第四幕 この国が戦争に導かれる時 Ⅳ

 的場邸に戻ったのは昼食と呼ぶにはだいぶ遅い時間で、的場先生は姉貴を捜すため既に外出していた。もし作戦開始に間に合わなかった場合、先生は姉貴を見つけしだい駒場寮に直行するつもりらしい。

 俺が遅めの昼食を取っている間、杉原さんは無言で食堂の隅に控えていた。家政婦さんがいる家なんて初めてなので、どうも落ち着かない。

「あの、杉原さん?」

「なんでございましょう。味付けがお気に召しませんでしたか? お坊ちゃま」

「いえ……その、酒呑のことなんですが……一朝一夕いっちょういっせきで身に付く必殺技とか、何かありませんか?」

 そう。昨日の戦いを思い出す限り、今のままで俺達が勝てるかどうかは非常に怪しい。だが杉原さんは床に視線を落としながら、残念そうに答えた。

「そのような技があるのなら、わたくしが知りたいくらいでございます。たとえあったとしても、一朝一夕で会得えとくできるような技で零号を倒すことなど……」

「で、ですよね……」

 思わず目を泳がせると、右腕の腕時計が視界に入ってきた。――そうだ、逆に考えよう。必殺技がダメなら、そもそもの基礎能力を強化することはできないだろうか?

「杉原さん。この時計に、人造戦鬼の最終形態みたいな機能はないんですか?」

 一つ息を呑んだ杉原さんは、しばらく黙り込んでから口を開いた。

「……昨日お坊ちゃまが使われたのは、第一段階という機能です」

「ということは、第二段階があるってことですか?」

「はい。第二段階は、時計のツマミを引いてから第一段階と同じ掛け声、違う挙動を取ると発動します。第一段階の三倍の能力で戦えますが、発動時間は一分のみ。そして、発動後は三時間鬼の力を使えなくなります。しくじれば返り討ち必至、ハイリスクハイリターンの機能です」

 三倍の能力……それならば、いざという時に賭けてみる価値はあるかもしれない。そんな奥の手があったのなら、早く教えてくれればいいのに。

「発動時には文字盤が青く光りますが、残り時間が二十秒を切ると赤く点滅し始めますので、それが目安になります」

「……ありがとうございます、教えてくださって」

「いえ、とんでもございません。……それよりお坊ちゃま。戦場ではわたくしが上官ですので、命令はしっかりお聞きくださいませ。よろしいですね?」

「はい。こちらこそ、よろしくお願いします」

 こと戦闘にかけては、杉原さんのほうがキャリアも知識も圧倒的に上だ。おとなしく従っておくのが得策だろう。

「よいお返事でございます。お食事が終わったら、自衛隊の礼式をお教えいたしますね」

 杉原さんは嬉しそうにそう言うと、パンのお代わりを取りに厨房へと戻っていった。


       ◆◆◆


東京都目黒区駒場三丁目 東大正門前広場

令和五年十月七日(土)午前零時


 キャンパスにそびえる一号館の大時計が、日付の境界を音もなく刻んだ。かつて旧制一高の門として作られた正門の前には、警察と陸自の部隊が続々と集結を始めている。

 キャンパスからの人払いは数十分前に完了していたが、予想以上に時間がかかった。運悪く学期はじめと重なり、普段に増して学生の数が多かったからだ。

 零号との交戦の可能性もあったが、敵はその間も駒場寮から一歩も出ずに不気味な沈黙を保ち続けていた。気休め程度に装備していた自由射撃弾を一発も射つことなく、陸自の隊員達はキャンパスからの撤収を完了した。

(いったい何をしているのでしょう。日付が変わるまでには着くという話でしたが。……定時定点ていじていてんは職務遂行の基本です。教育隊なら、腕立ては間違いありませんね)

