j 師匠いま俺に除霊スプレーかけた……

 綾人を先頭にしてしばらく山を登っていくと、ちょうど木々が朽ちて拓けた場所に出た。

 ぽっかりと空いた木々の間からは鹿嶋市の夜景が瞬いている。西の空には、まだ僅かに夕焼けの名残があった。

 この向こうに香波がいて、いまも怯えているのだと思うと、自分でも不思議なくらい心が凪いだ。


 八束山の気配は確かに不穏だった。

 少し前までの綾人なら間違いなく巽の後ろに隠れて、隙あらば逃げようとしていただろう。

 数えきれないくらいの負の感情がそこかしこでこちらを見つめている。辛く苦しい、未練や後悔、嫉妬、劣等感、怒り、憎しみ、悲しみ、痛み、死を冀い、死を引き連れた、気を抜けば意識も命も体もあちら側へ持っていかれそうなほどの強烈な感情の渦。

 視覚的には黒い靄と化したそれらが、登るにつれて少しずつ増してきている。足の下の地中を、何かが這いずり回る気配がする。妙な緊張感は山に足を踏み入れたときからずっと続いていた。


 大学で千鳥やニシノの肩を払ったときとは比べものにならない密度の『黒いもの』だ。

 確かにこれが町へ下りてきて、なんの免疫も知識も経験もない普通の人たちに憑いてしまったら、ほとんど確実に人が死ぬ。


「秋津はよく平気だな……」


 一番疲弊しているのは巽だった。体力的には三人のなかで一番タフなはずだが、別の部分で気力を削がれてかなり汗を掻いている。

 倒木に腰掛けた兄弟子の横で、綾人は別段きれいでもなんでもない夜景を見晴るかす。


「なんだろ。確かに嫌な気配はずっとしてるし、これが『黒いもの』なんだなって解るんだけどな。香波ちゃんと千鳥のためだってはっきりしてるから怖がってるどころじゃないや」

「……お前すげーな……」

「なんか前も言われた気がする」

「言った気がする。俺はお前をそんけーしてるぞ……」


 綾人は「うへへ」と気の抜けた笑みを浮かべた。巽に尊敬してもらえるなんていい気分だ。

 この兄弟子は少々経験が浅く綾人と同じくらいのビビリだが、その気になればヒトでないものも殴り飛ばせると本気で思っているし実際蹴り飛ばした経験もある。その窮地に陥ったときのクソ度胸に、綾人は憧れているのだった。


「この黒いもやもや、ごっそり死神に食べさせてやれたら楽でしょうねぇ」


 石の上に座って、高倉から持たされたお茶を飲んでいた師匠を見ると、「確かにね」と同意が返ってきた。


「この騒動が来月だったら丁度よかったんだけど。まあそれまで放っておいたらどうなるかわかったものじゃないし仕方がない」

「来月どうするんですか?」

「扨てね。狙ってどこか心霊スポットに行こうか。泊りがけで遠出でもするかい」

「わーい! 遠出したいです」


 間髪入れず巽に殴られた。「余計なこと言ってんじゃねぇコラ」という意の拳のようだ。

 すると師匠は楽しそうに立ち上がる。


「よーし、秋津くんのために最恐の心霊スポットを捜しておいてあげるからね。そうと決まればさあ行こう」

「あっ、俺これやらかした」

「テメエ山下りたらいっぺんシメてやる秋津……」

「あれ、尊敬は?」

「ンなもん死神に喰わせたれ」


 再び歩きだした一行は、見鬼レベルが低めで視界良好な綾人を先頭に、レベルが高すぎて逆に視界不良の師匠が地図アプリで指示しつつ、巽がしんがりでロープの管理というフォーメーションになった。

