h 入りにくく、出られない
お化け屋敷に戻った師匠はまず、帰りを迎えてくれた高倉に地図を用意するよう頼んだ。
プリンターのある二階に上がって作業する高倉に代わり、姉御が飲み物とおやつを用意してくれる。今日は朝から高倉と一緒におやつ作りをしていたらしく、きつね色に輝くフィナンシェが皿いっぱいに載っていた。
珍しく帰宅後も洋服姿のまま、師匠はアイスティーを飲みつつ巽を招集する。
「どうしたの、慌ただしいね」
「ちょっと気になる話を聞いてね」
高倉が用意したのは鹿嶋市とその周辺を拡大した地図だ。綾人が使用しているものと同じアプリから印刷したらしく、右下に見慣れた縮尺表示がついている。
A4用紙四枚からなる地図を貼り合わせて、師匠はA3サイズに作り直した。
東西に広い長方形をした鹿嶋市がちょうど収まっている。
そうしているうちに夜勤を終えて爆睡していた巽が到着したので、高倉も交えた五人でテーブルを囲み、ティータイムがてら師匠から軽い説明がなされた。
地震。香波の入院。おじちゃんの存在と、毎晩見るという怖い夢……。
「本当に八束山を越えて何かがやってくるのなら、まずいですね」
一番に事態を把握したのは、やはり付き合いの長い高倉だった。
師匠はどうやら真剣な顔をするのに疲れたらしく、ソファにぐでっと凭れて「そうなんだよねぇ」と白い喉を晒している。
「師匠もうちょっと頑張って! 弟子にもわかるように説明してください!」
普段なら袂という引っ張りやすい布がひらひらしているのに、洋服を着ているせいで掴むところがない。仕方なくぺしぺし膝を叩きまくると手で払われた。
「…………これは先代と師匠から聞いた話なんだけど……」
「お、おじいさんと、師匠の師匠ですね?」
「そう……鹿嶋市の、とりわけひさお川より東側の領域は、とにかくヒトでないものが溜まりやすい地形になっている、らしい。昔から『入りにくく、出られない』場所だったそうだ。それというのも、これ」
師匠は用意されていた赤いペンで地図に印をつけていく。
鹿嶋市の真北から南西へ下るひさお川の流れの最中、ちょうど鹿嶋市の中心部に当たる地点に赤マル。
そこから東、鹿嶋市と奈良県を隔てる八束山の中腹にも赤マル。
「言うまでもなく先日ぼくらも会った、川の神やえの祠。そして八束山に坐す八束さまの祠。それから北部にはかなり歴史ある大社があって、南部は三叉路に道祖神」
言いながらマルをつけていった師匠の手が、北部の大社から順に線で四つをつないでいく。ちょうど斜めの正方形になった。
幸丸大学はその正方形のなかに含まれ、その近隣に暮らす綾人たちのアパートやこのお化け屋敷も同様に、赤い線の内側に入っている。
「市制・町村制施行により合併されるより以前、ひさお川より東の地域は八つの塚と書いて『八塚村』という一つの村だった。この四方結界で八塚村は護られていたということになる。生憎と、もともと溜まりやすい地形だったためにこの結界が置かれたのか、結界が置かれた結果入りにくく出られない場所になったのか、そこまでははっきりとしない」
「八塚村……って、山とは字が違いますね?」
「もとは塚のほうだったと思われる。時代とともに今の八束山に変わっていった」
ふぅ、と師匠は息を吐いた。
病院から相次ぐ長い語りでうんざりしているようだった。
姉御は頬に手を当てて、地図を見下ろしながら「そっか」と柳眉を顰める。
「結界が崩れたのね。八束さまの祠に何かがあって、神としての性質が変容しようとしている。山から越えてくるというよりは、山から降りてくるんでしょう」
師匠がぐでっとしたまま続けているからいまいち緊迫感に欠けるが、綾人にもようやくことの次第が見え始めていた。
地域から『八束さま』と呼ばれ慕われるその神は正式な呼称を『ヤツカハギ』という。綾人が弟子入りするきっかけとなった事件において師匠たちと「こっくりさん」を行った際、回答者として君臨したのがそれだった。
姿を視た師と姉御曰く、大きな、おおきな蜘蛛であったとのことだ。
もともと土蜘蛛という山に棲む妖怪だったそれが、八束さまとして祀られ、神になった。純粋な神ではないから八束山は非常に不安定な場だし、逆に神の膝元で心霊スポットとなった八束トンネルのやばさは他と比べものにならない。
「八束さまは生粋の神ではない……。あの莫迦みたいに巨大な蜘蛛が神としての性質をなんらかの理由で失ったとしたら、限りなく神に近い力を持った大妖怪としてぼくらの前に現れるというわけだ。全く以て有難くない話だね」
「……じゃあ、あれですか? 最近、なんか黒いもやもやが増えたな~なんて感じてたのも」
「この間の地震で祠が壊れたんだろ。で結界に綻びができた。八束山に眠る『黒いもの』が降りてくる。八束山に近い幸丸大学にももちろん増える。鹿嶋市に流れ込んだ黒いものは、北・西・南の三地点に阻まれてそれより向こうには出られない。間宮家のある鷹月市は郊外に八束山の端が引っかかっているから、敏感な香波ちゃんに影響が出てもおかしくない。入院して八束山を臨んだことで、透視の力が発揮された。そして今、ここだ」
綾人は遠い目になって書斎の掃き出し窓の向こうを見た。
秋の日暮れは夏のそれよりも当然早い。だいだい色の夕焼けが差し込んできていた。現実逃避である。
じっと話を聞いていた巽がようやく口を開いたのはこのときだった。
「……で、どうすんすか」
師匠は答えない。ソファにぐでっと沈み込んだまま浅い呼吸を繰り返している。夏の終わりにこの姿をくらげのようだと感じたことがあったが、今日は服装のせいでくらげというよりヒトデみたいだった。
やがて億劫そうに体を起こすと、小さく息を吐いて姉御のほうに顔を向ける。
「とりあえず、おまえは留守番」
「どうして? 行くよ」
「ぼくらが遭難したときに通報する人が必要だろ。高倉もついてやって」
「遭難するほど奥深くに行くつもりなの?」
「少なくとも道路沿いじゃぁない。それに、地震で祠が崩れたということは土砂崩れだ。危ないから留守番」
姉御はムムムと唇を尖らせたものの、渋々首を縦にした。
「二人はついてきなさい。人手は多いに越したことはないからね。そうと決まれば――」
「「決まれば?」」
巽と声がかぶった。
師匠はそんな弟子たちを見て、力の抜けた笑みを浮かべる。
「ちょっと早いけど、晩ご飯。空腹は戦の最大の敵だ」
……薄々わかっちゃいたけど、やっぱ行くことになるんだな。
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