 まるでデートの約束をすっぽかされたかのように、佐藤優理也一等陸尉は苛立たしげに紫煙を吐き出した。待ち人は今回の対策本部長を務める、警視庁刑事部捜査第一課の後藤田ごとうだ正義まさよし管理官。佐藤とは高校で同窓だった男で、東大法学部を経て警察庁に入庁した高級官僚だった。

 佐藤は吸いがらを携帯灰皿に押し込むと、時計に目をやった。牧原潤と杉原たかねが現場に到着するまで、まだ三十分ほど時間がある。だがそれまでに打ち合わせを完了させないと、行動開始が遅れる恐れがあるのだ。

 そこまで思いを巡らせた時、広場に一台の黒いセダンが滑り込んできた。佐藤は反射的に正対せいたいして不動ふどうの姿勢を取ったが、警察の車だと気付くとすぐに姿勢を戻した。

 右の後部座席から、髪を七三に固めた背広の男が降りてくる。佐藤は男に歩み寄り、握手を求めた。

「――久しぶりですね。防衛省側の担当官、情報本部主任分析官の一等陸尉・佐藤優理也です」

 握手を求める佐藤に、後藤田は冷たい視線をチラリと送った。

「南スーダン以来だな、佐藤一尉。懲戒ちょうかいを受けずに済んだようだが、今回は事態を我々が掌握している。はないぞ。せいぜい我々の駒として働くことだ」

 そう言い捨てた後藤田は握手にも応じず、正門の脇に設置された対策本部のテントへと向かう。佐藤は行き場を失った手を固く握りしめ、後藤田の背中へと振り返った。

「言いますね。東大以外は大学にあらず、医学部法学部以外は東大にあらず――それが貴方の信条でしたか?」

 足を止めた後藤田は付き従っていた部下に鞄を渡すと、何を当然といった表情で佐藤へと向き直った。

「……その延長に、今の地位があるのだ。同じ公僕とはいえ、君とは一緒にしないでもらいたい」

 後藤田が佐藤にここまで強い態度を示すのには、理由があった。現在は改善されつつあるが、『防衛省は他省庁からの出向者に主導権を握られた三流官庁である』という意識が、官界を長年にわたって支配してきたからだ。しかも佐藤は国家総合職に合格した事務官ですらなく、自衛官として採用された制服組だ。トップに近い成績で警察庁に入庁した後藤田にとって、佐藤は論評にさえ値しない木っ端役人に過ぎなかった。

「もっとも。……そういった現実を理解する能力がないからこそ、君は同志社大どうししゃだいに逃げたのだろうがな」

 後藤田はそれだけを呟くと、きびすを返して本部に足を向ける。佐藤はその背中を見送りながらタバコを口にくわえたが、無意識のうちにタバコの箱を握りつぶしていた。


       ◆◆◆


 ――日付が変わって的場邸を後にするころ、駒場野には漆黒しっこくのとばりが深く降りていた。

 戦闘服に着替え大石丸を腰に差した俺は、サイドカーの側車に杉原さん……いや、杉原三尉を乗せて出頭場所に向かっている。ギリギリまで屋敷で粘っていたが、先生からの連絡はなかった。早いとこ、先生が姉貴を現場に連れてくることを祈るしかない。

 屋敷を出るころには、杉原三尉は自衛官時代の彼女に完全に立ち戻っていた。彼女は戦闘服の上から物々しいボディアーマーを身につけ、首もとのふちにマスクを引っかけていた。マスクから伸びたチューブは、アーマー背面部のボンベに繋がっている。武器は側車の軽機関銃に加え、接近戦用に髭切を使うようだ。

「……、じ後は自分が上官である。職務上の命令には、絶対服従するように」

「りょ、了解」

 『生徒』という呼称は階級ではなく、自衛隊では『高等工科学校』なる学校の生徒にだけ用いられるという。杉原三尉の説明では、『生徒』は戦闘服こそ着ているが少年兵条約の関係で自衛官ではなく、けれども自衛隊員ではあるという。なんとも複雑な話だ。

