第2話 月影の白銀

 気付けば森に足を踏み入れていた。

 いつもより明るい夜に、まだ眠るなと言われているようで、テスの頭は明瞭に冴え渡っていた。このまま家のベッドに横たわっても、とても眠れそうになかった。なんにせよ先の会話が頭から離れそうもなかったので、彼には散歩をする時間が必要だったのだ。


(やっぱり僕はおかしな奴だよなあ。みんな僕のために死を勧めてくれているというのに、全然応えられない)


 父母は、彼が二十歳の時に死んだ。二人とも自決だ。とても穏やかで幸せそうな死に顔だった。葬式を開いたら、みなお祝いをしに来てくれた。死者である父母含め、みなが笑顔だった。死は最高の幸せなのだ。

 しかし、テスはどうしてもそれを受け入れられないでいた。ちょっとした違和感のようなものが、胸の中に一滴落ちて、初めは波紋だった。それが次第に渦を巻き始めて、広がり、もう二度と静寂が広がることはなかった。


 彼も頭の中での理解はできている。そのために生まれてきたのだから。死という幸せを甘受するために。子を産むならば子が成長するまでは責任を持って生きるとして、産まないならばさっさと死んで幸せになった方がいいのだ。25歳で死ぬ権利を得られるのだから。だが、理解はできていても、死のことを考えると心の奥の方がざわめくのだ。テスは死ぬにせよせめて、この心の奥のざわめきが己にだけあるものなのか、それとも他の者もまた同じざわめきを抱えているのか。それを知らずにはいられなかった。いられなかったが、聞くこともできず、ただ時間だけをやり過ごしてきた。


 しばらくそんな取り留めのないことを考えながら、森の奥へと歩みを進めて行った。するとどこからか、声が聞こえた。オーボエの高音域のような、鼓膜の裏側にうれいの余韻よいんを残す女性の声だった。それはテスから意外と近い場所からだった。気付かないほどに、彼は深く考え込んでいたようだ。


「あ、あっ……ん」


 木の陰から声がした方の様子を窺う。

 視線の先は、木々がなく視界の開けた場所。背の低い隈笹くまざさの群生の中心。

 そこには、月明かりをまとった女性が居た。

 彼女は服をはだけ、腰を下ろしたままで、一心不乱に舞を踊っていた。露出した肌は静脈が透けるほど白く、絹のように柔らかでキメが細かい。そこから玉のように浮き出した汗が流れ、上下に動く度に弾け、月を反射して、宝石のように彼女の周りを彩る。踊る度、白銀色のしなやかな長髪が夜空をバラバラに切り裂き、乳房は跳ね上がり、その先端の桃色は森の闇に光の弧を描く。


 しばらくその等間隔のリズムが続いたと思うと、不意に一際高い声が響く。それ以上の声が漏れ出て行かないよう、彼女はきつく唇をむすんだがしかし、その端からはツッと一滴の雫が長い糸を引きながら落ちて行った。女性は髪を振り乱し痙攣けいれんしたのち、大きく息を吐いて前のめりに倒れた。


 テスはその時ようやく、彼女が情事に及んでいることを知った。彼女の倒れた先に、男の胸板が無ければ、いよいよ舞を見ただけと勘違いしてしまうところだった。

 それほどに美しかった。いやらしいより、神々しいが先んじた。

 だがそうだと解ったあとで、先の光景がもう一度脳裏をよぎると、自身の下腹部に血液が集まってくるのを感じた。


 テスは、そうなってから初めて自分がそれまで動けないでいたことを悔いた。彼女の声が果ててからは、鳥の鳴き声もしない、恐ろしいほどの静寂だ。今ここで動いて枝を踏み割ろうものなら、二人に感づかれ、何をされるかわからない。彼はゆっくりと身を伏せて二人が立ち去るのを待った。


 ほどなくして女性はその場から立ち上がり、衣服を正すと、何事かを男に囁き去っていった。

 あとは男がこちらに来ないことを祈るばかりだ。

 しかし、


「その木の陰にいる者よ。私に何か用か?」


 テスは思わず飛び上がり木の枝を踏み割ってしまった。瞬時に声を抑えたが意味はない。致し方がないと諦めて姿を見せることにした。

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