第四幕 この国が戦争に導かれる時 Ⅴ

「杉原三尉、貴女が制圧部隊の指揮官です。牧原生徒を含めた部下への指揮権は、貴女にあります。ですが零号を視認したら、マスクの通信機で対策本部に指示を仰いでください。本部の命令は絶対です、分かりましたね?」

 佐藤一尉はそう念押しして、正門の外から敬礼で俺達を見送ってくれた。


 荒れ果てた三階建ての駒場寮の前に到着すると、杉原三尉は周囲に隊員を配置して酒呑の逃走に備えた。万に一つも手負いの酒呑を外に出さないよう、確実に仕留めなければならない。俺達に失敗は許されないのだ。

 これだけ大がかりに作戦を展開している以上、酒呑だってこっちの動きに気付いていないはずはない。だが酒呑はそれでも、建物の中で沈黙を守っている。――恐らくは、俺や杉原三尉との果たし合いを望んで。

「零号め、結界を解いているな。人を小馬鹿にするにもほどがある。……牧原生徒、『人造戦鬼二号』も間違いなくこの建物にいるのだな?」

「はい。先輩の気配をはっきり感じます。先輩は三階……いえ、もっと上にいます」

「屋上か。上出来だ。――突入の準備はいいな?」

 俺のうなずきを確認した杉原三尉はマスクを装着し、ヘルメットの後頭部に手を入れて留め具を調整した。以後、彼女との会話は俺の耳につけた骨伝導式こつでんどうしきの小型トランシーバーに頼ることになる。

 ライトをハイビームに切り替えて、建物を照らす。杉原三尉は側車の軽機関銃を覆っていたカバーに手を掛け、バッと取り払った。

くぞ牧原生徒。我らが愛しき怨敵おんてきが待っている」

「――はい。よろしくお願いします」

 ギアをニュートラルに保ったまま、エンジンを空ぶかしする。クラッチを切ってギアを一速に落とすと、側車の取っ手を握る杉原三尉に視線を向けた。

「いざッ! 敵は駒場寮にあり!」

「了解!」

 命令一下、クラッチを繋いでアクセルを開放し、サイドカーを発進させた。入口の段差を乗り越えると車体が軽く浮いたが、さすがは野戦を前提に設計されたマシンだ。サスが衝撃を吸収し、車体は何事もなかったかのように廊下を前進していく。

 電気が切れているのか、建物の中は暗い。人の気配すら感じられず、吐き気のするような死臭が立ちこめていた。恐らく、ここの住人はみな酒呑のエサになったのだろう。

 サイドカーのヘッドライトが、板張りの床を照らし上げる。鳩の糞やらポスターやら立て看板やらが至るところに散乱していて、この建物の荒廃を物語っていた。

 目指す玉座ぎょくざの間は、この寮の屋上だ。ライトの中に階段が浮かんだので、俺は車体をドリフトさせながらその真ん前に停車した。幸いにも幅は広く、このサイドカーで踏破とうはすることも充分に可能だ。

「登ります!」「よし!」

 叫ぶと同時にエンジンをふかし、俺はクラッチを繋いだ。車体が上向きに急傾斜したかと思うと、激しい衝撃が連続して俺達を襲う。

「く――この!」

 車体が滑り落ちないよう必死に制御しながら、なんとか踊り場までたどり着く。……これでコツは掴めた、か?

「――このまま一気に行きます。舌、かまないでください」

 そう告げてハンドルを切り、二階の廊下を目指して俺は再びアクセルを回した――。


 ……そして、三階と屋上の間の踊り場。仰ぎ見るガラス張りの引き戸の向こうは、奴の待つ屋上だ。いったん階段を上り始めたら、もう引き返すことはできない。

「杉原三尉、準備はいいですか?」

「ああ。あの化け物を打ち倒せるのは、異形いぎょうの力を持つ自分らを置いてない。圧倒的な敗北と共に、奴を地獄へと追い落とすのだ」

 側車に座った杉原三尉が深くうなずき、ボディアーマーのボタンを操作した。俺は覚悟を決め、引き戸をまっすぐ見上げる。

「これより本部と通信を繋ぐ。牧原生徒にも声は聞こえるが、そちらから本部に声を送ることはできない。留意りゅういするように」

「了解」

 全開にしたアクセルが、排気ガスと轟音を薄暗い踊り場に充満させる。クラッチを繋ぐとタイヤが階段を噛み、フルスピードで屋上へと上がっていく。

 ――佳奈子先輩、待っていてください! 俺が今、助けに行きます!

 エンジンを咆哮ほうこうに震わせて、二頭立ての馬車はぐんぐん上昇していく。側車の機銃が火を噴き、引き戸のガラスが水晶の吹雪に姿を変える。次の瞬間には戸枠を車重しゃじゅう粉砕し、雷光号は颯爽さっそうと夜風の中に躍り出た――。


       ◆◆◆


 杉原との通信が繋がり、対策本部のテントには緊張が走った。本部長の後藤田は指令用マイクの送話スイッチを切り、後ろに立つ佐藤優理也に問いかける。

「佐藤一尉。我々警察だけの実力では、確かに被疑者を確保することができない。だがあのような小娘で、本当に……」

「ご心配なく。我が自衛隊は現状において日本最強の『実力組織』です、後藤田管理官」

 後藤田の質問をさえぎり、佐藤は確信のこもった口調でそう答えた。後藤田はため息をつくとパイプ椅子に深く腰掛け、杉原との通信に意識を払う。緊迫した杉原の声が、スピーカーを通して響いた。