 線路沿いの坂を登って東大正門と駅の間にある広場に到着すると、SATらしき黒ずくめの警官隊が待機しているのが目に入った。正門の脇にはテントが張られていて、そのあたりには自衛隊やら警察やらの制服さんがウロウロしている。ライバル意識の強い二つの組織が集まっているだけあって、現場にはピリピリした空気が満ちていた。

 ちょうど警察と向かい合う位置には、俺達と同じ戦闘服を着たマッチョな一群が横三列で整列している。彼らに正対する佐藤一尉を確認すると、杉原三尉が列の右横にサイドカーを駐めるよう指示を出した。指示通りに駐車し、ギアを入れたままエンジンを切る。杉原三尉と俺がサイドカーを降りると、よく通る声で佐藤一尉が告げた。

「来ましたね、二人とも。――零号に動きはありません。隊の整頓せいとん、及び点呼てんこは済ませてあります。私と貴方達を抜いて『総員二十六名、事故なし、現在員二十六名、集合終わり』です」

 そう言って、佐藤一尉は居並ぶ隊員達に向き直った。

「彼女が皆さんの小隊長になる杉原たかね三尉、そして横の少年が杉原小隊に加わる牧原潤生徒です。牧原生徒は最後列さいこうれつ最左翼に、杉原三尉は小隊の正面に立ち申告を実施してください」

「は……はい!」「実施します!」

 大声で返事を返し、指定された位置に立つと拳を握って整列する。杉原三尉は小隊の正面に正対し、姿勢を正した。

 列の中から一人の自衛官が歩み出て、三尉の目の前に立つ。これから『申告』とやらを実施するようだ。

「敬礼! ……直れ! 申告します! 第一空挺団陸曹長・小松こまつ貴之たかゆきほか二十六名の者は令和五年十月七日、杉原小隊勤務を命ぜられました! 敬礼! ……直れ!」

 申告を受けた杉原三尉は、これで正式な小隊長になる。小松曹長が元の位置に戻ったのを確認し、杉原三尉は大声で号令した。

「気をつけ! 佐藤主任分析官に対し!」

 杉原三尉は回れ右をし、佐藤一尉に視線を合わせる。

「敬礼ッ!」

 杉原三尉や他の隊員が佐藤一尉に敬礼するのにならい、俺も右手を挙げて敬礼した。左右に敬礼を返していた佐藤一尉が、前を向いて手を下ろす。二秒ほど置いて、杉原三尉が鋭く「直れ」を命じた。腕を下ろした俺達を見渡し、佐藤一尉は口を開いた。

「休め! 私は本行動の防衛省側担当官、情報本部主任分析官の佐藤一尉です。敵性勢力の呼称こしょうは、人造戦鬼零号。大日本帝国の忘れ形見です」

 隊員達は身体をピクリとも動かさず、佐藤一尉の一言一句いちごんいっくに耳を傾けている。そんな彼らに語りかけるように、彼女はトーンを落として話を接いだ。

「……私達はわずかに一個小隊、人員は三十名に満ちません。ですが私達の双肩そうけんには、この国の明日がかかっています。『事に臨んでは危険を顧みず、身をもってこたえる』と宣誓した国民の負託がかかっています。それこそが、私達自衛官が信じるべきただ一つの正義です」

 佐藤一尉は、そこで軽く息を継いだ。

「現在時より皆さんは警視庁に出向し、任務に就きます。命に代えても、零号を市街地に出してはなりません。日本国は、各員がその義務を果たすことを期待します。……以上、訓示くんじ終わり。分かれてじ後の行動、分かれ!」

「「「分かれます!」」」

 正面の佐藤一尉に向かい、部隊は一糸いっし乱れぬ動作で敬礼を示す。佐藤一尉は左右に敬礼を返すと、硬い表情でテントの方向へと歩み去っていった。

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