第7話 珠

 白雪宮と碧海宮あおみのみやを跨ぐ満願山は、登山道こそ整備されているが、街中と同じようにさくさく移動できるような道はない。硝子細工のような依頼人の少女に進む速さを合わせているので、山越えには時間がかかりそうだった。

 「今日はここの山小屋で泊まりましょうか。そろそろ貴女も限界でしょう?」

 幸人が少女の荷物を受け取って抱える。ありがとうございます、と言う少女の声は僅かだが嬉しそうだった。

 「皆様のお陰で、無事に碧海宮へ辿り着けそうです…本当に、ありがとうございます」

 「いいのよいいのよ~!女の子一人でなんて大変よね!今日はもうご飯食べて寝るだけだけど、何か大変なことあったら言っていいのよ?」

 鹿乃子がぽんぽんと少女の背を叩いた。身体能力はどうしても男に劣る女であるはずなのに、息も切らしていないで「女の子一人でなんて大変」とはこれ如何に。まあそれはさておき、その優しさは本物だ。

 五人は随分古い小屋の戸を開けた。その中は決して清潔とは言えなかったが、どことなく心の休まる空間であった。



 「そう言えば、あなたの名前聞いてなかったわ。なんて言うの?」

 毛布にくるまり横たわる少女に、鹿乃子が思い出したように言った。確かに、名前は教わっていなかったはずだ。

 「あ、私は…私は、たまと言います。王に朱の珠です」

 「珠…美しい御名前ですね。貴女らしくて素敵です」

 幸人がそう褒めると、少女はほんのり顔を紅くして顔を揺らした。今まで布で見えなかった髪が露になる。その透き通るように艶やかな薄茶の髪は、かつてのあいつと重なって、紋三郎の心は一瞬ざわりと音を立てた。

 しかしその漣も一瞬だけで、すぐに凪いでしまったのだけれど。



 最近なかなか寝つきが良くないのは、紋三郎にとって大きな問題だった。

 原因は自分でもよく分からない。気づいていないだけで緊張しているのかもしれないし、覚えていないだけで悪い夢でも見ているのかもしれない。とにかく、真夜中に目が覚めるのだ。

 すっきりとした目をぱちぱちしばたかせ、紋三郎は身体を起こした。今夜も月が綺麗だ。少し気晴らしに外に出てみようか、なんて思って、山小屋の戸を開けたその時。

 由良がいた。

 翡翠の瞳には前のような真っ直ぐな明るさは無く、丁寧に手入れのされていた髪はかなり雑に散髪された跡があり、何より彼女は死んでいるはずなのだが、それでも由良はそこにいた。少なくとも紋三郎にはそう見えた。

 「由良…」

 「…何ですか」

 「君は…君は由良でしょう」

 「違います」

 「由良だよ。だって、だってこんなに」

 「違います!」

 その声で現実に引き戻された。何処からかは分からないけど、とにかく紋三郎は現実を見ていた。そこにいたのは珠だった。確かに珠だったけれど。

 「私は珠です。由良は死にました」

 「…なんでそれを知っているの」

 「由良なんて人知りません」

 「嘘だ」

 「知らないです」

 「そんなの嘘だ」

 「知らないです!」

 「嘘つかな…」

 「知らないって言ってるでしょ!」

 珠が首を振りながら言った。その仕草はあまりに由良に似ていて、紋三郎は少し泣きそうになった。

 「…この話はもうやめにしましょう」

 珠は紋三郎の脇を通りすぎ、山小屋の戸を軋ませながら引いた。かたん、と音を立てて、外にひとりぼっちになってからも、紋三郎はそこに立っているままだった。立っていることしか出来なかった。

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