、俺の背中に胸をぐいぐい押しつけてきて――。

「……で? 用件はなにかしら、潤?」

 耳に息を吹きかけながら、そんなことを訊いてくる。その甘い声に心を奪われ、俺は息を飲んだ。

 見上げると、陽を返して公園の木々が揺れている。その遥か上空では繊細せんさいな表情を雲に託し、秋風が悠々と流れていた。

「あの……文化祭が終わったら、先輩も受験勉強……始めますよね?」

「え? ええ、そのつもりだけど?」

「なら……浪人しないように、頑張ってくださいね。その……来年も先輩と遊ぶ時間、ちゃんと欲しいから……」

 言葉を選びながら、後ろの先輩にそう語りかける。先輩はクスリと微笑むと、俺から身体を離して学校へと歩き出した。

「おバカさんね。潤のくせにそんな心配、十年早いわ」

 そして……数歩だけ歩いたところで、ふいに立ち止まる。振り返った先輩の表情は、どことなく嬉しそうだった。


 お姉さんぶるのが好きで、そのくせ根っこのところは弱くて――。


「だけど……たまにはリードしてもらう……ってのも、悪くないかしら」

 ためらいがちにそう言って、先輩は白い手を伸ばす。


 意地悪で、イタズラっ子で、料理は全然ダメで、寂しがり屋で、実は少し甘えん坊で――。


「わたしは三年生、あなたは一年生。ほら、手を取って、潤。二人で参加できる、最初で最後の文化祭が始まるわ」

 意味ありげな視線で、先輩は俺にエスコートをうながす。

「……ねえ、答えは?」

 可憐に小首を傾げ、訊くまでもない問いを口にしてくる。


 そんな佳奈子先輩のことを。

 ――俺は今日も、心から愛おしく思った。 [了]

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