「目標視認ッ! 交戦及び強制排除の許可を申請! 応答求むおくれ!」

 後藤田は表情一つ変えず、マイクのスイッチを入れた。

「……は警視庁が実施する。反撃は正当防衛に限定し、積極的攻撃は控えること。送れ」

「な……何だとッ、ふざけるな、自分らをなんだと思っている! ――佐藤主任、自衛隊としての交戦許可を! 我は主任の命令を優先する、送れ!」

 杉原の切実な声に、佐藤は初めて警視庁の真意を悟った。警視庁は自衛隊の人員を捨て駒に、零号を『犯罪者』として逮捕しようとしているのだ。

「杉……」

 何かを言いかけた佐藤を押し留め、後藤田はマイクを握り直した。

「杉原三尉、佐藤一尉に指揮権はない。SATを送るので、到着まで現状維持。送れ」

「主任、命令を! 送れ!」

 佐藤は許せなかった。何の権限もない自分の立場が、そして自分達を道具のように扱う警察が許せなかった。

 が、しかし。死地にある部下をみすみす犬死にさせるなど、もとより佐藤優理也のルールにはない。彼女は対策本部のオブザーバーである前に、一人の自衛官だった。

 佐藤は後藤田の隣に立ち、彼を押しのけてマイクに手をかけた。

「何をする佐藤一尉、君に指揮権は……」

 なおも文句を並べ立てようとする後藤田をきつく見すえ、佐藤は冷徹に言い捨てた。

「――政治ゲームは桜田門の中だけに留めておきなさい。ここは霞が関ではなく、現実の世界です」

「ッ……」

 押し黙った後藤田を無視し、佐藤はマイクの向こうの杉原に命じた。

「こちら佐藤、交戦を許可。肉の一片も残さず敵を殲滅せんめつせよ。送れッ!」

「了、終わりッ!」

 大声で応じた杉原が通信を切ると同時に、後藤田は佐藤の襟首を掴み上げた。

「佐藤一尉! 君は一度ならず二度までも……ッ!」

「……胸に当たっています。その手を離してもらいましょうか。セクハラで今の地位をパーにしたくはないでしょう?」

 佐藤は固く後藤田をにらみ、自らの襟を掴む彼の手を振りほどいた。

「人払いも突入も自衛隊にやらせ、自分達は真打ち登場とばかりに手柄だけを確保する魂胆こんたんですか。――浅ましいですね。私達は私達の流儀でやらせてもらいます。貴方がたは私達に、『警察活動』という大義名分さえ与えていればいいのです。なにも母屋おもやを明け渡せとは言っていません。軒先のきさきを貸していただくだけです」

「……今度こそ本物の独断専行だ。事件が解決し次第、防衛省に貴官の査問と処分を要請する」

 精一杯の去勢を張ってそう告げる後藤田を、佐藤は一瞥いちべつした。

「好きになさい。防衛研究所の司書でも場末の業務隊でも、部下を守るためなら喜んで『栄転』してあげましょう。南スーダンの二の舞はごめんです」

 佐藤はそれだけを言うと、意を決したように本部のテントを離れる。

「……どこに行く、佐藤一尉?」

「現場です。私の部下が待っています」

「待て、佐藤一尉! 本部に留まれッ!」

 制止する後藤田の声に、佐藤は首をかしげながら気だるげに顔だけを向けた。

「私達自衛官は、国を守って死ぬために存在します。その絆の深さが、温室育ちの高級官僚に分かるものですか」

 佐藤は駒場寮の方に向かい、未練もなく本部を去っていく。プライドを傷つけられた後藤田は、拳を握ると唇を噛みながらパイプ椅子に腰を落とした。


       ◆◆◆


 ――草むす駒場寮の屋上では、と肉の匂いが世界を治めていた。

 燕尾服姿の酒呑は、どこから持ってきたのかロッキングチェアーに深く腰掛けながら目をつぶっている。ヒザの上には、引き金の前に長い弾倉がついた大型の自動拳銃。そして酒呑の周囲には、奴が食い散らかしたとおぼしき人間の手やら足やらが散乱していた。

 ……とてもじゃないが、正視に耐えない。吐き気をこらえるだけで精一杯だった。

 昨日も屋敷に現れた金のコウモリが、酒呑の周囲を何羽か飛び回っている。本部との通信を切った杉原三尉は、アーマーについた外部スピーカーのスイッチを入れて酒呑に問いかけた。

「零号よ、なぜ今のスキに攻撃してこなかった? 情けでもかけたつもりか?」

「思い上がるな。笑うに笑えぬほど滑稽こっけいで、戦意が萎えただけのことだ。――さて、改めて我が根城にようこそ。これでいさおはまぎれもなく、貴様らのものだ。二頭立ての竜騎兵ドラグーンは、なかなか洒落た趣向ではないか」

 酒呑はそう言うと、喉をせばめていやらしく笑った。

「ぬ? 小童こわっぱ、貴様はなぜ小生が命じたころもではなく、くもふざけた代物をまとっておるのか?」

「……ふざけているのはお前の嗜好だ。それと、小童と呼ぶのはやめてもらおう。俺にはれっきとした目的と、それにふさわしい名前がある」

「ほう? では問おう、貴様は何の資格をもってこの場に訪れたというのだ?」

「資格だと? ここに立つための資格は、俺自身の名で充分だ。俺の名は牧原潤! 佳奈子先輩を取り返すため、お前の首を貰い受けに来た!」

 昨日の夜、酒呑の戦力は圧倒的だった。杉原三尉と力を合わせたとしても、酒呑を倒せるかどうかは分からない。しかしだからと言って、酒呑にヒザを屈することなどできるはずもない。――そう、俺の務めはただ一つ。不可能を壊すため、鬼の血をもって一心不乱に闘うことだけだ。

 俺は腕時計のネジが第一段階の位置にあることを確認し、鋭く叫んだ。

鬼力きりょく!」

 握った左手を脇腹に、緩めた右手を右斜め前に。腕時計の長針が回転を始め、疾風はやての力が鳴り渡る。さあ、今こそ灼熱しゃくねつの思考を行為で飾る時だ!

