良太とミケル
緋那真意
第1話
良太はとても耳が良い。幼い頃からどんなに小さな声でも聞き逃したことはない。
だから、小学校からの帰り道、家のすぐ近くの狭い路地で「ちょいと、そこの坊ちゃん?」と誰かが自分のことを呼んでいる小さな声にもすぐに気付いて、振り向いたのですけれど、そこには人の姿はありませんでした。
あれ、と小さく首を傾げながら、良太が再び歩き出そうとするとまた小さな声で「待ってはもらえませんかね、坊ちゃん?」と誰かが呼びかけてきます。良太は今度は注意深く辺りを見回しましたが、やはり誰かがいるようには見えません。声は大人の男性のようでした。でも、周囲には大人はおろか子供の姿さえ見えず、ただ一匹、茶白の毛をした猫が塀の上にいるだけです。
猫が人間の言葉を話すはずがない。良太もそれくらい知っています。でも、それじゃあ一体誰が自分に声をかけてきたのだろう?
良太はなんとも不思議な気分でぼんやりと猫の方を眺めていました。すると猫の方から「そんなに不思議そうな顔であっしを見ないでくだせぇ、坊ちゃん」という声が聞こえてきました。猫は一声も鳴いてはいません。でも、確かに猫の方から声は聞こえてきました。まさか、本当に猫が人間の言葉をしゃべっているの?良太は驚きのあまり目を白黒させています。
すると、猫は良太をからかうように「にゃー」とひと声鳴きました。ついで、「ようやく分かっていただけたみてぇで安心しましたぜ、坊ちゃん」という若い男の声が猫から聞こえてきます。良太は何がなんだか分からなくなりました。
良太がどうしたら良いのか分からずに頭を抱えてしまったのを見てとった猫は、なんともバツの悪そうな声で「いやいや、坊ちゃん。そんなに困らないでくだせぇ。さっきから呼んでいたのは確かにあっしですんで」と謝るように言いました。
良太はじっと猫のことを見つめました。首輪をつけていないところを見ると飼い猫ではなく野良猫のようです。しかし、野良猫らしからぬどこかこざっぱりとした佇まいにも見えました。猫は塀を降りて良太の方に近付くとちょこんと座り込みました。
「いやいや、坊ちゃん、お初にお目にかかりやす。あっしはあっちこっちをフラフラと旅して回っておりやす、しがない旅猫でござんす。最初のご主人からはミケル、と呼ばれておりやした」と猫は良太に自己紹介しました。
良太はあまりの出来事に呆然となっていましたが、それでも何とかミケルと名乗った猫に名前を名乗って挨拶しました。
ミケルは、訳がわからない、といった様子の良太の姿を見て、これは説明がいりますなぁ、と耳の裏をかきながら呑気そうにいいました。
その後、ミケルが良太に語ったことをまとめると、最初はさる「やんごとなき」ご主人さまの飼い猫の子供として育てられていたのだそうです。そこがどこだったのかはミケルにももう分からないらしいのですが、とにかく子猫の頃は幸せに暮らしていたそうです。しかし、ある不幸な出来事がきっかけとなってご主人さまと別れざるを得なくなったと、ミケルは言います。良太がそれについて突っ込んだことを聞いてもミケルは「ま、あっしもまだまだ小便たれの小僧だったってわけでさぁ」と答えるのみでさっぱり要領を得ません。ともあれ、飼い猫から一転して野良猫になったミケルはそれ以来一箇所に一月と留まることもなく各地を転々とし、あちらこちらで旅先の地元猫たちの困りごとを聞いて、場合によってはそれを解決したりしながら、気ままな旅を楽しんでいるということです。
そして、良太がもっとも疑問に感じている「どうやって人間に伝わる言葉を発しているのか」ということについて質問すると、詳しい理屈までは分からないがとある旅先で知り合った齢何十歳とも分からぬ「化け猫」の大物から指導をされて身につけたものだ、とミケルは説明しました。
