死の扉
koumoto
死の扉
扉を開けると、ぼくの死体があった。
朝の起き抜けの出会い頭に見るにしては、あまり気持ちのいい光景ではない。ぼくはトーストをくわえながら走っていたわけではないが、トーストをくわえながら走っていたとしたら、くわえていたトーストを落としていたのは確実なほどに、ぱっくりと大口を開けて間抜け面をさらしてしまった。
しかしとにかく目の前の地面に転がっているのは、ぼくのくわえていた架空のトーストではなく、架空ではなさそうに見えるぼくの死体なのであった。
といっても、ぼくはぼくの死体の脈を測ってみたわけでもないから、死んでいるという判断は、まったくもってぼくの直感によるものだ。脈を測ったところでわからないかもしれない。保健の授業で脈の測り方を教えてもらったとき、早速ぼくはうきうきしながら手首に指を添えて、自らの脈を測ってみた。
それでわかった事実は、ぼくには脈がない、ゆえにぼくは死んでいる、という結論だった。
その結論を教師に伝えた結果、ぼくは死んでいるのではなく、脈を測るのがど下手なだけだと、事実は若干の修正を受けた。修正を受けなければ死んだままであったから、危ういところであった。
しかしそのときはせっかく生き延びたのに、いまこうして目の前でぼくが死んでいるわけである。困ったことだ。
でもこれは本当に困ったことなのだろうか。まあ状況を整理して、冷静に考えてみよう。
いまは朝。ぼくは行きたくもない学校へ向かうため、いたくもないわが家の扉を開けて外に出た。すると眼前に広がった景色は、いつも見るものとは違っていたわけだ。
いつも見るものの不完全なリスト――空、雲、自転車、門、隣家、道路。
いま見えたものの不完全なリスト――空、雲、自動車、血、死体、道路。
なぜだかわからないが、ぼくの家の玄関を抜けると、そこはいつもの軒先ではなく、通学路途中の交差点につながっており、そこには車に轢かれたらしきぼくの死体が転がっているのだ。
交差点につながっていたのは、まあ、よしとしよう。扉をくぐると扉の向こうに出るというのが、ぼくの体得した物理法則のはずなのだが、今朝は物理法則の機嫌でも悪いのか、扉をくぐると扉のだいぶ向こうに出てしまったわけだ。ぼくは決して学校に行きたいわけではないのだが、登校中の時間が格別おもしろい道のりであるというわけでもないので、通学路が短縮されるのはけっこうなことではある。しかしそこにぼくの死体があるとなると、話はそう簡単にはいかなくなる。ぼくは決してぼくの人生を短縮したいわけではないのだ。
ぼくがぼくの死体を確実に死んでいると感じた根拠。それはその眼である。転がった死体はこちらに顔を向けていて、ばっちり眼が合ってしまったのだ。
優れた柔道家は、相手の帯の締め方を見るだけで実力の程がわかると、なにかで読んだことがある。著名な映画監督は、ほんの数秒、ほんの数カット見るだけで、その映画が傑作かどうかわかると発言していた。
そしてぼくもその眼を見た瞬間に、もしかしたらぼくが天才である証しであるかもしれない直感にいわば電撃的に襲われて悟ったのだ――あ、こいつ死んでる、と。
ぼくがぼくの死体をだれか他人の死体ではなくまぎれもないぼくの死体だと感じた根拠。それもその眼である。
頭の鉢は割れていろいろとこぼれてしまっていた。服装はぼくの行きたくもない学校の着たくもない制服。そばに落ちている鞄も学校指定の地味な鞄。そこから読み取れる事実だけからすれば、ぼくではない男子学生と判断してもよさそうなものである。
しかしその眼はぼくの眼だ。なぜそう思うのか。鏡で見慣れているから、ではない。凛とした意志の輝きの残り火が宿っているから、ではない。鷹のように鋭く獅子のように獰猛だから、ではない。
むしろその眼は猫のようで、つまり、ぼくはその朝、猫目のカラーコンタクトをつけて家を出たのだ。ぼくは猫がとても好きだし、登校時間のクソつまらなさに飽き飽きしていたこともあって、せめて瞳だけでも猫に扮して気分だけでも猫になったら、この人生の貴重な一日の貴重な朝も、なにやらご機嫌なものになるのではないかと、熟慮の末の決断だった。まさかそれが死体判別の役に立とうとは。車に轢かれて頭も割れたのに、コンタクトはなおも眼中にとどまったようである。なんという圧倒的保持力。猫目のカラーコンタクトをつけたまま登校中に轢き殺される男子学生なんて、ぼくくらいのものだろう。
そこでぼくはようやくのことで恐怖に蒼ざめた。なんてことだ。ぼくの死体を眺めているぼくとは、いったいどういうことだろう。ぼくは知らぬ間に双生児となってしまったとでもいうのだろうか。
ちなみにぼくの父には双子の弟がいて、これがどうも犬猿の仲である。昔、女性関係でいざこざがあったのよ、と母が訳知り顔でこっそり言っていた。父がもしも父そっくりの弟の死体を見たら、ざまあみやがれ、と快哉の叫びをあげて、それから丁重に弔い、くすねられるものはくすねて、葬儀の席で親戚たちに見守られながら涙ながらに一席ぶつだろう。愛する弟よ、なぜ死んだ、云々。父は感傷的な戯れ言が大好きだし、善い人間は死んだ人間だけだ、というのが父の座右の銘だから、死んだ弟は善い弟といえるだろう。
それはともかく、ぼくはぼくの知るかぎりではなにを隠そうひとりっ子なので、目の前のぼくの死体は、ぼくそっくりの兄か弟の死体ではないはずだ。これまで兄弟が欲しいと思ったことはないのだが、いまだけは兄弟がとてつもなく欲しかった。愛する弟よ、なぜ死んだ、と口にできればどれだけよかったことだろう。愛するぼくよ、なぜ死んだ、などとは口が裂けても言いたくない。
しかし現にぼくは目の前で死んでいるわけである。双子の話題なんかに迂回したせいで、恐怖に蒼ざめたことを忘れそうではあったが、どっこいまだまだ蒼ざめている。ついでに言えば、ぼくの死体もこころなしかもう蒼ざめている。
さて、ぼくが取るべき行動はなんだろう。扉の向こうにはぼくの死体。ぼくはいまのところまだ死にたくはない。目の前の事実をなかったことにしたい。さて、どうするか。
答えはトイレにおける作法にある。トイレの個室の扉を開けて、そこに先客がいたとしたら――ぼくは素早く後ずさり、そっと扉を閉めるだろう。
というわけで、この場合もそうした。
扉をぴったりと閉めたぼくは、わが家の玄関にて一息ついた。やれやれ、朝からえらいものを見てしまった。猫の気分になるどころではないな。というわけで、ぼくは洗面所に行き、猫目のカラーコンタクトを外した。
玄関に戻り、異物を取りのけた清々しい眼で、落ち着いてその場を眺めてみると――なぜさっきは気づかなかったのだろう。扉が二つあるではないか!
