k 正座なんて久しぶりだったのだ

 山を越えてきた黒いものが、鹿嶋市の人びとに降りかかり、憑りつき、おぞましい悪意を巻き散らす。山に眠り続けてきた怨念の欠片が町を覆う。そんな昔観たアニメ映画のような、あるいはパニックものの小説のような、千鳥の得意なゾンビゲームのような展開が、すぐそこに待っている。


 きっと何も視えない人びとにとっては、最近よくない事件が続くなとか、事故が多いなとか、自殺が増えたなとか、治安が悪くなったかなとか、そんな程度の変化だ。

 だけど確実に何かが悪化する。呑まれた誰かの気が触れる。人が死ぬ――


 恐ろしい話だった。

 綾人の乏しい想像力があっさりと限界を迎える程度には。


「……ここか!?」


 枝葉に顔をぶたれ、不安定な足元に転びそうになりながら辿り着いたのは、道の終点だった。

 山のなか、ぽかりと開けた空間がある。ヤツカハギを祀る祠のため遥か昔に切り拓かれたものだろう。木々に囲まれ、緑の草のじゅうたんが広がる、この八束山のなかで最も神聖な場所。


 その背後に聳える山の斜面が崩れ、土砂が木々の間から雪崩れ込んでいた。

 乾いた土のなかに、祠だったと思しき古い木片やお供えされていた花、水の入れ物などが呑まれているのが見える。

 ヤツカハギの神としての性質が喪われたことが心底納得できる壊れざまだった。


 思わず立ち尽くした綾人たちの背後に追いついてきたヤツカハギの脚も、自分の祠がここにあったことは僅かに憶えているのか、無闇に立ち入ってこようとはしない。様子を窺うように山道に屯してざわざわと黒い霧を吐き散らかしている。

 ようやく追われることもなくなったので、ひとまず一行は息を整えた。


「これ……、どうします?」

「下山して然るべきところに連絡して、早めに建て直してもらったほうがいいね。管理者を調べるところからだ、まず」

「じゃ、新しいのが建つまでこのまま……?」


 顔色がマシになってきた巽が嫌そうな顔になる。


「そんなにのんびり待ってたんじゃ、黒いのは確実に街まで到達する」

「そうだねぇ。かといって除霊スプレーを撒きまくっても、さすがに意味がないだろうし」

「姉御に浄化してもらうのはどうなんですか」

「させられない。このレベルの大妖怪の浄化なんて、反動でなにがあるかわからない。――そもそも無事に下山できるかな?」


 綾人は振り返った。

 道の手前でそそけだつ黒い霧、ヤツカハギの脚。

 その向こうには鹿嶋市がある。師匠と高倉のお化け屋敷があって、綾人も巽も姉御も住んでいて、千鳥やニシノや薬袋や、ここで出会ったたくさんのみんなが通う幸丸大学がある。ひさお川のやえの祠。さらに遠く、病院の窓からこちらを覗く香波。


 ――きみの任務は速やかに香波ちゃんの不安を排除することだ、違うかな。



 ――あのね、綾ちゃんにあげるね。



 綾人はポケットのなかに入れっぱなしだった飴を取り出した。

 リュックを下ろし、スマホも置く。「おい」戸惑ったような巽の声を背にずかずかとヤツカハギの脚へと近づいた。

 冷たい気配がする。

 けれどその太く黒い脚に実体はない。当然だ。綾人とヤツカハギは本来生きる層が違って、触れ合うことなんてない。


 神と人間をつなぐものはただその信心のみであるべきだ。


 自分で自分を守ることもできない頼りない身ひとつ、それでも無防備に地べたに正座して、香波がくれた飴を巨大な脚の前に供える。


「秋津っ!?」

「巽、手ぇ合わせて! 師匠も!」


 後ろでぱちんと合掌の音が二つ響いたのを聞いて、綾人も手を合わせた。

 この声が聞こえるだろうか。

 いや聞こえないはずがないな。きっとこの大きな蜘蛛の妖怪だって、最初は小さな人間の祈りを聴き取ってしまったところから、神と祀られるに至ったに違いないのだ。


「八束さま。ヤツカハギ様! 鹿嶋市から来ました。秋津綾人といいます!」

「……師匠どうしよう秋津が変になった」

「……いいから黙ってな」

「さっきは除霊スプレー吹いてごめんなさい! 俺たちどうしてもこの祠がどうなっているか確認したくて、そのために道を通りたかったのであんなことをしました。本当にすみませんでした!」


 綾人は、彼岸のものと意思疎通することはできない。

 師匠のような無謀な度胸などなければ、巽のような飛び蹴りもできないし、姉御のように浄化の力も持たない。香波のように信頼できる守護霊がいるわけではないし、あれらと言葉を交わしたことなど一度もない。例外はあの花火大会で触れた、やえだけだ。


「でも、八束山から下りてくる黒い翳に怯えている女の子がいます。まだ小学二年生で、此岸と彼岸の視分けもちょっと難しくて、アレルギー体質があって、怯えて熱を出して苦しんでいます」


 ――そのやえの対極に位置する存在ならば、人間の声を聞いてくれてもいいだろう。


「あなたが神さまなら、ちいさな女の子を守ってあげてください。どうか、お願いします。……神さま」


 眼前に聳える黒い霧状の脚が、ぞぞぞ、と草葉の擦れる音を引き連れて蠢く。


 怖いとは思わなかった。


 脚から分離した黒い瘴気の欠片が風に乗り、頬に触れる。ひんやりとした感触がはだを撫でた。髪を揺らし、視界が黒く染まる。合わせた手、首筋、腕、衣服、正座した膝、なにかを確かめるように通り抜けていった。

 怨嗟の声が聴こえる。

 深い地中の底よりももっと遠いところから湧き上がる、八束山に眠る夥しい数の死者の声。数が多すぎて何を言っているのかは判らない。死にたくない。怖い。恨めしい。妬ましい。なんでおまえは生きてるの。痛い。助けて。死にたくない。なんでわたし死んだの。眠い。怖い。痛い。煩い。消えろ。ねえ。なんでおまえは生きてるの。ああ。痛い……。


 じっと耐えた。

 香波のことだけを考えていた。闇の聲に呑まれて自らを見失わないように。ごめんな。俺にはあなたたちをそこから引っ張り上げる力がない。だから同じ世界に生きているあの女の子のことは助けたい。あの子が怯えなくてすむようにしたい。香波が笑えるようにしたい。俺はちっぽけな学生だから、手の届く範囲にある笑顔を零さないようにするだけで精一杯なんだよ。



 ごめんな。

 俺には、あなたたちを救えない。



 息の仕方も忘れてしまいそうなほどの沈黙ののち、ふ、と気配が霧散する。

 ゆっくりと瞼を押し上げると、そこには何もなかった。


 ただ深い夜の闇が在った。


 確かにそこに供えたはずの飴三つだけを持ち、ヤツカハギは去っていったのだ。


「……、聞いてくれたと思います?」


 振り返って師匠に訊ねると、彼はもはや驚きを通り越して呆れ果てたというような表情で肩を竦める。

 隣で蒼褪めていた金髪元ヤンが「お前ほんとすげぇな……」と項垂れた。


「あれ多分、俺や師匠が同じことやったら死んでますよね」

「だろうねぇ。善良な秋津くんが一切の邪念なくお願いしたから聞いてくれたんだと思う」

「秋津って何気に最強なんじゃ……」

「今のところはそうかも」


 二人に褒めちぎられていることにも気づかず、綾人は遅れてやってきた脚の痺れに悶絶していた。

 正座なんて久しぶりだったのだ。

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