i 突撃八束山
八束トンネルが心霊スポットと言われるようになったのは、一九七〇年代に日本で起きたオカルトブームの最中であるらしい。ご多分に漏れず鹿嶋市でもブームは起きたのだ。
鹿嶋市から奈良県へ向かう上り坂、トンネルの出口付近が角度の違う二つのカーブになっているせいで昔から事故が多かった。そのため出口付近には石碑が建てられており、絶えず花束などが供えられている。
トンネルに入ると霊が車に追い縋ってくる。
窓ガラスいっぱいに白い手形がつく。
子どもが「痛いよ」と泣く声がする。
何者かがボンネットに降ってくる。
出口付近に女性が立っていて、避けようとしても轢いてしまう。
そういう、『心霊スポットのトンネルあるある』をふんだんに盛り込んだ場所なのだ。人によってはそのうちのどれかしか体験しないのだろうが、体質である綾人たちはフルコースだった。最初に突撃したときは、ギャーギャー騒いでいるうちに気づいたらトンネルを出ていた。
ちなみに、八束トンネルは祠よりも北に位置しているので、綾人にとってたいへん幸いなことに今日は用がない。
「青木ヶ原という森はそもそも、富士箱根伊豆国立公園に属する国の天然記念物でね」
山の麓のコンビニにマークXを停めて、夕闇に薄暗く染まりゆく遊歩道らしき階段を上りはじめると、師匠は急にそんな話をはじめた。
彼岸の領域、闇を急速に抱き込みつつある八束山は明らかに昏い。
階段を一段上るごとに空気が重くなっていく。綾人たちが最近増えたなと感じていた黒い靄が、そこかしこに浮遊していた。
「ふじはこね……なんですって?」
「自分で調べろ。――それと同時に世界文化遺産である『富士山』の山域にも含まれる。近くにキャンプ場はあるし、遊歩道も通っていて、人気の高い観光地なんだよ。すっかり心霊スポット扱いを受けるようになっているけど、それ以前に霊峰富士山の足元だ。そんなお有難い場所を縊死の舞台に択ぶ自殺者諸君の根性は正直言って理解できないね。遺体を捜したり回収したりする側のことも考えて差し上げてほしいよ」
「まあ、それは確かにそうですね……」
「なんで急に樹海の話なんですか」
どこへつながっているのかもわからない階段を迷いなく進む師匠の後ろで、綾人と巽は早々に息を上げながら相槌を打った。
少し草が伸びて、木々の枝もかなり顔の近くまで迫っているが、これは立派なハイキングコースだ。八束山を越える方法というと八束トンネルの国道か電車かしか使ったことがなかった。
師匠が立ち止まって、顔の周りを手で払う。
「ああもう、前が見えない」とぼやく声が聴こえた。綾人にはまだ見えている。
木々の隙間に影が動いた。
目で追おうとするともうそこにはいない。顔を動かすたび、視界の端の端に何かが「動いたな」と感じる。
このタイプは視ようとして目を凝らすと突然背後に現れたりする。視てほしい、みつけてほしい類いは、寂しがっていたり道連れを欲しがっていたりすることが多い。
意識するのをやめて前を向き直すと、チッ、と舌打ちらしきものが聞こえた。
こくりと喉を鳴らして唇を舐める。
――見られている。
「『樹海に一歩入ると抜け出せない』これはデマ。遊歩道から逸れて森の奥深くに入ればそりゃ遭難するけど、樹海に限った話じゃない。『樹海ではGPSが狂い電波も入らない』これもデマ。最近はずいぶん入りやすくなったと聞く。そして山林でGPSや電波が途切れがちなのも、樹海に限った話じゃない。『コンパスが狂う』これもデマ。樹海は溶岩の上にできたため磁鉄鉱を多く含み、確かに若干程度の狂いは生じるが、なにもグルグル針が回るわけじゃない」
「おお……デマばっかりなんですね……」
「そう。全部ぜんぶ、普通のハイキングや登山でも留意すべき基本中の基本」
それでワシダにも色々と注意して、八束山を歩くことになった綾人たちにも「スニーカーを履け」「充電しろ」「コンパスを持て」「単独行動するな」とのご指示が出たわけだ。
師匠は階段の入り口付近で手近な木にロープを結び、巽がそれを伸ばし続けて道を進んでいる。余程のアクシデントがない限り、帰りはこのロープを伝えば山を下りられるはずだ。
山中の不安定な足場に苦しめられながら十分ほども階段を上ると、今度は分かれ道に差し掛かった。
右へ上るか、左へ下るか。
師匠は手元のスマホに目を落とした。
「こんな獣道までしっかり反映しているなんて、近頃の地図アプリは便利だなぁ……」
心底感心しながらも、右へ。
「でも、それってつまりこの道を使う人がいるってことですね」
「そうだね。八束さまの祠にお参りする人がいるんだろう。やえの祠と同じように」
師匠の口調が普段と全く変わりないから綾人も気が楽だったが、まとわりつくような視線は明らかについてきていた。
人の話し声のようなものが聞こえる。アハハハハ、という女性の笑い声も。何も知らない肝試し連中であれば自分たち以外にもお仲間がいたのかと安堵しそうなほど、生きた人間に似た声だった。
ゆえに危ない。
後ろにいるのは巽だけのはずなのに、足元の草木を踏みしめる足音が多いのも問題だった。
「巽、大丈夫か……」
「ああ、一応。だがまあ振り返らんほうがいいと思うぞ……」
「だよな。わかってる」
もとより振り向く気もない。
前を行く師匠の背中だけをひたすら追いかけているが、彼は彼で、見鬼が強いゆえの障害に苛ついているようだった。頻りに立ち止まって目の前の霧を払うような動きをみせ、たまに足元の木の根や石に躓いている。危なっかしいことこの上ない。
「……師匠、前見えてます?」
「見えてない。黒いもやもやで全然見えない」
普通の心霊スポットは問答無用で巽が先頭のくせして、本当に危なそうなところでは自ら進んでいくのだから、この師匠は全くたちが悪い。
綾人は嘆息しつつ彼の肩を叩いた。
「先頭代わりますよ……」
このまま師を先頭にしていたら下手すれば足を踏み外して転倒なんて事態になりそうだ。いまはまだ整備されたハイキングコースといった様相で、崖に面しているわけでもないから転落はしないだろうが、歩くのにも難儀している師匠の後ろはなかなかハラハラする。
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