第3話 革命か非常

 テスが近づいていく間、男は座ったままだった。彼からは文句の一言も上がらない。それどころか警戒の視線すらない。裸のまま陰部を隠すこともなく月を見ていた。

 そしてゆっくりと、まるで視線を下ろすついでともいうべきしなやかさで、テスの瞳を見つめた。夜の森の静寂を宿した瞳だった。


「あ、あの、すみません。悪気はなくて」

「ふむ、敵意はないようだな」


 確認するように小さく首肯したのちに、男はそのまま自身の陰茎に手を当てた。今まで女性が跨っていたそれは、未だに彼女の愛の雫でべっとりと濡れており、先端の敏感な部分はぬらぬらと怪しく光を反射していた。男はほそふしくれだった指で包み込み、ぬるりとした液体を潤滑油にして、陰茎をしごき始めた。


 テスは声を出すこともできず、咄嗟とっさに目を背けた。あまりに不意な奇行だ。やめてくれと声もかけられず、かといって逃げ出すこともできず、直立不動のまま、彼の自慰行為が終わるのを待つよりほかなかった。


 ほどなくして男から小さなうめき声が聞こえると、テスの目線の先の隈笹くまざさにドロッとした白濁液が振りかけられた。まるで無理矢理自慰行為を見せつけられたような嫌悪感に、彼は背中を撫ぜられた。

 テスは悪寒に身震いするのを必死に堪えながら、男に視線を向け、引きつった顔で聞く。


「どうしていきなり」

「先は君の気配に感づいてしまって、情事の際にイケなかったのだ。敵意ある者が近づいてきているのだとすれば、ネサを守るためにも、足腰が覚束ないではいけないだろう?」

「そ、それはすみませんでした。しかし人前で恥ずかしくはないのですか?」

「気持ちが良くてお金も掛からない。こんなに良いものはない」


 彼の常軌を逸した発言と行動。それに気を取られたためすぐには無理だったが、テスは一瞬遅れで彼が耳慣れない言葉を放ったことに気付いた。


「お金?」

「ああ。……ん? そうか。私が変えたのだったな。君らでいうところのカードだ。お金は、昔の言い方だな」

「そうなんですか。え。昔って、失礼ですが、あなたはおいくつなのですか?」


 あまりはっきり見えないにしろ確実に白髪交じりであろう頭髪と、びっしりと蓄えられた髭。とても40歳前後には見えない。


「もう忘れた。だが80にはなったのではないかな」

「は、80!?」


 テスは驚愕した。今まで80歳どころか、50歳以上の人間を見たことがなかったのだから。彼はしばらく硬直し、僅かばかり動いた思考の先で思い至った。この長生きの男ならば、自分の死に対する胸の奥のざわめきの正体を知っているかも知れない、と。


「僕は、テスと言います。あなたは?」


 テスは腰を落とし、片膝をついて男の目線に合わせた。


「ゲネだ。君は私の年齢を聞いて驚きはしても、死ぬことを勧めないのだな」

「ええ、はい」

「それにどうやら、自決草じけつそう目当てでもないように見える」


 ゲネは隈笹より少し背の高い白色の花を見た。てのひら二つ分の丈の茎の上に、ふるりと小さな花びらが、鐘のようにおしべとめしべを隠して下を向いている。


 テスは自決草からゲネに視線を戻した。


「実はその、僕は25歳で、結婚もしないですし、当然子供もいませんから、そろそろ死ぬ時期なのですが」


 そのあとはさすがにスッとは出てこない。


「君はもしかして、死にたくないのか?」


 胸中を言い当てられ、電撃に胸を穿うがたれる。


「え、ええ。あ、いや、死にたくないとまではいかないのですが、なんともこう、死のことを思うと胸がざわついてしまって……いや、おっしゃる通り、死にたくないのでしょうね。ははは、は。変ですよね」


 言われたゲネは思案気に顎髭を撫ぜ、ゆっくりと息を吐いた。


「そうか。まさか支配から逃れていた者が居たとはな。いや、或いは支配の影響を受けない新たな人類が生まれたのか」

「支配?」

「ポリティコン・ノミスマ」


 ゲネは不意に言い放ち、木のてっぺんを見るようにテスから視線を外した。


「ぽ、ポリ?」


 聞き返しながら、テスは下からのぞき込む。すると夜の森の静けさを携えた瞳が、じっと見下ろす。


「ポリティコン・ノミスマだ。この世に広く知れ渡った、社会通念、概念、倫理、道徳、価値をまとめてそういう。私はそれを覆し、死を幸福なるものだと言い広めた。新しいポリティコン・ノミスマを作り上げるための布石として。だから私に覆される前の人間は、君と同じように死にたくない、長生きをしたいという者たちで溢れていたよ」