 俺は目を見開くと、握った両腕を胸の前でX字にクロスさせた。

超纏神ちょうてんしん!」

 闇を揺らす怒号と共に、重ねた両腕を割り広げる。それがスイッチとなって文字盤が光り、四肢には燃え上がるような活力がわき出てくる。同時に、四本の手足がメキメキとみにく膨張ぼうちょうを始めた。

 締め付けられる感覚が両足を包んだかと思うと、半長靴はんちょうかの紐が音を立ててちぎれる。俺はステップから足を外し、もはや邪魔者でしかなくなった靴の残骸ざんがいを脱ぎ捨てた。

「は……はぁッ……」

 心臓の拍動はくどうぜ、体中の体液が沸騰ふっとうしたような錯覚さっかくが訪れる。一瞬だけ気が遠くなったが、歯を食いしばって意識を保つ。そして俺は異形の手でハンドルを握り、正面の酒呑を固くにらみ付けた。酒呑はアゴを一つしゃくり、チェアーに腰掛けたまま俺を見すえている。

「ふむ。その無粋な衣装は気に食わんが、気概だけは買ってやろう。――夜は長いぞ、勇敢なる客人まろうどよ? 互いの最高を示しあい、果てることなき死の円舞ワルツを踊ろうではないか」

 酒呑童子は不敵にそう言って、拳銃を手にゆっくりと立ち上がった。腰に吊した太刀が、燕尾服のシルエットをわずかに崩している。奴の立つ場所からは、血液の放つ命の残り香が漂ってきていた。

 側車の中の杉原三尉は音を立てて機銃を構え直し、苛立たしげに毒づいた。

「零号よ、そいつは速射型シュネルフォイアーのモーゼルだな? 昨日のトミーガンといい、貴様は骨董品に目がないようだ」

「フライクーゲルは、戦後のドイツで開発されたと聞いている。ならば、の兵装を用いるもまた一興。大東亜だいとうあ戦争の処理を主題とする壮大極まりなき芝居には、まさにうってつけの小道具であろう?」

「違いない。……あの戦争で、帝国陸軍は大きな過ちを犯した。貴様のような欠陥兵器を製造するという過ちをだ。その過ち、我ら陸上自衛隊が正す。正義の女神を謀反人むほんにん娼婦しょうふにするなど、自分らが許さん!」

 鋭く言い捨てる杉原三尉。その声に応えるような忍び笑いが酒呑の喉から漏れ、駒場野の夜を汚した。

「杉原参謀、威勢が良いのは結構だが。――闘争を前にして、これ以上の口論はもはや無意味。言葉とは、行為の熱をなぐさめる冷たい息に過ぎぬゆえ」

 何を思ったか、そう言って酒呑がパチンと指を鳴らす。その瞬間、俺の背筋に悪寒が走った。


 ――何をする気かは知らないが、すぐにでもケリをつけないと大変なことになる。


 杉原三尉も同じことを考えたのか、即座に命令を発した。

「ゆけ、牧原生徒! あいつを粉みじんに轢き殺せッ!」

「りょ……了解ッ!」

 俺が雷光号を発進させると同時に、側車の機関銃が銃炎じゅうえんを挙げた。その激しいとどろきが、いかずちの声かとばかりに俺の鼓膜を響動どよませる。

 銃身の線条ライフリングが大気を狂い曲げ、フライクーゲルの嵐が酒呑を襲う。だが酒呑は身じろぎもせず、甘んじて銃弾を受ける位置に立ち続け――。

「な……ッ?」

 瞬間、雷光号の横を何者かが通り過ぎる。その人影が射線の直上に降り立ったと同時に、フライクーゲルは一つ残らず斬り落とされた。

 軽やかな靴音を従えて現れたその人物は、赤く輝く軍刀――屋敷に残してきたはずの恒正を異形の手で握っている。見慣れた長髪の上には、黒いベレー帽。袖と襟に飾りが付いた黒いカーディガンを羽織り、下には赤黒チェックのスカートをはいている。彼女の正体に気付いた俺は、とっさに制動をかけ車体を急停止させた。

 ……間違えようはずもない。恒正を手に俺達と対峙するその姿は、まぎれもなく佳奈子先輩だった。

 訳が分からず混乱する俺を置き、先輩はため息をついて背後の酒呑に語りかける。

「――酒呑しゅてんうぬも難儀な男よの。この期に及び、我の力を頼みにするとは」

 ……間違いない。先輩は確固たる意志をもって、酒呑の側についている。まさか酒呑は……先輩を洗脳したのか?

「酒呑ーッ! 先輩に何をしたあッ!」

 俺の絶叫をあざ笑うかのように、酒呑はついと歩み出て微笑を浮かべた。

「……小生は、この娘の中に眠っていたいばらを呼び起こしたに過ぎん。、それだけのことだ」

 側車の杉原三尉は唇を噛んで立ち上がると髭切を腰に差し、備え付けられた軽機関銃を取り外した。

「雷光号を降りろ、牧原生徒。敵が二人では分が悪い。――自分が零号を始末するので、ことが片付くまで人造戦鬼二号に対処せよ。ただし、二号を傷つけることは断じて許さん」

 杉原三尉はそう言い残し、軽機関銃を持って左へと翔んだ。

「了解!」

 俺もそれにならい、運転席を降りて右に分かれる。

「ふむ。折角のご指名だ、甘んじて受けるとしよう。ゆくぞ茨よ、久々のいくさだ。にしのごと、現世うつしよに地獄を創ろうぞ!」

 言って、酒呑は杉原三尉へと襲いかかっていった。間を置かずして、二種類の銃声が柵のない屋上に幾条いくじょうも響き渡る。だが俺には二人の戦いを視認する余裕などなく、無言で腰の大石丸に手をやった。

 銃弾舞踏ブリットバレイのステップを背に、先輩が俺の方へと向き直る。その表情は禍々まがまがしいまでの殺意に満ちていて、俺の知る面影は残っていなかった。

「先輩、俺です! お願いします、目を覚ましてください!」

 俺の懇願こんがんを無情に無視し、先輩は冷たく名乗りを上げた。

「――我が名は茨。大江山おおえやまの王、酒呑童子が一の家来なり!」

 先輩は左腕を垂直に立て、軍刀を持った右腕を大きく引いた。その切っ先は、真っ直ぐ左の手首へと向けられている。周囲には竜巻めいた大気の流れが起こり、つややかな黒髪をバサバサと揺らしている。