「もっとも、大先輩に言わせりゃあっしは『ギリギリ出来るだけましなのであって、成績をつけるのだとしたらかなり下の方だ』そうで、大先輩への道のりはまだまだ遠そうでさぁ」と、妙にサバサバとした口調でミケルは言います。良太はどう返事をしたらいいものか考えあぐねて、当たり障りのない返事を返すばかりでした。
ミケルによると、猫ならば誰でも素質はあるようらしいのですが、実際に人間に聞こえるようになるにはかなりの鍛錬が必要とのことで、ミケルも実際に人間に聞こえるように言葉を表に出せるようになったのは、ここ最近の話だといいます。それでも人通りの多い都会では、まさか猫の声だとは誰にも気付いてもらえなかったそうで、良太がミケルの声に気付いてくれたのはとっても運が良かった、とミケルは話しました。
「坊ちゃんはなかなか筋がいい。将来大物になりますでしょうな」
「猫に褒められるなんて不思議なこともあるもんだなぁ」良太は感慨深げに言いました。
「さて、大体あっしについては理解してもらえたようですし、ここらで本題と行きやしょう」
「本題?」
ミケルは一つ頷くような仕草を見せると、そもそもなんで良太に声をかけたのかについて、ゆっくりと語り始めました。
ミケルが良太の町に来たのはほんの1~2週間前のことなのだそうです。特にあてがあるわけでもなくぶらりと立ち寄ったそうで、町中の飼い猫や野良猫に挨拶をして回っているうちにとある年かさの茶虎猫から相談事を持ちかけられたと言います。
「どんなことだったの?」
「ま、下らねぇ意地の張り合いでさぁ」
良太の問いにミケルは如何にもうんざり、と言ったように首を横に振りながら答えました。その茶虎猫によると何年か前から野良猫同士の縄張り争いが起こるようになったそうで、始めのうちは軽いケンカがたまに起こる程度だったのが、段々とお互いに刺々しくなっていって、今では無関係な野良猫や温厚な飼い猫たちを巻き込みかねないような激しい対立になってしまったらしいのです。
良太はそれを聞いて色々思い出すと、確かに最近猫同士が争うような声をよく聞いていたような気がしました。それを聞いたミケルは深い溜息を吐いて言いました。
「ま、野良猫同士でやり合うなんざ日常茶飯事ですし、坊ちゃんたちもそれほど気にゃならんでしょうが、ことが大きくなって飼い猫連中に被害が出ちゃあ、あの恐ろしい「保健所」とやらの人間どもが動き出さないとも限りませんしなぁ」
ミケルが思いのほか人間の動きまで深く見ていることに良太は驚きながらも、どうやら相当深刻な事態になっているらしいことは見て取れました。
「で、それがぼくに声をかけたことと、どういうふうに繋がるの?」
「さぁさぁ、そこでさぁ、肝心なのは!」良太の問いかけにミケルは尻尾をぶんぶん振り回して応じました。
ミケルは相談を受けてからあれこれと数日思案に思案を重ねて考えた末に、名案を思いついたのだそうです。ただ、その名案を実行するためには人間の、それもなるべくなら子供に手伝ってもらいたかったのだそうで、眼鏡にかなう子供を探して子供が多く集まるような場所を物色していたのだそうです。
「そこであっしの眼鏡に叶ったのが坊ちゃんだったって、そういうわけでさぁ」ミケルは妙に自信たっぷりにそう言いましたが、ではどこが良かったのかと良太が聞くと「そりゃまぁ、全体の雰囲気、ってとこですかねぇ」と、はぐらかすような答えしか返ってきません。良太は狐につままれたような、釈然としない気持ちになりました。
良太が自分の説明では納得していない、というのはミケルにはどうやら織り込み済みだったようで、「ま、坊ちゃんを危険な目にあわすつもりはあっしにゃさらさらありゃあせん。大船に乗ったつもりで、どんと構えていてください」と励ますように言いました。