そもそも玄関の空間自体が変容している。鏡に映したように、二倍に拡張している。そしてそこに扉が二つ。ひとつは黒く、ひとつは白い。
もちろん、わが家はこんな奇特な設計ではなかった。白い扉の属する空間が、わが家おなじみの空間だ。黒い扉なんて初めて見た。知らぬ間に双生児になったのはぼくではなく、扉の方だったのだ。寝ぼけながらカラーコンタクトをつけて悦に入っていたぼくは、うかつにも気づかずに見知らぬ黒い扉から外に出てしまったのだ。
とりあえずぼくは、この建築学的不可解事を、キッチンにいる母に報告することにした。
「母さん、玄関に来てみてよ。扉が双子になっちゃった」
「あんた、なに言ってんの? 双子はお父さんだけでたくさんよ。……なによ、いつもと変わりないじゃない。ふざけたこと言ってないで、早く学校に行きなさい。遅刻するわよ」
なんたることか。母にはあの黒い扉が見えないようである。ちなみに母の視力は二・○である。ときどきかけるメガネは伊達であった。ど近眼ゆえに見えなかったというわけではなさそうだ。
ぼくはあらためて恐怖に蒼ざめた。あの黒い扉はぼくにしか見えないのだと、天才にしかきっと訪れないであろう直感にいわば電撃的に襲われて悟ったのである。
それはともかく、遅刻するのは嫌なので、ぼくは白い扉から外に出た。空、雲、自転車、門、隣家、道路――いつもと変わりない軒先であった。
そして登校するぼくは、あの交差点に差しかかった。ぼくの死体があった場所には――よかった、だれも死んではいない。
なんだ、結局、ただ寝ぼけていただけだったのかな。それにしても、縁起の悪い夢をみたものだ。どうせなら猫に殺される夢でもみたかった。猫パンチの乱れ打ちでボコボコに殴り殺されるのだ。理想の死に様ベストファイブに入る死に方だ。
とにかくもぼくはほっとして、なんだか爽やかな気分になり、行きたくもない学校に行くのはやめて、猫カフェでまったりサボろうか、などと考えながら、架空の死体を眺めるようにしてじっと立っていた。
すると、ものすごいスピードで走ってきた車が、これみよがしに信号を無視して、荒々しく蛇行しながら通りすぎていった。
あ、ぼくを轢き殺した車だ。やっぱり自動車って、いちばん身近な殺戮兵器だなあ――なんて呑気にほのぼのしていたのだが、ほどなくして、立ち止まっていなければ死体になっていたことに気づいた。
あれは、未来の光景だったのだ。あれは、ぼくの未来の死体だったのだ。あの扉は、死を見せてくれる扉だったのだ!
圧倒的な驚きと恐怖に蒼ざめながら、ぼくは猫カフェへと向かう方向に進路を取り始めていた。
それからというもの、ぼくは毎朝の日課として、黒い扉を開けるようになった。
ぼくは毎日、ぼくの死体と出会った。通り魔に刺されたり、同級生に刺されたり、またもや車に轢かれたり、工事現場の落下物が命中したり、飛び降り自殺者に命中したりと、散々だった。どうやらぼくの日々は死の可能性に満ち満ちているようだった。しかしぼくはぼくの死をことごとく回避した。まったくもって、黒い扉さまさまである。これさえあれば、老衰までは安泰ではなかろうか。
だけど困ったことに、ぼくは最近それをむなしく思うようになった。朝にぼくの死をみれば、ぼくの一日はその後、死を回避するために費やされる。死が近くまで迫れば緊張し、死が過ぎ去れば虚脱する。ぼくの貴重なる人生の貴重なる一日は、こうして死を中心に回転するようになった。ところで思い出したのだが、ぼくはぼくの人生を短縮したいとは思っていなかったが、ぼくの人生を引き延ばしたいとも思っていなかったはずなのである。死を避けるだけの人生なんてまっぴらだ。ぼくの愛する猫だって死ぬときは死ぬ。
そんなわけで、ぼくは今日から死の扉を開けないことにした。ぼくはぼくの死を知らないままに、今日を過ごすのだ。なんと当たり前の話だろう。
だけどいっぺんでいいから、猫に殺されたぼくを見てみたかったな。
死の扉 koumoto @koumoto
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