 俺はその挙動に、見覚えがあった。姉貴と闘った夜、学校で先輩が『最終形態』を発動させようとした時と同じだ。

 両足を半身に開き、先輩は一瞬だけ瞼を閉じる。目を見開くと同時に、彼女は場が震えるような掛け声をこだまさせた。

鬼力きりょく! だいてんしん!」

 渾身こんしんの怒号と共に、先輩は左の手首を軍刀で一気に貫く。まるで腕の奥から生え伸びたかのように、貫通した赤い刀身が先輩の腕に屹立きつりつする。その生え際から噴水のように吹き出す、漆黒の血液。ほとばしる飛沫しぶきがあまりにも綺麗で、俺は思わず息を失った。

 緑なす黒髪がみるみるうちに白髪へと変わり、先輩の両目には赤い光が煌々こうこうと宿ってゆく。恍惚こうこつに唇を開く先輩の犬歯が、唾液の糸を細く引いていた。

 白い髪に黒い服、そして赤いスカート。その色彩の鮮烈に、俺は目のくらむような感覚を覚えた――。


       ◆◆◆


 張り詰めた闇を、瞬息しゅんそくの攻防が破る。飛び交う銃弾の中、両者は勝機を狙って屋上を駆け回っていた。

 杉原の動きは、装備の重さと能力の差から零号に比べ鈍い。だが杉原は軽機関銃の火力を活かし、かろうじて互角の戦いを演じていた。

 杉原を襲う零号の弾丸は、ボディアーマーとマスクに遮られて致命傷にはならない。だが杉原が繰り出す応射おうしゃは、零号の身軽な立ち回りによってほとんどがいなされていた。

 残弾数が残り少なくなった段階で、杉原は勝負に出た。弾幕を繰り出しながら、突撃のきょに出たのだ。

「ゆくぞ! やああああッ!」

 杉原は髭切の間合いに入ると同時に、弾の切れた銃を投げ捨て抜刀した。――示す構えは、旧陸軍戸山学校式両手軍刀術。その動きに気付いた零号は、モーゼルを懐に納めて腰の太刀に手をかける。

「ッ!」

 匂うような刃文はもんが幾度となく交差し、剣劇の紫電ひばなを弾けさせる。十数合じゅうすうごうの立ち合いを交え、杉原は大きく後ろに飛んで太刀を構え直した。

 杉原は左腕から黒い血を流し、息を乱している。昨夜の戦いと同様、彼女は戦力で押し負け始めていた。

(くそ! やはり、最終形態を使わずに奴を倒すことは難しいか……)

 杉原の歯ぎしりは、マスクに隠され零号には見えない。腹をくくった杉原は、決然とした声で零号に語りかけた。

「……聞け、我が宿よ。自分はこれより我が身の全てを捧げ、八十六年前の過ちを清算する」

「ふん。何を言うかと思えば、小生に昔話をする趣味は……」


「黙れ零号ッ! 自分は今、に語りかけているッ!」


 零号は言いかけた言葉を飲み込み、杉原の剣幕に思わず押し黙る。杉原は胸に渦巻く感情を隠すことなく、堤防ていぼう決壊けっかいしたかのように言葉を並べ始めた。

「あんたが眠り続けていた八十六年間、一日だってあんたの声と温もりを忘れたことなどない。自分は、眠り続けるあんたを側で守れるだけでよかった! あんたとの思い出があったから、自分は似合いもしない日の丸を今日まで背負ってこられたのだッ!」

「それで? それがどうしたというのだ、杉原参謀」

「化け物め。貴様には人の心など、永遠に分からんのだろうな。――自分はゴルゴロを冒涜ぼうとくする貴様を、断じて認めん。貴様の存在は、白痴がつむいだ物語と同じだ。わめき立てる怒りと響きは凄まじいが、意味など何一つありはしない!」

 杉原は右手で太刀を構えたまま、音を立ててマスクの紐を引きちぎった。そしてアーマーのボタンを押し、ロックを解除してマスクごとアーマーを脱ぎ捨てる。零号はその隙を突くこともせず、一連の動作を黙って視界に納めていた。

 仕上げとばかりにヘルメットを地面に叩きつけると、杉原は再び太刀を正眼に構えた。

 ――もはや、迷いなどない。あとは最終形態を発動し、『人造戦鬼零号』を殲滅するだけだ。

 彼女は薄々勘づいていた。次に最終形態を発動すれば、恐らく自らの命もついえることを。だがそれでも、彼女には譲れぬものがあった。牧原潤が的場佳奈子の生還を渇望かつぼうしているのと同様、杉原たかねは人造戦鬼零号の敗北を祈願しているのだ。

「……的場家の皆様、佐藤主任、お世話になりました。ゴルゴロが望んだ銃後の平和は、命に代えても守ってみせます――」

 杉原は息を大きく吸うと、太刀を垂直に立てながら頭の右脇に寄せ、八相の構えを取った。あとは左腕を右腕に交差させて掛け声を唱えるだけで、最終形態が発動する。

「遠からん者は音に聞け! 近くば寄って目にも見よ! 我こそは人造戦鬼一号、杉原たかね三等陸尉であるッ!」

 杉原は左手を柄から外し、太刀を握る右腕に交差させる。そして口を開き、『超獣狐ちょうじゅうこ』の一声を発しようとしたその時――。


「そう気を吐くな、たかね。


 何を思ったか、零号は血を振り払って太刀を納める。かと思うと、今までの対峙が演技であったかのように杉原へと歩み寄ってきた。

「な……何を」

 血迷ったか――と言いかけ、杉原の喉が固まった。歩み続ける零号の瞳を……その黒い瞳を、見てしまったからだ。

「そこでおとなしく待っていろ。……あの忌まわしい戦争は終わったのだ。と共に、失われた幸福を取り戻そう」

 杉原はその時、やっと悟った。先ほどの無用な独白が、彼女の心に付け入る隙を零号に与えてしまったことに。的場佳奈子が正気を失っていた時点で、零号の挙動には充分注意を払うべきだったのだ。

(ぐ……いかん、これ、は、……)

