第2話 朝の匂い、血の臭い

 紋三郎は朝が好きだった。

 昔から何故かとても早起きで、十にもならない頃から町内で一番に目を覚ましていた。そして、一っ子一人いない通りを散歩するのが彼の日課だった。

 例えようのないほど澄みきった空気の中、幾度となく駆けた野原の草いきれも、しなやかに並走してくる野良猫も、頬を裂かんとするような冷たい風も、全てが彼の友達だった。そして退魔術師となった今でも、その習慣は抜けていない。

 宿が用意した浴衣を脱ぎ、外国のものだと言われて買った運動着に着替える。ただの散歩だったそれは、今の紋三郎にとっては体力作りの一環だった。

 紋三郎は宿の戸を開け、一度ゆっくり深呼吸すると、明るくなりだしたばかりの町へ走り出した。



 この世界の人間はみな、生まれつき術力じゅつりょくというものを持っている。術の行使で消費され、身体を休めれば自然と回復するが、元々あった術力より多くなることはない。

 そして、一定以上の術力を持つ人間が、強い未練を残して死ぬと、妖魔ようまになる。

 妖魔は凶暴な雑食の生物で、主に人を喰らう。知能は個体差があるがどの妖魔も人食いなのは事実であり、人類からすれば倒すべき敵にあたる。しかしそれらは人間よりはるかに強く、ただの人では太刀打ちできない。そのため、術を使って妖魔を退治する退魔術師がいる。もちろんながら他の事をする術師もいるが、七の都の術師全てを束ねる術師協会において、最も数が多く、かつ目指す者が多いのは退魔術師である。

 紋三郎もそれに憧れ、夢を叶えた少年少女の一人だ。

 今更ながら嬉しさが込み上げてきて、走りながらくすりと笑ってしまった。僕、退魔術師になったんだ。なれたんだ。はたから見たら変な人に見られるだろうが、それでも構わなかった。

 と、その時。

 「なあなあ兄ちゃん!ちょおっと助けてくれねーか!」

 「へ?」

 黒い髪の幼女が、ぎゅうっとすがりついてきた。足をきつく締める腕が、ぶるぶると震えている。

 …もしや。

 「妖魔が…妖魔が出てきたんだ!ほら…ほら、あそこ!」

 幼女の指の先には小さな林がある。…確かにする。血の臭い、死の臭い、穢れたものの臭い。嗅ぎ慣れない、恐ろしいものの臭いだ。

 「助けてくれよ!俺一人じゃ死んじまうよぉ!」

 「分かった、分かったから、えーと…あっちの宿に助けを呼びに言ってくれない?」紋三郎はそう告げたあと、何の迷いもなく付け足した。「大丈夫、できる限りの間足止めする。君は助かるよ」

 「分かったー!」

 幼女が駆け出すのを見送ると、紋三郎は林の方へ振り向いた。嫌な空気が近づいてくる。がさりがさりと音がする。怖い。首筋に刃が当てられているような、急に辺りの温度が何度も下がったような、そんな気分だ。怖い。怖い。怖い…、でも、やるしかない。やるしかないんだ。

 妖魔が顔を出す。血走った目がこちらを睨んでいる。研がれた牙が自分を刺そうとしている。だらんと垂れた舌から、血と涎の混ざった液体が滴り落ちている。自分のことを食べようとしている。

 紋三郎は両手を構える。今までの稽古や試験では刀を使っていたが仕方がない。素手に術力を纏わせ、一時的に力を増強させる。いける。いけるんだ。

 唸り声を上げ飛びかかってきた妖魔を間一髪でかわし、腹の辺りに一撃を叩き込む。やった、と思えたのは数秒で、妖魔はすぐに体勢を整えてきた。見切れないほど速くは動かないから避けられはするが、少しでも隙を見せたらすぐに喰われてしまうだろう。刀があれば受けることもできるのに、本当にもどかしい。

 右、左、右と、できるだけ少ない動きで攻撃を回避する。そんな紋三郎に苛立っているのか、妖魔は一度大地を割るような雄叫びを上げた。

 それと同時に聞こえたのは、

 「おっ、すげえ!妖魔だ!」

 「すごーい!強そう!」

 小さな子供の声だった。幼い子は妖魔の危険性を理解していないこともよくある。恐らく殺陣でも見ているつもりなのだろうが、このままでは危ない。妖魔が標的を彼らに変えたら、ものの数秒で屠られてしまうだろう。紋三郎は自分の状況も忘れて叫んだ。

 「早く逃げて!殺されるよ!」

 そう言いながらなんとか攻撃を裁ききる。子供が驚いたようにびくっと顔をひきつらせた。

 「ほら早く!本当に殺られ…うあっ!」

 「うわああっ!」

 「逃げろー!」

 生まれた一瞬の隙をつかれて、紋三郎の腹から血が勢いよく吹き出た。ようやく危険性を理解した子供たちが、向こうへ駆けて行くのを目で捉えながら、ばたりと妖魔に押し倒される。爪が胸に押し付けられ、生暖かい息が顔にかかった。

 死ぬのか。こんなところで、何もできずに。援軍もそろそろ来るだろうに。こんな、こんなどうしようもない終わり方で。

 激しい痛みとぼんやりした視界の中、紋三郎は悔しくて歯を食いしばった。

 ほら、幻まで見えてきてしまった。人間の腕が妖魔の頭を押さえつけている。…押さえつけている?

