あなたのいる人生

篠岡遼佳

あなたのいる人生

 それは、長い夏のあと、秋がF1並の速度で過ぎ去り、あっという間に寒くなった頃のこと。


 私が画像処理ソフトで実験結果を解析している時、研究室のボスが全員に言った。

「んじゃ、とりあえず、3年生は一人一人面接するから。手が空いたら来てねー」

 50手前の、研究者として脂ののりきったごましお頭が、そう言ってとなりの部屋に消えていった。


 私は結果をプリントアウトしながら、プリンタの前でぼんやりしてしまう。

 最近は就活の時期も、大学によってなかなかばらばらだ。

 ボスは毎度毎度忙しいけれど、やっと時間が空いたと言っていたから、これはまあ、人生プランを聞くとか、「進路希望調査」といったところだろう。


 私の通う大学は一応理系で、先生たちも真剣な方ばかりだったから、試験もレポートも厳しかった。

 だが、もうそれだけ――テストの点数の良さやA判定を取るということだけでは、なんともならない季節がやってきていた。


 培地を出し、自分の培養フラスコを出してくる。

 腕と手全体をエタノール消毒する前に、左薬指のリングを、外す。

 リングを見つめる。

 ……わたしは、どうなりたいのだろう?


 こんな私にも、こうしてリングを交換する相手がいたりする。

 というか、ほとんど半同棲だったりもする。


 相手との将来については、「社会人になってから考えるべきだ」と思っていて、それについてはコンセンサスが取れている。

 しかし、私は学部卒で、相手は同時に院卒の予定だ。

 私の地元も相手の地元も、だいたい似ている関東南部にある。

 だが、学部卒の理系なんて、おそらく地方に行かなければ、職は無い。

 成績のいい院卒の相手は、きっと首都圏で就職できるだろう。

 それは、どうなるわけでもない、事実だ。

 私はクリーンベンチに手を突っ込んで、ピペットのパッケージを剥きながら考えた。

 ……私は、どうなりたいのか?


 私は、中学から、ただただその場で与えられたことをクリアしてきたに過ぎない。

 一番自分がわかっている。

 それなりの高校に入れたから入り、それなりの大学に、入れたから入った。

 流される人生。


 それでも、ここ二年くらいで大分変わったと思う。

 半同棲相手に、出会ったからだ。


 その人は、背も高く、大人で、なぜか私のことを気に入ってくれた。

 話す時間が増えて、お昼も一緒に食べるようになって、私は、相手を好きになっていることに気付いた。

 会いたくて、だからレポートもがんばった。相手は院生だから暇な時間が少ないのだ。同じ研究室に入れるように、全力でテストに挑んだ。結果はちゃんとついてきてくれた。

 私が一生懸命になれるのは、相手と一緒にいたい自分のためだった。

 そして、相手も、たくさんの実験の間に、私と一緒に珈琲を飲むことを選んでくれた。


 所定のゴミ箱に培地の付いたピペットを捨てて、ゴミ箱がいっぱいになっていたから、袋を新しいものと変える。

 洗い物のためにシンクの前に立つと、まあ、これがそうとう汚い。

 なぜみんなはこれを納得して使っているのか理解に苦しむので、私は掃除を始める。

 ごしごしとスポンジで水垢やカビを洗いながら、私は胸の内で考える。


 ――叶えたいことはあるか?

 何になりたいか?

 自分自身が望んでいることを知っているか?


 たぶん、なにもわかってないし、考えたこともない。

 私の人生はいつもそうだった。

 たった20年程度だけれど、わかっていた。

 私はとても弱い。意思がない。

 自分に自信もないし、そもそも自分が何かに必要だと思ったこともない。

 だけど、本当は早く大人になりたい。

 だって、相手を守ったり、助けたり、よろこばせたりしたい。

 けれど、大人の責任を背負った時、このリングを外さずにいられるだろうか?