 けゆく意識を必死で保とうとするも、杉原は既に体の自由を奪われていた。鯉のように口を開いたが、かすれ声すら出すことはできない。虚々そらぞらしい沈黙が闇に落ち、水紋すいもんのように広がっていく。零号の瞳に力を吸い取られたかのように、杉原は太刀を地面に取り落とした。

「ゴル、ゴロ……? ゴルゴロ、なのか……?」

 理性が急速に凍り付くと同時に、杉原の心とからだが燃え上がる。近づく零号の端正な顔に向け、杉原は震える手を伸ばした。

「ああ、そうだ。苦労をかけたな、たかね。……さあ、再会の口づけだ」

「ゴルゴロっ……!」

 泥をまとったように重い体を押して、杉原は零号の胸に飛び込む。そして赤子のような声を上げ、零号の胸板を叩きながら泣きじゃくり始めた。

「あんたは、あんたは……っ! どうしてを八十六年も独りぼっちにして、それで何ごともなかったような顔をして、また……!」

 なおも泣き続ける杉原の顎を指で押し上げ、零号は乱暴に彼女の唇を奪う。深くまぶたを閉じた杉原は、自らの腹に押しつけられた金属の感触に気付かなかった。

 絡めた舌を解いた零号は、最後に彼女の額に軽く口づけ――、


「実に哀れな生き物だ、女とは」


 ――モーゼルの引き金を、冷徹に引き絞った。

「! くあ……ぁ……っ!」

 背中に抜けたフライクーゲルの弾頭が、フルオートで杉原の臓物ハラワタをまき散らしていく。彼女の喉からは黒い吐血が飛び、零号の頬を汚した。

 激痛に正気を取り戻した杉原は、残った力を振り絞って零号の頬に指を伸ばした。

「零号……ッ、きさ……ま……ッ」

 爪を立てようとしたところで膝が折れ、零号の頬に黒い血痕がべっとりと尾を引く。

「……ふん。結局最後まで、貴様は『軍人』になりきれなかった。それが、貴様の限界だ」

 もはや脅威ですらないとみなしたのか、零号は杉原の生死を確認することもしない。倒れ込んだ彼女の体を踏みにじり、零号はもう一つの戦場に悠然ゆうぜんと足を向けた。


       ◆◆◆


 ――返す刀が風と翔び、振るわれる一刀をとっさにさばく。むつび合う恒正あか大石丸しろの軌跡は、ネオンサインのように駒場寮の屋上を照らしていた。

 杉原三尉が酒呑を倒すまで、先輩を決して傷つけずにつなぎ止める。それが俺に課された唯一の使命だ。だが手加減するまでもなく、最終形態を取った先輩の力は圧倒的だった。

 みるみるうちに戦闘服が刻まれ、既に俺の上半身はあらわになっている。先輩はいたぶるように恒正を舞わせ、俺の服をなおも切り裂いていった。

「……っ、先輩、やめ……」

「たまらんのう、小童。その美しさ、酒呑が惚れるのも分かるというもの! いま少し我が目を楽しませよ!」

 先輩はそう叫び、俺の時計を狙った一撃を繰り出した。かろうじてつばでいなしたが、その衝撃に姿勢が崩れて思わず後ずさる。そのスキを逃さず先輩は俺の衣服を華麗に細断し、俺の背後へと走り抜ける。振り返って刀を構え直すと、先輩はつややかな戯笑ぎしょうを浮かべて俺を観察していた。

 戦闘服の弾帯も切られ、既に俺は全裸に近い。チラリと手首を確かめると、時計だけは無事だった。……時計の第二段階は、杉原三尉が万一負けた時のために温存しておく必要がある。だから俺自身が多少傷ついたとしても、この時計だけは守らなければ――。

 だけどこのままじゃ、何も抵抗できない。先輩は俺のことなんていつでも殺せるのに、わざと俺の服だけを切り刻んでいるのだ。何とかしないと……このままじゃ、先輩に殺される。

「く――」

 先輩を殺すつもりも、傷つけるつもりもない。けど……本気で殺すつもりでやらないと、そもそも勝負にすらならないだろう。

 ……俺は歯噛みして先輩を見すえ、切っ先を先輩の眉間にまっすぐ向けた。

「ほう? 男の目になったではないか、小童? ならば……下らぬたわむれは、これでしまいよな?」

 先輩は恒正を上段に構えると、位置を変えて俺に正対した。にらみ付ける赤い瞳に、揺るぎなき殺意の炎がともる。そして膝を沈め、地面を蹴り――、


「いざっ!」


 裂帛れっぱくの怒声を従え、先輩は猛然と突進してきた。

「ッ!」

 流す刃、振るう峰。白熱する意識の中、俺は必死で先輩に斬撃を放つ。

 太刀筋たちすじ応酬おうしゅうが死線を揺らし、極彩色ごくさいしきの火花が闇に咲く。幾度かの打ち込みをさばかれた先輩は一旦後ろに飛び、間合いを取った。

「たまらぬぞ、小童! 久々の上物じょうものゆえ、じっくりと味わわねばな――」

 言って、恒正をスラリと鞘に納める。次いで先輩は腰を落とし、体をひねるように柄に手をかけた。――居合いの構えだ。

 刹那せつな、連続した銃声が屋上を走った。先輩に意識を向けたまま先輩の後方に目をやると、杉原三尉が酒呑にすがりつくように崩れたところだった。

「す……杉原三尉ッ!」

 倒れ込んだ彼女の体を踏みにじり、酒呑がこちらに足を向ける。先輩もその足音に気付いたのか、切羽せっぱを鳴らして俺をにらんだ。

「哀れなわっぱよな。おとなしく我らの下に就けば、かような惨劇とも無縁でおれたと言うに」

 先輩はそこで言葉を切り、喉を揺らしてたのしげに笑った。

 ……もはやこれまでか。悔しさに歯を鳴らす俺に、先輩は赤い流し目を向ける。暫時たまゆらの沈黙が横たわったかと思うと、先輩は軍刀の鯉口こいぐちを切り――。

「! な……何だと? 体が、体が動かぬ……っ!」

 ……そこで先輩は蝋人形にでもなったかのように、体を固めてしまった。一瞬、俺にも何が起こったのか全く分からなかった。

「こ……この小娘、こざかしい真似を!」

 ――小娘、だって? まさか先輩が、自分の体を乗っ取った茨を止めているというのか? 俺を守るために……?