「そんなこと言ったって、どうすればいいの?人間のケンカだって見るのが嫌なのに、まして猫のケンカなんて、どうしたらいいのか・・・」良太はすっかり不安になってしまいました。
「それそれ、そこが一番大切なんでさぁ。だからこそ坊ちゃんに声をかけたわけで」ミケルはそんな良太に謎めいた言葉を漏らしました。
「ん?なんのこと?」
「おっと、こいつぁ口が滑った。いけねぇ、いけねぇ。ともかく、坊ちゃんならきっとうまく収めてくれると信じてやすよ」慌てて取り繕うように早口でまくしたてると、スッと立ち上がりました。どうやら良太にこれ以上話すつもりはなさそうです。
「しょうがないなぁ」元々頼まれたら嫌とは言えない性格の良太は、人間ではなく猫の頼みとはいえ、やっぱり嫌とは言えないらしく、諦めたように頷きました。
「いやいや、ありがてぇ話でさぁ。それじゃ一つ、よろしくお願いしやす」ミケルは良太の内心を知ってか知らずかすっかり気楽な口調で話し、最後に「明後日の夜が明ける少し前、4時半くらいに、ここのすぐ近くにあるでっかい建物のそばにある駐車場にお越しくだせぇ。お待ちしておりますんで」と話すと、軽やかな身のこなしで建物と建物の間の狭い狭い路地の奥に姿を消しました。
明後日。早起きのために前の晩、いつもより早く寝た良太は眠い目をこすりながらも夜明けの少し前に眼を覚まして、両親がぐっすり眠っているのを確認すると着替えを済ませてこっそりと家の玄関から外に出ました。
ミケルの言っていた「すぐ近くのでっかい建物のそばにある駐車場」に近付くと、車と車に挟まれた空間のどこかから、何やら唸り声みたいなものが聞こえてきます。
良太は耳を澄ませながら声のする方へと歩いていると声の場所から少し離れた場所にミケルが居るのに気が付きました。まじまじと前方を凝視しています。
良太がそろそろと近付いていくと、すぐにミケルは気付いたようで、良太の方に首だけ向けて「お待ちしておりゃあした」と声をかけました。
「いやはや、あっしの計算より早くことが始まってしまいやして、危うく手遅れになるところでした」
「手遅れ?」良太が言うと、ミケルは前方を指し示しました。
良太がそっちを見てみると、そこでは二匹の猫が激しく争っていました。
片や全身真っ黒の大きな黒猫で、いかにも野良猫の総大将といった迫力ある動きでした。もう片方はキジトラの毛をしたやや小柄な猫でしたが、その分動きはすばしこく、眼には闘志が溢れ出ているようでした。どちらにも首輪はついていません。
二匹の猫は既にボロボロでしたが、それでも争いをやめようとはしません。争いに集中しているのか、良太が近付いていたのにも気付いていません。
「あいつらがここらの総元締めの二匹でさぁ。見てわかりますでしょうが、どっちも相手を潰してやることしか頭にありゃあせん」ミケルは全く嘆かわしい、といった風情でしきりに首を左右に振っています。
良太は気付かれないようにミケルのそばにしゃがみ込むと「それで、どうすればいい?」と訪ねました。
「まず、あっしが最初に声をかけやす。あいつらの動きをとにかく止めて、話を聞かせる状況に持ちこみやすから、その後あいつらを説き伏せてやってくだせぇ」
「わかった」
良太の返事を受けてミケルは、頼みやす、とだけ言うと一歩だけ二匹の方に進み出て、それまでの良太に対する声とは全く違うドスの利いた声で、「おい、いい加減やめねえか!」と怒鳴りつけました。
二匹の猫はそれを聞いて取っ組み合う寸前の状態から素早く後退って間合いを確保すると、ミケルの方を見、その先にいる良太の姿を認めると二匹が二匹とも露骨に不快そうな唸り声を上げました。
最初に声を上げたのは黒猫の方でした。「おい、流れもん。話が違うじゃねぇか?なんで人間のガキがこんなところにいるんだ」
