l 善いものも、悪いものも。
それからは色々な動きがあった。
下山してお化け屋敷に戻った一行は、後日、市役所を訪ねて祠の管理者を問い合わせた。地元の町内会が清掃などを請け負っているということだったので連絡し、修繕を依頼。土砂崩れが起きているのでかなり時間がかかりそうだが、いずれは新しい祠があの場所に建つだろう。
あれ以降、八束山はもとの状態に戻った。
以前よりは不安定だが、夜ごと黒いものが山を下りるようなことはない。香波の夢もあの日を境に落ち着いたようだった。増えたと感じていた黒い靄も、以前ほど目につかなくなっている。
八束山が落ち着いたこともあってか、香波はその三日後に無事退院した。
「香波ちゃん、ちょっと俺、おじちゃんに訊きたいことがあるんだけどさ」
「なぁに?」
「俺が千鳥と一緒に怖いゲームしてても大丈夫だったのって、おじちゃんのおかげだったのかな、とか……」
香波は斜め上を見上げる。
相変わらず綾人には視えないが、そこにいるみたいだ。香波のこういう仕草を見ると、視えていても視えていなくてもすぐ傍にいるんだな、と感じる。
善いものも、悪いものも。
そういうものなのだ。
そう信じていてもいいものなのだ、彼らは。
「あのねぇ、おにいちゃんのそばにはあんまり寄ってこないんだって!」
「千鳥? やっぱり千鳥が光属性だからか」
「たまーに近寄ってくるのは、おじちゃんが杖でエイッてやってるって」
「ああああやっぱり! いつもお世話になっております!」
ぺこぺこ頭を下げる綾人を見て香波は大笑いしていた。
ヤツカハギにもこの朗笑が聞こえているだろうか。
そして、綾人たちが八束山に突撃した翌日から友人とともに山梨を訪れたワシダは、捜索五日目にして母親の遺体を発見したらしい。
頭部は首から腐り落ち、獣に食い荒らされ、蝿は集り惨憺たる状態だったそうだ。それでもあの日視た花柄のシャツとピンクのネイルで、母と判ったという。
一連の出来事すべてが落ち着いた頃、綾人は師匠たちを誘って再び八束山の遊歩道を上っていた。
今日は巽が先頭、綾人がその隣、姉御が真ん中、師匠が最後尾の順である。
昼間に訪れる八束山は、木々の隙間から秋の陽射しの差し込む絶好のハイキングスポットだった。程々に整備され、程々に荒れている。山に眠る瘴気が足の下をぐるぐると巡っている妙な気配は残っていたが、歩くのに支障はない。
「そういや秋津、あの時よく飴なんか持ってたな」
「あれ、病院からの帰り際に香波ちゃんがくれたやつなんだよ。お見舞いのお礼か何かで」
「案外、視えてたんじゃねぇの。必要になるって」
「そうかもな」
大いに有り得ることだ。
「師匠がさ、教えてくれたじゃん。彼岸のものは俺たちの信じる心に弱いって」
「ああ」
「だから、あなた神さまだろ! って信じてみたらいけるんじゃないかなって思ったんだ。ヤツカハギが神さまになるに至った最初も多分そうだろ。地域の人たちが、ヤツカハギを神さま神さまって祀ったから、しょうがない神さまやるか、みたいな」
「……秋津が言うと全部軽いノリに聞こえるが、まあそうだろうな」
「だぁっ」
足元の石ころを踏んづけて転びそうになったところ、巽に襟首を掴んで助けられた。
先日は山の闇に呑まれてグロッキーだったくせに、昼間でおかしな気配がないから元気いっぱいだ。
「……なんていうか、神さまってそういうものなんだなって」
「気をつけて歩けよ」
「うん。……俺たちが神さまを信じて祈ってる限り、神さまで居てくれるんだな、って思った」
姉御に合わせてゆっくりと山を登り、小一時間も歩いたところで一行は先日も休憩した辺りに辿りついた。
木々がぽかりと開けて昼間の鹿嶋市が一望できる。
秋のとうめいな空に、薄い雲がかかっていた。
幸丸大学の校舎が見える。一番目立っているのは十一階建ての経済学部棟だ。あれが何学部、あれが何号館、と指さしながら、少しの間風を感じていた。
「いいね、ここ」
姉御は風に靡く髪を押さえながら微笑んだ。
彼女はヤツカハギにお供えする花を片手に抱えてくれている。
その横で、今日は着物姿でやってきた師匠が左目を細めた。「本気ですか」と何度か訊いたが師匠は和服で車を運転して連れてきてくれたし、何の支障も感じさせぬ動きでハイキングについてきていた。
いつぞやも、夜の山を着物姿でざかざか掻き分ける師匠の後ろ姿を追いかけて、実はこの人妖怪なんじゃねぇかなどと思ったことがある。
「花火大会、ここからだとよく見えるんじゃないかい。来年はここで見ようか」
「嫌ですよ! 切羽詰まってもないのに夜の八束山なんて二度と来ないですからね!」
聞き捨てならず噛みつくと、師匠は面白そうに口角を上げた。
「そーかい、それは残念だ。なら来月の旅行を楽しみにしておこうねぇ」
「アアアアアやっぱキャンセルしましょ! 俺、師匠んちにみんなでお泊まりするだけでじゅうぶん楽しいです!」
「つれないナァ。死神のことを心配してくれたんじゃナカッタノカイ」
「棒読みやめて!!」
「仲いいね」「コントみたいっすよね」姉御と巽が並んで歩きだし、師匠もくつくつと肩を揺らしながらそのあとに続いた。
その場のテンションでお泊まりしたいなんて言うんじゃなかった。綾人はがっくし肩を落として、これから先にも訪れる心霊スポット巡礼の日々と、それに伴う恐怖体験へと想いを馳せる。
――ああ、でも。
もし師匠に弟子入りしていなかったなら、香波の透視のことなんて解りもしなかった。
彼のおかげで、香波の笑顔を守ることができた自分がいる。
「秋津ー?」
足を止めた巽が振り返る。
姉御が笑って手を振ってくれて、師匠は薄い笑みを浮かべて両手を着物の袖口に突っ込んだ。
「置いていくよ」
いつもの憎まれ口だ。そう言いながらなんだかんだで置いていかずに待ってくれているに違いない。
……いや待て、そういや本当に深夜の心霊スポットに置き去りにされたこともあるか。あんまり全幅の信頼を置くのは危険だ。
――だけど今しばらくは、彼らと過ごすこの輝かしい日々を捨てられそうにない。
「待って師匠!」
**
ひとまず、第一部がおしまいです。ありがとうございました。
たそがれ重畳奇譚 天乃律 @amanokango
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