第4話 厭世や慈愛

 森から街の方に帰ってくると、家の近くの灯りはほとんど消えていた。繁華街も、灯りがついているのは居酒屋と娼館くらいのものだ。


 人とすれ違った時、ほのかに自決草じけつそうの、隈笹くまざさの、夜の森の匂いが香った。

 香りを視線で追うと、白銀色の長髪が目に映った。それは彼女が歩く度に跳ね、夜の街を切り裂いていた。ネサだ。


 テスの視線を感じたのか、彼女は振り向いた。


 先ほど森の奥で振りまいた神々しさは感ぜられなかった。代わりに夜の街の色に合わせた妖艶さをまとっていた。すずやかに張りつめた夜の空気さえ、溶かしてしまいそうなほどあでやかな温度。先の月明かりは、ゲネのために纏っていたのだろう。


 二人はしばらく見合ったまま声を発さなかった。やがてネサは、テスが手に持った一輪の花を見て口を開いた。


「あら、その花……」


 次の言葉を、発していいものかどうか迷っているように、最後の言葉は闇に滲んだ。


「綺麗だろう? この花の名は、まだないんだ」

「え? でもそれ」

「これから僕が花の名を付けようと思っているんだ。慎重につけなければいけない。何せこんなにもきれいな花なんだから」


 テスは俯いた花を、でるように見る。


「そう、ね」


 彼のその慈愛に満ちた瞳に、彼女は何を見たのか、少し驚いたように曖昧な相槌を打った。


 テスは彼女に改めて向き直る。


「ところで、君の名前は?」

「ネサ」

「そうか。じゃあ今からこの花の名は、ネサだ」


 ネサはそれを聞いて、一瞬キョトンとしてから、ふふふと嬉しそうに笑った。


「そう……。では、その花の名前をみんながそう呼ぶ時が来たのなら教えて。きっと会いに行くわ」


 彼女はそう言い残すと、踵を返してまだ灯りが残っている街へ消えて行った。


 テスは慈しむような笑顔を彼女の華奢な背中に向けて、それから月を見上げた。ゲネもまだ見上げているだろうか。


 テスは密かに誓いを立てた。


 いつかこの心のざわめきを乗り越え、自らの正しさを示す。

 そしてその果てにこの花の名前を変える。

 夜の森の静寂の中のあの月を纏った美しき花——ネサという名に。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

死善の杜 詩一 @serch

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

同じコレクションの次の小説