「本当ですか!?」

「ああ、みな死を最大の不幸と考え、死を遠ざけていた。そして死ねばみな悲しんだ」

「……しかし、だとしたらどうして人は子を産むのです!? 死が最大の不幸だとすれば、抗いようのない不幸へ愛するわが子を差し向わせるような不徳を、なぜ人々は嬉々として行うのでしょう? あまりに道徳的ではないことではありませんか」

「そうだ。道徳的ではない。そして、なぜの答えはあまりに野性的だ」

「野生?」


「そう。ただひたすらに、種族を絶やさぬため。人間というカテゴリーをこの世に残し続けるためだ。その為なら、人々は簡単に我が子を不幸なる宿命のもとに産み落とす。死という逃れようのない不幸の烙印らくいんを背中に押すのだ。こんな不条理かつ非道徳なことはない。だから私は、より高次元的な産む意味を与えてやった。それがという概念だ。そうすれば人々は矛盾から解き放たれ、新たな価値観を見出す。それを皮切りに、金銭の価値観も変えてやった。君は労働の対価にカードを得ただろう。それで何を手に入れた?」


「パンとチーズを。【5】だったので、【4】と【13】の商品と交換してもらいました」

「もしも昔の貨幣価値、すなわちお金なら、【5】を【1】にして【13】のものを得るという方法は通用しない。【1】では【1】のものしか手に入れられない」

「そんな。パンと角砂糖1個だけ」

「しかも毎日【5】しか支給されない」

「【6】や【7】に変わることはないというのですか」

「ああ。しかも【9】を得た者は毎日【9】を与えられる」

「あんまりだ!」

「だが不意に【3】や【2】に変わることもない」

「う……それは、少し助かるかも知れませんね。しかし、【9】の人はずっと【9】を貰い続けるなんて、あまりに平等性に欠ける。つまり【1】の人はずっと【1】ということでもあるのですよね?」

「そうだ。その不平等性をなくし、高次元での平等を与えるため、私はお金という通貨の概念をなくし、カードを分配するように仕向けたのだ。人々から安心を奪い、代わりに希望を与えてやった。私は人間を支配することができるのだ」


 ゲネは瞳を開き、口角を吊り上げた。

 どこかで鳥が鳴いた。風が隈笹をさらさらと揺らした。


「つまりあなたの意のままに、世界の全てをそう変えた」


 テスはカサついた咽喉のどから、慎重に言葉を吐き出した。その言葉で咽喉のどを切ってしまわないように。


「そう。変わってみれば、それまでの時代の全ての価値観がおかしいように感ぜられるだろう。変わる前は、私がおかしな人間だと思われていたのだがな」


 ゲネは人差し指をテスに向けた。


「君はおかしな人間なのか。それとも私と同じ革命の意思を持った人間なのか。それは分からないが、これも何かの縁だ」


 彼はそう言って、近くにあった自決草の花を摘んだ。そしてその花を視線ででる。まるで愛しい女性を愛撫するかのように。

 その様子を見て、テスは先の情事を思い出していた。彼に抱かれたネサのことを。


「とても美しかったろう? ……この自決草のように」


 言われてぎくりとする。この男は、テスの心を読んでいるかのような発言をする。人間を支配するという言葉が本当なら、心を読むことも容易たやすいのかも知れない。


「どうしてこの花はこんなにも美しいのに、自決花じけつかではなく自決草なのだろうか。わかるかね」

「さあ、そういうものだと思っていましたから」

「人間に幸福なる死をもたらす毒は、葉の方にあるからだ。花に毒はない。人々が幸福なる死を甘受したいと願い続ける限り、この美しい花は、永遠に花として認識されないのだ」


 ゲネはそっと、その一輪の花をテスに向けた。


「食べても死にはしない花だ。これはすでに自決草ではない。さて、どうする?」


 確かにそれに葉はついていない。彼はゆっくりと手を伸ばし、その花を受け取った。潰さないようにたおやかに包み込み、俯いた花の奥ゆかしさに見入った。


「ありがとうございます」


 テスは心の奥のざわめきが、この花に吸い出されていくように感じた。

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