 いつもの百均の安い懐中電灯とスマホのライトで足元や周囲を照らしつつ、転ばないよう気をつけて進んでいく。

 町からいくらも離れていない山だし、一晩過ごしたからといって凍死するような季節でもないが、見鬼である綾人たちにとっては別の問題もあるのだ。意地でも遭難はできない。


 山に入って一時間が経ったころ、三人は足を止めた。

 綾人にも視認できるレベルの強力な脚が、行く手にででんと横たわっていたのだ。

 黒い煙が揺らめき、そそけて、まるで黒いドライアイスのように冷気を発している。実体はないはずだが、気にせず突入できるほど薄い存在ではない。直径は師匠の身長くらいあり、山の上から下まで続く、長く太い――脚である。


「八束さまのおみ足か。いつ見ても惚れ惚れする美脚だねぇ、さすが蜘蛛」

「師匠言ってないで。どうします、これ」


 ライトの光すら吸収する濃密な翳は、ちょっと迂回した程度で避けられるようなものでもなさそうだった。

 ずるり、と蠢いた黒い脚から逃げるように三歩退く。


「そんな時にはこれ」


 師匠がズボンのポケットから取り出したのは、見覚えのあるボトルだった。

 百均で売っていそうなスプレーボトル。『除霊スプレー』と書いてある胡散臭い一品。「いやぁ、効果があるか試してみたかったんだよね」と生き生きしだした師匠がキャップを外した。

 効果の定かでない品物をお守り代わりに千鳥に持たせたことはさて措いても、綾人はなんだか嫌な予感がしたので巽の腕を掴む。


「なあ、もし効果があったらまずいんじゃないの? 八束さまって神さまだよな?」

「今は神じゃなくて妖怪寄りなわけだから……大丈夫だろ」

「怒って追いかけてきたりとかするんじゃないの!?」

「可能性は十分にある。構えろ」


 師匠はなんの躊躇いもなく、シュッと一吹きした。


「よし食らえ化け物蜘蛛め。おまえなんかこの除霊スプレーで除霊してやる」

「ししししし師匠ちょっと待っ……!」

「しが多いよ」


 しゅっしゅっと続けざまに吹きかけると、驚いたことに黒い翳は嫌がるように波打ち、蠢き、緩慢な動作で持ち上がった。その隙に匍匐前進で下を潜り抜けると一気に走って逃げる。ロープを片手に握る巽の空いた腕を全力で掴んで、高校最後の体育祭で食券を懸けて走った部活動対抗リレーより死ぬ気で脚を動かした。

 背後から放たれた凄まじい怒気に、全身の毛が逆立つ。


「ほらぁぁぁ! ほら怒ったじゃん師匠のバカァ!!」

「まあ蚊程度の効果はあったみたいだね。走って走って。大丈夫、図体がでかいおかげで動きは鈍い」


 八束さまの全貌は、師匠や姉御にさえ見上げられないほど巨大な蜘蛛の姿をしているという。確かに本体は綾人たちが走ってじゅうぶん逃げられるスピードだったが、不自然な風とともに駆け巡った脚の欠片は、草を蹴散らし木々を撫であっという間に綾人たちを呑み込んだ。

 視界が黒く煤けた。

 深淵の舌先が頬を撫でる。闇のなかぎらりと物騒に光った金色の目の一対。――あれは、八束さまの目。


 身を竦めて靄を吸い込もうとした綾人の顔面に、冷たい水が吹きかかった。


 巽の腕を掴んだ右手の感触が強く蘇る。

 胸倉を掴まれたと思ったら、かなり乱暴に引っ張り出された。


「ハイのんびりするな! 香波ちゃんのためなんだろ!!」

「師匠いま俺に除霊スプレーかけた……」

「意外と効くみたいだね、これ」


 しゅっしゅっ、と師匠は楽しそうに噴射している。

 あの一瞬で完全にグロッキー状態になってしまった巽を励ましつつ、除霊スプレーに完全にはまっている師匠を最後尾に、黒い脚から逃れるようにして三人は山道を登った。

 あれに呑まれたらどうなるのだろう。

 先程は師匠が引っ張り出してくれたから無事だったが、欠片に呑まれただけで体が動かなくなった。

 絶望の淵でこちらを見つめる金色の双眸を視た。その舌に触れた頬がまだびりびりしている。



 ――あんなものが、あの街に降りてくる。

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