 半同棲の相手は、女性なのだ。


 私は、しおしおと帰り支度をして、駅に向かうバスに乗った。

 今日は、誰とも話したくない。



 カチャリ、と玄関の空いた音で目が覚めた。

 布団をかぶって悩んでいたら、いつの間にか寝てしまっていたらしい。

 彼女はまっすぐ寝室に来た。

 同じ布団に座り、そっと私に言った。

「どうした~? LINEも返信がないし、忙しいのかと思った」

 学会前で忙しいのはそっちだろうに、そう言って、彼女は闇の中で微笑んでくれた。

 私は無言で首を振り、夕飯はあるよ、と小声で答えた。

「……あんまり大丈夫じゃないみたいだね」

 彼女はそう言って、私を撫でてくれる。

 無菌操作で荒れた指でも、それはとても心地よい。

 私の存在が、輪郭が、彼女によって作られていくような気がする。

 

 私は話した。進路を決める時期なのだと。

 けれど、自分が何をしたいのか、まったくわからないと。

 彼女は、そうなんだ、と言って、私の両手を取る。

 あのね、と切り出した。


「私も、悩んでた。同じ会社に入るなんてきっと難しすぎるし。

 だけど、あなたのことを手放すなんて、考えたこともない」

 枕元の照明を付け、また柔らかく微笑む。

「私の昔の友人が言ってことがあるの。

 愛はお金じゃ買えないけど、お金がないと愛は長続きしないって」 


 そう、それは、まさに私が悩んでいることだった。

 これから起こることで、会えなくはならないけれど、もっとすれ違いは多くなる。

 お金で買えるものはたくさんあって、人生はお金がないと成り立たない。

 けれど、この愛を、手放すなんて。


 考えているとなんだか目元が熱くなってきた。

 泣いてはだめだ。何度か瞬きして、やり過ごす。


 彼女はもう一度、私の手を取り、今度は、片手ずつを組み合った。


「――でも、愛さえあれば、なんでもできる」


 まるで夢のようなことを、しかしきっぱりと彼女は言った。


「私、あなたと一緒にいるために、たくさんがんばれるよ。あなたもそうでしょ? たくさんがんばってきたじゃない。一緒にいたから、全部知ってるよ。

 ねえ。もっと自分を自分で褒めてあげて。私はあなたを尊敬してる。

 あなたはあなたで、今まで生きてきた。それだけでいいの。

 そして今がんばろうとしてる。だったら、それを私は応援したい。全力で」


 そっと両手が、今度は背中に回された。

 彼女のハグは、とても心地よい。

 柔らかな感触が、私の輪郭をはっきりとさせてくれる。

 他人だから、私は私の限界まで彼女に触れようとする。

 そして彼女も、きっと同じように私に触れようとしてくれる。

 私の弱い心のことを知ってくれているから。

 そして、きっと、愛はひとりよりふたりで分かち合う方が良いと、知ってくれているから。


 ――私はたくさん守られている。

 それは、生活や勉学だけじゃなくて、存在として。

 だから、私も一歩踏み出さなければ。

 ひとりじゃないということを、いつも彼女は教えてくれる。

 ひとりじゃない。

 この指輪の向こうに、いつも彼女がいてくれる。

 それだけで、私は一人きりから抜け出せる。


 彼女が服のボタンを一つ一つ外していく。

 素肌を合わせて眠ることが心地よいことを教えてくれたのも彼女だ。

 特に何をするわけでもなくて、同じ布団で眠る。

 胸の柔らかさはもちろんだけど、それよりも、太ももや、すんなりとした腕に抱きつくことも、とても良いものだ。


 私は、今日は甘えることにした。

 ぎゅっと抱きつくと、彼女がまた微笑んだ気配がして、頭を撫でてくれる。

 そうか、甘えてもいいんだな、なんて、今さら当たり前のことに気付いたりして。


 愛のかたちも、将来の影も、なにもわかっていないけれど。

 私はまたきっと、一歩を踏み出す。

 彼女と、自分のために。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

あなたのいる人生 篠岡遼佳 @haruyoshi_shinooka

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