 と。


「――やはり、上手くは行かぬものだな」


 ……思考を割って届いた声が、その場を制する。硬質の靴音を通らせて、奴は……酒呑童子はその場に立ち現れた。

 酒呑の頬には、人造戦鬼特有の黒い血が付着している。だが酒呑に怪我をしている様子がない以上、その血は杉原三尉のものだろう。

「逃げてっ、!」

 体の動きを止めたまま、必死の形相ぎょうそうで先輩が叫ぶ。先輩の背後に立った酒呑は、腰の太刀を音もなく抜き放った。

 不完全なしもべに、もはや用はない。……冷然とした奴の立ち姿が、無言でそう語っていた。

「不心得者め。お主は、だ」

 言って、酒呑は先輩を後ろから斬り伏せた。躊躇のかけらも見せず、肩から袈裟懸けに――。

「酒呑ーッ! アッッ!」

 声もなく倒れ込んだ先輩は、傷口からもうもうと白い煙を立ちのぼらせ始める。目を閉じているところを見ると、ショックで意識を失ったらしかった。

「再生が始まったか。だがこの太刀は、千年の昔に小生を斬った鬼殺しの名刀だ。無体な希望は抱かぬほうがよい」

 なんだと……? なら、この状況で先輩を確実に救うための選択肢は一つしかない。――姉貴が駆けつけるまでに酒呑を倒し、酒呑の体を使って先輩を『強化』することだけだ。

 ……許せない。この男だけは、絶対に許せない。この場で必要とされているのは、真っ白な怒り……ただそれだけだ。血潮が熱く煮えたぎり、体を巡って魂を震わせる。脳髄のうずいが軋みをあげ、耐えがたい耳鳴りとなって意識を揺さぶる。

 右手の時計に指をやり、ネジを引こうと試みる。だが指の形がいつもと違い、上手く引くことができない。俺は構わず、歯で時計のネジを第二段階の位置に引っ張った。

 酒呑は俺の意図に勘づいたのか、整った顔を歪めて高笑いした。

「ははは、小鬼め! よかろう、我らの血を解き放ち、貴様の真の力を解放してみるがよい!」

「望むところだ酒呑ッ! この異形の両手は、お前を砕くためにある!」

 先輩を、杉原三尉を手にかけた奴には、必ず鎮魂歌ちんこんかを聞かせてやる。俺は渾身こんしんの戦意を込めて酒呑をにらみ、大石丸をその場に突き刺した。

 これ以上、人間の理性など要らない。俺はお前を殺す。お前を殺して、その顔を原型も留めないほどグチャグチャにして、笑うに笑えないくらいに面白くしてやる。

 覚醒しろ、牧原潤! 鬼の血よ、燃え上がれッ! 渦巻く怒りを稲妻に変え、俺は今この時に全てを賭ける!

「鬼力ッ!」

 左の拳を脇腹に添え、緩めた右手をまっすぐ前に伸ばす。腕時計の二本の針が、タービンのような速さで回り始める。

 拳を握りながら右腕を引き、心臓の前で十字架のように左腕と交差させる。

「超纏神ッッ!」

 叫ぶと同時に右拳を脇腹に移し、左手を大きく広げながら真上にかかげる。それが合図となったように、右腕の腕時計が青い光をまばゆく放った。

 軋む骨格、みなぎる力。五感が鋭利に冴え渡り、俺を取り巻く世界の姿が変転する。

 これから一分の間、俺の能力は三倍に跳ね上がる。その直後の三時間、鬼の力が使えないことを引き替えにして。

 ほとばしる熱が、体中から湯気を湧き立たせる。――さあ、最初から全力で行くぞ、酒呑。俺は屋上の床から抜いた大石丸を振るい、視界をさえぎる水蒸気を蹴散らした。

「うああ――ッッ!」

 俺が無我夢中で駆け出すと同時に、酒呑の長身が地を弾いて跳ぶ。その鋭さと重さは、的場邸での戦いとは比べものにならなかった。

 酒呑を狙った白刃が、閃光となって大気を穿うがつ。だが奴は真正面から迫り来るそれを、木の葉か何かのように受け流した。

「甘いッ! それが貴様の本気かッ!」

 燕尾服のテールをなびかせ、酒呑の体躯たいくが俺の懐に潜り込む。しまった、と思った瞬間には酒呑の太刀が俺の胴体を真っ二つに――

「ぐ……っ!」

 太刀の峰が腹部にめり込み、息を失う。吹き飛ばされた俺は、激しく咳き込みながらも即座に立ち上がった。

「ゴホ……ッ、み、峰打ちだと――? 俺をバカにするのも……」

「ふん。胴を斬ってしまえば、妾としての務めを果たせぬからな。――もっとも貴様の四肢については、その限りでないが」

 地の底から響くような声で、冷たく告げる酒呑。次は容赦しないとばかりに、奴の黒い瞳が俺を射抜く。

 だが。ここで降参するなどという選択肢は、始めから存在しない。俺は先輩のためにも杉原三尉のためにも、絶対に負けられない。絶対に、絶対に、絶対に――!