「てめぇ、人間のガキの威を借りようって魂胆かよ」それに合わせるようにキジトラの方も声を上げました。
二匹とも文句をブツブツ言いながらも目の前の相手に対する牽制も怠れないため、戦闘態勢をとったまま固まっています。
ミケルはそんな二匹のことを冷ややかに見やって話し続けます。
「早合点すんな。そんなつもりはサラサラねぇ。ただ、こちらの坊ちゃんは普通の坊ちゃんとはちょいと違う」
「どう違うってんだ?」またも先に口を開いたのは黒猫でした。
ミケルは肩をすくめるかのように前脚を震わせると、両者の間に割って入り、言葉を続けます。
「ま、確かに人間が信用ならねぇ、っていうのも分かる。連中にとって俺たちゃ単なる慰みモノだ。形ばっかり大切にしているようでも、最後は自分たちの理屈で俺たちを振り回すばっかりだ」
それまで愛想たっぷりのミケルの言葉を聞いてきた良太にはとても信じられないような人間への不信感に満ちた言葉だった。ミケルがどこに話を持っていこうとしてるのかが分からず、呆然と成り行きを見守るしかなかった。
二匹の猫も良太同様、ミケルの思惑が読めないようで、一旦お互いへの戦闘姿勢を完全に解いて、黙ってミケルの話を聞く態勢を取りました。
ミケルはそれを見て取って、軽く口元を緩めると一瞬だけ良太に、心配ご無用、というような視線を送り、言葉を続けました。
「でもなぁ、俺は時たま思うんだ。同じ猫同士でいくらやりあっても、少しも問題が解決しないとなったときに、じゃあ猫以外の誰かの意見を聞いてみるのも良いんじゃないか、ってな」
ミケルは周りの反応を確かめるようにゆっくりと言葉を紡ぎます。
「犬はどうか?奴らはだめだ。人間以上に猫には冷淡な連中だ。じゃあ鳥は?ふわふわ浮かんでばっかりの奴らに、飛べない俺たちの気持ちが分かるもんか。そうすると、選択肢はそんなに多くない」
ミケルはそこで言葉を切りました。ゆっくりと二匹の間から離れて、両者の顔を見比べています。
「つまり」キジトラはミケルの方だけを見て言いました。「そのガキの言うことに従ってみろってか?」露骨に不愉快そうに身を震わせています。黒猫の方も「やってられるか」と言わんばかりに良太のことを睨みつけています。
ミケルはやれやれ、とでもいうように二匹の猫を見て軽く首を上下させると、二匹をとりなすような口調でいいました。
「ま、言うことを聞け、とまで言うつもりはねぇ。ただ、お前さんたちもいい加減争い続けるのにも飽きてきたんじゃないのかい?だから、ここはお互いのこれからのためにも、ここらで落とし所を見つけて、一休みとしゃれ込むのはどうか、ってことさ。俺は猫だがここの猫じゃねぇ余所者だ。坊ちゃんは人間だがここで暮らして長いらしい。俺と坊ちゃんを合わせて2で割りゃ、ちょうど釣り合いも取れる。どうだい。俺たちの顔を立てる意味で、この話に乗るだけ乗ってもらえねぇもんかね?もちろん、気に入らねぇと言うならそれはそれで構わねぇ」
ミケルはそう言い切ると、「あとはお任せしやす」とでも言うように良太に視線を送るとそのまま二匹の方に向き直り、じっと座って動きを止めました。
二匹の猫もお互いに顔を見合わせてから、静かに視線を良太に向けました。
さて、これからどうしたらいいものか。良太は内心とても不安でたまりませんでしたが、「こうなったら、もうとにかくやれるだけやるしかない」と覚悟を固めて、まず黒猫の方を見て「じゃあ、とにかくまず君の言い分を聞かせてよ」と言いました。
黒猫は不承不承という態度を隠そうともしませんでしたが、ぼそぼそと自分の主張を説明しました。途中キジトラの方が何度か横槍を入れてきて、その度に口喧嘩になりかけるのを良太は必死で止めました。黒猫のほうの言い分を聞いた良太は今度はキジトラの意見を聞き始めました。するとやはり黒猫が何度も横槍をいれてきて、ここでも良太は喧嘩を止めないといけませんでした。