 「猫屋敷くん、救護頼める?」

 「ええ」

 「…ありがとう、後は任せて」

 「…み、な、さん…」

 ギリギリのところで、三人の援護が間に合ったのだ。

 「大丈夫じゃないですよね。前線は二人に任せて避難しましょう」

 「…っはい…」

 幸人に抱えられながら、紋三郎は死ぬまいと必死で息をした。その腹の傷に、幸人はそっと手を当てる。ふわ、と体が軽くなり、痛みも和らいだ。

 「ありがとうございます…」

 「いえ、よく頑張って下さいました」

 「兄ちゃんすげーな!」先ほどの女の子も顔を出した。「…ごめんな。ありがとうな」

 「退魔術師として、当然のこと…したまで、です…」

 紋三郎がそう答えた時、鹿乃子の声が聞こえた。

 「終わったわよ!」

 幸人ははい、と返事をすると、動けなさげな紋三郎をひょいっと抱えて歩き出した。

 「紋三郎くん、本当にありがとうね。経験積んでるのに、まともに助けてあげられなくてごめんなさい」

 彼は申し訳なさげな鹿乃子の言葉にふるふると首を振り、それより、と聞いた。

 「妖魔…どうなりましたか…」

 「大丈夫、ちゃんと倒せた」円が無機質でいながら少し柔らかい声音で言った。「鹿乃子さんが腕をいっぱい飛ばして、骨をばきばきにした。動けないから、そのうち死ぬ」

 妖魔は人間と同じやり方で殺すことができる。移動や狩りができないのなら、そのうち勝手に死ぬだろう。紋三郎は安心して、ゆっくりと目を閉じた。

 「この辺りに妖魔の目撃情報は無かったはずなのですがね…紋三郎さんには、無理をさせてしまいました」

 「そうねえ、悪いことしちゃったわ。普段から私の花を持たせておきましょうか」

 そんなことを話しながら、四人は宿への道を急いでいった。


 

 「よお兄ちゃん」

 「うわっ!…なんでいるの…」

 目が覚めた紋三郎の真ん前にいたのは、幸人や円ではなく、あの黒髪の幼女だった。どうやら三人は外に出ているらしく、部屋には二人しかいない。

彼女はこちらを見て楽しそうに笑っている。

 「へへん、俺、これでも癒術師ゆじゅつしなんだぜ。もう一人の兄ちゃんも癒術使ってたけど、本職じゃないだろーからあの時腹まだ痛かったろ。でももう痛くないだろ?見てみろよ」

 「あ…」

 いつの間にか着させられていた白いTシャツを捲ると、そこにあったはずの傷が跡形も無くなっていた。癒術は傷や病気を治す術であり、それらを扱うのが癒術師だが、短期間で跡を残さず治療できる者はそう多くない。まだ外は明るいままなので、経ったのは数時間かそこらだろう。癒術にはさほど詳しくない紋三郎でも、彼女の腕が良いことは理解できた。

 「すごい…ありがとう!…ございます!」

 「俺お前よりちっちゃいのに、わざわざ敬語使ってくれるんだな、いいやつ!」

 幼女はニコニコ無邪気に笑うと、右手を差し出した。

 「俺、月木雪つきぎゆきってんだ。よろしく。お前は?」

 「…紋三郎。浅葱紋三郎」

 紋三郎は雪の手をぐっと掴んだ。



 雪が帰って一時間弱、といったところか、三人が帰ってきた。色々買い込んできたようで、大きな袋をいくつも抱えている。

 「…本当に、ごめんなさいね。あの女の子が助けを呼んでくれなかったらどうなっていたか…嫌になるわ」

 それらを部屋の隅に置くと、鹿乃子は改めて頭を下げた。本当に負い目を感じているらしい。紋三郎はいえいえと頭を振る。

 「いいんです、誰にも言わずに外に出てしまった僕が甘かったんです。助けに来てくれてありがたかったです」

 「…明日、依頼を受けているんだけど」円が目を泳がせて言う。「出られないなら、わたし達だけで向かう。あなたは大丈夫?」

 紋三郎は少しの間黙ると、鍛えられた鋼のように意思のこもった声で言った。

 「もちろん、出ます」

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