「……譲れないものがある限り、俺は折れない。勝負を諦めたりなんかしないッ!」

 大石丸の柄を固く握り、剣尖けんせんを揺るぎなく奴に向ける。酒呑は満足そうに俺を一瞥すると、赤い舌を伸ばして唇を舐めた。

「貴様の美声は、叫ぶのにはふさわしくない。小生のかたわらで歌うべきだ……!」

 言うが早いか、酒呑は不可避の旋風となって俺に襲いかかってきた。

「させるか――!」

 神速の刀身が、固い銀光を闇に焼き付ける。俺はそれに応えるべく、白熱の連撃を止めどなく繰り出した。

「ッ! この……!」

 酒呑の放った斬撃が、俺の左腕を派手に裂く。だが俺も斬り込みのスキを突き、酒呑の左肩に刺突を見舞った。

「くッ――よいぞ! とはやはり違う!」

 酒呑は刀身を肩から抜くために自ら後退し、右手一本で太刀を再び構える。奴の肩からは、先輩と同じ白い再生の煙が生じていた。

 そして俺の傷口でも、煙と共に体組織の急速な再生が始まっている。遠隔衛生が途切れていないということは、つまり……

 それを認識し、俺の体がカッと熱くなる。俺の体が/本能が――『時間がない、急げ』と告げている。

 腕時計の文字盤が、赤く点滅を始める。……残り時間はあと二十秒。次で確実に決めなければ、俺達に明日はない――!

「立てい、小童! 敵を目の前にしてたたずむなど、勝負を捨てた者の姿だ!」

 酒呑の声に、俺の左手が大石丸の柄へと伸びる。腕の痛みに舌打ちすると、不思議と心が冷静になった。

「さあ、貴様の正義をほしいままにするがいい。貴様の資格は承認されたのだ」

 ……そうだ。左腕なんてどうなったって構わない。俺の本分はあの男を殺し、先輩を救うことだけだ。

 どうやって戦えばいいのかは、この身が教えてくれる。

 どうやって殺せばいいのかは、この血が教えてくれる。

 だから、今は。

 本能のおもむくまま、奴に牙を剥けば。

 俺が人間であることを辞め、羅刹らせつとなれば――

「酒呑童子ーッ!」

 駆け抜ける景色が、コマ送りのように流れ去る。加速に伴う重力が、血の巡りと意識を高ぶらせる。……辛うじて残っていた理性が、ゼラチンめいて融け始めた。

 さあ! 目指す首級しるしは、血まみれの王笏おうしゃくを手にした暴君!

 酒呑童子、ただ一人!

『を/たおサ/まデに/こノ鬼/完膚なキ/ねバ』

 断片命題の乾いた奔流ほんりゅうが、俺の意識を滝壺たきつぼのようにかき回す。

 神託はここに下った。大石丸が風を巻き込み、ナタのように大気をはしる。

「これがッ! 貴様の『最高』か……ッ!」

 鋭い反撃が柄から伝わり、左腕の感覚が死に絶える。だが俺はちぎれそうな腕に鞭打ち、一心に大石丸を振るい続けた。

「うおおおッッ!」

 昂揚こうようが込み上げるにつれ、俺の目は酒呑の動きを確実にとらえていく。そして……左手に持ち替えた刀で奴の太刀を払った時、決定的なスキが訪れた。俺は懐に踏み込むと、奴の左胸に異形の右手を突き刺した。

「が……は……ッ」

 人外の腕が、奴の肋骨を体内で破砕する。奴の内臓をまさぐり、俺は脈打つ心臓を鷲づかみにした。その生温かい感触が媚薬びやくへと姿を変え、俺の奥に陶酔とうすいをもたらす。俺は口の端を歓喜に歪めると、一気に酒呑の心臓を引き抜いた。

「……み……美事みごと

 酒呑の喉から、黒い血が湧き水のように漏れる。血煙ちけむりの香水を浴びた俺は、左手の大石丸で奴の胴体を逆袈裟ぎゃくけさに両断した。その反動に骨が耐えきれなかったのか、俺の左腕が音を立てて折れる。

「――勝負あったな、酒呑」

 斬り抜いた勢いで、奴に背を向けて膝をつく。変身が解けて俺の体が元に戻ったのは、大石丸が手から滑り落ちるのと同時だった。

「く……いってえ……」

 熱病のように高ぶった感情の波が、潮が引くように醒めていく。折れた左腕をかばいながら、立ち上がってゆっくり振り向いた。酒呑の身体は真っ二つに断たれ、上半身はだいぶ離れたところに転がっている。

 ……ふう。長い戦いだったけど、これで……そうだ、先輩!

 先輩の倒れた場所まで、一目散に駆けていく。先輩のそばにひざまずいて確認するが、背中の傷はまだ塞がっていない。息はしているものの、先輩は目を閉じたままピクリとも動かなかった。

「先輩ッ! 先輩、死なないでくださいっ!」

 いつの間にか、背中からの再生の煙は止まっている。俺の骨折が治り始めないことを見ても、先輩の再生能力は限界に来ているに違いない。


 その時、俺は背後に気配を感じた。とっさに振り向くと――。

「お待たせ、潤。遅れてごめんね」

「あ……姉貴!」

「すまんな牧原。姉上を捜し出すのに手間取ってしまった」

 しばらくぶりに会う姉貴と、袴姿の的場先生がそこに立っていた。姉貴は傷ついた先輩と杉原三尉に視線を送り、短く訊いてくる。

「潤。右手に持っているそのカタマリは何?」

「あ……これ? ……は、酒呑の心臓だけど……」

「やっぱりね、ちょうど良かったわ。的場さんと……それからあそこに倒れている杉原三尉に、その心臓を食べさせなさい。それが、人造戦鬼を強化する方法よ」

 姉貴はそれだけ言うと、容態ようだいを確認するために杉原三尉のほうへと歩いていった。残された俺は、右手の中の心臓をまじまじと見つめる。先輩の意識がない以上、口移しということになるが……。