ただ、両者の話を一通り聞き終えた良太は、ふと「この二匹はお互いが言っているほど、嫌いあっているようには見えないな」と思いました。始まりが何だったのかもお互いに覚えていないようでしたが、両者とも最初は「ほんの軽いすれ違い」という程度の関心しかなかったそうなのです。でも、お互いがお互いの仲間うちで妙な意地を張っているうちにどんどんあとに引けなくなってしまい、結果として大喧嘩に発展していったのだとも。
良太は一生懸命頭を働かせて二匹を間を取り持つ案を考えていましたが、ややあってしゃがんだ姿勢からゆっくりと立ち上がり、二匹をそれぞれ一度ずつ見つめてから口を開きました。
「結論から言うとね、ぼくはこの喧嘩を止める必要はないと思う」
二匹の猫は良太の口から出た意外な言葉に目をまんまるにして驚きました。
「おいおい」キジトラが呆れたように言いました。「お前何いってんだよ。俺たちの喧嘩を止めるんじゃなかったのか?」
一方、黒猫の方はひと声鳴いてみせると「なかなか面白いじゃねえか。続けてみろよ」と試すような口調で言いました。その眼は鋭く良太を睨んでいます。
「続けるよ。二人、いや二匹だっけ?まあどっちでも良いんだけど、とにかく君たちの意見を一通り聞いてみて、どっちの言い分にも説得力があったし、どっちにも問題はあるんじゃないかって思えた。だから、どちらか一方が正しいなんてとてもじゃないけれど決められない。だけど」
「だけど?」「どうだって言うんだ?」黒猫とキジトラが言いました。
「だけど、ぼくには君たちが本気で嫌い合っているから喧嘩している、っていうようにはどうしても思えないんだ。君たちだって最初はこんなことになるなんて思いもしてなかったって、お互いに言っていただろう?」
良太の言葉に、二匹の猫は顔を見合わせてから、ぎこちなく頷きました。ミケルはそんな二匹の方を向いたまま、良太の方を見ようとはしません。
「だったら、お互いに謝り合ってとは言わないけれど、お互いに譲り合うことくらいなら何とか出来るんじゃないのかな?どこでお互いが譲り合うのかは二人で話し合いでも何でもして決めればいいと思うけれど、とにかくお互いに譲り合う余地が十分あるのにそれをしようともしないで、いたずらに周りを巻き込んで大喧嘩をしているっていうのは、たとえ猫同士の問題だったとしても、ぼくには放っておけない」
良太は自分なりに考えた結論を二匹に言い終えると、そのままの姿勢で二匹の猫たちが自分の話をどう受け止めたのか、確かめるように黙って二匹の猫たちを見つめています。
二匹の猫たちもしばらく黙ったままでした。時折お互いに顔を見合わせたり、何事か考えを巡らせているようでしたが、ややあって黒猫のほうが先に口を開きました。
「変なことに付き合わせちまって悪かったな、坊主」喧嘩中とは打って変わって神妙な面持ちです。キジトラの方も黒猫の言葉に大きく頷いて、「黒猫の大将よぉ、場所を変えようや。これ以上坊やを巻き込むのも酷な話ってもんだ」と落ち着いた口調で言いました。
「全くだ。猫の問題の決着は、最後は猫同士でつけねえとな」
「ま、そういうわけだ。世話になったな、坊や」
黒猫とキジトラは口々にそう言うと、両方とも軽く良太に会釈のような感じで首を動かすと、ゆっくりと立ち上がりました。そして、黒猫はミケルに向けて「なるほど。お前は確かに頭がいい」と言い捨て、キジトラもまた「まさか人間の坊やにしてやられるとはな」と話を合わせるように言って、揃って裏路地へと姿を消していきました。
あとに残されたのは良太とミケルだけです。ミケルが言いました。
「いやぁ、坊ちゃん!実にお見事!」ミケルは感に堪えぬ、といった風にしきりにしっぽを振っています。
「まったく、一時はどうなることかと思ったよ」良太は気が抜けたのか、くたびれたように大きくため息をつきながらそう言いました。「事前に打ち合わせもなんにもしないで、いきなりその場で話をまとめなきゃいけないんだもの。流石に少しひどいんじゃないの?」良太は納得行かない、と言いたげな表情でミケルのことを睨みつけるように見つめています。しかし、ミケルの方は澄ましたもので、「いやいや、坊ちゃんは芝居が打てねぇタイプだから、事前に打ち合わせてたら逆にうまく話が出来ないだろうなぁ、と思ったもんですから」と、しゃあしゃあと言い放ちました。
「よく言うよ。それでうまく行かなかったらどうするつもりだったの?」良太はなおも食い下がりました。
「いやいや、あっしは坊ちゃんが失敗するなんて夢にも思っていやせんでしたが」そこまで言ってからミケルは良太のことをじっと見つめ、やがて妙に真剣な口調で「ま、そんときゃあっしがこの命に変えても坊ちゃんのことをお守りする覚悟でした」と言いました。ミケルの真剣な話しぶりに良太もそれ以上の追求はやめることにしました。そんな良太の態度を見て、ミケルはうんうんとでも言うように静かに首元を揺らし、空を見上げながら言いました。
「何はともあれお手柄でした、坊ちゃん。そろそろお家に戻られないとまずいんじゃないですかね?」
ミケルの言葉に良太も空を見上げました。家を出たときはまだ暗かったのに、今はすっかり明るくなっていて、そのうち朝日が昇ってこようか、というような時間になっています。それに気付くと、良太は急にそわそわした気持ちになりました。
「早く帰って部屋に戻らないと。母さんに気付かれでもしたら大目玉だ」
言うなり良太は慌てて家に向かって走り出しました。ミケルもまた良太のあとを追ってその場から素早く離れていきました。
良太は何とか両親が起き出すぎりぎり前に家にたどり着くことが出来て、自分の部屋の中でほっと胸をなでおろしました。
それにしても、何とも不思議な体験をしたものだ、と良太は思いました。両親も友達たちも良太が「猫同士の喧嘩を仲裁して話をつけた」などと言ってもまず信じてくれないでしょうけれど、良太はその朝の出来事をずっと長い間忘れないようにしよう、と思いました。
それから数日の間、良太が小学校から帰る時間になるとミケルが姿を見せて、その後どうなったのかについて話してくれました。その後黒猫とキジトラは何度か話し合ったようで、最終的に喧嘩をすることもなくお互いの縄張りを尊重しあう、といったような約束をして周りにも取り決めを守るようにと言いつけたのだそうです。
ミケルはそのことを話し出す度に良太のことをしきりに褒め称えるので、良太は恥ずかしがりながらも満更でもない気分でした。
ミケルが「再び旅に出ることに決めやした」と別れを告げに現れたのは、それからさらに数日経ってからでした。状況も落ち着いて、もう自分がいなくても大丈夫だろうと判断したようでした。
良太はそれを聞いて寂しく思いましたが、引き止めようとは思いませんでした。良太はミケルにとって一番大事なのは、恐らく一番最初の「やんごとなき」ご主人さまのことだけなのだろうと、良太にはなんとなく察しがついていました。
ミケルがそんな良太の思いに気付いたかどうかはわかりません。ただ、別れ際に「坊ちゃんはきっと将来でっかい人間になりますぜ。あっしが保証しやすよ」と太鼓判を押すと、「そんじゃあ、またどこかでお目にかかりやしょう」とあっさり言って、最初にあったときと同じように裏路地へと姿を消していきました。
それ以降、良太が人間の言葉をしゃべる猫と出会ったことは二度とありませんでした。
良太とミケル 緋那真意 @firry
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