 と、先生は思いもしないことを口にした。

「牧原、そいつを貸せ。後のことは私がやる」

「先生……?」

「何も言うな。貴様はよくやった。これ以上、汚れ仕事に手を染めることはない。後ろを向いて、おとなしく休んでいろ」

 先生はそう言って心臓をひったくり、俺に背を向けた。そして先生は粘着質の音を立てて心臓を噛み切ると、幾度も咀嚼そしゃくしながらかがみ込んでいく。

 その生々しい音で、自分がやったことの実感が急に湧いてきて……不覚にも、嘔吐おうとしてしまった。

 胃の中のものを全部吐き出してしばらくえづいていると、背中をさする先生の手に気付く。先生は「終わったぞ」と短く告げて、俺の背中をさすり続けてくれた。

「……すまなかったな、牧原。苦労をかけた。傷口は確かに塞がり、佳奈子は回復のための眠りについた」

「それじゃ、先輩は……?」

「大丈夫だ、佳奈子は助かる。牧原……佳奈子を……佳奈子を助けてくれて、感謝……する……ありがとう……」

 鼻声の先生は、ガラにもなく泣いているようだった。傷ついた俺の左腕も、遠隔衛生で次第に治り始めている。……この分なら、先輩は心配いらないだろう。

 俺は先生の涙を見ないように気を遣いながら、のほうへと顔を向ける。彼女と二言三言ふたことみこと言葉を交わした姉貴が、ちょうどこちらに戻ってくるところだった。

「杉原三尉の意識、いま戻ったわ。的場さんは……大丈夫みたいね。零号はかなり耐用年数が残っていたはずだから、あと数十年は生きられると思うわ」

 姉貴は脱いだ上着を俺に渡すと、先輩のそばにしゃがみ込んで両腕で抱き上げた。涙顔の先生を気遣ったのか、つとめて明るい声で言葉を発する。

「上着、貸してあげる。帰りに風邪ひかないようにね。それでは的場先生、彼女は先生の車に乗せておきます。私は事後処理がありますので、これで……」

 的場先生に会釈し、姉貴は先輩を抱えたまま階段を下りていく。姉貴の姿が見えなくなると、先生は涙を拭きながら立ち上がった。

「すまんな、目が汗をかいていた。……そういうことに、しておいてくれ」

「はい」

「では我らが家政婦長、杉原たかねを助けんとな。人造戦鬼一号は頑丈なモデルゆえ、心配はないと思うが……」

 二人して、杉原さんのもとに急ぐ。杉原さんはうっすらと目を開け、宙を眺めていた。

「おい杉原、しっかりしろ。私のことが分かるか?」

「だ……旦那様……?」

「意識はしっかりしているようだな。――杉原、貴様の主人として命ずる。この心臓を今すぐに食え」

 先生はそう言ってしゃがみ込み、杉原さんに心臓をぐいと突き出す。だが杉原さんは顔を背け、申し訳なさそうに呟いた。

「お気遣いありがとうございます。ですが零号が倒された今……墓守としてのわたくしの役目は終わりました……」

「……何を言う杉原、この心臓を食べねば貴様は……」

「最後まで困った男でしたが……彼のいない世界など……わたくしは……」

 杉原さんのまぶたが小刻みに震え、ゆっくりと閉じていく。

「短い間でしたが……みなさま、お世話に……お坊ちゃま……どうかお嬢様と……」

 力なくそう言って、杉原さんはガクッと首を落とした。

「す……杉原さあああんッ!」

 俺は杉原さんの身体にすがりつき、必死で身体を揺さぶる。

 だが杉原さんはピクリとも反応せず、かすかな寝息を……ん? 寝息?

「……寝てる……だけ?」

「……そう言えばこいつ、昨日も今日も徹夜だったな」

 まるで眠りに落ちたのが合図だったかのように、腹部の傷の再生が始まる。的場先生は傷を改めると、ふうとため息をついた。

「フライクーゲルにやられたらしいが、貫通していたのが幸いしたようだ。あれは強力だが、体内に残らなければ大したことはない。もっとも普通の傷に比べ、再生は遅れるがな。……まったくこのアンポンタン、主人に無用な心配をかけおって」

「ところで先生、その心臓はどうするんですか?」

「牧原先生によると、一日程度なら冷蔵したものでも『強化』は可能らしい。とりあえず家に持ち帰って、冷蔵庫に入れておこう。杉原が目を覚ましたら一緒に食べるつもりだ」

 別に無理して食べなくてもいいですよ、という言葉を俺は飲み込む。そんな軽口を言う気にもなれないほどの充足感に溢れていたからだ。俺はその場で背伸びして、駒場寮の東側に視線を移した。 

 遠くに見える渋谷副都心のビル街が、眠らぬ夜の中にたたずんでいる。代々木のドコモタワーが、渋谷のセルリアンタワーが、赤い明滅で東京の夜景を飾っている。……俺達が守ったのは、この街のだ。そう考えると、どことなく誇らしく思えてきた。佐藤一尉が『私達の仕事は、人生を捧げるに値する』と言っていた意味が、少し分かった気がする。


 先生は杉原さんをお姫様抱っこして、駒場寮の前に停めたフィアットへと歩いていく。その場で待機していた佐藤一尉は、俺達を完璧な敬礼で迎えた。

「ご苦労、佐藤一尉。牧原主査はどこか」

「貴方の妹をフィアットの後ろに残して、何も言わずに去っていきました。警察に察知される前に、神祇院よよぎに戻ったのでしょう」

「そうか。ところで佐藤……杉原の顔を見てみろ。彼女は見事に職域に殉じ、使命にたおれた」

 先生の大嘘にサッと表情をこわばらせた佐藤一尉は無言で脱帽し、頭を深く下げて杉原さんに最敬礼する。

「彼女の本職は、我が的場家の家政婦長だ。葬儀はすべて、当方で執り行う」

 頭を上げた佐藤一尉は、制帽をかぶって先生に向き直る。

「頼みます。彼女は私の大切な部下でした。ねんごろに葬ってください」

 先生はうなずくと、車の扉を開けて杉原さんを後部座席――先輩の隣に座らせる。佐藤一尉は俺達の車を見送る位置に立ち、隊員達を急いで整列させ始めた。

「牧原、窓を開けておけ。面白いものが見られるぞ」

 運転席から飛んだ耳打ちに、助手席の窓を開ける。先生がエンジンを掛けると、佐藤一尉の大声が響いた。

「気をつけ! 小隊、けーんッ! …………杉原たかねに対し、捧げー、つつッ!」

 隊員達は厳粛げんしゅくな面持ちで腰の銃剣を小銃の銃口部につけ、俺達の車に向けて垂直に小銃を立てる。的場先生はニヤニヤしながらタバコをくわえ、屋敷に向けてフィアットを発進させたのだった――。

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